散   策

ペリーヌ物語 】   【 備忘 】  

※ 水滸伝とは無関係の作品群です。
※ 筆者の雑多な物置場です。興味が湧いたらどうぞ。

ペリーヌ物語
■ 世界名作劇場のペリーヌ物語に関する感想文です。
この文書は2002年頃ある特定の個人向けに送ったメールの一部で、筆者はこの頃面白がって世界名作の作品群の感想文を作成いたしておりました。今回水滸で釣りの作品91の解説において「文学作品は本人の自覚がないままその時代の思考にそった作品を完成させるのだ」という例文として世界名作感想文のうちペリーヌ物語を紹介させていただきました。よろしければ御一読ください。
*** ペリーヌ物語について一言 ***

 そもそもペリーヌ物語がなかったら世界名作劇場を鑑賞することもなかったのですが 悪いことに戯れに見てしまったのが運の尽きでした。 正直に言うと「感動してしまった。」 「こんなものに、感動するのかい?」て質問されたらちょっと照れくさいが「そうです。」 て答えるしかありません。 なんか三文ドラマに感激しているような気もするが、そうなんだからしょうがない。 超能力ものや、ドンパチものに飽きてきたのも大きな理由かもしれません。 ちまちました話はある意味新鮮に映ります。 でも、そんなにこの作品が最高のものであるかといえば、そうとは言えません。 大人の作品ではありきたりかもしれません。 まあ、子供の文学としてはいい作品なのではないでしょうか。 マルコやアンなどの両横綱とは比較出来ませんが、大関クラスは間違いないでしょう。
 ただ、ちょっと残念なのは主人公のスカートの色でしょうか、ケバケバしくて親しみづらい感じでした。たとえば同じ赤のワンピースで言えばアンネットの場合ピンクのエプロン アニー・ハーディングの場合柿色のエプロンなどで色をおさえています。 もう少し色を考えてほしいものです。


第一章 構成

 このペリーヌ物語は話しの山が富士山のようなきれいな盛り上がりを形成しているのが、最大の特徴でしょう。 その頂点は49話でして、ここの話しのために全ての話しがあるといってよいでしょう。 たとえば「トム・ソーヤの冒険」などは連続しているとはいえ、話しが物切れで、いびつな山が連なった感じになっています。これは世界名作の放送延べ時間が長いため原作の話しに物語を追加したためにでこぼこになったのでしょう。その点ペリーヌは最高に長いのに見事な曲線を描いています。この作品は全体の話しの展開のもっていきかたを学ぶには いい作品であると思えます。  では具体的に見ていくこととしましょう。

<一部> 盛り上がりグラフ
|父の死     >  この家族何でもインドから来たそうな、セーラさん。
|       |       いろんなことありました
|       |     マルセル登場
|アルプス越え      >   アルプスは高いよ、ハイジは何処?
|       |   親が倒れたら子供は大変
|パリ到着    |   風紀が悪い町です

<二部>      まだまだ旅は続く
|母の死             >   いい人だったのにね
|          |   金がないのはつらい
|ペリーヌの死?     >  最後は人間そう思うんだろうな
|マロクール到着   | 旅は終わったが人生の旅路が続く

<三部> 私は太閤秀吉かしら
|パンダボアヌ工場 | サバイバルはジュールベルヌ仕込み?
|         | 芸は身を助く
|                 > こんな近くにいるのに
|秘書となる                > そんなひどいよお祖父さん
|幸せの涙がながれる時 (49話)              > 涙・・・
|           | 静かなる終幕へ

|エピローグ     | マルセル君はフィオリーナ代わり?

 この作品のタイトル「家庭にて」はマロが家なき子の最後の章から引用したものであり テーマが家庭であることは明白です。 「家なき子」はビリュノの「二人の子のフランス一週」に相対してかかれたふしがあり 後者は義務と祖国の副題を持ち、愛国心を高揚させるものであったと言われています。 つまりおじさんを捜す旅を通じてフランスという国を知るストーリーです。

 マロはこれに対し全ての基本は国家というより家庭であると定め、後者と同じように旅をさせるのでしたが探し出したのは家庭であるところの物語を出筆したわけです。 家なき子の本当のタイトルが「家庭なし」ですが、これは個人の源が国家だったら家庭 は何処にあるんだねと問いかけているようにも思えます。 個人、そして家族の絆これが全ての始まりというわけで、ここか国家的な物と拡大するものであると、とらえているのでしょう。

 姉妹本「家庭にて」(アン・ファミーユ、アニメではペリーヌ物語)はそういう意味で発見した家庭を発展展開させたものといえます。 つまり「家なき子」では家庭というものがあくまでも肉親の家庭で最小単位のものであったのですが、「家庭にて」では これを社会的に拡大して企業を一つの家庭と想定して 理想の社会を構築しようとしたのでした。
 アン・ファミーユが企業の話しなのは、労使関係を家族のようにみたてて理想共同体の話にしようとしたからです。 また、こういった変革を促す存在として、強い意志を持った存在が必要であり主人公ペリーヌを登場させたといえましょう。 「母を尋ねて三千里」はお母さんを捜す旅ではあるのですが、こういった意味の家庭を指してはいませんのでペリーヌ物語は少々複雑といえます。  また、同じ家庭を探す話しでは「赤毛のアン」(正式はグリーンゲイブルスのアン)をあげることが出来ます。この話はいったい何なのかともうしますと、家族を得る話しなのです。 アンブックス最終巻で、アンがかつて孤児だった自分にいっぱいの家族がいることを歓喜して話しが終わります。これはひとりぼっちの少女が家族を手に入たことを意味します。 第1巻では孤独な少女がこれまた孤独な兄妹に運命の悪戯からいっしょに生活をすることとなり擬似的な家庭を形成していくのでした。彼女は求められてでなく、お情けでおいてもらっているわけで立場的には宙ぶらりんの状態といえます。
少女は最初は鏡に映った自分の姿を友達としていたのでしたが、ダイアナという本物の友達を得るなど孤独から解消されてはいきますが、表面てきには快活であっても結局孤独なのです。マリラやマシュウもかわいがりはしますがやはりどこかまだ完全に家族化はしていません。結局擬似父親マシュウが死ぬと将来彼女の家族となる者がやってきて話が終わります。まあ、あえて副題をつけるなら、「家族ごっこ」あるいは「迷い込んできた浮浪少女(野良少女)」がよろしいでしょう。あるいはラスカルの人間版か。

 このように単純に家族を探す旅といってもその内容はさまざまといえます。 ペリーヌの場合は労働共同体の家族を求める旅なので、うまく話しの流れを考えないと 主張したいことも分からず、支離滅裂になり話が破綻しそうでもあります。 それを作者が十分表現できたかといえば疑問も残りますが、マロがこの作品を気に入っていたそうなので書くべきことは書いてあるのでしょう。

 さて、この「家庭にて」のアニメ版は「ペリーヌ物語」ですが、大抵の作品が原作をいじって、ひどい物にしてしまうのがほとんどなのに、非常に良い作品に仕上がっています。 原作より良くなったといってよいでしょう。

 両者の大きな違いは
第一として
 原作では最後の最後までペリーヌの正体が読者に明かされませんが、アニメでは最初から説明してあることでしょうか。 つまり、原作ではペリーヌの視点だけでなく読者の視点があるのです。従いまして読者はペリーヌの変な振る舞いや事件や状況から真実を嗅ぎ出さなければならないというわけです。なにか推理小説みたいです。
なんでマロが最後までペリーヌの正体を明かさなかったのか分かりませんが、単に読者を驚かせ感激させようとしただけとは思えません。 苦境に負けない意志の強い少女を描くにあたり、身内の工場で働かせることは保護下で好き勝手なことをしているように読者にとられかねないのであえて正体を伏したとも考えられます。
残念ながらアニメを先に鑑賞してしまったのでマロが期待した驚きの効果のほどは今となってはわかりません。しかし想像で推測しますと真実が告げられた後ばたばたと話しが終わる感じがするのではないでしょうか。

 その点アニメ版では正体が明かされてあるため、視聴者はペリーヌと共に行動し考え悩み悲しむことができました。ペリーヌの視点で説明がなされるので誰にも分かりやすく ペリーヌの心情がよく分かります。
そのことが積み重なり感動の49話となるわけです。「もう我慢することはないのですよ。」の一言に心動かされるのは、ペリーヌが我慢我慢の連続がだったのを知っているため自然に感情が同化できるのでしょう。 これが原作どうり正体不明のままでしたら、そう言われても何のことだか分からなくて 平然としていたことでしょう。もっとも原作にはこのセリフはありませんが。

 実際原作においてペリーヌが一生懸命「お孫さんを受け入れたらどうでしょうか、本当の孫だから自分より親身になってお世話しますよ」と一生懸命ビルフランに説得しますが 受け入れられません。この箇所を読んだ読者はビルフラン同様「大きなお世話だ。なんで そんなにしつこく語るのか」思うことでしょう。 一方、アニメ版の場合は「孫は生まれてしまったのはしょうがない、金でもくれてやるさ」などの生の発言を聴いてペリーヌがますます視聴者は不憫に感じることでしょう。 この違いがアニメ版を原作以上に良い物にしている最大の理由でしょう。

第二として
 ボスニアからパリまでの長い旅のお話が追加されたことでしょう。
これで室内劇と旅行劇が一緒に味わえました。 旅行話は大抵の者があこがれるもので、変化にとんだところが楽しめますが。 しかし旅先でのエピソードの繰り返しであり、特定の人物をじっくり描くのは無理があります。三千里の場合もペッピーノ人形劇一座を無理矢理同行させてあり一寸苦しい。
また室内劇はじっくり味わうには最高ですが、たとえば小公女のように閉塞感で満ちあふれてしまいます。そういう意味で二つが混在するペリーヌ物語は肉と野菜がそろった食欲をそそる仕上がりとなりました。

 原作はパリ入場から始まるのですが、お母さんの死の場面ではいきなり亡くなられますのでお母さんの人柄なんかわかりません。その点アニメでは視聴者も長い旅を一緒に経験してきているために、人柄や苦労などはわかっています。 しかも、マロクールまであと少しなのに死んでしまうなんて、哀れと思い彼女の願い通り娘が幸せになれたらいいなと思ったりします。

 旅は最初は順調な旅で主題歌のようにルンルンなのですが回を重ねるごとにだんだん厳しくなり終いには道ばたでのたれ死に寸前までいってしまうのですから。
しかも、夢に見たお祖父さんもいろんな確執が存在することが分かってきて、どんどん気が重くなってきます。目的地に到着して終わりだなんてマルコ少年のように簡単に片づきません、会社内でお祖父さんに近づかなくてはならないのですから。 しかも、あんな長い旅をしてきたのに、目と鼻の先にいるお祖父さんに孫と名乗ることが出来ないのですから。 このアニメ版は旅に視聴者も長く同行させたので後半のパンダボアヌ工場の生活でのペリーヌの心情に人々を釘付けにします。感動の49話はこういった積み重ねが作りだしているのでして、単体ではこうまで心揺り動かすことはないでしょう。 第三として 49話のあと4回もかけて終劇に向かうことがあげられます。 通常、感激の場面でうち切りなはずが、まだまだ話しが続くのです。原作も最後はあしばやに終わっているのですが、アニメのこの興奮のあと静かに納める効果はすばらしい。 なにか指輪物語の最後のように高揚の後の沈静を作りだしています。
実際、主人公ペリーヌの作者から与えられた使命は労使の理想共同体を構築することなので本当の彼女の苦労はここから始まるのでしょうから、49話でお終いではいけないのです。彼女はマルコのように肉親べったりはゆるされませんから、ここは静かな終劇というより「新たな旅立ちへ」と表現するのが正しいかも知れません。

第四として
 旅の話しが頭についたのでお母さんの死が盛り上がりを作っている。 このため前半のお母さんと死の「悲しみの盛り上がり」と、後半のお祖父さんと一緒の「喜びの盛り上がり」を形成している。 つまり二者は反対の性格を持ちながら、前者を受けて後者がある対応関係となっている。


構成の続きですが、備忘記録として各話のコメントを残しておきましょう。

第1話 旅立ち
お父さんの死から始まるのですが、事情が分からないので死については無感心でしたやはり死は人となりを知らないといきなり悲しさてのは起こらないものです。   原作のお母さんもこんな感じかな。 それにしても背景画がいい加減なのが気になる。もう少しなんとかならんのか。   ペリーヌの赤スカートは色をおさえるとか違う色ではどうだろうか。なんか目にちかちかきます。 鶴ひとみさんマイクが近すぎますよこの回だけ声が耳に触ります。   頼りないお母さんと意志の強いしっかりものの娘と取り合わせが面白い。 もうここではっきりペリーヌの性格を表明しているんですね。 暖かく迎えてくれるお祖父さん所に向かっているんだと説明してあります。本当は 違うと分かる日はくるのですが。少々残酷。

第2話 遠い道
 あぜ道にはまったり、女の旅は大変だてところでしょうか。 農家の家族団らんをみてますますお祖父さんの理想をふくらませます。 旅を終えてお祖父さんのところで幸せに暮らしたいと、この後何度も登場するのは お母さんの死のところで現実を知る驚きと、お祖父さんの屋敷の前で立ち往生する 困難さと相対させるため描かれているのでしょう。 悲劇の前の下ごしらえてところでしょうか。

第3話 お母さんの力
   お母さんの活躍、ひ弱なお母さんの設定はどうなった。 赤ん坊の誕生に立ち会うが本筋と関係ない。つなぎの話か?

第4話 泥だらけの男爵
政治色が強い話はここだけ。スリルを味わってもらうためか。

第5話 お祖父さんと孫
  壊れた水桶をなおしてくれるお祖父さんに会う。 またまた、ペリーヌはお祖父さんはきっとこんな風にやさしいにちがいないと思う。 3回目だがペリーヌの願いと憧れがよく分かります。 夢をうち砕くには何回もすりこみが必要なのか。

第6話 二人の母
  なんか効果があるのかな、しいて言えば母と娘の強い絆?   初の地中海、ブルーの海はいい。せっかくの旅行なんだから景色に凝ってもいいんじ  ゃない。ペリーヌ物語唯一の海の景色。 第7話 サーカスの少年 ついに出た、マルセル少年。この少年は重要。  原作ではパリの門で登場する少年だが、ここで登場。マルコではフィオリーナなど お話全般を通じて登場する役のいわば同行者、証言者。 フィオリーナの場合は第一回から登場する。 ペリーヌの旅を知り、お母さんの死に立ち会い、最終回でペリーヌに「幸せかい」としめくくる、全体を理解できる子供。 旅の途中で腹を空かしてふらふらしているところをペリーヌ親子に救われるのは、後半ペリーヌが空腹と疲れで死にそうなのをルクリおばさんに助けられるのに対応している。

第8話 よっぱらいロバ
これは原作でパリカールはパリのシモンじいさんのワインをがぶ飲みしたのから創作したものでしょう。ですからパリの事件と対応といっていいかな。

第9話 商売かたき 第10話 写真機どろぼう 第11話 バロンがんばる
どうでもいい。

第12話 たった2人の観客
お母さんは「おまえをお祖父さんのところに連れていくまでは病気なんかなりません」だなんて、予告しているもんじゃないですか。第一体が弱い設定なので聴いているほうは不安になります。 しかもここでアルプス越えを選択するんですから、いよいよ前半半ばの山場に突入。ここでサーカスを二人で見るのですが、最終回の華やかさとは違ってしんみりとしたもの。ここも幸せに成る前と成ったあとと対応してあるのか。   ロミオ(ジョルジョ)を探せ。この時代いるのかな?

第13話 アルプス越え
  ルンルン、ルルル、ルンルンの歌声で始まった軽快な旅もここまで、ここから先は歌に騙されたていっても帰れません。   アルプス越えに2話ぐらい使ったらどうだったんだろう。1話で終わるのはおしい。 イタリア側までは全てが順調に進行していたのに、この峠を越えたところから目的地に近づくほど悲劇の度合いが強くなっていくんですから、まさに明暗を分ける峠といえます。逆説的にはお母さんをパリで亡くなっていただくためにアルプス越えがあったのかな。とにかくこの峠越えはお母さんの命を縮めたのはたしかだ。 またこういう苦労があるので、後のビルフランのペリーヌの母に対する冷たい態度に  反発も起こるのでしょう。 越えた峠がしっかりえがかれていて、ペリーヌたちが「あんな高いところ越えてきたのかしら」と同様の感想を持ちました。うーんよくできてる。   しかし、大人になったハイジが通行人で登場してたらもっと感激するのになあ。

第14話 美しい国で 第15話 フランス!フランス!
ここから話が暗くなり始めます。狼に追っかけられたりしたけど、この時代追い剥ぎてもっと怖いものいなかったんだろうか。途中美しい景色の岡でお母さんとダンスを  するシーンは最終回のお祖父さんとダンスする岡のシーンを連想させます。対応? 第16話 お母さんの決意 ここまでの3話でお母さんを完全に病人にしてしまいました。予定どうり。   ここからお母さんが死ぬまでののりはフランダースの犬ののり。つまりすべてがうまくいかず、状況は悪くなるいっぽう。死に向かって突き進む進行のしかた。   いよいよ前半の盛り上がりにむかっているわけで、後半とは違った望みが断ち切られる不幸な盛り上がりなわけです。一方後半は幸福に向けての盛り上がりで、両者は 相反する効果といえます。   旅に病気は付きものです。本当に困ったことになりますし親が倒れるとどうしようも  ないもんです。ペリーヌがしっかり者としても旅先で簡単に営業が出来るほど世の中甘くないでうからね。大人でも頭を抱え込んでしまいますよ。この場合持ち物を金に換えるしか手はないでしょう。 

第17話 パリの宿
やっと原作の最初に到着。原作は町の風紀が悪く物騒な感じがしましたがアニメはちっとも怖くありませんでした。背景の書き方をごちゃごちゃしたまとまりのない   グレーぽいくするとよいかもしれません。映画のレ・ミゼラブルも町は汚く、人々も下層階級の人は服もぼろぼろで汚かったのでそんなのがいいでしょう。   とにかくアニメは服が意外と普通なのでもっと人々の服を小汚くしたら。 原作ではパンダボアヌの活字のついた馬車とすれ違ってペリーヌが驚きの顔をするシーンがあり謎解きの始まりとなるんですが、アニメ版はありませんでした。代わりに   フィリップス弁護士をそれとなく隅に登場させていたらどうでしょうか。

第18話 パリの宿  第19話 シモン爺さん 第20話 パリの下町子
  ペリーヌが単身お祖父さんの所に助けを呼びに行くというのを母親は止めます。 視聴者に「アレ?なんで」と疑いを持たせて21話にて解き明かす手法をとってる。 竹の子生活ていやだね。貯蓄がないと薬代もままならないし、ペリーヌに健康保険 があったらいいね。病気の親をかかえどうしようもない運命。肉親への愛情とままならぬ懐。よくある話しですが、やはりいいですね。 レ・ミゼラブルではコゼットの母親が病気の娘のために(本当は病気ではなく悪い 知人に騙されてお金を巻き上げられていたのだが)工場で働いたり、いろんな苦労をして終いには娼婦まで身を落としてまで送金しつづけ最後は病気で死ぬんだけど、   肉親への愛情と悲惨な運命のとりあわせは悲しくさせる。  このシモン荘に登場する老人たちは何か悲しげだ、家族はないし今日の生活をしのぐがやっとの人々ばかりだ。そんな貧しい人たちが身を寄せあっているのがシモン荘。  親切なこころ優しい老人たちであったが、原作では終わりのところで老人たちの内、お母さんにスープを恵んでくれた人が貧困にあえぎながら亡くなったことがわかるとやっぱりかと思った。お母さんは若くして亡くなったが、彼らも同じ運命にあったのだろう。ほんの数ヶ月の差だったというわけか。優しい人々であったが。   このパリの下町っ子とはそんな彼らをさす。

第20話 パリカールとの別れ
これを売ったらもう後がないのはつらい。特に苦楽をともにしてきた動物は愛着があるもんです。ラスカルや野生のエルザもこんな悲しさがあるよね。愛着あるものの死と別れは人の弱い性か執着か。いずれにせよ感傷に浸っては生活できません。 しかし、安く買いたたかれて可哀想。ここら辺は悲劇を演出していますからもっと つらくなります。お涙ちょうだいは続く。 お話はここで辛さを味わせたあといろいよ前半の盛り上がり部へ

第21話 最後の言葉
ついにお母さんが亡くなった。フランダースのネロもお祖父さんとの別れがやって来てさらに不幸へ突き進むのですが、ペリーヌは? 親を亡き者にして同情を誘う手法は何回も登場するのですが、陳腐化しないもんですね、死は人の関心事だし視聴者に共感を呼びやすい。   ここで驚愕すべき真実が告げられます。1話2話5話にて暖かく迎えてくれるお祖父さんが何回も語られるのはここで否定する効果をあげるためでしょう。 実はお祖父さんとは仲違い状態であり マロークルにたどり着いても暖かく迎えてくれる保証はないということでした。うーん、このままお母さん元気で行けば小公子と同じ話しになるなあ。   とにかく、ディズニーランドに行けば楽しいぞと思っていたら休園日かも知れない ていわれたくらいショックなことなんじゃないだろうか。 お母さんにとってこの旅は希望に満ちたものではなく気がおもいものだったのですね。いわば宿題を忘れて学校に登校する時みたいな出来ればさけたいもんでしょう。   せめて、生まれ故郷で死ねたらよかったろうに、異国の地で果てるとは。   とにかく、この旅が目的地につきましたよかったねなんて生やさしい話しでないこと  が視聴者にも理解できました。おかげで旅の不安はますばかりです。お金も少ないし この先どうなるんだろなんで考え込んじゃいます。話しがうまいねえ。 「あなたが幸せになった姿がお母さんには見えますよ。」亡くなる前の言葉ですが。  最終回の言葉に対応しています。最終回でお母さんの代わりにマルセル少年が「今、幸せかい?」と問いかける。そしてペリーヌは岡のうえから「お母さん。私幸せよ。」  と答える。 「人に愛されるにはまず人を愛さねば」いい言葉なんでしょうが、僕としては嫌いなセリフです。これって偽善的に聞こえてしかたがない。説教的だし 愛されるために愛す、てねじ曲がってとらえてしまいそう。

第22話 忘れられない人々
お母さんの埋葬。当時貧乏なひとたちは何処に埋葬されていたんだろう。モーツァル  トなんか集団墓地なのでどこだかさっぱり分からないし。いっしょくたんに適当に埋  めたんじゃないのか。お金持ちになったあとペリーヌはお墓を移転しただろうか。   「私たちといっしょにいないかい。」老人たちの親切な誘いを断ってペリーヌは旅に  出ますが、梁山泊が遼に誘われたみたいな甘い誘惑。憧れのマロクールはパ  ラダイスでなく地獄かもしれないですから、少々名残おしいですね。   また、旅の途中にて同じ誘惑がルクリおばさんからあるのでこの会話で決意のほどを  表現してあるのでしょうか。ペリーヌ物語の1つのテーマ「強い意志を持った心」が  ここから描かれていくんですね。旅の困難、恐怖、孤独、誘惑こういったものにうち  勝って目的地にたどりつくんですね。 ここで汽車に乗ったのでずいぶん進んだんだろうと思っていたら、原作を読むと迷子  にならずパリの町をでるように乗車したみたいで、降りた駅はまだパリなんで驚きま  した。彼女の予定では毎日30キロを6日間かけて徒歩で行くつもりだそうで子供に  はしんどいです。馬車の旅も長かったけど今度は徒歩ですから。 しかも夜露をしのぐ幌もないし。

第23話 ひとりぼっちの旅
アニメではうまく表現出来ていませんでしたが旅の恐怖というやつです。 別に強盗とか犬に追いかけられるわけではありません。ただの闇であったり静寂であったりするのですが、この普通の夜の情景がなんとなく不安で恐ろしげなんです。 夜の暗い中を寝泊まりするところもなく、とぼとぼと道を歩んで行く。遠くでは工場群の音が静けさのなかから伝わってくる。そんなふうです。 現代人は電灯におかされて闇を忘れてしまいましたが、闇は深く静かなんですよね。ペリーヌが5フラン銀貨をパン屋に脅し取られた地はサン・ドニで、ここはフランス  ワールドカップの決勝が行われた地でした。ほんのパリの北のはずれの町でほとんど  パリ圏内。ここでお金を失わせることによりお話はさらに過酷になります。   前半の盛り上がりのお母さんの死の後ですが、原作ではペリーヌが旅の途中でのたれ死にしそうなのを前半のピークにしていたので、アニメ版の場合ちょっと複雑。   盛り上がりで全体を切るとお母さんの死だろうし、話しの性格で切ればマロクールへ到着した箇所でしょう。また明暗でわけるならペリーヌがのたれ死にしそうなところ  になりますか。まあどっちにしても少女に過酷な運命を与えることで読者をひきこん  でいるのは確かでしょう 。 スイカ作りの兄弟がお金を取り返してくれるのは脚本家がおばはんを懲らしめておき  たかったからでしょう。そのため犬のバロンはペリーヌがお金を手放さなければならなくなる不始末を演じなければならないのですから、いい迷惑です。

第24話 美しい虹
バロンの事件はこの回です。とにかくすってんてんの旅です。   夏の暑さが続くのですが、この地方は水無川が発生するのかなあ。 そこで、ひらめいたんだけどヒッチハイクて手段は考えられなかっただろうか。 もしかして、当時娘がしらない人に声をかけるなんてものすごく危険なことかもしれないかもしれませんね。

第25話 パリカール、私のパリカール
ここで死んだら、エクーアン〜シャンティイの街道に少女と犬の銅像が建ったかも。ちなみにパリカールは名前からすると雄?   お父さんの死、お母さんの死、ペリーヌの死?と続くので少年少女はどうなるんだろうと心配したことでしょう。ネロの場合常識を裏切ったわけですが、ペリーヌは正統  路線を突き進む。都合良くルクリおばさんが登場。 ほんの数日前にパリにいた人が都合良くこんな北にいるんだと思っていたら、原作で  納得。実質的にペリーヌの旅はここで終わったとみたほうがいい。

第26話 親切なルクリおばさん
  こういう物語では必ず親切な人てのが必ず登場してくるのが定石です。 ただ名作アニメの場合親切な人が多すぎるのが問題です。きっとアニメ作成の方は子  供好きの人たちばっかりで冷たくあしらうなんてできないからなんでしょうね。 多く原作では、親切なひとと冷たい人がバランス良く登場します。それで現実の厳しさを表現できているんです。 この問題はジブリの作品にも同様の点が指摘できるでしょう。世界像が甘いのです。二股にわかれた分岐路でルクリおばさんは「私と一緒にやらないかい 」と誘います。一方はマロクール、一方はルクリの行き先へ通じる道。ペリーヌはお祖父さんへの道を選びます。運命の分かれ道だったわけだけど、ペリーヌが幸せになる保証があるわけでもなくルクリの言葉は甘く聞こえます。でもマロクールへの道を選んだ時  行くしかないよね思っちゃいます。旅が終わったかと思うと足は軽いが気は重い。   ここら辺から次話の心理操作はうまい。

第27話 お祖父さんの冷たい顔
ロザリー登場、ペリーヌの初めての親友と言っていい。 ここから話は旅ものでなくなります。しかし、心の旅は続きます。 21話でお祖父さんに歓迎されない事実をしった視聴者はここでペリーヌと一緒に 驚くべき事実をしるんです。じいさまは7000人をやとっている大工場主、つまり大金持ちだったんですね。いままで貧乏な旅だったもんでこの差は大きく感じられま  す。お祖父さんが父親をまだ怒っていること、近づきがたいほどの大金持ちでは気楽に名乗るてできませんよね。 1話、2話、5話でこぢんまりした家をみさせられた視聴者はその乗りできているもんですから一緒に屋敷を取り巻く柵のまえで途方に暮れるしかありませんね。 大きな屋敷、近づくことも出来ない柵と門がペリーヌを名乗ることを躊躇させます。 しかも、初めてみたお祖父さんはよその人みたいだし。 つくには着いたが、これでは。 ここら辺の話しの展開は原作と違って正体を明かしているので、動揺と困惑のほどが良く表現出来ています。 ここまで来て名乗れないとは。ルクリおばさんの言葉が蘇りますね。 フランソワーズおばあさんがペリーヌを見てどっかで見たようでお見いだせないでいるの箇所は重要な47話の複線として用意してあるんですね。 またビルフランもペリーヌがわからないようぬ目が見えないように設定してあります 原作ではピルフランが孫だと気付く根拠が描かれていないので、アニメ版のように気付くにいたる行程が描かれているのは親切です。 旅物語の時は背景をもっと綺麗にしてほしかったけど、ここからは人の動きに注目 名作アニメは5千枚も書くので人物の動きは良いでしょう。

第28話 パンダボアヌ工場
いよいよここからペリーヌの出世物語が始まります。 太閤秀吉は草履とりから始まりましたがペリーヌの場合トロッコ押しでした。 この話はお祖父さんに名乗るまでのものと理想労働共同体を形成する話しの2本だてであり、前者は第1話から始まっているのですが後者はこの28話から始まると言ってよいでしょう。原作者としては後者の方を意識しているんでしょうが。 ここではお祖父さんに近づく時期を待つため、もう一つは労働者の実態について理解させています。 おもわず工場の門でお祖父さんに声をかけてしまいましたが、こんな近いのにまだまだ名乗るには遠いのだわかりました。心の旅は長いよ。 低賃金、重労働に働く工員が登場していくと作成していたアニメーターさんたちも自分たちのように思えたんじゃないでしょうか。

第29話 池の畔の小屋
  狩猟小屋を見つけてそこに住むことにしたんだけど、勝手に人のもん占拠していいのかと思っていたら原作ではおじいさんの所有物なんだって。孫が住んでもいいわけだよね。自分家なんだもん。 しかし旅で修羅場をくぐりぬけてきたので、何処でも怖くないなんてなんと肝が据わった少女だろう。オープニングでペリーヌが竿を使って池を飛び越えるシーンはこの狩猟小屋なのだが、話しのなかではどこにも登場しなかった。   原作では誰も小屋に近づけないよう渡しを片付け自分は竿を使用して出入りしていたんだけど。離れ小島いしていれば女の子でも安全か。少々寂しいけれどね。

第30話 自分の力で 第31話 お客様を迎えて
なんでも自分で作ってしまう感心といいたいところだが出来た物はがらくたみたい。魚を釣ったり野の食材を加工したりたいしたもんです。旅の課程で修得したものでしょう。収入が少なければ工夫しないとね。そういえば一人旅でもパンを節約して計画的に行動していたのでこれが彼女にとって普通なのかもしれない。彼女て倹約家。   むしろ、なんの工夫なしに消費している他の工員のほうが知恵が足りないのかも知れないですね。

第32話 名前の秘密
ファブリさんに偽名のことを感づかれてしまいました。 原作にはない話しですが。ここで原作の同僚から重要な相談役に抜擢。 以降の二人の会話で揺れ動くペリーヌの心情が説明されます。 キャラクターの配置としてはいい。 第33話 テオドールの財布 ファブリさんペリーヌに「親戚の家にとりあえず尋ねてみたら」と薦めるのでした。こらはビルフランが後で言うのですが、相談役もいることですしこちらの効果の方が  辛くなくていいでしょう。 もじもじ迷ってトロッコ押しなんかして日々を無駄に過ごしているペリーヌにそんなことでいいの?と視聴者の気持ちを代弁しているのでしょう。 ここでテオドールの性格が紹介されるのですが話はだんだんお家騒動になっていきます。お祖父さんへの名乗りは会社の後継者問題と絡んで複雑化してまいりました。 子供に分かるのかねこんなビジネスストーリー。

第34話 忘れられない一日
芸は身を助く、英語が出来ると有利だよね。ペリーヌは学業は無かったがたまたま話せたてのは幸運。さらにチャンスを生かしたてのは出世には大事なことだ。   ここでは、お祖父さんに近づけたことが大事なんだけど大きな会社では社長に呼ばれるなんてないことだから、ものすごく幸運といえます。

第35話 英語の手紙
だんだん会社の後継者問題が大きくなってきました。工場長と甥が後継を争っていて社長の動向を探っている。当然ペリーヌにも強要するのですが、会社て結局こういうことになるのかなあ。今回のチャンスにより、ビルフランにこの娘を用いて私的な 外部に知られたくない文書を翻訳させようと考えに適合したところか。 ビルフランも後継問題について周囲のものに知られたくなかったんだね。 必然的にペリーヌも翻訳係を通して相続問題に巻き込まれていくてことかな。でも相続第一人者なんだから当たり前か。 みんなが父のエドモンの帰りを期待しているのがわかって心苦しくなります。 しかもお祖父さんはもしかして自分の存在も知らないかも知れないと心配します。 揺れる不安な気持ちがよく分かります。うーんいい感じになったきたぞ。

第36話 喜びと不安
ビルフランは苦労人なのでペリーヌの旅の苦労話に魅せられてしまいます。 しかし頑固で厳しいひとなので御者の仕事怠慢に怒って首にしたところを見てペリーヌは果たして名乗り出て受け入れられるんだろうかとビビります。 お祖父さんは隣にいるのに恐れからなかなか名乗れない状況に視聴者も困ったもんだと頭を抱えます。無理ないよねえ。じいさまおっかないねえし。 ここら辺からしだいに掻けそうで掻けないもどかしさが蓄積していき49話で爆発します。

第37話 お祖父さんの大きな手
ビルフランにこの娘は信用できると評価されたんでしょう、秘書に大抜擢。 しかし他人のふりして過ごすのも不憫だね。

第38話 すてきなワンピース
  原作ではビルフランがいかに苦労人で一代で財をなしたかが説明してあるのですが 苦労人のためか彼はペリーヌの小屋での話しを聴きますます好きになります。 ビルフランに何故親類を訪ねないのかの質問に「ここで親類に冷たくされるより一人で生きる方を選びました。」と答えるペリーヌ。ペリーヌの心情がハッキリ表明してあります。心の伝わらないすれ違いのじれったい会話にこの話の魅力があるんでしょうね。おい、じいさんあんたのことだよ。気付よ。と誰もが思うことでしょう。 ペリーヌ物語ここまで丸ビの話しだったけどやっと人並みの生活になりそう。

第39話 インドから来た手紙
この回は全体のなかで49話の次に心揺さぶる話しです。 ここでお祖父さんの本当の心情がわかってしまいます。 21話と同じに夢をうち砕く現実。お祖父さんとの間の埋めがたい溝の深さを実感し  ます。 つまり、だだ息子の帰りだけを願い。その嫁を憎み、孫のことなど考えていないこと  なのです。それがしかも当の孫がこんな近くいるとは知らずに語られるのです。 なんと残酷で悲しいシーンでしょう。 お祖父さんがそっぽをむいたまま怒りにまかせていて、その横でペリーヌが机の前で涙ぐみじっと耐えているのは理不尽で可哀想で仕方ない。 ペリーヌが恐れていたことは当たっていたというわけで、彼女の孫として愛していただきたいという願いは根気よく待つしかないのです。 しかしこんなにお祖父さんに近いのに、心はまだまだ遠いんですから。 視聴者はなんて頑固者のお祖父さんだろう、こんなに近くに孫がいるというのに。 孫はずっとお祖父さんを夢みてきたのに、お母さんも必死で旅を続けてきたのに その言葉はないだろう。とつぶやくことでしょう。 ここはシナリオ作家が上手に仕上げています。ますます話しに引きずられていきま す。原作にない切なさがここにはあります。

第40話 バロンの災難 ファブリさんビルフランの孫と閃きます。ペリーヌもさすがにファブリさんに相談しようかと心が傾きます。ずーと揺れっぱなしだけど、主人公悩んだほうがおもしろいよねえ。 会社を二分化する密会を聴く。お父さんの死、後継問題、名乗りでと絡み合って話しが面白くなっていきます。そこそこの家だったら1,2,5話で語られたように   すんだでしょうが大きな会社の家族ともなるといろんな人が利害にからんで大変です。1話から見ている視聴者も最初はあんなに軽快だったのにどんどん泥沼化していくのに困惑していることでしょう。

第41話 お城のような家
27話で大きな屋敷に圧倒され柵ごしに屋敷を眺めるしかなかっただけに颯爽と屋敷門をくぐるあたりは爽快。視聴者もやっとここまで来たかとうれしさいっぱい。 この少しずつ理想に近づいていくのが期待を膨らませ話しをもりあげているのかも。

第42話 ロザリーの悲しみ
「あなたはまだまだオーレリー、秘書なのよ」とつぶやいて出かけるペリーヌ。 お祖父さんに他人を演じる悲しさ、受け入れられない不幸がよくでています。 オーレリイとしては気に入られたがペリーヌとしては受け入れられない辛さ、わかる  ねえ。セリフ短いけどよく表現してあります。 原作にもあったけど父の絵に涙するペリーヌ。自分の肉親への愛情を隠しつづける のにこの話の盛り上げ手段があるのでしょう。つらいつらい。 原作では親友のロザリーまでフォローがなかったがアニメではしっかり描いてある。第43話 日曜日ペリーヌは ついにファブリさんに全てのことをうちあけます。 ファブリさんは名乗り出るべきだと助言します。肉親とも知らずこんなにお祖父さんに気に入られているんだから、本当の孫だと知れば大喜びのはずだ。というのが根拠でしたのですが。 ここで新たな問題が発生。ペリーヌが正体を明かすには父の死をお祖父さんに伝えなくてはならないこと。これによりお祖父さんがどうにかなってしまうのをペリーヌは  恐れている。うーん、次から次と問題を作ってくれるね。ここから父の死の発覚を恐れるペリーヌが描かれ始めます。一寸はらはらさせます。 「おじいさまの愛情がほしいのです。」ストレートな表現。肉親への愛情が溢れてい  ます。願えど叶わずいいねえ。 「ペリーヌ、君はこれからいったい・・」ファブリさんのつぶやきは視聴者の心配。 これからどうするんだろうと。   懸賞なんか出すと普通がせネタばかりになりません?

第44話 いじわるな婦人
 運命の父親の死の発覚の日が刻々と近づいてきます。どうしよう、どうしようという  ペリーヌの焦りがお祖父さんの息子の消息の期待と相対して描かれていい。

第45話 ボスニアからの知らせ
嫁と子供はインドに帰してしまえと一族の会話、ペリーヌの辛い日々は続く。 しかもテオドールのお母さんから買収まで受けるんですから。 しかし運命日はやって来た。 エドモンの死が分かってしまいます。43話からここまで原作では味わえない面白さ  がある。 でもよく考えたら息子の死がなかったら、孫のこと考えなかったよこの人。たぶん。第46話 ビルフランの悲しみ 権力の座についたが子孫はなし、後継者をめぐって部下や親類が争っている。どこかの時代劇にありそうな。秀吉なんか近いかな。寂しい。 ロザリーの「気に入られても、あなた他人だしねえ。」は悪意がないぶん痛い言葉 だ。ペリーヌのお祖父さんをいたわる気持ちが良く表されていました。 とくに「わたしの息子はまだ若かった。」とのビルフランの言葉に「わたしの亡くなった父も若こうございました。」と応じるところなんて涙をさそいます。 この葬式が発端となり労働環境改善とつっぱしることになるのだが。 それを教えるのは原作では家庭教師だがアニメではファブリさんになった。 お祖父さんと孫の愛し愛される関係の題材から、労働者と使用者の愛し愛される関係  へと変化していきます。 愛されない肉親としての孫、愛されない経営者としてのビルフラン。 対比が面白い。 この回は「家庭にて」の主題が現れる場所で重要な箇所でしょう。 つまり以降、名乗りで、後継争い、労働改善運動の話しが平行して進行していきます。第47話 オーレリイの顔 ここは原作であってほしかったところで、いかにしてビルフランが秘書のオーレリイが自分の孫であると気付いたかの説明です。 27話で複線を用意しておき46話で展開し47話でフランソワーズおばあさんのヒントとなるわけですから、最初から用意してあったんですね。 まさか、と杖を落とし狼狽えるビルフランが全てを説明してくれますね。

第48話 火事
冷静に判断するとビルフランは秘書のオーレリイが自分の孫ではないかとの期待に取り乱しています。 従業員のことを考え始めたというより、オーレリイの言葉が気になって気になってしょうがないでしょう。ペリーヌが労働者の環境改善に目覚めてしまったんでこの方向に行っちゃうんでしょう。ただ見ている人は親切な人に心がわりをしたんだと解釈するでしょうが、違うんじゃないかな。 ここで幼稚園がクローズアップ。なんで幼稚園なのかはR・Oに決まっているじゃん。

第49話 幸せの涙が流れるとき
ついにやって来た。 このシーンが原作よりもはるかにいい。 マロが見たらこっちにすればよかったかなと後悔することでしょう。 このために全53話があると言っても過言ではない。 ペリーヌの正体が発覚するシーンの会話と間の取り方がいい。アニメながら実写さながらの気迫がこもっていた。絵はシンプルで古めかしいが、演出が現代のへたなアニメを吹き飛ばす。 ここで視聴者はペリーヌともども押さえつけられていた抑圧から一気に解放された。後継問題もここで終わり。よかったよかった。 しかしここでうっかり見落とすのは理想共同体作成の話しが裏で着々と進行中であることでしょうか。注意。 第50話初雪の降った日 第51話お祖父さんの目 第52話忘れられないクリスマス ペリーヌが幸せになった後のお話。普通幸せになりましたで終わるために、どんなになったか描かれていないものですが、この作品ではどんなに幸せになったかが分かります。原作ではいきなり話が終わるのですが、アニメは穏やかな幕引きとなってよろしい。シンデレラにしても白雪姫にしても本当に幸せになったんだろうかと疑ってしまうのですが、ペリーヌのその後の様子がわかり「幸せなんだ」と安心して終われます。 ここではビルフランの目の手術の話しですがどうでもいいことです。ちなみにアニメでは分かりませんでしたがビルフランの病気は原作によると白内障だそうです。   原作では最後の方はロザリーが現れませんがアニメではこちらのフォローも忘れていません。お世話になった人のお礼は日本的なのかもしれないですが、心地よい感じがします。 第53話 春の訪れ ここにペリーヌ物語の大団円となります。   締め役としてマルセル少年登場、ペリーヌに幸せを確認します。長い旅を知る少年 だからこそ適役なんですね。そして苦しかった旅の連れとしてパリカールが戻ってき  ました。最後はペリーヌがお祖父さんとダンスをします。丘の上14話でお母さんと  ダンスをしたように。少女は幸福になり、長い長い旅はここに終わりをつげるのでした。・・・・

  と言っていいのか?本当に。

  実は46話から(28話からかな)から始まった本当の主題が進行中であり気をぬけない状況下にある。だから物語は続いているし、むしろ始まったと言って良い。
  労使の理想共同体を構築中であり、ペリーヌとビルフランは最後の場面で誓い合う のです。しかし、現在実行したことといえば単に寄宿舎や育児施設を建設したぐらいで最大の問題には手を染めていないのですから。 労使最大の問題すなわち賃金、労働時間です。会社の競争力と相談してやらなくては  なりませんから、同情や慈善意識ではやり通せません。必然的にロザリーたちも渦に巻き込まれて行くことでしょう。 この軽快なダンスの陰に大きな壁がすぐそこに立ちはだかっているのです。   だが今は一時の休息を与えましょう。あまりにも耐えることが多かったから。   43話のファブリさんの言葉が蘇ります。「ペリーヌ、君はいったい・・・・」


構成について長々述べてきましたが、ペリーヌ物語がずば抜けてとか革新的な作品で あるとは申しません。念のため。
この最終話に盛り上がりをもってくるのは読者、視聴者側からいって非常に理解しやすく安定しているからです。ありきたりといえばありきたりなのですが、この形式が感情面に有効に働くようです。たとえば「ガンバの冒険」にしろノロイとの決戦までの盛り上がり「うしおととら」の白面の者との最終決戦などは非常に興奮させます。 ペリーヌは戦い物ではありませんが同じ形をもっています。

 ではこういった形式でないものとして世界名作中であげるといたしますとなにがあるでしょう。それは「牧場の少女カトリ」でしょう。 この作品はまったく盛り上がりのない作品です。最終回お母さんと再会できたというのに 感動なんてありません。なにかいきなり終わったようなのです。 再会までの盛り上げがいっさいないので、終わりにいきなり突入します。 最初見終わった時は、なにかぼーっとしたような作品だなとたいして評価はしていなかったのですが、あとでじわりじわりと良さが分かってきてもう一度確認のために見てみようかという気にさけます。ほとんどの作品は苦労してもう一度見たいと思わないのに、そうさせる不思議な作品です。(私的な見解ですが)
全体的にフィンランドの地形のように低くなだらかな話しが延々と続きます。事件らしきものが起こっていますが、ちっとも盛り上がりません。 この作品の面白くないのに引きつけるものはなんなのか、一生懸命頭をひねって考えてみると「時代」と「地理的空間」がうまく表現されていることでしょうか。 つまり主人公と中心として、最初は自分の家の周りの世界だったのに物語りが進むに連れて世界が拡大していく、人と出会ってさらに拡大、以前あったひとは自分の見識が増すに従いだんだん小さくななる。気づいてみると外界から閉鎖された空間である村にいたことがわかるし、しかも村にも少しずつ都市の波がよせているのが分かる。また都市と農村部だけでなく大きい世界の国々の動きに合わせてフィンランドも変化していて、その臭いが第1回からしているのですが最終回に近づくにつれはっきりします。 この作品はカトリという少女というよりフィンランドの時代と地理を描いた作品のような気がいたします。(本当は偶然そうなったんでしょうが)ここではペリーヌについて述べていますのでカトリについては別の機会に詳しく語るといたしましょう。

一般的にカトリのような形式は失敗しやすいでしょう。面白さが直接伝わりませんから やはり山を何回も重ね最終部にて頂点にもってくるのが良いでしょう。 ペリーヌはその成功例といえます。



第二章 ペリーヌの時代(ペリーヌはR・オーウェンになれるか?)


  世界名作は昔話なので、現在の私たちから見れば空想の世界に近いものです。 しかしこれらの作品はかつては「現代」を取り扱ったもので現実の世界のことでした。原作者たちは自分の時代のものをそのままに、作品中に自分の主張をいれて話しを作っています。ただ、それから百年ほどたった私たちがどれほど理解できるかは分かり ません。 人間の悩みや苦しみや喜びというほのはいかなる時代にいても普遍的で変わるものがないものです。ですから主人公に共感したり敵役に反発したりするものです。
  しかし、その時代でしか分からないような主題も存在します。「アンクルトムの小屋」や「怒りの葡萄(子供の作品が思い浮かばないよー)」などはあるていど当時の時代背景がわからないと完全には理解しえないかもしれません。   「天国はケンタッキーより良いところです。」が最後の作品は奴隷問題が主題であり  現代においてはたしかサウジアラビアがだいぶ前に奴隷制を廃止して地球上には存在しないはず(多分)なので奴隷といえば抽象的な題材になってしまいます。 また「シャロンの乳房」が最後の作品は農地を取り上げられさまよう農民が描かれて  おり、当時の農業問題が主題となっています。現代のわたしたちには少々現実感がありません。 しかし、作者が生きた時代がこれが虚構の物語であるとしても現実性が高く表現されたものであったに違いありません。

   ところで、ペリーヌ物語は世界名作劇場のなかで変わった存在といえます
  その他の作品は普遍的な家族愛とか友情、勇気、忍耐、謙譲、優しさなどが主題でして、子供の作品なのでそれ以上複雑な問題は取り上げていません。   たとえば、「トムソーヤ」では黒人奴隷が登場するというのに当然かのように描かれているし、少々勘ぐれば奴隷制容認しているととらえてもおかしくありません。 また、「カトリ」にしても学業もできない貧乏な子供の使用人がいることへの理不尽さなんて表現されていませんし、「フローネ」にいたってはからっぽです。
   ところがペリーヌでは労使の問題がハッキリ主題として取り上げられています。もちろんこの作品はこの問題を取り上げなくとも出逢い物語として成り立つのですが、  そうではなく名乗り物語と理想企業物語の二本立てとなっています。 ここがペリーヌ物語が「マルコ」のような単純な話しでない大きな特徴といえます。  鑑賞し終わった時、ちょっと作者に反論したくなるような複雑な主題をもっています。
  簡単にいえば、子供の作品に大人が取り扱うな主題をもってきてしまったてことでしょうか。   そこで評論としてはどう評価すべきか困惑します。やれやれ。

 さて、マロが生きていた時代はフランスでは社会主義、労働運動は盛んでした。
(パリ・コミューンが73日の短命で終わったことで一時的に大きないたではこうむっていたが)きっと当時はこういった社会運動のような大人のお話がいっぱい有ったのでしょう。
  ペリーヌの時代は1875年の第三共和政憲法制定後の時代のようです。
ドイツとの戦争に負けたはずなのに国が元気だったようです。賠償金返済がやる気を起こしたのか?強国にのしあがっていくんですから。   この元気が少女ペリーヌの元気の発想のもとだったのでしょうか、この物語は「なにものにもくじけない意志」を一つの主題としているところをみるとあながち、無関係とはいえないんじゃないでしょうか。

マロはこの作品を書くにあたり労働者の実態の調査をしたということでして、労働問題について本気で描こうとしていたことは明白です。   ただその考え方は資本家と労働者の階級闘争みたいな考え方ではなく、もっと穏やかなものです。   悪く言えば、ペリーヌのやっていることは印籠を振りかざす水戸黄門に似ています。権力側のものが権力によってやられていた者を権力により守るんですから。 
この作品が発表された当初からこの問題については批判されたようで、現代でもなに甘いこと言っているんだろうか、資本家が労働者の立場に立ったり、国家政策でなく一企業で完結してどうするんだい?なんて思っちゃいます。 ただ、そのことは作者もわかっていたこととのようで、原作においてペリーヌがしたことに対して冷たい視線が描かれたことでなんとなく推察されます。

  先に述べたマロの家族の発展形としての労働共同体の形式はRobert Owenを理想としいるのではないか思われます。   別の表現をすればペリーヌはオーウェンの役回りをさせられたと 言っていいでしょう。(意志が強いといったって少女には荷が重すぎますぜマロさん)
  オーウェンはペリーヌと同様に紡績工場を経営し、機械化技術効率化等により生産力 収益力も大で優秀であったそうです。非営利主義、労務管理、厚生施設を推進していったようで、人は環境に作られるから仕事と生活の場の改善、子供の教育が重要であるとの考えたようでして、工場をベースに住宅、学校、公園を配置し労働者の生活向上に努めたとのことでした。工場内に「性格形成新学院(今で言う社員教育か?)」  を設け、「合理的幼児学校制度」(当時は教会が教育の場だったから、たいしたもん  )を始めたそうです。
富みを生産する労働者にも公平な分配が必要であり、人間は他者の幸せに貢献する事により幸せになると考えていたそうです。 オーウェンのやったことを振り返るとペリーヌの48話からやった工場改革となにか重なります。   オーウェンは英国社会主義の祖と言われているそうです。   最初、空想社会主義の分類に入れられてあつたので甘い思想を述べた方だと思っていたらしっかりした経営人でした。

  彼の「自叙伝」(オウエン自叙伝、岩波文庫、ロバアト・オウエン著、五島茂訳) を読んでみると、元々労働者のためというより良質の労働者を求めたために結果的 に労働者の生活の改善につながったようです。労務管理の合理性の上に成立したもので、けして同情や慈善で行われたものではないと思います。 ニウ・ラナアック工場に自分の理想世界を作りあげそれを基に社会に呼びかけたようです。当初この工場も買い取った時は風紀もひどい状態で、社員はサボってばかりだし、工場の物が紛失してばりいていたそうです。そこで労働者の質の改善に心がけたというわけです。労務管理と社員教育、厚生施設の充実をはかっていって労働者の質も向上し生産性も高くなり多くの利潤を会社にもたらしました。   住宅、学校、公園、安価で高品質の食料品、生活品の提供などやりすぎなんではと思われる面もありますが真面目で誠実な労働者がほしかったのでしょう。
  戦争の影響で、他では人員整理がどんどん行われていましたが、彼の会社は解雇者を一人も出すこともなく賃金も現状維持をとうしたというからたいしたものです。   日本型経営の松下幸之助を連想させますが、労働者には絶大な信頼をもたらしたことでしょう。   彼の思想は「性格形成論」にあるといって良いでしょう。特に自叙伝では幼稚園の教育について一生懸命述べてあり社会主義者というより教育論者といった感じがします  オーエンの説明が少々長くなりましたが、ペリーヌも同じ紡績工場が舞台であり工場を核としてオーエンと同じように理想の社会を形成しようとしています。
  その初めとして幼稚園から着手したところなんか、オーエンの幼稚時の教育がまず大事という考え方を臭わせます。 労働運動というものは産業革命からしだいに成熟してきた資本主義が自らのひずみから生み出したものでしょう。このころは5,6才で工場で働くことを許され、労働時  間は普通一日14時間、所により15時間、ひどいと16時間も働かされたようで、  しかも労働環境は劣悪で暑い密閉した部屋なんかで働かされたそうです。   オーエンも小児の労働制限の法案を成立させようと努力するのでしたが反対派が登場  してくるなんてどういう時代なんでしょうか。 そんな時代だからもっと人間らしく生きていけるようにできたらいいのになあという  発想のひとが登場してきてもおかしな話ではないでしょう。

  オーウェン、サン・シモン、フーリエはマルクス主義者により荒っぽく一緒にされ   空想的社会主義として低く扱っているが、これは儒者(ぐずぐず煮え切らない奴の意)   と同じように悪口かな。そう言うエンゲルスにしたって現代からみると「聖書的価値観を基とした人間至上主義者たち」として空想的社会主義者とマルクス主義者を同じ 分類にいれてもいいと思うのだが。もっともこの西洋の聖書による価値観がなかったら基本的人権の尊重なんて思想は登場しなかっただろうけれども。
  ここらへんはマックス・ウエーバーがなんか言っていたようだが。(違ったかな?) 労働問題は時代が作り出した産物で多くの人が問題とし、いろんな発想のもと、しだいに一大思想に繋がっていったのでしょう。   マロもこういった雰囲気の時代にあって彼なりの理想を暖め、広く社会に訴えようとしたのでしょうたのでしょう、それはマルクスやエンゲルスのように闘争的なもので  はなく融和てきなものであったといえます。この労働運動が下火になった今日、社会  問題は単純に労働者資本家の2極でとらえられるほど単純なものではなく、これら労使間の闘争は古い歴史の一コマのようでもあります。

  現在、彼らの時代の熱気に近いものといったら環境問題、自然と人間の対話てところでしょうか。いたるところで自然、自然となにかと話題にあがります。
  一時期までは人間の科学力が高度で満たされた社会を作り出すんだという神話が信じ られて来ましたが、化学物質の氾濫や情報化社会の到来によりバラ色というよりは どこに向かっているのか分からなく幸せの実感がつかめないような感じになってしまいました。たとえば竹宮恵子の「地球へ」なんか管理世界の崩壊の話しですし、今ま  で積み上げた人間社会の構造の否定の面が表されています。 またスタジオ・ジブリの作品の多くが自然賛美をテーマとした作品です。
周囲を大きく変貌させ人間社会が形成されてきたことに対する反省といいましようか 人間の活動により自分自身に不利益がはねかえって来ていることに対する対応が問題 とされます。まあ、マルクスやエンゲルスが現代に生きていたらどんな史観を構築したでしょうか。 ほんの50年前までは工場の煙が立ち上る姿をみて活気に溢れた町であるととらえら  れたようで、今は環境の悪い所ととらえられるようになりました。
  僅かの間にこのような変化は環境についてづいぶん痛い目をあった結果でしょうか。水俣病、カネミなど思い起こせばいろんな事件がありました。   このようなものは19世紀からあったような気もしますがメディアの発達で表に現れたり市民の生活水準が向上したことが問題点として浮上したのではないでしょうか。
  とにもかくにも環境問題も労働問題と同じように時代により登場したようです。
これらはやはり時代の産物で、後世の人々が鑑賞したらこんなことを作品にして論じていた時代があったのかと、その時代の雰囲気を味わうこととなるでしょう。

 ペリーヌ物語の終わり近くになり突然労働者への福祉の話しになり変な方向に展開したなと多くの方が思われることでしょう。   しかも資本家が労働者の福祉を実現しましょうなどと主張に違和感を覚えられるでしょう。しかし、これを環境問題として置き換えて考えてみると、その当時の試行錯誤して良い世界を作ろうとしていた意気込みと感じることは出来ないでしょうか。

  多少、完成していない論理であったとしても現在われわれがどうしたら自然と人間 社会の調和を保てばよいかと悩み答えを求めているのと同じ雰囲気があるのではないでしょうか。100年後自然と人間社会の関係はどのように理論的に体系立てられるのか楽しみです。そのとき「アン・ファミーユ」と同様に「もののけ姫」などは悩み道を探した歴史の証言者となるかも知れません。 



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