解説
※ 作品の解説です。
※ 以前は作品とともに展示していたのですが、ギャグにふさわしくないので移動いたしました。
※ 作品番号をクリックするとジャンプします。

作品005 】 【 作品010 】 【 作品015 】 【 作品020 】 【 作品025 】 【 作品030 】 【 作品035
  【 作品040 】 【 作品045 】 【 作品050 】 【 作品055 】 【 作品060 】 【 作品065 】 【 作品070
作品075 】 【 作品080 】 【 作品085 】  【 作品090 】 【 作品095 】 【 作品100 】 【 作品105
作品110 】 【 作品115 】 【 作品125 】 【 作品130 】 【 作品135 】 【 作品140 】 【 作品145
作品150 】 【 作品155 】 【 作品160 】 【 作品165 】 【 作品170 】 【 作品175 】 【 作品180


作品185 】 【 作品190 】 【 作品195 】 【 作品200 】 【 作品205 】 【 作品210 】 【 作品215
作品220 】 【 作品225 】 【 作品230


作品001
shiori*1  随想

shiori*1  雑記

晁蓋はもとは裕福な地主だったが不義の財として生辰綱輸送を略奪しそれが発覚
したために梁山泊に逃れた。
1代目王倫を殺害すると、2代目首領になった。

 宋江は晁蓋の後の3代目を首領となった人物で、もとは裕福な地主の出で押司
(ノンキャリアの役人で口利きの手数料が収入源)をしていた。
梁山泊との関係の発覚を恐れ、脅迫した妻を殺害し梁山泊に逃れる。
以前晁蓋の逃亡を手伝ったことが恩義を得て梁山泊では優遇された。
何の優れた能力もないがこれが次期首領の礎となる。

 晁蓋は一時期は宋江に首領の座を譲ろうともしたらしいのだが、その後曾頭市戦
にて矢を受け時最後には指名しなかった。
何故指名しなかったかは不明だが、両者の間には何らかの溝が発生していたと
考えられる。
実際宋江が実権を握ると大きく梁山泊は変質してしまう。
晁蓋時代の聚義庁を忠義堂と改名するなど以前の体制を否定しているようである。

 晁蓋が宋江の本質に気がついたのか、それとも自分の仇討ちを優先したのかは
不明だが晁蓋が生きていたとしても宋江との主導権争いが起こったに違いない
作品002
軍人を取り入れるなどにより梁山泊軍は禁軍(宋国主力)と同等の軍事力を保有する組織となった。
宋朝はこの勢力の対策に頭を痛めたが、同時に梁山泊軍も社会復帰を願っていたので
両者の利害が一致し梁山泊軍は宋国正規軍となる。
ただし忠義一徹の宋江と違って多くのものが恩賞を求めていたので、実績を積み上げるべく
宋国悲願の燕雲十六州の奪還を目標に遼国と戦うのだった。
遼国は宋国の北に位置する国で、宋国より建国が古く、軍隊は屈強で
宋国は手も足もでなかったのである。

 敵本拠地燕京をを目前に遼主力が出現梁山泊最大の危機が訪れる。
梁山泊軍は遼の陣形「太乙混天象の陣」の前に手も足もでない。
ところが宋江の守り神「九天玄女」の夢の教えにより大逆転。
遼国主力をうち破ったのだった。

 おそらくこの戦いでやぶれているとその被害は方臘戦の比ではなく、本当に総全滅の
可能性があった。
梁山泊軍は後の方臘にて多くの死者がでるのだが、冷静に考えればこの遼主力との
戦いが一番危険な賭だった。
作品003
遼、田虎、王慶とうち破りいよいよ南方の方臘の戦いをすることになる。
梁山泊軍は連戦の疲れもあるのかここで多くの仲間を戦いだけでなく病気にて失っている。
杭州攻略にて張順は湧金門から侵入を試みるが、発見され弓で射殺されてしまう。
霊力があったらしく宋江の枕元に現れ死を報告したり兄に取り憑いて敵将を殺し
宋江の前に姿を現すなど、死せる孔明なんたらかんたらどころの話ではなく
死んでもただ者ではなかった。
彼の特徴は水達者だが、何日も水の中にいることができるとは半人半魚だったのだろうか
作品004
呉用はもと寺子屋の先生である。晁蓋と幼なじみで生振綱強奪を実行する。
晁蓋とともに梁山泊にはいると以降軍師を務める。
もともと秀才ではないので、計略は失敗なんかするし驚くような軍略を発揮はしない。
しかし内務の能力は高いようで「孔明」というより漢の「蕭何」と比べたほうがいいかもしれない。
人集め癖の宋江ばかりが目立つが梁山泊軍の強化の陰には呉用の力量を無視はできない
と思われる。
高度の運営能力がなくては梁山泊軍を維持はできないからだ。

 彼の計画では官軍をうち破り宋国から有利な条件を引き出そうと思っていたのだが
世の中は彼の思惑とは別の方向に動くのだった。
そういった点が孔明と違い非常に人間くささをだしている。

 最後は諦めムードで。宋江が死ぬと自分も自殺してしまう。
朱武のように世を儚み隠遁にはいるでもなく、花栄と殉死したのは自分たちの力のなさを
詫びたのか、過去の助けられた恩義を果たそうとしたのかよくわからないところである。


 上記の宋江の台詞の「心を尽くし、魂を尽くし」とはマタイの福音書第22章37のことだ。
正確には「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なるあなたの神を愛せよ」である。
作品004
呉用はもと寺子屋の先生である。晁蓋と幼なじみで生振綱強奪を実行する。
晁蓋とともに梁山泊にはいると以降軍師を務める。
もともと秀才ではないので、計略は失敗なんかするし驚くような軍略を発揮はしない。
しかし内務の能力は高いようで「孔明」というより漢の「蕭何」と比べたほうがいいかもしれない。
人集め癖の宋江ばかりが目立つが梁山泊軍の強化の陰には呉用の力量を無視はできない
と思われる。
高度の運営能力がなくては梁山泊軍を維持はできないからだ。

 彼の計画では官軍をうち破り宋国から有利な条件を引き出そうと思っていたのだが
世の中は彼の思惑とは別の方向に動くのだった。
そういった点が孔明と違い非常に人間くささをだしている。

 最後は諦めムードで。宋江が死ぬと自分も自殺してしまう。
朱武のように世を儚み隠遁にはいるでもなく、花栄と殉死したのは自分たちの力のなさを
詫びたのか、過去の助けられた恩義を果たそうとしたのかよくわからないところである。


 上記の宋江の台詞の「心を尽くし、魂を尽くし」とはマタイの福音書第22章37のことだ。
正確には「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、主なるあなたの神を愛せよ」である。
作品005
孫新、扈大嫂は夫婦である。
激動の梁山泊の一員として行動し無事生き残り、幸せになっている。

 扈大嫂は血の気が多い婦人で夫孫新はそれを統御しているのでうまくいっているようだ。
夫婦して結構、変装による潜入工作員として活躍していて、
北京戦、高イ求戦、独松関など実績を上げている。
敵から警戒されない風貌なのか変装がうまいのか分からないが、梁山泊の強者の中にて
ごく平凡な中国人の雰囲気を持った夫婦なのかもしれない。

 乞食女の変装は、とらえられた史進を救出すべく東平府に単身潜入したときのものである。
よほど変装がうまかったのだろうか、牢番に同情を買うなど目的を達成している。
度胸が据わっているというか「肝っ玉母さん」といったところかもしれない。
そこのところがお嬢さんの扈三娘には真似ができないところだろう。

 孔明、孔亮は兄弟だ。
武芸はあの宋江に槍棒を習ったというからどうしようもないのかも。
従軍はしているのだが、なにをしているやら。中軍の守護なのでさすがに外部は
梁山泊の猛者が守っているので敵侵入できないからよいのだろう。
変装についても下手くそらしく、北京戦で乞食に変装したが時遷に注意されている。
作品006
遼は唐代に興った国でモンゴル系契丹族である。
その国土は東は日本海、西は天山、内外モンゴリアを含んでいた。
五代、宋代を通じて中国と争いを演じており、
その名は現代、かろうじてキャセイ航空の名で残っている。
歴史でいうと遼国が年代的に長く先輩格で軍事的に強い。
むしろ宋のほうが武将のクーデターにより政権を強奪して成立したのでいかがわしいともいえる。

 燕雲十六州とは中国北部の土地のことで、後晋の高祖が後唐を打倒して帝位を得たとき
遼に協力を要請しその見返りとして、この土地を与えたものだった。
現代で言えばロシアからお金で買ったアラスカみたいなものだ。
したがって宋が返せというのは、古いロシアが勝手にやったことでアラスカは
本来われわれのものであるからアメリカに返せといっているようなもので
おかしな言い分のような気がする。
ただし譲り渡した中国の王朝の前身はトルコ系沙陀部族らしいので、どう判断
するかは難しいところである。

水滸伝では軟弱な宋にかわってオールスターの梁山泊軍による
燕雲十六州(いわばエルサレム)の奪還こそが作者の意図なのであるが
お話はすっきり一本調子でなく複雑な色合いを見せている。
とくに遼の使者の主張は正しく、しかも軍師の呉用までが薄情な宋より遼についた方が
いいのではないかと迷うところがあってなかなかうまくできている。
結局宋江の忠義の道に従うことになるが、それが宋に最後は裏切られるので
悲劇でもある。
作品007
水滸伝では国粋主義者みたいな強い中国へのあこがれ
失われた北の中国の固有の領土を蛮族から取り返すといった
十字軍のよような思想で彩られている。
このことは中国のオールスターを登場させ(関羽、張飛もどきを登場させている)
軟弱な宋主力をうち破りこれに替わって本来やるべき中国軍というものを演じさせている。
梁山泊のスローガンの「替天行道」は翻訳すると「宋王朝にかわつて本来やるべき
北伐をやるぞ」ということになるようだ。

 しかしこういった政治的意味だけでなく水滸伝は思想的意味性も有しているようだ。
それが魯智深の存在である。
魯智深は最初に登場し五台山の智真長老に非凡な悟りをするであろうと予言され
方臘討伐で方臘をとらえ円寂した。
水滸伝が魯智深の中にすっぽり収まってしまう感じだ。
魯智深はなにを悟ったのか作者の意図はなかなかわからないことだ。

no7の作品は10コマであることを意識して画きました。
よく分かるのは6コマ目でしょう。
作品008
李逵は梁山泊のトラブルメーカーである。
宋江に絶対の心服をしている。どうしてそんなに宋江が好きなのかは述べられていないので
不明だ。
そしてものすごく残忍で食人行為は理解に苦しむ、だが一方純粋で素直だ。

 大人だったら立場とか周囲の様子を考えて言葉や行動を自重するものだが
李逵は思ったことを平気で口にしたり行動したりするから、よくぞ言ってくれたと
喝采を受けるのだろう。
まあ簡単に言うと子供なんである。
梁山泊では道化役といえるかもしれない。
陽明学の者ならこのような人物は心が清いと賞賛するであろうが
本当にこのような人物に遭遇したら煙たく感じるであろう。

 李逵をもう少し大人しくして分別を加えたらフウテンの寅さんになるのかもしれない。
上記の漫画は羅真人に会ったときのお話だがこの時思い通りにならないからと
羅真人を殺そうとしている。
冷静に考えれば身勝手で死刑に値する犯罪行為だが、物語の正確上彼の殺人は
演劇の立ち回りととえられる性格があるようだ。
常に宋江とともにあり、最後は宋江とともに毒酒にて死ぬ。
作品009
宋江はスカウト魔だ。
これぞと思ったらどんどん誘っている。
梁山泊では王倫が有能な人物が入山してくるのをいやがって、林冲や晁蓋一行を拒んだ。
二竜山では摎ウが魯智深と楊志を警戒したが殺され山をとられた。
ところが宋江はまるで反対でどんどん入山させている。
彼の人徳のなせる技かかと思いやその理由は廬俊義入山のところで述べている。
廬俊義を誘い込む際呉用と相談していたとき「彼が入山すれば官軍も怖くない」と述べている。
つまり討伐されないように有能な武将を仲間にしたがっていたのである。
当然と言えば当然だが、ただ一つ彼は首領にはなりたくなかった点は他と違っていたといえる。
ところで彼の勧誘で完成した軍団だが、官軍との戦いで地形を利用した水の戦いを得意と
していたように一件勘違いするが編成を見る限り騎馬軍主体で水軍が貧弱だ。
後、方臘の戦いでは李俊だけでは不足で部外者の費保のちからを借りて蘇州を攻めた。

周瑜は水軍に優れた呉の将軍のこと。
施恩は後に溺死し、廬俊義も泳げない。
上記の5人の武将は梁山泊五虎將である。内3人は死亡する。
作品010
 遼との最終決戦にて敵はとんでもない陣形をくりだしてきた。
陣形マニアの朱武も頭を痛めるものだった。
この陣形不思議なことに女性で編成した一団が存在するのである。
なんでだー。
トロイ戦争でもアマゾネスがトロイに味方するが、大戦争には
読者サービスで女性軍団が必要なのか。

 戦いのようすを読むと孫二娘や扈三娘、扈大嫂が突入して戦っているので
彼女等の手柄を描くために登場させたようだ。
しかしこのような女性だけの軍が存在するとなるとスケベの王英が放っておくとは
考えられない。
当然妻の扈三娘はぴりぴりするはずである。

燕順、鄭天寿は王英と同じ清風山仲間である。
作品011
 魏定国は火攻め、単廷珪は水攻めが得意な武将として登場してくる。
過去にどんな戦いをしそのような評価をえたのか分からないが
両者の特徴をだすために火と水と相反する性格のものをペアとして登場させたのであろう。
問題なのが火を使うてのは簡単だが水を使うのは結構大変ということだ。
その点が両者の差となっている。

 水攻めとなると羽柴秀吉のやったように大がかりな工事でじわりじわりと水位を上昇させて
水浸しにする方法、または作業コストが安い方法では堤を破壊し大洪水を発生させることだ。
しかし後者は被害が大きく、蒋介石は日本軍の追撃を防ぐため堤防を破壊し洪水を発生させたが
その被害は甚大で11都市と2千の村が水没した。
水死者は100万人被害者は600万人にものぼりしかも悲劇なのが日本軍は迂回して
進軍していたので何の意味もなさなかったことである。

 小説水滸伝でも李俊が田虎討伐にて太原をダムを決壊させ洪水をおこした。
あとは惨憺たるもので溺死したもの圧死したものが数え切れないほど
というから水攻めは非情といえる。
物語では市民は密かに避難させたとあるがそんなことできるわけなかろう。
多分太原の市民は李俊に深く恨みを抱き続けたにちがいない。
作品012
 阮三兄弟と劉唐は晁蓋とともに梁山泊に入山した古株である。
根っからの盗賊家業が身に染みついているというより
晁蓋のもと役人の汚職などに反感をもっていて反体制の人間集団といえる。
しかし実体は犯罪が発覚したので社会に戻れなくなり、やもうえず梁山泊に
身をおかなくてはならなくなった弱者なのである。

楊志の場合は一寸違って、仕事を失敗して社会復帰のすべがとざされ山賊家業に
足をつっこむことになった。
本来魯智深と同じに単独行動を好む性格のようだが、二竜山では官軍に太刀打ちできない
のでやもうえず梁山泊に合流した。

 両者とも社会に逆らって自由を求めているがいるが、
皮肉なことに身の安全を保障してくれる梁山泊の掟に拘束されることになった。
梁山泊は自由の天地どころか鉄の掟の集団であることがわかったことだろう。
このことは林冲をしても高イ求に手出しができなかったことでわかる。

 梁山泊は宋江が台頭してくるにしたがって官軍の武将が加わり目的が変化してくる。
古株の彼らもおかしいとは思いながら、次第に自分らがそれに逆らえないものであることを
察したのであろう。
宋江の描いた構想に従い戦いに赴くのであった。

 水滸伝では仲間の名簿が石碑に刻まれて出土する。
あの名簿どうなったんですかねえ。
作品013
 方臘は実在の人物で、もとは睦州青渓県の漆園の経営者である
皇帝の徽宗が贅沢三昧で財政が窮乏し、それをうめあわせるために民衆から搾取したため
江南に反乱がおこった。
方臘は「マニ教」の信者でその組織を利用し、「花石綱の朱緬を誅する」として蜂起した。
6州52県を占領したが宋朝は3年、200万人を殺害して乱は平定された。

 前の黄布の乱、後世の太平天国の乱と同様に
宗教団体をベースにして大反乱を起こすのが中国の反乱軍形成のパターンである。

 マニ教はペルシャ出身であるからさぞかし占星術はお手のものだったのだろう。
梁山泊軍が江南に侵入するやいなやその存在を星にて察知するのだから。
梁山泊には魔法使いはいたが強力な占い師はいなかった。
作品014
 招安(恩赦)に応じなかったらよかったのに、というのは大半の意見だろう。
ある作品は108人が集合して終わるということでこの問題を回避しているがこれは誤った行為だ。
さて応じなかった場合だが、第一にそのまま山賊家業を続けるという方法、
第二に積極的に宋朝を打倒するという方法が考えられる。
今回は後者につい語ろう。

 さて梁山泊は非常に首都「開封」に近い。
反乱というものは首都圏で行われると簡単に政権はひっくりかえる。
外縁部の反乱がおきても時間の余裕があるので多少混乱の状態でも政権は大丈夫。
そして首都には強力な親衛隊を駐屯させるので安泰だ。
実際、宋の軍政の仕組みが周辺部には軍隊の配備を抑え中央部に禁軍を置くようにしている。
宋以前のように周辺部の軍閥が力を持つようなことがなくなり中央集権体制が確立している。
ただし、この場合外国の侵入に対して弱くなる弱点がある。
梁山泊の軍事力からいったら一気に宋朝を打倒することは可能だ。

 問題が自分たちが政権をとったあとどのような国家運営をするのかがだ。
梁山泊のメンバーをみても統治能力があるとはとても思えない。
唐代に「黄巣の乱」というものがあったが、反乱軍がいざ長安をとってみたが、だんだん地金があらわれ
掠奪散財をくりかえし、人殺しも平気でやったのでしだいに人心を失ってしまった。
黄巣は部下にも見捨てられ、唐の反撃より滅んだ。
この二の舞を梁山泊はなりかねない。

 ゆえに軍事だけではなく行政の専門家をスカウトする必要性がある。
そしてかつての仲間であっても法を犯す者は裁かなくてならない。
宋江がたまたま変な人だったので政権をねらわなかったが、有能な軍人ばかりで
あとは盗人ばかりではどうしようもない。
作品015
 蔡京は徽宗皇帝代の宋国宰相である。もちろん実在の人物。
若くて科挙(国家試験)に合格する秀才であった。
新法党と旧法党をいったりきたりして主義主張がなく、その能力は自己の地位維持のために
費やされた。
かれが権力を一手に掌握できたのも徽宗皇帝が政治にまったく関心がなく
道楽天子(商家の放蕩若旦那みたいな)状態だったからである。
蔡京は趣味が豊かで芸にもいろいろ通じていたので、風流皇帝徽宗と馬があって
信任をえたのであろう。
 皇帝の趣味生活を助長し国家を破綻に追い込むのだが、皇帝が築山造園に熱中するあまり
各地から名花奇石を莫大な費用をかけて収集するようになり、
これがもとで方臘の蜂起がおこったのである。
専制のかぎりを尽くしたが、宋国混乱のすえ栄華はどこかに消え失せ惨めな最後となった。
四姦の主格といわれるが本当に悪かったのは徽宗皇帝であった。

水滸伝では皇帝はいい人で、蔡京はその陰でこそこそ悪事をしている4人組の
親玉として描かれている。

 時遷は梁山泊の序列では下から2番目だが、結構使える存在である。
身分と仕事の貢献度が何故合わないのか分からない。
もともと泥棒家業だったが、梁山泊の中では忍びの位置ずけだ。
軒をとび塀を走るの技は尋常でなく、常に適地深くに潜入し工作活動をしている。
作品016
 遼と宋の戦いは漫画のままなのであえてなんの説明もいらないだろう。
この時代の中国人が屈辱と思っていたのは壇淵(せんえん)の役である。
(壇の字は本当はさんずいだ。文字がない。)
宋の真宗の時代、遼が大挙して侵入してきた。
目的は国境付近の衝突がわずらしいので一気に解決しようとしていたこと
かつて中国(後晋)と結んだ燕雲16州の条約を宋に再確認させるためだった。

このような例は他にも見られ、いつの時代も同じようなことをしているものだ。

 しつこく遼の国境につっかかっていた宋だったが、
遼の疾風のような進軍に黄河の沿岸まで追い立てられてしまった。
宋は壇淵まで後退し、首都の開封まですぐのところまで進軍されてしまう。。
ここで宋は遼に和議を申し立て両者の利害が一致したので成立した。
その条件とは1,遼の国境付近には軍事施設は置かない。2,投降者をかくまわない
3、宋が遼に絹銀を送る。宋を兄遼を弟とする。国境には貿易所をもうけ交易す。
などだがまあ国際的な観点から言えばヨーロッパ的な国と国の対等な関係が築かれた
わけだが、この力ずくで対等てのが中国人には気に入らなかったらしく、あくまでも
中国は中心でなくてはならないのだった。
この条約は壇淵の屈辱的和議として刻み込まれるのである。
 
 水滸伝では梁山泊は遼の主力を燕京で破り、遼の臣に「許してやるから二度と侵入するな。
貢ぎ物を差し出せ」と脅して和議を結んでいる。
まあ壇淵の条約を反対にしてやっているわけで、中国人の悲願だったといえるかもしれない。


 奪われてばかりなものでとは段景住のことだ。
馬泥棒なのだが、こんな者がなんで取り立てられたのかは
やはり騎兵の強化には獣医の皇甫端とともに必要だったからだろう。
しかし泥棒のくせに横取りされるのが玉にキズ。
曾家に横取りされ、郁保四にも取られた。
作品017
少華山は西岳華山系の山である。
実際は架空の山だが、物語が始まるとすぐ登場してくる。
水滸伝のはなしはここから始まり
河北にかけて話が展開する、その後話が山東に移る。
三つの山の所在地はは本当は太行山系にあるのではないとの噂があるが
真偽のほどは分からない。
三山が山東にあるので華州戦があるまで忘れ去られた存在であった。

 史進は登場は最初なのでじっくり描かれているので印象深いがその後の行動を
みると大した働きはない。
華州の太守を単身殺しに行き捕まってしまい、梁山泊に救い出される。
樊端との戦いでは苦戦、東平府では適地に乗り込みまた捕まってしまい梁山泊に救われる。
要するに任侠好きの坊ちゃんなんである。
ちなみに竜の入れ墨は肩、腕、胸であり背中にはない。
作品018
 magic(魔法」)の語源magiはそもそもがメディア人の部族名である。
後にメディア人やペルシャ人の司祭を意味するようになった。
ギリシャたローマ人の間では様々な不思議な現象をする人をさすようになった。

 マニ教は古代ゾロアスター教を母胎とした宗教でペルシャのマニが創始者。
善悪の二元論の世界観で神の光明は十徳で具現され、現実世界は神の光明に到達を
約束されたており、その救済者としてマニが使わされたとしている。
キリスト教、仏教の要素をとりいれて作成されたらしい。
中央アジアでさかんで西はローマ帝国、東はインド、中国まで広まった。
アウグスティヌスも入信していてローマ帝国では禁じられた宗教だった。
このことは彼の著書「告白」にて述べられている。
(六章から十章がそれだが、キリスト教のレンズを通じてみているので分かりづらい)
中国においても状況は同じでマニ教は邪教とみなされた。
方臘等は秘密結社の一団である。

 水滸伝では方臘の本拠地目前の睦州にて魔術師乞道乙が登場してくる。
この段階で公孫勝は離脱していて幻術のまえに梁山泊軍は苦戦する。
睦州の北門にて戦いがおこなわれるが
関勝が一騎打ちにて敵将鄭彪を一刀のもとに切り落とした。
(漫画中の関勝の武器を誤って描いてしまった。)
問題の乞道乙はなんと大砲にて粉砕された。
ここに魔術の時代が終わり合理的リアリズムの世界がやってきたといえるかも
しれない。

 乞道乙の妖術は公孫勝や高廉や賀重宝と同種の術のようだ。
ほとんどが幻覚を起こし敵を混乱させるものばかりである。
乞道乙がマニ教の名前どおりに西洋の魔法を使用していたら
ホロスコープを使用して宋江そのものをダイレクトに呪詛で殺したにちがいない。

漫画のセリフの秘儀はあえて誤字で、本当は秘技が正しいである。
作品019
 李逵、鮑旭、樊端、李袞、項充はグループにて行動する。
多分梁山泊歩兵軍の最強のチームだと思われる。
それはおそらく李逵の攻撃力が強さの秘密であろう。

 その能力は江州で宋江と戴宗が処刑されそうになったときに最初に現われる。
梁山泊の面々が宋江等を救出しに来たとき、すでに李逵が大暴れしていて
それは軍民の区別なく殺されていて屍は地を覆い血は流れて川のようだった。
そこで全員李逵の後をついていきぶじ脱出できた。
というわけでいかに危険であるかがわかる。

 前にいる者を手当たり次第に切り捨てていくので全身血だらけになるようだ。
李逵は人を殺すのが大好きなんである。
李逵中心の歩兵チームはまるで人間芝刈り機といえるかもしれない。

 このチーム騎兵軍に少々ライバル心があるようだ。
杭州戦で敵将石宝に苦しんでいたとき、鮑旭が首領の宋江が騎兵騎兵というので不満を募らせ
自分たちが石宝を倒そうと相談する。
翌日敵3將がでてくると突撃、李逵は石宝の馬の一気に叩き切ったが石宝は城に逃れた。
結局最大の強敵石宝は誰も殺すことはできなかったが、この李逵チームの騎兵軍に劣らない
破壊力をもつことは証明された。
作品020
 宋江の最後は朝廷から下賜された御酒を飲んで亡くなる。
遼、田虎、王慶、方臘などかずかすの戦功があったのだが、解散したとはいえ
危険の種だったので、四姦は宋江、廬俊義を毒殺することにした。
最初は廬俊義を殺害しその後宋江に手をかけた。
酒を飲んだあとに腹痛が起こったので宋江は怪しみ朝廷が毒酒を送ったことを悟った。
しかしそこは忠義者,恨むどころか李逵が問題を起こしては大変と欺いて酒を飲ませ
道連れにした。

 一生懸命朝廷に尽くし挙げ句の果てが始末されるので、なんと愚かなという意見もあるが
どの選択肢をとっても死は免れないのである。
というより十字架に張り付けになるために行動したというべきか。

 中国のテレビドラマの水滸伝で方臘がおおいに美化されており、なんと
梁山泊に仲間になるように誘うのである。
そのドラマでは梁山泊はこの誘いをあくまでも断り朝廷に忠誠を尽くすのだった。
また林冲が招安に大反対で病死を大げさに表現してあり、最後に呉用の自殺を見せつけるのだ。
これは脚本家の主張なのだろうが大いに不満だ。
「同志」と呼びかけさせているが、およそ同志と呼び合いあげくのはてがお互いに殺し合って
いるのが現実なのである。
そこになんの信義なるものはないのである。

 宋江が「狡兎死」と言っているのは、韓信の言葉である。
「史記」の「淮隠候列伝」の中にそのセリフがある。全文は
「はたして世人の言葉どおりだ。{すばしこい兎が死ぬと、立派な猟犬は烹殺され、高く飛ぶ鳥が
つきはてると、良湯弓はしまいこまれ、敵国がやぶれ去ると、謀略の相手をつとめた臣が亡ぼされる。}
とか。天下ははすでに定まったことだし、私が烹殺されるのは当然だ。」

 韓信は劉邦に仕えた武将だ。軍事力で勝る項羽に対抗すべく重用されたが、天下平定の後
他の功臣同様粛正された。
韓信の謀反の噂に劉邦が恐れ、陳平と共謀し雲夢に西遊するとして韓信をおびき出し捕らえ
殺してしまったのである。
知恵者の張良はそこの所わきまえていてとっとと仙道三昧になって危険から逃れるのだが
権力を握ってししまうと非情なものである。
まあこんな訳で権力の前には同志なんてなんの意味もない。

 悪法も法なり。
おしゃべりなギリシャ人のソクラテスの最後の言葉だ。
あんまり人のことをねほりはほり問いつめたので嫌われたのか、奥さんのクサンチッペからも
ぐうたら亭主との陰口が現実になったのか、こんなうるさいやつは黙らせた方がいいと
裁判で毒人参のプレゼントをもらった。
告発は「ソクラテスは悪事を行う人間で、地の下や天上の事物を研究する奇妙な人物であり
悪しき意図を良き意図であるかのように思わせ、これらのことを他人に教えている。」
というわけのわからないものである。
「とんずらしましょう先生。」と弟子が提案するがソクラテスは法を守ることを第一とし
自ら毒ニンジンを飲むのだった。
詳細は「ソクラテスの弁明」にて。
作品021
 水滸伝において何故主人公たちが無惨な最後を迎えなくてはならなかったのか
それはこの話が本当は贖罪の話だからである
彼らの死は罪からの解放だったといえる。
つまり天上界に生まれ変わらなくてはならなかったのである。
第42回の環道村での九天玄女の言葉でその事情がわかる。
「玉帝には、そなたの魔心がたちきれず、行道も全からぬために、下界に罰しおかれますが
いずれ天宮にお召しあげになります・・・・・」
使命は道を行うこと、つまり外夷、内寇をかたずけることと書かれている。
このように彼らは天上界にあった者で罰として地上に転生したわけである。
そして天道を地上で行い許されて天上に帰るのである。
ちなみに村の名前が「道に還る村」とは面白い。

 このような設定は文学に数多くみられる。
例えば「西遊記」なんかそうだ。
西遊記においても孫悟空が竜宮、地府、天界を荒らし回り、五行山に封じ込まれる。
そして同じく天界を追放された猪八戒、沙悟浄とともに天竺に贖罪の旅をする。

 また日本においては「竹取物語」も同様で天界で罪をおかしたかぐや姫は
最初は竹の中に封じ込まれていて翁に救われ、成長すると時の権力者貴族を色香で
大いに惑わし使命をはたし、許されて月の世界にかえってゆくのである。

 このように3作品とも天上界て罪を犯す、罰として封じ込められる。贖いの行いをする。
許されて還る。の流れがある。
水滸伝の場合は最初は洪大尉が穴に封じ込められた魔物を解放することから始まる。


一コマ目に描かれているのは
「フランダースの犬」のネロとパトラッシュ。
アンデルセン童話の「幸福の王子」より像の王子と燕である。
いずれも悲惨な最期だが天に召されるということは救いなのだろう。
ここのところは著しく宗教的な幸福論だ。
死=不幸なのか考えてみる必要がありそうだ。

 1コマ目の絵に惑星と北斗七星が描かれているので不思議に思われたに違いない。
そうこれはグノーシス派の宇宙観を描いてみた。
「ポイマンドレース」からの抽出だが,詳細は「ヘルメス文書」にて。

 トーラーではエバが禁じられた木の実を食べエデンから追放になる。
作品022
 梁山泊軍は江州に攻め込んだ頃はまだまだ小さな山賊集団だったが、その後強大な軍隊に
変貌してきている。
その最初は多分祝家荘戦いだろう。
その後、高唐州戦、呼延灼戦、青州戦、北京戦、関勝戦、二次北京戦、三次北京戦、
曽頭戦、二次曽頭戦、と戦争戦争の連続で兵馬は強化されていく。
はじめは単なる強盗程度の集団だったが組織化がおしはかられ、
しだいにその力は政府軍と同等の軍事力をもつに至るまでになった。。
 それが政府主力である「禁軍」との戦いである。
童貫戦では政府軍10万、つづいて高イ求戦では13万の精鋭でせめてきたが、これを撃退した。
こうなるとその軍事力は宋国以上といえる。

 ここで問題なのが運営費なのだが、
食糧なんかを例にとってみると、最初は少人数だから山賊らしく通行人を襲ったり
周囲の村を脅してせしめるといった方法が有効だが、規模が大きくなると
府を襲わなくてはたちゆかない。
いかに豪傑ぞろいだったとしても飯がくえなかったら1ヶ月もすれば死んでしまうので、
食糧確保は絶対命題なのである。
そういう意味で北京戦などは廬俊義がとらわれたとかの事件の有無に関係なく
必然的に行われる戦いであったといえる。
その捻出方法は規模が大きくなっても「略奪」であることは変わりない。
まあ、人民の財を正当性をつけて強奪するのが政府なので宋朝政府そのものが
でっかい山賊組織であるといえなくはない。
またそもそも軍隊というものは世界史でみると戦いにいったついでに現地住民の物資を
強奪しまくるのが常識である。
だから山賊の梁山泊軍が正規軍らしく振る舞ってもなんら変なところはないのである。
というわけで梁山泊は生産交易などの経済活動によつて組織を維持していなかった。
その運営方法は「強奪」である。
もっとも生産、流通活動をやったとしても宋朝が絶対許さなかったであろうが。

 水滸伝本文でも北京戦のあと城の財貨、物資を持ち去たことが記述されている。
住民に食糧を分けたということで義賊である証をたてているが政府という盗人から強奪
した盗人であることはかわりない。
このとき多分相当の資材を手に入れたものと推測される。
それは政府軍の童貫戦のとき、梁山泊軍をみた童貫が軍隊らしい装備について驚いた
様子で分かる。
現代でいうとやくざの組を取りつぶすため自衛隊1個師団で乗り込んだら
やくざの奴らが戦車などの火器、装備を備えていたというところか。
つまり、この戦いで華々しく登場する梁山泊軍は北京戦で得た武具でまかなわれたもので
あると考えられる。
その時初めて正装姿で全軍登場するので以前の戦いで得たと判断して間違いない。
もちろん官軍で梁山泊に入山したものたちはその装備をそのまま使用していたであろうが。

 ちなみに上記の漫画では東平府を食糧目当てだけの表現があったが
本当は首領後継決戦だったことをお断りしよう。

 「明日は炉に投げ入れられる」とは山上の垂訓の一節
「何を食べようか何を飲もうかと自分の命のことで思い煩い、
何を着ようかと自分の体のことで思い煩うな。
命は食物に勝り体は着物に勝るではないか。・・・・」以下省略。
マタイ6章25−34

 「倉廩満ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る。」とは斉の宰相管仲の言葉である。
管仲は諸葛亮孔明が尊敬した宰相で、いたづらに蜀を疲弊させた孔明と違い
斉を盟主国家に仕立てた偉大な宰相である。
その政策は商業振興による富国強兵である。
彼は「管子」治国編にて「国を治める道はまず民を裕福にするこどである。民が豊かになると
治めやすいし、貧しければ治めにくい」と述べている。
「管子」76編は膨大過ぎるので有名な経言九編の牧民編の一部が一般によく知られている。
「一国の統治者は・・・経済を豊かにしなくてはならない。
物が豊富な国にはどんな遠くからも人は集まり、開発が進んだ国から逃げ出す者はいない。
暮らしに困窮するものに礼儀をといてなんになろう、生活にゆとりがあれば道徳は高まるのだ。
・・・・生活が安定すると民は礼、義、廉、恥の徳を守り・・・・・支配者たる者経済を重視
しなくてはならない。・・・・」

 李応だが食糧の管理担当である。
荒くれ者の集団では公平な食糧の分配はなかなか難しいのであろう。


 董平は東平府の武将である。
彼がなんで五虎将に選ばれたのか不明。
作品023
公孫勝と樊端は魔法使いである。
水滸伝がほとんど戦記ものであるにかかわらず、ファンタジーぽいのはこの二人の存在ゆえんだ。
敵方に強力な魔法使いが出てくるので欠かせない存在である。
 とはいえ西洋のファンタジーみたいにオークやゴブリンはたまたグルフィンなどは
登場しないので、お話は全体的に現実指向である。
特殊能力としては他に神行法を使用する戴宗がいるが、こちらはマラソン選手並の速度なので
現実との違和感は小さい。
雲に乗っかって飛行とはわけが違うし、現実の範囲内ではないのか。

 そもそも公孫勝はあだ名が雲に入る竜なので
飛行術が得意なはずだが、お見かけしたことはなかったのでいかにお話が空想に飛躍する
のを抑えていたかがわかる。
水滸伝そのものがアウトロー物語なのであまり幻想的なお話は馴染まないため作品中に
登場する術を少なくしたのであろうか。
仮にゴーレムを大量に魔法の力で創造し禁軍を倒してもそれでは英雄豪傑の話とはならない
のでその事情はわかる。

 逆になんでメンバーの中に魔法使いなるものを登場させたのかがよく分からない。
仏教とのかね合いからだろうか。
仏教では魯智深と武松だから、道教では公孫勝と樊端になったのか。

 公孫勝と樊端の実力は大きな差があるようで魔法の主役は公孫勝といえる。
樊端は公孫勝の引き立て役として存在するといえるかもしれない。
樊端が敗れ、公孫勝が勝つとなると頼りなる先生だと株はあがるというものだ。

こう述べると樊端が可哀想に思えるが実はそうでなはく両者は平等なのである。
上記の評価は仙術だけに限った評価なのだが両者には別の評価要素がある。
そう樊端は強力な李逵グループの歩兵の頭領なのである。
従って乱戦で歩兵軍突入で微弱ながら李逵歩兵軍に幻術を加えたらそれは恐ろしい戦力だ。
残念ながら方臘戦では公孫勝が仲間から外れたので代わりをさせられ力不足だったが
歩兵軍としての戦闘力を加算すると総合では同等なのではないか。

 公孫勝の場合は遼戦では朱武の陣形とミックスされて幻術が利用させているが
主要な立ち回りは対魔法使いの用心棒てので仙術に特化しているのがわかる。
もともと武術が好きなようで樊端同様に戦闘員として活躍してもいいはずだが
(梁山泊では鍛冶屋さんといえど相当の戦闘能力を持つ)肉体労働はしていないので
多分武術は弱いに違いない。
登場時点では列車強盗みたいな存在であり仙人らしくなく、政治とかに非常に興味があった
と思える。


 道教とは現世御利益的自然宗教で、不老長寿を目的とした呪術的宗教である。
民間信仰をベースにして神仙思想が中核となっていろんなものが取り入れられ
完成された。
教義的部分は道家の思想だが、そのほか易、陰陽五行、医学、星占、ト筮、など
雑多な知識が取り入れられ仏教的な組織となっている。
教団として有名なのは、太平道、五斗米道、新天師道、全真教、真大道教、太一教である。
宋の皇帝もこよなく道教を愛していたのだが、公孫勝の修行した道教はなんなのか
不明だ。
二仙山が北にあることから、北宋の次の金代に興った全真教ではないかと推測するのだが
どうだろうか。
ちなみに公孫勝は強奪事件をおこしたお尋ね者なのに、なんで梁山泊を飛び出しても
官軍に捕まらなかったのはなんでだろうかと思っていたら、二仙山て遼国内にある
ではないですか。外国では宋も手出しはできないはずだ。

 鵬は鳥というより怪獣である。
文献によると背、数千里とある。
春秋戦国時代の一里は 0.405kmなので千里といえば405km
数千里とういうからには最低でも二千里はあるはず
となると全長810kmになる。
かなりでっかい。ラドン真っ青。
さらにすごいのが鳥に変化するまえが何千里の全長の魚なもんで生物の範疇を
逸脱している。モスラだって幼虫なのに。
鵬には日本に着陸して欲しくないものだ。
作品024
安道全は医者である。
代々医術が伝承されていたというから、医家のサラブレッドだったのかもしれない。
焦挺も代々相撲を家業にしていて似てるが、安道全のほうが重宝である。
運動はあまりしないようで一寸歩くとへばってしまうらしい。
梁山泊では人間の治療は安道全、動物は皇甫端が担当していた。
方臘討伐のさい安道全は召還され離脱したため多くの頭領が病死することになるのだが
梁山泊軍を整理するのに彼がどんどん治療したんでは邪魔なだけなので、作者に左遷された
のである。
 名医との評判なので頭が固くがちがちの論理派と思いきや、以外と人間らしい
面もあり、娼妓の李功奴にめろめろだったようだ。
どこかの小説では医術マニアの安道全が登場するが、原作の安道全のほうがよろしい。
 名医安道全の患者としての女性を理知的に見る目と、情欲の対象としての女性を
見る目はどこで切り替わっているのか興味深いところである。
もっとも梁山泊では女性は少ないだろうから不満があったことだろう。
そのためか、田虎討伐のさい敵地に乗り込み活躍したりしたのも不満解消のためか。
臆病な医者ではこんなことしないはずだから、以外と熱血漢の可能性もあり。
安道全はヒューマニティ型人間だったかもしれない。

 これに対し孫二娘は以外と合理的人間といえるのかもしれない。

 安道全は名医というふれ込みだが、本当の中国の名医といえば「扁鵲」と「華佗」であろう。
「扁鵲」は春秋戦国時代の医者で史記「扁鵲倉公伝」に記述されている。
簡単に言うと超能力者で透視能力をもった医者なんである。
患者をみると一目で内臓の異変がわかったというからたいしたもんだ。
現代医学の機器はだいぶそのレベルまで近づいているが、どうなんだろうか。
「華佗」は後漢書に登場する医者だが多方面の医術に通じていたが得意なのが
麻酔による切開手術だったようだ。
ブラックジャックも真っ青なのかどうかは不明。
また針灸術の開発者といわれているが、本当かな?

上記の4コマ目の図は中国医術の基本思想五行相生と相克である。
漢方では金、水、木、火、土の5元素を下敷きにいろんな論理を展開する。
西洋医学に慣れ親しんだ我々にはこじつけがましく見えるが、大まじめだ。
というよりこのような架空の複数元素をもとに展開していくのは世界的にみても
一般的なほうほうであった。
ユナニ医学、アーユルベーダ医学も例外ではない。
中世の西洋の医学では12星座が展開されている。
で、安道全の頭の中ではこの知識がひしめいていたのであろう。
北宋の時代医学書の出版がかなりなされたらしいが、安道全が名医の名を得たのは
このような学術書によるものでなく医者の家に代々伝わる秘伝の術をもっていた
ためではないだろうか。
作品025
 梁山泊は清風山の合流、続いて江州メンバーの合流あたりはまだ軍事的に弱い組織だが、
その後の祝家荘戦あたりから戦える集団と変化していく。
このあたりから宋江が前線を指揮するようになり次第に梁山泊の中心になっていく。
楊林などは志願して梁山泊入山を望んだ人物であり、このころになると梁山泊の名は知れ渡った
ようであり、多くの仲間が自発的に集合してくるようになった。
技術者やいろんな能力を持つ者が集まるようになり、メンバーも増えるようになる。
これは頭領クラスだけでなく一般兵士クラスも増加していたと思われる。
こうして梁山泊は大きな山賊集団と拡大していった。

 さてこのような集団がなんで梁山泊を目指したかというと単に役人に追われている
理由だけでなく多分「飯が食える」というのが一番の理由だからではないだろうか。

 このような梁山泊の拡大路線をみるに伝統的な皇帝を目指すコースに乗っかっていたといえる。
すなわち農村部の不満をベースにした盗賊活動から革命組織への変化である。
中国では山賊からスタートした支配者が多い。
最初は山賊そのものだが組織が拡大してくると国民うけをねらった行動をやり始め
どんどん変質して最後は皇帝なんてなってしまう。
惜しいかな梁山泊はその路線を確実のものと出来なかった。

唐斌は楊林たちと同じように梁山泊入山を志していたが果たせなかった。
彼の所在地が梁山泊から遠かったためか、しかたなく田虎の配下になっていた。
108人のメンバーでもおかしくなかった。

種田山頭火
 裕福な家の生まれで生活力ゼロ、後禅僧となる。
 全文は
分け入っても分け入っても青い山
雨降るふるさとは裸足で歩く
振り返らない道急ぐ
すすきの光遮るものなし
岩陰まさしく水が湧いている
ここで泊まろうつくつくぼうし
作品026
 花栄は梁山泊随一の弓の使い手である。
宋江とは古いつきあいで、宋江が閻婆惜を殺害し、柴進の家に潜んだ後向かったのが
花栄のもとだった。
逃亡者の宋江を屋敷に迎えなかったらキャリアの武官として安泰な人生を送ることが
できたであろうが、宋江を助けるためお尋ね者の世界に足を踏み込むことになった。
その後、得意の弓で数々の活躍を見せた。
他の好漢と違って最後は宋江を慕い殉死した。
序列は五虎将4人の下ではあるが宋江に一番近い武人であった。

 かつて梁山泊に身を寄せたとき晁蓋が花栄の弓の腕を疑ったので、腕の見せ所と
雁を射抜いてみんなを感嘆させたが、丁度宋江が実家に帰って行ったので
宋江から注意されることはなかった。
後日、燕青が雁を射抜くと宋江が説教した。
彼によれば雁は仁義礼智信の5常をそなえている。雁はわれわれ兄弟と同じような者で
それを射たということは兄弟を亡くしたも同然だ。ということだが。
この時花栄は昔宋江が不在で良かったなあなんて思っていたことだろう。

 龍万春(ホウの字は本当は广+龍)は方臘の武将である。
上記漫画では龍万春は雁を射殺しているが、
実際の戦いでは史進、石秀、陳達、楊春、李忠、薛永を射殺した。
正確には史進は確実にその手にかけている。
花栄になみなみならにライバル心があり自分の弓を自慢していた。
しかし対戦相手は廬俊義軍であり花栄は宋江本軍にいるため対戦はできなかった。
対戦していたら多分作者はこれを機会に花栄を相打ちにしかねないので
遭遇しなくてよかったのかもしれない。
作品027
 李雲のあだ名は青眼虎である。
異国人みたいだと特徴が述べられている。
とくに青い眼が印象的なのであろう、それがあだ名となっている。
上の漫画では眉は省略したが本当は眉は濃いらしい。
 この李雲は謎がある。
李雲の弟子である朱富が兄の朱貴に語るところでは
師匠は30人50人束になっても寄りつけはしないほど強いと述べている。
弟子なので師匠を過大評価してしまう恐れはあるが、それは本当らしい。
事実、李逵との対戦ではいい勝負をしている。
豪傑の都頭のはずなのだが、何故か梁山泊では家屋の建築修理を任された。
武術の腕前でなく技能が評価されたのである。
しかに不思議なのが李雲の紹介ではそのような技術者であった形跡がないのは
どういうわけなのだろうか。

この漫画では彼の風貌と技術に合わせて西洋の秘密結社を採用したが、
西洋の秘密組織は有名どころでは「聖堂騎士団」「薔薇十字団」「フリーメーソン」
「聖フェーメ団」「啓明結社」「炭焼党」「「ク、クラックス、クラン」なんかがある。
中世において教会の激しい弾圧下にあって異端的教義の信奉者が地下運動を
継続させていた。十字軍の役割が大きく影響を与えているが、秘密結社なので
詳細は不明だ。
神学的論争から外れたものとしてギルド(協同組合)があげられる。
このギルド中最高なのは「石工」のギルドであった。
石工は建築技術者であり古代から伝承された技を持っていた。
彼らは古代秘儀の継承者である。
ギルドには入社式などの儀式が行われていた。
この組合から有名なフリーメーソンが発生している。
16世紀末のイギリスにて組織存続の危機から建築業者以外の者の
入会が認められるようになった。
メーソンの象徴として二等辺三角形、星形、定規とコンパスがある。
上の漫画はこの秘密結社の象徴を描いたが、北宋時代の李雲が入会なんて
年代的に不可能なのは承知のことだ。
作品028
 水滸伝のお話の中心は遼との戦いであり、ここで異民族に強い中国軍を表現することが
最大の目的である。
当然中国側から異民族にやられたなどの戦死者がでてはならず、
被害はなく大成功で遠征を終了させねばならなかった。
ところがこのことが、遼遠征の面白みを削ぐことになった。
これに対し方臘討伐ではどんどん戦死者がでるが、同じ中国人どうしだったので
問題がなく、結果的にいきいきとした話になった。
本来なら遼遠征で英雄たちが生き生きと画かれるべきなのだが、あまりにも綺麗な展開に
現実ばばれしている感じがいなめない。

 この遼遠征で梁山泊軍が受けた唯一最大の被害は、張清が遼の武将天山勇に一点油という矢を
使う弩によって首を射抜かれたことである。
ここで張清は安道全の治療により命が助かるが、本来ならば死んでいるはずである。
何故張清だけがこんな早期退場ということになったかというと、
彼が結構活躍しそうだからではないだろうか。
張清は最後あたりに登場して梁山泊の武将がほとんど勢揃いしていたのにかかわらず
相当苦しめた。へたをすれば遼討伐で一番の活躍をしそうな感じである。
ゆえに作者によって退場させられたのではないだろうか。

 上記魯智深が述べているのは仏教の「毒矢の譬え」である。
思弁によって安らぎに到達はできない、日々の生活のあり方を正す以外ないのだ
ということを毒矢の譬えは述べている。

 仏教は良く知られているがその教義について知る者はすくない。
その生活態度はストア哲学的であり、教義は実存主義的である。
存在論的なものにはなんにも説かず、実践主体である。
  仏教の求めたものは「安らぎ」であり「五感六根に翻弄されない自分自身を作るには
どうしたらいいか」の一点である。
故に世界観としては「諸法無我」と「諸行無常」の二点のみであり。
日々の生活のありかたとして「中道」を要求するのである。
簡単に述べると思想基盤はバラモン教なのだが、正しい心と行いを実践することを力説したものと
いえる。
作品029
 水滸伝の物語の中心は遼遠征だが、一番始めに起こるのは陳橋駅の事件である。
ここで項充、李袞の部下が私欲の役人を殺めてしまうのである。
山賊でなく官軍となったからには、泣いて馬謖を斬るではないが軍律に従って処分しなくてはならなかったのである。
しかし、改めて思うにはなんでわざわざ陳橋駅の事件を画かなくてはならなかったのかということだ。
上記の漫画に画いたようにこの場所は宋朝には意味が深いところなのである。
すなわち後周の近衛総司令趙匡胤は水滸伝の宋江と同じように遼征伐に出撃し、都開封の近く
東北20キロにある陳橋駅に泊まった。
この時幼帝に不安を持つ武将達がむりやり趙匡胤に皇帝の服である黄袍を着せて祭り上げたのである。
こうして帝の位を禅譲され宋朝がスタートしたのである。
以降、諸国を平定し広大で中央集権が行き渡った世界を完成させるのであったが。
その代わりに本来の目的である遼討伐は完遂されなかったのである。
すなわち、梁山泊の時代宋朝太祖がなしえなかった遼討伐を代わりにこの話で達成しようとしたのである。
そんなわけで梁山泊の遠征のスタート地点としては陳橋駅がぴったりなのかもしれない。
全ては陳橋駅から始まる。

 ここで阮小七を登場させたが、本当はこの時水軍は軍船で進軍中なので一緒にはいないはずなのだ。
しかし皇帝の着物だったら、彼が梁山泊一番の着こなしをやるので登場させた。
作品030
梁山泊軍は遼の賀統軍と遭遇。
賀重宝は妖術を使い梁山泊軍を惑わすが公孫勝により術は破られる。
しかし罠にかかって廬俊義部隊は青石ヨクに封じ込まれ絶対絶命。
なにせ谷のなかに追い込まれ補給なく入り口には敵がいる
しかも谷は高い山で囲まれていて逃げ場はなく自力脱出は不可能だ。
ここで廬俊義は白勝に山を越え本隊に窮地を伝達せんと布にくるんで放った。
白勝は布にくるまれ山から転げ落ち
丁度、麓では探索にきていた段景住、石勇がいてこれを発見し白勝は使命を果たすことが出来た。
こうして晁蓋軍は救助されるのである。
 白勝命がけの救出劇といえるが
それにしても布にくるんで山を転げ降りて大丈夫だったとは信じられない。
骨折とか大けがしそうなものだが。どうなんだろう。
白勝は晁蓋とともに結構早くに登場するが見せ場といえばこの山を転げ落ちるシーンだろう。
あだ名が白日鼠なんでぴったりの役回りだった。
108人のメンバーを小者まで活躍させるのは作者は大変だったであろう。

漫画の玉にはギリシャ文字が画かれているが、これはSisyphusだ。
シーシュポスはギリシャ神話に登場する人物である。
彼はコリントスの創立者で世界で一番狡智に長けていたらしい。
その証拠にヘルメースの子アウトリュコスは父親の悪知恵を受け継いでいたが
シーシュポスは知恵比べで勝っている。
また死を司る神タナトスが迎えにきたのをだまして鎖で縛り付け押し込めた。
タナトスはやっとヘルメスに助けられ使命を忘れて逃げ帰った。
さらに死期が迫ったときハーデスに対し妻を叱りに戻ってくると欺き、そのまま長寿をまっとう
してしまった。
など神々をてだまにとっている。こんな人物だったので罰がきついものとなった。
タルタルスの坂道で巨石を頂上まで押し上げさせられたのである。
しかも意地悪なのが、ついたと思いきや坂下まで石は転げ落ちこれを永遠に繰り返すのである。
このシーシュポスがなにを象徴するのかは各自の解釈であるが、ここでは
表層的知識への驕りと、ゆえの呪縛の苦しみとでも理解しておこう。
作品031
馬霊は田虎配下の武将である。
公孫勝、張清、戴宗を足して3で割った感じである。
妖術を使い、なにか魔力のかかったようなものを投げるらしい。
これにより雷横、鄭天寿、楊雄、石秀、焦挺、鄒淵、鄒潤、丁得孫、キョウ旺、石勇が手傷を
負った。
しかし、公孫勝に簡単に術は破られ逃走した。
この逃走がすごくて、戴宗と同じ神行法を使用し風火の二輪に乗り一日千里を走るのである。
梁山泊で一番の走者戴宗も追いつくことが出来なかった。
ところが異次元に迷い込んでいた魯智深が帰還し、これを捕らえた。
それにしても馬霊は前を向いて走っていなかったのか、そそっかしいかぎりである。
また魯智深も相変わらず方向音痴は凄まじい。

 馬霊は戦闘状態になると妖眼が額に現れ三目小僧になるらしい。
するてーと馬霊はインド系の体系をもった妖術使いなのか?
ラーヤ・ヨーガの修行クンダリニーを連想させる。
すなわち身体中心線に並ぶチャクラを覚醒させ身体的なもの精神的なものが強化され、
サイキックパワーをもつにいたるらしい。
第三の目が開くと霊的な洞察力が開けてくるとなっている。
ただしヨーガは本当は超自然的能力は副産物的なものであり
ハタ・ヨーガの最初にその目的は書かれているように「精神的作用を死滅させることがヨーガ
の使命なのである」。
真我の発見こそがインド哲学の中心テーマなのである。

 魯智深の持っている武器は昔は変な形をして邪魔じゃないのかなと思っていたが
理由が分かると坊主の道具だねと納得した。
あれは、坊主が修行の旅をしていると行き倒れの人がごろごろいて、あまりにも
可哀想だから穴を掘って埋めてあげるために、あんな形をしているんだそうだ。
まあ中国大陸には死体がいっぱい転がっていたんだろうね。
つまり武器というより穴掘りのスコップなんであろ。
なんて慈悲深い道具なんだろうね。

 非想非非想処とは精神的安らぎと統一感の程度を表すもので、最良の状態のことである。
段階を説明すると
1,欲界。感覚欲求が強い段階で最低の状態。
2,色界 。感覚的欲はないが物質的こだわりがある段階。中は四禅段階に区分される。
3,無色界。純粋精神状態。四段階あり、空無辺処、識無辺処、無所有処、
  非想非非想処となる。
定の段階を述べたが、この状態は一定の場所に座して精神状態を保っても意味がない。

まあこんな訳で魯智深は異次元から抜け出られ、馬霊を捕らえることが出来たのである。
何故論理の馬霊を捕らえることが出来たかって。なんでだろうね。
作品032
 水滸伝は任侠集団がお国に替わって異民族のくせに皇帝を名乗る遼を成敗する話である。
さてこの北伐の物語で二番目に頭を悩ますのが、進軍ルートである。
都市の攻略順は壇州、薊州、霸州、幽州、燕京なのだが、地図を広げるとなかなか悩ましい。
なんと言っても最初の攻略地が敵地深くの檀州なのがいただけない。
なんでこんな空挺部隊のような進軍なのか、危険きわまりない。
敵の退路を最初に絶っておくということなのか。その前の自分の退路がないではないか。
しかもこんな懐深くに遼が進軍させるはずない。方臘の部の進軍コースと比較してもかなり無茶。
ある解説では作者がその地理が分からなかったためとあるが、だとすれば納得いくものである。
遼の州の所在地は実際の所在地と切り離して考えてみるべきなのかもしれない。

 作品16番で解説したように、この遼討伐の最後は壇淵の和議(本当は壇はさんずい)を反対に
遼に同じように仕返して終わるので、この遼討伐は燕雲16州の回復のみならず
壇淵の屈辱の挽回がメインの話なのである。
だとするなら最後に和議を結ばせて終わるのなら、その話は何処から始まるべきか。
それは実史の壇淵の和議が結ばれた宋国の開封の近く壇州から始まるべきものであろう。
実史の戦いを前半とすれは、梁山泊の遼の戦いはそれを受けての後半の戦いとなる。

 実史をもう一度おさらいすると、燕雲十六州を譲り受けたのに、宋国は返せ返せとしつこく
食い下がるので、この問題をはっきりさせんと遼は大軍で宋を攻めた。
宋の歩兵は遼の敵ではなく、またたくまに黄河の壇州(せんしゅう)まで進行した。
壇州の城は黄河の岸辺にあり、ここをわたると宋の都開封まですぐである。
これには宋の皇帝真宗はビビッてしまった。
対等の条約を締結するなど権威高い中国人は屈辱だが、背に腹はかえられないので
やもうえず両国は「壇淵の和約」を結ぶことになった。
以降両国の平和は保たれ国内は人口も増え産業も盛んになった。

 ここまでが実史だが、宋国の栄光を取り戻さんと陳橋駅を出発し梁山泊軍が
最初に向かった先は檀州(たんしゅう)である。
原作では遼の国境に近い州らしいが、本当は実史の壇州(せんしゅう)なのではないか。
しかもどちらも水辺の近くの城であり、名称もにている。
ここで梁山泊の水軍も活躍し反撃の狼煙をあげる。
以降は平原の戦いで水軍はお役目終了。
破竹の勢いで遼の各州を陥落させ遼の都燕京まで進軍し、大いに遼国を震え上がらせ
和議をするのである。

 多くの水滸ファンの方のははもう一歩で遼を亡ぼさなかったのは実史に合わせるため
という意見もおありでしょうが、壇州の仕返しと言う意味では任務を完遂したのではないでしょうか。
水滸の遼討伐のお話は実史のリバースの物語なのです。

「千匹の猫、一万羽の燕」とは
ジンギスカンが攻城戦でもちいた詭計である。
西夏の大都市ウーロハイを攻略したとき、城を取り囲み敵の司令官に猫千匹、燕一万羽
をくれたら撤退すると提案した。西夏側はそれらのものを贈り城を固めた。
ところがモンゴル軍は麻屑を猫と燕に取り付け火をつけた、すると猫と燕は巣に飛び帰り
火の手があがりモンゴル軍が強襲して陥落させた。
しかし本当なのかな?
作品033
 梁山泊のメンバーが属した国は宋国だが。
宋の太祖趙匡胤が後周世宗より皇帝の位を禅譲された(本当は強奪かな)ことはno29で述べた。
水滸伝ではこの後周の嫡流の子孫として柴進という人物を登場させている。
ここに登場する柴進は戦国時代の孟嘗君(もうしょうくん)をモデルにしたみたいな人物である。
好漢と交わりを結ぶのを好み色客を多く抱えており、結構初期の段階で登場する。
林冲や宋江等を助けたこともあり、高唐州の叔父の事件が発生し災難にみまわれ
(李逵が原因かな)たが好漢との交わりのおかげか梁山泊に救出された。
以降梁山泊のメンバーとなる。

 柴進は家柄もそうなのだが振る舞いや学識に高貴な気風を漂わせるので非常に尊敬されている。
しかしアウトローたちがなんでかのように柴進に尊敬の眼差しを向けるのか不思議だ。
例えばロマノフ王朝を根絶したレーニンなんかはまるで反対の態度だ。
この眼差しは日本の皇室に向ける国民の反応と同等のものかもしれない。
皇族、王族、貴族に不思議なことにあこがれを抱いている。

 柴進の魅力は交換理論で考えるべきなのか。
要するに人は報酬(reward)の得られる他者に心惹かれるということだ。
この理論では人は比較水準を上回れば好感を抱くらしい。
報償的価値は各時代に社規範化し、(皇族、貴族など)そのようなものに近づくことは自己を高める
こととなり高い報酬を得ることになる。
もっと分かりやすい説明では、有名芸能人には親戚がやたらと多くなるというわけ。
方臘の者たちが社会的評価の高い者を手元に置き、自己の存在を高めようとせんとしたことは
当時の社会的価値観のうえに乗っかった反乱軍であったといえる。
そういう意味で方臘も梁山泊も同質の価値観の中にあったのだろう。

 梁山泊の変質についてはno1,no12で述べたように変化が見られるが、実は個人レベルでも
同様のことが発生している。
例えば、安道全だが登場したてのころは、びくびくしていて血をみるだけで卒倒しそうな感じだったが
田虎討伐では全霊と名乗り敵地に潜入し、なかなか勇気があるようになった。
燕青についても、初期は廬俊義がいなくなっただけで乞食になってしまうようなひ弱な感じだが、
108人集合後はだんだん大胆になり、一人前の男になっていった。
柴進についても同様の心理的変化があり燕青を二人して方臘に潜入するという危険なことを
するようになった。

 かれらの心の変化はなんだろうか。
これは梁山泊構成員の同質化が進行したためであると推察される。
第一に同類が集まってきたということ、例えば柴進などは毛並みがよくて山賊には無縁の存在の
ように思えるが実は食客や好漢との交わりを好み非常に任侠的なものに憧れがあると思われる。
第二に事件に遭遇し考え方や行動傾向が似てくること。
梁山泊は官軍に襲われ必死に防戦し、その後、遼、田虎、王慶、方臘と転戦し構成員は現実に
直面し組織として生存するため価値観を共有し始めた。
第三に梁山泊は晁蓋時代反政府的なスローガンを掲げていたものの、本質的に官軍から生き延びる
程度のののであったが、宋江時代軍人を構成員にくわえ目的を宋国防衛という目的を賦与する
ことにより、目的が明確化し、完遂、存続のためにメンバーの同質化が進行した。
と考えられる。
これが英雄的行動をするかれらの理由である。
作品034
 梁山泊水軍は陸上部隊とは別行動のためか、陸戦部隊とは違った梁山泊初期の感覚を
保ち続けているようである。
軍人出が多い陸軍はなんだかんだといっても国家に対するこだわりや帰属の念をもっており。
陸軍内部に不満な者がいるとしてもそれは宋江の指導のもと抑圧されているといえる。
それに対して水軍は自由な発想をしているようである。
それが如実に現れるのは王慶討伐のあと、政府の態度に不満を持った水軍の諸将が
呉用に談判をすることでもわかる。
呉用はそれとなく宋江に話を持ち込んだが聞き入られなかった。
後に李俊は外国に仲間とともに旅だったが、この感覚は軍人でなかったから出来たものだった
のであろう。
海援隊みたいなのりの連中だったんだろうか。

 ところで水滸伝は明らかに北方民族を意識したものであることはご承知のことでしょう。
梁山泊の水軍には武官はいません。
水滸伝の読者としてはここのところが残念で、はではでな水上戦を読みたかったのですが、
叶いません。
例えば王慶討伐のあと梁山泊軍は長江を下って方臘の江南に向かう。
ところが南京を制圧していた方臘は長江を防衛戦として大船団の水軍で待ちかまえていた。
ここに梁山泊軍も大型船の水軍を組織し両軍長江の制圧を目指して船団の戦いが
行われる。
方臘軍には元宋水軍の将が船団の陣形と組織運用し、梁山泊軍も陣形マニアの
朱武と運用上手の李俊が対応する。
方臘軍は火矢と突撃を仕掛けて来るが、梁山泊軍は凌振が船団に砲筒をとりつけ
砲撃によりうち破る。(うーん丁字戦法でも採用しますかな)
同様に杭州でもいきたいところだが、原作では確か散々な目に会っていました。
このように大艦隊どうしの水上戦は面白いと思うのだがどうだろう。
作品035
 遼討伐編の最大の問題は強敵遼をどうやって倒すかと言うことだ。
いわばサッカーのワールドカップでいかにブラジルを倒すかというのと同質の悩みだ。

 まず梁山泊お得意の陣形九宮八卦陣だが配置を見る限り円形陣だ。
この陣形は守備的な陣形でどの方向からの攻撃に対応できるものである。
作者は遼との戦いを想定して梁山泊軍を作成したので兵の構成も陣形も
騎馬民族を想定したものとなっているようだ。
北方民族は移動手段を馬を利用し必然的に戦闘手段も馬を用いて行う。
機動力に優れ集中と分散がおこないやすい。
歩兵軍が良くやられるパターンとしては囲い込まれ殲滅させられてしまうことだが
その回り込みを意識してか梁山泊の陣形は円形陣となっているようだ。
しかしこの陣形は陣が平原に留まるときなされるもので戦闘が始まって
形作るべきものだろうか。疑問だ。
せっかくの呼延灼部隊が(展開によっては右翼、左翼に投入されるのだろうが)
後背部でくすぶっているのは残念だ。
あるいは山賊集団なので戦場離脱する部隊を背後から逃がさないために
強い部隊を背後においているのかもしれない。
排水の陣の川の役割だったりして。
呼延灼はどうも重騎兵部隊でのようでこの部隊は突撃を得意とするが重い鎧
で人馬とも覆われているので速度が遅い、従ってこのような部隊は敵との
距離が近い前面に配置すべきである。

 さらに問題なのが秦明と索超が前面にいることである。
騎馬民族は各個誘い込み包囲殲滅を得意とする。
例えばポーランドで欧州連合軍とモンゴル軍が激突した「リーグニッツの会戦」
で説明すると、モンゴル軍の侵攻に対しヨーロッパ連合は4万の兵を
梯団編成をしモンゴル軍を第一層から5層までぶつからせ兵を消耗させ
最後は重騎兵の一撃で葬り去ろうとした。
しかしこれに対しモンゴル軍は第一層にわざと敗走しこれにつられて追っかけ
きたヨーロッパ軍を囲い込み殲滅した。
ヨーロッパ軍は各層が切り離され次から次へ側面に回り込まれ崩されていく。
モンゴル軍は数15万と優勢であるにもかかわらず、相手を引きずり出し
囲い込み各個撃破を繰り返すのである。
かくしてヨーロッパ騎士団の連合は全滅したのである。
このように梁山泊の九宮八卦の陣といえども、もし怒りやすい秦明
手柄に走りやすい索超がおびき出されたら、もともと前方が薄く四方に兵を
配備した陣形だから前面ががら空きになりかねない。
ゆえにこの陣形には賛同できない。

さて騎兵とはなにか。現代に置き換えるとその意味性がわかるだろう。
つまり機動力からいうと歩兵は戦車、騎兵は航空機である。
敵が航空機で来ているのに戦車で対抗する馬鹿はいないだろう。
つまり騎兵には騎兵で対抗しなくてはならない。
そしてここが重要だが騎兵のブロックは歩兵と混合ではいけないということだ。
どうも水滸伝の戦闘を読むと歩兵の中に秦明とか董平とかが騎兵として
混合しているように思えるのだ。
リーグニッツの会戦でもう一度説明すると、ヨーロッパの騎士団はそんなに
弱かったのかということだが、かれらの失敗の理由の一つが従者や歩兵を
引き連れていたことである。これではせっかくの機動力がなくなってしまう。
騎兵の利点の高速で散開、集中ができないのである。
いわば戦車の進軍速度に航空機があわせるみたいなばかげたことなのである。
かくして上記の漫画は純粋の騎兵部隊となっている。
しかも弓騎兵で攪乱、槍戟騎兵により粉砕する。
こんなことが普段馬に乗らない漢民族が出来るのかとの質問は痛いが。
そうでもしないと遼には勝たないのです。
弓の攻撃だけで騎兵を防げるとおもったら大間違い。
航空戦で対抗できなかったら戦車部隊は安心して進行できないでしょう。
そんなわけで上記の漫画は編成を変えてしまっている。

 戴宗の神行法は酒と肉を食べると足が止まらなくなるらしい。
酒だと思いこんでいたので漫画では酒を飲んだと書いたが、肉がもっと
悪いらしい。
しかも牛肉が特にいかんらしい。
どうりでみんな吉野屋に走っていっちゃいわけだ。止まらないのね。
作品036
王文斌は八十万禁軍槍棒の教頭で文武両道にぬきんでていて朝廷の誰からも尊敬されていた
というからかなりの人物らしい。
梁山泊軍が遼の太乙混天象の陣に攻めあぐねていたときやって来て、果敢に勝負をいどんだが
敵将曲利出清にうち倒されてしまう。
最後の決戦の犠牲役を演じるることになったが実力的には林冲と同等の力量があった
のではないだろうか。
善人は早死にするのかも。

 さて実際のところ、「遼」と「宋」の軍事能力はどうだったのか実史にて見てみよう。
宋時代、遼の東に金が独立した。宋は燕雲16州を回復せんと馬政という使者を金につかわし
密かに同盟を結び遼を挟撃することとした。
金は間髪を入れず遼を撃ち破った。
宋国も軍事行動を起こそうとしたがあいにく南方で方臘が反乱を起こし四姦の一人として
水滸伝に登場する宦官の童貫が15万の軍勢を率いて鎮圧にあたったが3年の期間を要した。
こう期間が長くなると遼のおおかたは金に征服されてしまって数州を残すのみとなった。
金軍は約束どおりにこの地は手をつけず宋軍の到着を待った。
やっと方臘の平定を終わり宋軍が到着して遼と対戦するが、もう金に撃ち破られて敗残の軍
であるはずの遼に勝てないのである。なんども敗北を重ねるので金が援軍をよこしてやっと
平定を完了する始末である。
このように軍事力には差があり遼に対抗できるのはこれまた異民族の金だけだったのである。
後、宋はこの金に背信的謀略をめぐらし、金を大いに激怒させ遼以上の酷い目にあわされた。
そういう意味で遼のほうが相手しやすい国だったような気もする。
水滸伝は方臘で被害を出すことになるが現実に近づけるなら、方臘は完勝で遼との戦いにて
戦死者を多数出すべきだった。

 中国の騎兵はまだ馬車戦が主流だった戦国時代に登場する。
「漢」代に匈奴との対戦において中国は臨機応変な遊撃戦を学び騎兵とその装備も強化されていく。
異民族が中国内で勢力をふるった「十六国時代」に騎兵の装備は完成する。
かれらはもともと異民族なので乗馬には慣れていたので、このような発展があったのであろう。
この時代に重騎兵が登場し中国の戦場は大きく様変わりする。
騎兵は機動力を生かした戦闘をおこなうが、そのうちの突撃特化が重騎兵の役割である。
重騎兵は強固な防御力をもって軽騎兵や歩兵を集団で突撃し粉砕するのを主な任務とした。
この後も異民族である「隋」や「唐」が中国を支配するが、このころの重騎兵の役割は敵重騎兵の撃滅だった。
「唐」代になると隋の重騎兵中心の編成部隊がは柔軟な軽騎兵中心の部隊にやられたので
陣形も戦法も軽騎兵を中心としたものに変わっていった。
以降重騎兵は「宋」、「明」で主役を演じることはなかった。
この重装甲の騎兵軍の流れを受け継いだのがなんと「遼」と「金」である。

水滸伝梁山泊軍が相手をしているのは強固な重騎兵軍団であることがおわかりいただけただろうか。
従って梁山泊軍は遼重騎兵の突進を重騎兵呼延灼隊が防御し軽騎兵部隊が機動力を生かして
遼を撃ち破らなくてはならないのである。
これで何故梁山泊軍が危機一髪だったのが、お分かりいただけただろうか。
作品037
 兀顔延寿との陣形戦に勝利した梁山泊軍はいよいよ兀顔光の遼主力との対戦となったが
その先鋒として「瓊妖納延」と「寇鎮遠」が挑戦状をたたきつけてきた。
瓊妖納延は史進が対戦したが、しかし史進は退却した。
追ってきた瓊妖納延を花栄が弓で射抜くと史進がとどめを刺し一将は消えた。
寇鎮遠は孫立が対戦。
孫立の金槍に寇鎮遠は退却したので逃がしはしないと弓を放った。
しかし、なんと寇鎮遠は飛んできた矢を素手で受け止めたのである。

 SF映画「マトリックス」を最初見たとき主人公のネオ(アンダーソン君)が拳銃の弾丸を
そっくり返りながらかわしていたとき、なんて格好で避けるのかねと面白がっていたら
なんと水滸伝でも孫立がとんでもない格好で矢を避けていた。
しかし対戦相手の寇鎮遠も孫立の放った矢を素手でキャッチするなんて
エイジェント・スミスみたいにすごい奴だ。

 主観と客観の問題で自分がいかに正しく認識しているのかは難しい。
マトリックスで考察してみると(水滸伝と関係ないが)
映画では現在の認識した世界に無矛盾性が形成されていたときはよかったが
主人公が整合性のない現象と遭遇したとき世界の崩壊が始まった。
つまり今まで信じてきた世界観が消滅したのである。
(簡単に言うと騙されていたということかな。)
やがて新たな世界認識が始まったがそれが客観と同一のものであるか分からない。
つまり最後のネオの見た世界は真の姿なのか疑問で、今のところ整合性があるだけだ。
自己が認識した世界がはたして客観的世界なのかなかなか分からないのである。
我々の知識のほとんどが自己検証したものはほとんどなく鵜呑みした知識をベースに
したものばかりでいい加減もいいところだ。
したがって物語のネオとあまり立場的に違いないともいえる。
作品038
 梁山泊最大の敵、遼の英雄兀顔光率いる主力との最終決戦が始まろうとしている。
ロールプレイングゲームではラストボスキャラとの対戦ということになる。
遼もこれを打ち破られるともう燕京まで一気に攻め込まれるので、兵20万の大軍で迎え撃つ。
水滸伝原作では現実的に歩兵主体で円形陣で守備を固め打ち破ろうとしている。
まあ格闘技で表現すると殴られ覚悟でリーチの長い相手の懐に飛び込み連打を浴びせるといつた感じだろうか。
この漫画ではフットワークと強打を併用した陣形をとったが、中国人の能力からして現実ばなれしている。

 さて遼のほうは後がないと述べたがこれは現実では誤りである。
というのも、実は燕京は南京析津府といって単に遼の南にある都市なのである。
遼の国とは広大で長城の北、遼河の南には中心の「中京大定府」があり、河のさらに北には「上京臨黄(+さんずい)府」があり、
東の遼河下流には「東京遼陽府」があり、西の長城内には「西京大同府」があり、南には「南京析津府」があるという感じである。
宋国の「東京開封府」を中心として、北に「北京大名府」、南に「南京応天府」、東に「西京河南府」が配置されているのと同様だ。
つまり燕京は宋国の北京大名府みたいなものなのである。
というわけで仮に梁山泊が南の都市の燕京を征服したからといって遼が滅亡するなんて考えられないのである。

 作品no32で述べたように水滸伝の目的はは壇(さんずい)淵の和議を反対に遼にすれば十分なわけで、
遼本土に深く進行して全都市を制圧する必要はありません。
そこで遼の主力にわざわざ南の都市まで集合いただいてこれを打ち破り、遼に強制的に条約を結ばせれば
実史の復讐は完成するというわけです。でもたかが南の都一個奪われたぐらいで狼狽える遼でもないのだが。
そこが九天玄女の助け船と同様にご都合主義というかなんというか。

 ところで参考までに実際の歴史の場合どうだかというと、宋の太宗の時代燕京まで進軍して燕京城を包囲したことがあった。
そう頑張って水滸伝並の軍事行動をしていたんですな。
しかしここが現実の厳しさ、遼の耶律学古が城を守備し援軍を本国に求めると名将耶律休哥が南下し救援にやって来たのでした。
両軍は燕京の北、高梁河で激突。
遼の機動力のまえに宋軍はずたずたにされ全軍総崩れ、宋軍は命からがら宋国に逃げ帰りました。
こんな具合なので、仮に梁山泊が燕京を制圧したとしても遼本国は無傷だし、お助け下さいと泣きついて和議を結ぶなんて考えられない
のである。


上記の漫画は梁山泊軍が盗賊団だかということで描いたのですが、ここで梁山泊の名誉のためにお断り致しておこう。
中国においては兵士も盗賊も同じであるとご理解いただきたい。
兵隊は一方は政府の兵士となり、それにあふれた一方は盗賊団となるのである。
その違いは国営か私営かの違いみたいなものだ。
またこの境も曖昧で、たとえば軍隊で戦争に敗れて敗走するときなどは兵匪という盗賊に変化し村々を襲うのです。
占領した地域の家を襲い財貨奪い、家を焼き、住人を殺め、女を強姦するのも兵隊であるし、その行為は盗賊となんら変わらないのです。
これは本能的に正直なありようなのかもしれません。
中国では外国の清の軍隊、日本の軍隊が住人から歓迎されたという話があります。
襲われないように愛想良くしたことも考えられますが、単に村や町を襲わないだけでも絶大な支持を得られたようです。
逆にいえば中国国内では盗賊団、のみならず兵隊による略奪が横行しており住民にとって政府軍の兵士だからといって歓迎できないもの
であり、悪さをしないものなら誰でも歓迎だってということなのです。
一般的に中国人は個人主義で国家に対する忠誠心など薄く、まあ自己の利益が最大の関心事なのですが、このことは戦争でも現れています。
すなわち勝っているときは、ここぞとばかり襲いかかるが、分が悪くなると一目散に逃げてしまう。
まあ、まっとうな人間なら国家とか偉そうに威張っているやつらの為に死ぬなんてばかばかしいのである。

但し、中国の兵にも例外がある。それは親分子分で結ばれた連中だ。
この連中は忠誠心が高く戦闘能力も高い。梁山泊がこの部類にはいるかどうかは定かではない。
作品039
 梁山泊軍の遼討伐も檀州、薊州、覇州、幽州と陥落させ、いよいよ燕京攻略となった。
燕京を落とせばこの遠征も完遂する。
しかし遼もだまってみているわけではなかった。
遼軍はいよいよ最高指令長官の兀顔光の出馬となったのである。

 しかしその前にその長男である兀顔延寿が露払いに戦いを挑んできた。
彼の引き連れた兵は2万5千、内、騎兵の突撃兵が5千であった。
さらに2将と合流し総勢3万5千の兵数となった。
父親譲りの能力か陣の運用は変幻自在で良く兵士を運用した。
兀顔延寿は梁山泊軍の自慢の陣の九宮八卦の陣を簡単に見破り、これをあざ笑うと
自軍を「太乙三才の陣」から「河洛四象の陣」に変化させ、さらに「循環八卦の陣」から「武侯の八陣図」に変化させてみせた。
驚くべき運用力だが、息子の能力は親譲りだったのか、父親の兀顔光は20万の大軍をものすごい陣立てで運用していたのであるから。
物語での兀顔延寿の役割は父親のすさまじさを連想させることと、朱武の力量を際だてさせるためのものだったのかもしれない。

 さて両者激突したのだがその結果は梁山泊軍の勝利である。
しかしそれは納得いかないもので公孫勝の幻術によって勝利したのである。
出来ることなら「九宮八卦の陣」が思わぬ運用をみせ勝利したのならまだ納得いくのだが、原作者がはっきりとした戦闘場面を創造でき
なかったのでごまかしたとしか思えない。
このことは最終決戦兀顔光との戦いでも同様だが、突然九天玄女によって攻略法を伝授されるとは都合良すぎる。
やはり敵の弱点を明確に描き、トラップのかけ方など納得いく説明が必要なんではないか。

 兀顔延寿の行動は少々非難すべきところがある。
それは、そもそも彼は陣立ての前に数の論理を知らなかったのか。
まず梁山泊軍の総数は10万なのである。このことは第81回で燕青が述べている。
もっとも現実の歴史では匪賊集団の場合戦闘員は全体の4ないし5%程度で
あとは女、子供、老人、などの非戦闘員なので,戦闘員を多めに2割として本当は2万ぐらいというのが妥当な気がする。
物語で梁山泊軍が二手に分かれたとき廬俊義が3万を連れていたのでこの線は消えるが、そうなると二倍の6万以上と考えられる。
仮に10万としても第82回で4,5千人は梁山泊軍を去っていることがあるし
さらに4州を陥落されるまでに相当数の兵の減少があったとも考えられる。
従って9万から7万の間ではないだろうか。
梁山泊軍の兵数は不明だが王慶の時20万になっていたことから考えて、バランスをとって単純に10万としておこう。
(なお作品no2で十倍の兵を描いたのは単純に兀顔延寿の兵数とのバランスを考えてのことと物語中で「梁山泊軍より遙かに大軍である」
との発言があったことさらに梁山泊が匪賊集団であったことから2万が妥当と考えてのことだった、
ここで遼は2倍の兵力でやって来たと訂正します。)

 少々梁山泊の兵力の説明が長くなったが、つまり兀顔延寿は自分の兵数が3万5千なのに梁山泊軍10万を相手に殲滅しようと
したのである。陣の運用はたいしたものだがそれは少々自信過剰なんではないか。
まあ、もともと宋の兵は弱いので最初から馬鹿にしてしまった面があったのであろう。
単純に油断したといえる。
そもそもこの作戦における彼の軍の役割は父親の最高指令長官兀顔光が兵力を集中し大軍団を形成するまでの時間稼ぎ
だったはず。だとするならその運用力を駆使して粘り腰を見せるべきだったのではないか。
襲っては返し襲っては返しを繰り返し梁山泊軍の兵力と連携を少しずつはぎ取って行けばよいのだある。
結果的には遼主力の集合は出来たが彼の行動は軽率だ。
さらに彼は設定戦場に梁山泊軍をおびき寄せるという役割は持っていなかったのだろうか、
戦力が2倍で有利な地の利、時を得たなら鬼に金棒だし兵も消耗しなくてよい。
また兵力を温存し目的を達成した後本体と合流するか、
別機動部隊として梁山泊軍背後の供給ルートに驚異を与えてもよかったはずだ。

 逆に言えば2倍以上の兵力を持ちながら梁山泊軍は妖術に頼らざるをえなかったといえる。
兀顔親子恐るべし。
作品040

 梁山泊軍と遼軍との死闘は終わった。
原作ではアテナの神こと九天玄女のアドバイスにて遼を打ち破ったのだった。
だが本当のところ敵のなにが弱点でどんな秘策があったのか皆目わからない。
ただ分かるのは梁山泊軍が夜襲を仕掛けたということだ。
この日雪雲が立ちこめてあたりは真っ暗。梁山泊軍は雷車という燃える戦車を用意して夜のなると突撃を開始した。
雷車は鉄板で覆われていて、まあ戦車みたいな物で24台が一斉に突撃した。
騎兵に対し戦車で応戦というのはわかるが効果のほどは疑問だ。
というのは戦車は小回りがきかなくて結構大変なのだ。
むしろ冷静に考えれば、もしかして遼軍の食事時をねらったのか。
この戦いは明け方まで続けられており、たぶん敵味方の区別無く斬り合った可能性がある。
そうなると人数が多い遼は同士討ちしたかもしれない。
むしろ疑問なのは遼の司令官兀顔光がなんで受け身に回っていたのか分からない。
考えられるのは魔法使いに対する対応の仕方について答えが出ていなかった可能性がある。
この戦いの以前、かれは長男を梁山泊軍の魔法使いにやられていたので警戒していたのだろう。
あるいは遼の魔法使いを待っていたかもしれない。

この漫画では騎兵対騎兵のガチンコ勝負をしたが、2対1の対戦では厳しい。
原作では頭領は一人も死ぬことなく、兵士も被害が無かったかのように画かれている。
これって、綺麗すぎません?
2倍の相手でしかも戦闘力があちらが上だったら、勝利したとしてもその被害は甚大な物となるはずだ。
梁山泊軍が解体してもおかしくない。
上記の漫画では朱武が陣立てによる戦闘が困難となったと述べているが、精鋭の消耗は必然だ。
たとえば日本軍の場合ソ連との戦闘ノモンハンで陸軍航空部隊は大きく消耗、後アメリカとの戦いには
寄与できず、海軍も同様に戦闘を繰り返しているうちに航空部隊は消失、戦艦を海に浮かべている
だけの状態になった。
精鋭部隊は育成するのに長く、消耗するのは早いのである。

 精鋭無き梁山泊はこの戦いで戦法の見直しを迫られることになろう。
新たに兵を集めたとしても戦力低下は避けられない。以前のようにいかなくなるのだ。
特に騎兵は機動力抜群だが防御力がない。
これを重装甲にすると重くて機動力が阻害される、ようするに騎兵は軽い動きの代わりに装甲を薄くした零戦に
似たようなものだ。
こういう騎兵同士がぶつかれば破壊と引き替えに殲滅してしまうことは可能性大である。
従って梁山泊の騎兵軍は壊滅したといっていい。
もしかしたら方臘征伐での頭領がどんどん死んでいくのは、単に南方の風土のみならず精鋭部隊の損失が
最大の原因の可能性がある。
見えないところで、もうほころびが始まっていたということかもしれない。
企業なども衰退の原因は繁栄した時代にあると言うように、遼主力を打ち破った栄光の中にすでに崩壊の
芽が芽生えていたのかもしれない。
作品041

 梁山泊軍がなかなか強いので遼の皇帝(水滸伝では中国外の皇帝は認めないので目下の国王と表現してある。
中華思想丸出しだ。)も憂いたが欧陽侍郎がウルトラCのアイデアを提案した。
それは梁山泊軍をまるごと遼で召し抱えるというものだった。
その可能性については梁山泊が宋の四姦によって冷遇されていることを考えても十分可能性が高いとふんだわけだ。
この提案に皇帝も賛同し厚遇で迎えることにした。
一方梁山泊軍は遼の使者の欧陽侍郎に最初冷たい視線を送っていたが彼の言葉が道理にかない
宋国の腐敗はその通りで、彼の箴言は的を射ていたことに心を動かされた。
特に今回の遼の招安に賛同なき場合はその運命は四姦により不幸なものになるでああろうとの予想は的確で、
その後の彼らの運命にを見事に予想していた。
しかし、統領の宋江は宋国に忠義を抱く変わり者であった。
遼の招安に断固として拒否した。
遼の言い分が正しいと思いながらも宋江の意志を尊重した呉用は覇州攻略の作戦を進言するのであった。
それは招安に応ずるふりをして敵の城に侵入し襲うというものだった。
作戦は大成功で覇州を陥落させたのである。

 さてここの部分のお話は水滸伝の主張を色濃く表したもので重要なものであり、宋江の人となりがよくわかるところである。
つまりこのお話では宋江以外はまともで、高官や役人もはたまた梁山泊を含めた盗賊も金や権力などの利益に
汲々としていて人のことを考えないわがまま人ばかりである。
高官から下級役人まで賄賂世界で権力の乱用が行われており、それを批判している盗賊連中もねじ曲がった道理で
悪さをしている。
このように、一般に身勝手な論理で身勝手なことをやっているのが普通なのであるが。宋江という男ちょっとねじ曲がっている。
それはかれが及雨時(恵みの雨)と呼ばれることで分かるが、非常に情け深いのである。要するに他人のことをおもんぱかるのである。
中国の「仁」、インドの「慈悲」あるいは西洋の「愛」の人といった設定である。
主人公たちが盗賊なのでその点はいかがわしく、不釣り合いだがそう言う人なのである。
しかしこういう世界では優しさは弱さを意味する。
生存の競争が激しい世界では相手のことを思い遠慮したり許したりすると、自分がやられてしまうのである。
そんな人間はアホだし、カモ以外のなんでもない。
つまり宋江が宋国に名前がなり響いているとは、変わった人、病人として鳴り響いていたに違いない。
さらに宋江の特徴としてものすごい宋国への忠誠心がある。
なにが彼をそうさせたのかよく分からないところだ。お話の途中にはそんな国粋主義者のような主張もしていなかったのに。
物語の中では宋国が腐敗していてどうしようもないと分かっているのに、遼の厚遇を蹴てしまう。
しかも呉用の思いを正して忠誠を貫くことが本当だというのである。
忠義といえば一般に想起されるのが「岳飛」と「文天祥」であろう。どちらもたいした忠誠心だが。
前者は軍閥なので純粋度はちょっと疑問だが、後者は南宋の若き宰相で、この男見所ありと思ったフビライのスカウトを蹴った
がちがちの忠義者である。
両者も最後は悲劇だが、宋江は両者のような生き方がモデルなのであろうか。
国にために命をかけるとは、人のために尽くすということの国家版なわけで、そう言う意味で宋江は人と同様に国家に対して
慈しみの心を持ったということなのか。
だが裏切られても忠節を貫くとは中国では美談として取り上げられるが、これは本来の姿に逆説的であるので受けるのか
あるいは政府の広報活動として取り上げられるのかは不明だ。
個人に慈しみを施したように、国家に対しても慈しみを施した宋江は最後は裏切られて死ぬのであるが。
宋江の信条にはキリスト教的な「汝の敵を愛せよ、迫害するものの為に祈れ」みたいな精神で覆われていたのであろうか。
愛を実践し殉教したと表現したほうが分かりやすいかもしれない。

ちなみに、遼に招安を受けることは罪悪なことかどうかについては中国社会では普通のことである。
遼の時代科挙に落第したものとかなんかが職を求めて遼に就職することもあったし、南宋時代に元が優勢とみるや
鞍替えした高官もいるのだから恥ずかしいことはない。
遼皇帝が梁山泊に提示したのは、大元帥の位で破格の厚遇なので受けなきゃ損なのだが。
もっとも、よーく考えたら東に金が台頭し始めていて遼は宋よりこちらが脅威だから、この戦いに梁山泊軍を使用する
だろうから同じ結果になったかな。
アメリカが日系人をヨーロッパ戦線に投入したみたいに宋と戦うことはないだろうが。
作品042
 北の強敵遼に勝ち梁山泊軍は凱旋の帰路についた。
梁山泊軍は途中何の悪さもせず、住民から歓喜賞賛をあびたらしい。
なんでわざわざ悪いことしなかったと述べるのか不思議なことだ。
なんにもしないのに住民が大歓迎とは、国軍の通常の状態てのはやはり強盗並みだったのだろうか。。
国軍より山賊のほうがましだったとの記述を読むと軍隊でのは恐ろしいものであるなと思う。
常識からいって住民の略奪強盗は軍隊では当たり前のことなのかな。
冷静に考察してみると殺しを生業にしているんだから道徳もへったくれもないのだろう。
まあ、殺人というタブーを戦争という名目で平気で国が犯させているのだから、当然なのかな。
殺人はOKで物欲、性欲は禁欲てのはなにか不自然だし。
殺人のタブーが解除されれば他の欲が頭を持ち上げてくるのが本当だろう。
梁山泊の主人公たちはたった一人の殺人を犯してアウトローになったが今は20万の外国人を
殺めて英雄になっている。

さて凱旋の途中、双林鎮というところにさしかかると燕青が突然馬から降りて見物の群衆の中に
進んでいった。
というのも燕青の友人の「許貫忠」なる人物がいらからである。
この人物、風貌が俗世離れしていて高雅であったというからただ者ではないようだ。
二人は再会を喜び、燕青は一時的に軍列から離れるのだ。
許貫中の庵は山中にあり二人は語り合ったが、許は燕青の身の上を心配し、栄達のあかつきには
早々に身を引くことを勧めた。
後、方臘討伐後に燕青はいずれかに姿を消すのだが許の言葉になにか感じることが有ったのかも知れない。
なおこの再会の時、許は燕青に三晋の軍事地図を渡し田虎討伐の助けとしたのである。
にしてもだ許貫忠はなんでこんな物もっていたのか、考え得るのは彼が昔田虎の一味だったのではないか
ということだ。もし宋が放ったスパイなら田虎の情報は燕青を通じてもたらされるわけないからである。



 さて中国という世界をとらえるとき、どの物差しで計ればよいかなかなか難しい。
まず古典好きの方の大勘違い。筆者の場合こちらのほう。
孔子、孟子の論語、老子、荘子の道家思想なんかでみると道徳高い世界なんて錯覚してしまうし。
仁とは礼とは、なんて述べているので、史書なんかでイメージをふくらませ、政治とはかくあるべきかと
いう思いにいたるのである。
特に陽明学なんか読んだ日にはなんてすばらしいのか、人の心はかくあるべしと感嘆なんてしたるする。
そこでこのイメージで中国人をとらえてしまうのですな。
そして理想郷を思い描いてしまうんですな
だが他のことで理解するのですよ、そうじゃない人々だから一生懸命有るべき姿を述べていたんだと。

 またひとつはマルクス主義なんかの影響を受けた人々で、世界革命の後には理想郷がやってくるんだとの
信仰のもとに中国を見ている人々である。
後者は昨今は中国の内情が分かるにつれて色あせてきてはいるが、まだまだ健在だ。
彼らの失敗点は社会現象にたいしてマルクスの理論単一で見てしまったことにある。
自然科学が統一理論をめざし進んでいるように社会科学においても単一理論により説明しようとしたのだろうが、
現象はカオスに満ちているのだ。
これだ、と言うと単一の理論でくくってしまうことになるが、あえて言うと中国の社会原理は「易姓革命」なのである。
つまり現政権が機能不全に陥ると農民の反乱が起こり、社会が不安化すると300近い勢力(軍閥とか)なんかが戦い初め
やがて大きな勢力となり、最終的に1つの勢力が次の中国の支配者になるのだある。
第2次大戦時代に「日中戦争」と俗に称されるものは、実は中国のおきまりのシャッフルだったのである。
ここれを共産革命が中国で起きてパラダイスがやって来たのだと勘違いしたんだよね。
作品043
 水滸伝のお話では不倫の話が多数登場する。
楊雄、石秀の梁山泊に入山するきっかけもこの不倫騒動からである。
水滸伝の良いところはこういった身近な事件が多数登場することがあげられる。
とくに戦闘が少ない序盤が日常の生活が語られている。
ここのところが三国志との違いで、水滸伝好きの方の支持される理由であろうと思う。

 楊雄、石秀の不倫事件は楊雄の妻の潘巧雲が坊主の裴如海といい仲になってしまったことである。
弟分の石秀が忠告するが兄貴分の楊雄はそれを信じず、かえって妻に欺かれ石秀を遠ざけてしまうのであった。
このままでは楊雄が奸計に陥って命を落としかねない心配した石勇は裴如海を殺害した。
(この心配はごもっともで武松の話では彼の兄が同様の理由で毒殺されている。)
このことに楊雄は目が覚めて妻と女中を願掛けのお参りと称し連れだし山で白状させたのであった。
その後がすごくで舌を切り取り腹をかっさばいて、漫画では腸だけ画いたが実際は五臓六腑を取り出し松の木に引っかけたのである。
残酷といえば残酷だがなんらかの意味がもしかしたらあるのかもしれない。
たとえば舌なんか欺いて石秀を陥れたその舌に対する報復だというのがわかるし、五臓六腑を掻き出し松の木に掛けるというもの
中国では何らなの意味があるのかも知れない。
日本人の私(日向)にはかいもく見当もつかないことだが、野蛮な行為と言うことで片づけないようにしたい。
つまり水滸伝の読者は中国人の「のり」について行かなくてはならないのである。

 このような手荒い報復は中国では常識的なものであったと推察される。
日本では見せしめとして、不倫の場合は二人一緒にさらしものだったし、戦争での敗者は首がさらされたその程度だが、
中国の場合は生きたまま切り刻むとか、なにか考え得る最高に残酷なことをやってくれる。
そいうい意味で中国は「残酷の先進国」であったといえる。
これも混乱した社会状態が多く、生存が厳しい社会が生みだしたものであろう。
つまり敵は徹底的に根絶やしにすると言う発想と、とことんはい上がれないようになぶり者にするという感覚。
とても平和な日本人には出来ない発想である。
これを野蛮とみるか、効果的なみせしめととらえるかは判断がわかれることであろう。
とにかく楊雄がやったことは中国では常識的な報復なんであろう。
なぜなら彼れは英雄豪傑の主人公たちであり、卑怯なこと卑しい行為はするはずがないからである。

 こういった中国の虐殺の文化については中国好きの日本人としては知っておく必要がある。
例えば具体例で言うと、1928年の済南事件では100人の日本人が虐殺、暴行された。
その手口は手足を縛られ頭部を斧で割られ、男性のベニス睾丸が切り落とされ、女性の陰部には棒が突き刺され、
小腸内臓が掻き出され、皮膚を剥がされている。
1937年通州事件の場合は223名が虐殺されており。上記と似てはいるが、女性は陰部をこれまた剣突き刺されており
さらにえぐり取られている。首に縄をかけ引き回す、眼球をえぐり取る、鼻に針金を突き刺す、手足をぶった切る。
などまあ多彩でさすが残酷の先進国。
この事件に日本国世論は中国憎しになったが、これなんかが中国人を理解しない日本人の典型である。
自分たちの報復がそんな手段を用いないからといってこれを野蛮と決めつけるのがおかしいのである。
中国という競争世界で生き残るために形成されたこのような残虐行為は「中国の文化」のひとつであると理解しなければならない。
中国を支配した連中は中国の世界は力による支配をやらなければ治まらないというのが分かっていたわけだし
そのためには中国人を容赦なく大量に殺害したのだ。
もちろんこれは中国人どうしでも殺し合いをやっているのだ。
人権なんて甘ちょろいものはないのである。
「残虐の文化」を読めるというのも水滸伝の醍醐味である。
日本が甘チョロイのかもしれない。


1コマで石秀が歌っている歌はよさこい節である。
歌詞は以下の通り
土佐の高知の はりまや橋で 坊さん かんざし 買うを見た    ヨサコイ ヨサコイ
御畳瀬見せましょ 浦戸をあけて 月の名所は 桂浜        ヨサコイ ヨサコイ
土佐の名物 珊瑚に鯨 紙に 生糸に 鰹節             ヨサコイ ヨサコイ
孕の廻し打 日暮れに帰る 帆傘船 年に二度とる 米もある   ヨサコイ ヨサコイ
わしの情人は 浦戸の沖で 雨にしょんぼり濡れて 鰹つる    ヨサコイ ヨサコイ
土佐はよい国 南をうけて 薩摩おろしが そよそよと
最初から坊さんがかんざし買っているところからエロチックだが
これらは隠語があるそうだ。
例えば2番目の歌詞は女性が股をを開いて性器を見せる様子を表しているようだ。
まあ解釈は分かれるだろが。
作品044
水滸伝の始まりは大尉の黄信が南岳竜虎山にて唐時代に封じ込められた魔物を
誤って解放してしまうことから始まる。
その後、梁山泊の主人公たちが集合したところで、実は彼らがかつて解放された魔物たち
であると言うことが分かる。
読者はこんなにひどい目にあった主人公たちが何故魔物なのだと疑問に思われるだろう。
なぜなら魔物は人に害をもたらす存在なのだが、かれらはむしろ社会の不条理に閉め出された
ものたちだからだ。
水滸伝の一部をみればこのような感想をもたれることだろう。
しかし全体からみるとその魔という存在は天の秩序に反したゆえの魔であることが推察される。
つまり彼らの正体は魔物というより「堕天使」みたいなものなのだ。
かつては天にあり星辰のひとつだったわけである。
これが何らかの罪を得て地上に落とされたのである。
一般に死んで星になったなんてあるが、かれらはもともと天上の星々たちだったのである。
だから一覧リストに星名、あだな、氏名が表記されているが、この星名のほうが本名であり
あだな、氏名は地上の仮の名といえる。

中国の世界構造をおおざっぱに説明すると。
天には「天帝」を中心とする神々の世界がある。
具体的には北斗星を中心として星々が控えていて
秩序のとれた世界を作り出しているのである。
この姿と同様に地上界も展開される。
すなわち天の意志を受け継ぎ地上に秩序をもたらす使命をもったものと
しての「皇帝」である。
皇帝は天の意志を受け取る仲介役といえる。
この皇帝を中心として臣下が従い活動するのである。
それは星々の世界と同様であり彼らはエリートなのである。
そして無知蒙昧な人民を感化指導し
天上と同じ秩序を地上にもたらすのである。

 まあこんな感じだが、お馬鹿な人民は教え指導してあげなくてはならないという
まあ、白人優位主義に似た考え方といえる。

 ところで水滸伝の「替天行道」を行うというのは一般に反政府運動のスローガンと理解されている
ようだがこれは違う。
水滸伝のお話でも結局悪徳高官は何の罰も受けなかったし、官僚組織の腐敗について何の解決も
なされなかった。
むしろ容認したとの解釈も出来るのである。
では彼らのいう「道」とはなにか、それは天との仲介者としての皇帝は宋国であるということにつきる。
宋の時代、北には遼が、西には西夏が皇帝を名乗り中国のメンツ丸つぶれ。
軍事力も彼らのが強く、まったく頭があがらない。
それでお話では世界の中心者、皇帝は我々であるとの主張をすべく立ち上がったのである。
遼、西夏などは感化指導しなくてはならない野蛮人であり、皇帝の名を名乗るなど身の程も知らぬ
のである。
地上世界の中心は天意を受けた皇帝であり、それは世界にひとつ中国だけなのだ。
そんなに地位がほしいのなら臣下の「王」「諸侯」名ならくれてやっても良いぞ。
とまあこんな感じなのである。

 ところで宋江の父親の宋太公の容姿につては少々とまどいがある。
というのはこの漫画の宋江のデザインの下地はゴキブリだからである。
父親だから似て無くてはならないが、もとがもとだけに可哀想でもあるし。
作品045
 江州の処刑を梁山泊によって救われた宋江だったが、自分が罪を得た以上家族に危害が
及ぶのを心配して軍卩城県に父親を迎えに行った。
ところが家にはすでに捕り手が待ちかまえていて、宋江は逃げるのだった。
しかし彼が逃げた先は「環道村」という、切り立った山に囲まれた村だった。
宋江絶体絶命。
ところが九天玄女の加護により救われたのだった。

第42回はほとんど無意味なものと読み飛ばされるものだが、ここは以外と重要である。
ここで読者は第1回との関係を知ることとなる。
というのも江州の事件が起こって宋江も本格的に梁山泊に入山することになったからである。
その最初としてこの事件がおきる。

ここで解き明かされた秘密とは
宋江は天にいた者であること、そのことは九天玄女が「お久しぶりですね」と呼びかけたことで分かる。
不思議なことに人間に転生してしまうと全てを忘れてしまうようだ。
次に罪を得て地上に降ろされていることを聞かされる。
それによると彼らは天帝(玉帝)により、魔心が断ち切れず、道行も完全でないので下界で罰せられている
とのこと。しかしやがて紫府(天宮)に帰ることができるが、魔を断ち切られないと冥府に落ちてしまう
ということが解き明かされる。
そして彼らには重大な使命が与えられていることを理解するのである。

ここで九天玄女は3巻の天書を宋江に渡す。
これは謎が多い巻物だが、方臘の時活躍するが何が記述されていたのかは分からない。
ただ九天玄女は宋江と呉用以外は読んではならないと厳命している。
しかしなんでこの二人なのか。
仙道に通じた公孫勝も、リーダーの素質いっぱいの廬俊義も除外されるのか。
読んでもおかしくないのだが。
そこで思い当たるのが、この回以降の彼らの行動が引っかかるのである。
そう晁蓋の思惑をはなれてどんどん梁山泊の組織改革を押しすすめて行ったのである。
組織の運営と構成は呉用が練り、人材の登用は宋江がどんどんやった。
呉用の組織改革は強力な軍隊を構築していったのがわかるし、宋江の行動も何でこの人物をスカウトするのか
理解不能ところがある。
しかしだ、これらの計画は九天玄女の巻物に計画書として画かれた可能性があるのである。
あえていうと宋江はスカウトは無差別にしたのではなく天書に従って散らばった仲間を集めた可能性があるのである。
というのも物語の設定上散らばった仲間は、後に発掘される石碑の名簿のように入山させなくてはならないのである。
それでは宋江は何によって目の前の人物が仲間の星だと理解したか?
という訳で天書は怪しい。
後に呉用は宋江を追って自殺するが、この理由の謎もこの天書にあるのかも知れない。
たいていの読者は自殺に疑問をもったはず、そこまで呉用は宋江が好きだったのかと。
遼遠征のときも九天玄女は撃破の方法を教えるが、これは計画の補助だった可能性がある。
「銀河帝国の興亡」でいけばセルダン計画に従って歴史は刻まれたということか。
この天書は方臘後に処分されているので全ては謎のままだ。
作品046
作品25にて宋江が自己の使命を知ったことは述べたが、九天玄女の異空間から戻った宋江は
李逵の救援にて危機をを脱したのだった。
しかし彼らの正体は解き明かされたが、何で天から追放されたのかかさっぱりわからない。
「魔心」があることが理由だということだがこれってなんだろう。

 世界の神話で楽園追放の物語あるいは堕落するお話はは多く存在するが、これまた意味不明名部分がある。
例えばトーラーだが、これなんかエバが蛇の口に騙されて神様が食べてはならないといった
実を食べてしまい。エデンがら追放されたお話である。
これらの物語はそのまま読んではおとぎ話なのだが、登場人物は比喩表現化してありなかなか分かりにくい。
エバが何を意味し、生命木と知恵の木が何故二つあるかは、分かる人でないとわからないのだ。
とかく古代の密議に関係するものは、物語形式による教義の伝承をしている。
ギリシャにおいても密議は神話化した劇である。
逆に劇や神話という形式が抽象的なものを表現するのには都合がよかったのかもしれない。
古代においては言語という手段より、こういった方法が理解しやすかったのだろう。
ここでは楽園追放の題材として仏教のお話をお話ししよう。
なんで楽園追放が仏教にあるんだーなどと思われることでしょう。
私こと日向の考えではヨーロッパインド語族には共通の発想があったと思っている。
以下の話は仏教と述べているが本当はバラモン教より挿入されたものであろうと推測される。
それはある種グノーシスのものを連想させるからだ。

 これは釈迦がワーセッタに語ったことである。
・・・人は光音天に生まれ意からなる体を持ち喜びを食として自ら光輝いていた。・・・・光天界より世界に降りて・・・
夜も昼も、男も女も全てに区別はない。・・・しかしここに甘露地がうかぶ・・・それは甘い味をもった・・・貪り強い者が甘露地に執着を起こし・・・
人から光りが消え、月と日と星が現れ、夜と昼が分かれ定まったのである。かくして世界は誕生した。・・・・
地味を食べるに重くなり容貌にも変化が現れた。美と醜に分かれ驕慢が現れると甘露は消失した。・・・・
甘露地が消失すると地皮が現れ・・・うる米ができるようになった。・・・・欲が人の心を支配するようになった・・・
・・うる米を食するに従い身は重くなり男女の区別が現れ性の欲が生じるようになった。夫婦ができ家が起こった。・・・
怠け者が現れ、このため所有を定めるにいたる。盗みが始まり争いが始まった。・・・・・

以上のごとくなのだが、堕落する様子がよくわかるであろう。
最初は精神的存在だったが、ある種の執着により次第に物質的な存在に変化していくのがお分かりいただけたろうか。
こういった古代の伝承はそのまま読むのではなくこの比喩が何を表しているのか理解しながら読まないといけない。
トーラーではエバが知恵の実を食べたがこちらでは甘露となっている。
いずれにせよ。地に落ちた人間は栄光の座に戻ろうと悪戦苦闘するのである。
ここにヘラクレスの苦難の旅が始まるのである。
この漫画の主題からどんどん離れるのでここで話題は中断するが、梁山泊の星々の「魔心」もこんなものだったのだろうか。
作品047
妻殺しの罪で逃亡を繰り返してきた宋江だったが、朝廷が皇太子を立てたので恩赦の詔書がくだされ、
おとなしく捕まり減刑により江州の地に流刑になった。
江州では比較的に穏便な日々が過ごせて、戴宗、張順、李逵との交わりを結ぶことができた。
これで宋江も娑婆に帰れるのかと思いきや運命は波乱の人生を目指していたのだった。
ある日食あたりをおこしていた宋江は回復すると、張順等を探したが発見にいたらず、仕方がないと町を散策。
偶然名所である潯陽楼にいきあたったのである。
かねてから興味のあった名所なので、宋江は一人で店に入り泥酔してしまった。
ここまでは大したことないのだが、彼は酔った勢いで不満を反逆の歌として壁に書いてしまったのである。
これが後にかれの運命をかえるものだった。
その後黄文炳なるものがこれを読み届け出たため宋江は処刑されようとするのであった。
宋江危機一髪。
しかし黄文炳は悪い人物のように描かれているが本当にそうなのか疑問だ。
確かに再就職の為蔡得章に取り入ったが、冷静に考えれば正しい判断である。
まず都の太史院の司天監(占星術師)がこう星が江南に輝くこと謀反の気配ありと占っていた。
(もしかして方臘のことかもしれないが)
また都の流行歌が全く宋江等を表しているとしか思えないことなどがある。
(昔は占いと同様に流行歌も吉凶のねたになっていた)
宋江の詩は戯れとはいえ火のないところに煙は立たないので、反逆心が少しありかも。
事実その後の進展は占いどおりなので黄文炳の判断は正しい。
さらに呉用の偽手紙を見破ったのは大したもので忠臣としては当然のことだ。
なんら非難があるものでない。
唯一とがめられるとすれば自己の利益のためにこれらの行為をやったということでだけで行為そのものは正しい。
逆説的に言えば黄文炳がいなかったら予言は成就されなかったのである。
彼の活躍で宋江は梁山泊の一員にならざるをえないことになり、宋江梁山泊の始まりとなるのである。

ところで黄文炳が宋江の詩を読んでいる箇所の表現はなかなか面白い。
文章を読んだところの反応が、なにかネットの掲示板やブログを読んだときの様子に重なって
親しみやすい。
宋江の失敗は謀反の詩を書いたことではない。問題なのはウン城県の宋江と書いたことである。
ネットでとんでもないことを書いてまさか住所氏名を名乗るものはいないだろう。
そのくらい迂闊なことなのだ。せめて名なしさんとすべきだった。
我々の世界では本当に思ったことが書けるかというと、それはノーである。
その社会の考え方に合わせないと非常にまずいのである。
とくに客観的に社会現象や歴史を追究しようとすると、タブーにぶつかるのである。
それは言論の自由の国と標榜する日本でもだ。
まして宋江の世界は中国のしかも中世の時代、言論統制は厳しくてあたりまえだから
宋江は用心に用心を重ねるべきだった。
作品048
謀反の詩がきっかけで反逆の罪で捕まり、その宋江の仲間として戴宗が連座により処刑されることになった。
二人の命は風前の灯火。江州で刀の露と消えるのか。
仕置場に群衆が集まり死刑が執行される。
だが梁山泊は山東からはるばる江州まで救助に遠征してきていたのである。
群衆の中にまぎれ混んでいたのは晁蓋、花栄、黄信、呂方、郭盛、朱貴、王英、鄭天寿、石勇、燕順、劉唐
杜遷、宋万、阮小二、阮小五、阮小七、白勝だった。
彼らがその機会をうかがっていると
突然二丁の斧を持った黒い男が仕置場に殴り込みをかけてきた。
黒旋風の李逵である。
これに呼応するように梁山泊の仲間は躍りかかり、宋江、戴宗を救助したのである。
しかしここは敵地のまっただ中、李逵が奮戦し前身に血だらけになりながら血路を切り開く。
一同は李逵の開いた道を追って危機を脱するのだった。
それにしても李逵の破壊力はすごいなあ。

さて人殺し大好きの李逵だが、この李逵の正体については公孫勝の師が述べている。
「天上界の天殺星の一つだが、下界の衆生があまりににも惨たらしい悪業をかさねるので
天がかれを下界にくだし殺戮を行わせているのだ」という。
するてーとみんなが非道をするから彼が同じ行いをし、反省させようというわけなのか。
それだけ下界が混乱に満ちていることなのだな。
かれが人を虐殺するのが好きなのも地上の人々が道に外れているからなんだろうね。
そうなると李逵の本当の姿はどんななんだろうか。
人々が悪業をしない様子を想像すると彼の正体が分かる。
李逵の一連の行動、言動をみると子供のような素直さがある。
かれを一文字で表記するならそれは「童」である。
なにものにも染まっていない自由で素直な心のような気がするのだ。
ある種水晶球みたいなもので、いろんな外界の象を映し出しているようだ。
だからある時は修羅場では殺人マシーンになるし裁判の場では名裁判官になるのであろう。
またそういった純粋な特性をもった星なので仁(慈悲)の特性をもった宋江に常に付き従うのであろう。
李逵は梁山泊一自由人なのに杓子定規の宋江を最後まで慕い続けるのもかれの本性の性格ゆえだ。
「仁」に「純真」は寄り添うのである。

水滸伝を理解するのに必要なのは陽明学である。
王陽明とは明代の中国人で、本名は伯安と言った。
彼の経歴や行動をみるとたいした人物だが、ここでこの思想の核となった出来事を述べておこう。
孝宗が崩御し武宗が即位した。しかし武宗は政治を宦官の劉瑾に任せたのでこれを諫めるものが現れた。
王陽明はこれらのものを擁護したので皇帝の怒りをうけて貴州竜場駅に流されたのである。
貴州は四川のやや南と理解していただきたい。
このような僻地に左遷されたのである。しかしここで彼は得難きものを得ることになる。
彼のいた中華では術中策謀が入り乱れ愛憎満々ていた、しかしこの地の人々が素朴で素直な性格なので
このような純粋な心の姿こそが本当の人間のありようなのであると彼は悟ったのである。
伝習録では・・心がそのまま理である・・・この心が私欲に覆われていなければ天理である・・・
至善とは、この心が純全に天理そのものであること・・・知っていることは行いに現れるものである・・
・・良知が発揮され私欲によって妨げられないならば・・・仁ありあまる。
簡単に言うと心の本来のままの純粋な心が人のありようだということだろう。
ある種西洋の理性主義みたいな香りのする思想かもしれない。

西洋の賢人は「天国は幼子のようでなくてははいれない。」と述べている。
作品049
 走り出したら止まらないの凶暴さを発揮する李逵だがこれが以外と投げ技にめっぽう弱い。
まったくの拍子抜けで、投げられると猫のように大人しくなるから不思議だ。
そのため目付役として相撲上手の焦挺、燕青がいる。
焦挺は代々相撲一家であり、燕青は梁山泊随一の相撲の使い手である。

 さて梁山泊全盛時代、泰山で奉納相撲大会が行われることとなった。
この大会に燕青が出場を願い出、宋江等の許可のもと泰山に向かったのだった。
いつもは燕青に監視される李逵だがこの日ばかりは燕青に勝手に同行した。

 泰山の相撲試合は太原の任原という男が出場していた。
1丈(水滸伝が書かれた明代の1丈は3.11M)もある大男で二年間負け知らず。
「天を支える柱」と名乗り、「相撲で相手になる男はいない」
「天下一だ。」と豪語していた。
これに燕青は大いに闘志を燃やし任原の標柱(看板)をたたき壊したのだった。
両者は激突。
周囲は燕青が殺されるのではないかと心配したが、任原は燕青の素早い転身の動きに惑わされ
きりきり舞になり最後は壇上から投げ落とされてしまった。
燕青の勝利であった。
すると任原の30人あまりの弟子が壇上に乱入し、これに対し李逵が挑んだので辺りは大混乱。
虫の息だった任原は李逵が石で頭を砕いてしまった。
梁山泊の人間だと分かると役人がやってきたが、廬俊義、史進、穆弘、魯智深、武松、解珍、解宝
らが援軍にやってきて脱出した。

 泰山の相撲試合と書いたが日本の大相撲を連想していただいては困る。
現代で言うと、生死を問わないK1というのが一番近い。
日本の相撲も平安?時代だったかの試合では膝蹴りを食らわして勝利したという文献があって
蹴り殴りがあったようである。
柔術がスポーツ化して安全な柔道が出来たように古い競技は危険なものなのである。

 燕青の拳は「燕青拳」である。これは実在の拳で、別に「秘宗拳」「迷蹤拳」と呼ばれる。
伝説によると廬俊義が創始し燕青が継承したといわれている、清代の孫通から霍元甲にいたる。
他門派のことでその技法のほどは良く分からないが、複雑な歩法を用いて俊敏な動きするらしい。
遠い間合いから一気に近づき急速に転身し高い姿勢と低い姿勢を切り替え、また一気に距離を
離すようだ。
はっきりする事は太極拳とか八極拳の接近戦ではなく、遠距離戦を得意とする拳のようだ。

中国武術を学ぶとき悩むのが型の意味、こうだけどこういうう意味もあるよなんて言われると
「えーこじつけぽいなあ」と思う。なんか理不尽に思うのである。
たとえばピーンと延ばした後ろ腕。無駄じゃないか。
確かに足からの力を通背させるのはいいのだがなにか納得がいかない。
しかしだこれを武器を想定した動きとみると型がフィットするから不思議だ。
手の延長が武器だと言うが、武器の補助としての拳法なのでなないか。
だいたい人を殺傷するならば武器が効率性が高い。
武松みたいに腕力あれば別だが、その武松も武器使っているし。
つまり中国武術は武器の使用を前提にした拳なのではないかということだ。
受け方も一種独特だし、素手を相手にしているとは思えないのである。
ある時、中国人の方に「余裕こいて蹴りを受けるのは注意したほうがいい、仕込み靴てのが
あるからね。グッサリいくよ。」と教えられたことがある。
確かに、ありえる。平和ぼけした日本人にはない感覚だ。
作品050
 水滸伝には沢山の一般人が登場するが、活躍と言う点では簫嘉穂(しょうかすい)の右に
でるものはないであろう。
他に李俊と意気投合した費保という人物がいるが、実績は十分だがやはり悪党なので
数にはいれられないし、田虎の投降した武将もいるが一般人といいうわけにはいかない。
水滸伝は任侠集団の主人公達と私利私欲をむさぼる悪漢ばかりでいろどられ
善良な一般人が少ないのが特色なのだが、その中でも簫嘉穂はずば抜けている。
水滸伝があまりにも主人公や脇役を含め悪党や悪女で彩られ、腐敗した世の中を見事に
描き出しているためかこういう人物は目立つ存在である。

 簫嘉穂は豪胆で度量の広い人物である。彼がたまたま荊南に遊びに来たところ、王慶が城を
奪おうとしているのに出くわし賊をを退ける献策をしたが受け入れられず城は落ちた。
その後梁山泊軍が王慶討伐に乗り出し軍を二手に分け、宋江の軍が荊南にあたった。
梁山泊軍が荊南を攻めたが簡単に陥落せず、悪いことに簫譲、裴宣、金大堅が捕らえられて
しまった。3人の命も風前の灯火。
この時、城内より呼応し王慶軍を襲ったのが簫嘉穂が指揮し蜂起した住民だった。
彼の活躍に宋江等は朝廷へ報告し恩賞を与えられるよう取りはからおうとしたが
簫嘉穂はこの申し出を辞退し、何処かへ飄然と姿を消したのである。
西部劇のシェーンのようなかっこよさである。

ところで上記の漫画は原作があまりに綺麗すぎるので、少々簫嘉穂には汚れ役をやって頂いた。
主張を180度転換したもので描いた。

 仏典鋸の譬えより抜粋
女資産家ヴェーディーヒカーはつつまやしく穏やかで優しいと評判であった。
あるとき下女のカーリーはこれを怪しみ、わざと朝寝坊を繰り返した。
すると女主人はかんぬきの留め金で下女の頭を殴った。
カーリーは頭から血を流し通りで騒いだので評判がたった。
ヴェーディーヒカーは凶暴だ、穏やかでないと。
われわれはことが起きない限り平和な心持ちなのである。
それはその意味について考えないからである。
つまり火の粉がかからないかぎり穏やかなのである。
しかしひとたび事が起こると、止まらなく暴力にむかうのである。

 平和を愛する者とは、相手の良心を信じ対話を図り問題を解決し、
もし相手が自分勝手に事を運んでも堪え忍ぶものたちである。
もう少しはっきり言うと、アメリカインデアンとか女真族のように異民族がどんどん侵入し
土地が占拠され、挙げ句の果てが辺境の土地に強制移動されても堪え忍び
恨みの心をいだかないものたちのことである。
そう、平和は戦争する以上の忍耐と勇気と誠実さが要求されるのである。
でもこんな人いないよなー。
こいう人たちを「地の塩」と呼ぶのかもしれない。
作品051
 宋江の悲劇はかれの徳である優しさ、思いやりの深さから起こっている。
後の清風山での事件も哀れみを悪女にかけたために、逆恨みされ酷い目にあっている。
水滸での混乱した社会のありようではこのような慈悲深い人物は冷遇されるのである。
さて逃亡生活にはいるきっかけとなった閻婆惜殺人事件とは以下のような事件であった。

 あるとき宋江は持ち前の親切心から、旅先で夫に死なれた哀れな閻一家を世話したことが縁となり
不本意ながら閻婆惜と結婚することとなった。
ところが妻の閻婆惜は浮気っぽく、宋江の部下張文遠(張三)といい仲になってしまった。
こうなると閻婆惜は夫の宋江が煙たくてしょうがない。
丁度そのころ劉唐が宋江を訪ねて来て晁蓋からの手紙と金子を渡した。
宋江は手紙は受け取ったが金子は受け取らなかった。ところがこの手紙を閻婆惜のところで忘れたので大変。晁蓋はお尋ね者で梁山泊に入山している者、関係を知られたら大変なことになるのである。
悪いことに閻婆惜に見つかってしまいゆすられることにうなった。
我慢に我慢をかさね妻の閻婆惜のわがままな条件をのむ宋江だったが、
梁山泊からの金子を要求されて苦境に落ちてしまった。
宋江が持っていないといっても妻は信じない、言い合いになり、ついに我慢の限界に達した宋江は
妻を殺してしまう。

 結局この夫婦の悲劇は俗に言う「性格の不一致」である。
宋江は家庭的な人物でなく独身がお似合いの人物である。
だから30代まで独身だった。
閻婆惜は18才で、成熟した女性をいうより若い恋多き女性である。
不幸なのが宋江も周囲の惰性で結婚し、閻婆惜も母親の意向に従い生活のため結婚したような
ものである。しかも宋江が女にうつつをぬかさないような変わり者なので相手にされない妻としては
不満があるに違いない。
当然宋江よりいい男が現れれば惹かれるのもわかるような気がする。
閻婆惜は悪女というより未熟な女性の顛末といえる。
さらに言うならば女性に自由のない時代のため親に従わなくてはならず
相手を選べない社会的問題を含んだ誠に不幸な事件であった。
また宋江から見れば「情に棹させば流される」の典型的な例であった。

水滸伝では恋する人々が出てきて愛憎入り乱れるが
それに相対するものとして「プラトニックラブ」なんてのがある。
簡単にいうと精神愛のことだが、みなさんその意味がおわかりだろうか。
これはプラトンのエロス論であるが原典は著書「饗宴」に述べられている。
この中でソクラテスがマンティネイアのディオティマ婦人からの教えてもらったこととして
紹介しているのである。
「エロス(恋い)は良きものが永遠に自分のものであることを目指す・・・肉体的にも精神的にも
美しいなかに出産すること。・・・魂の内の美は肉体の美よりまさる・・・人間の営みや法に内在する
法を眺め・・・それ自身がそれ自身だけで独自の形相を持つ者として永遠である。・・・・
恋の正しい進みかたは地上のもろもろも美しいものから始まって上昇していき肉体から営みへ
営みから学問へそして美そのものを対象とする学問にいたるのです。」
何がなんだかわからないでしょうから、簡単にいうと、イデアという絶対的永遠の「美」を恋もとめる
のだと言っている。
このような精神論は東洋の思想でも同様に存在する。
ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド第四章第五節より
長々とアートマン論が展開されるがヤージニャヴァルキャが妻に語る言葉。
「ああ、まこと夫を愛するが故に夫が愛おしいのではない。アートマンを愛するが故夫が愛しいのいで
ある。妻を愛するが故に妻が愛おしいのではない。アートマンを愛するが故に妻が愛おしいのである。
・・・アートマンが見られ聞かれ思考され認識されるときこの世の全ては知られるのである。」
イデア論とアートマン論を同一に見てはならないが両者も性欲としての求愛ではない
もっと深いものがあるのだということを教えている。
作品052
 宋国主力13万を率いて高イ求(こうきゅう)が三度梁山泊を襲ったが、百八人のメンバーも集合して軍備充実した
梁山泊の敵ではなかった。
これにより梁山泊は宋国以上の実力をもつものと証明されたのである。
問題はこの戦力をなんに使用するかということだ。

高イ求は四姦の一人で殿師府大尉の高位である。
水滸伝では主人公達より早く登場してその出世ぶり人となりを描いてある。
王進の災難その後の林冲の悲劇といい、地位をいいことに悪行三昧なので,このようなよからぬ人物が政治の
高位にあるとはなんと社会が乱れているのかと読者に社会状況を教えている。
黄信の話は別として高イ求が冒頭から登場して主な敵役をして存在するのも、
この梁山泊との決戦のためにキャラクターとして配置されたのであろう。
宿命のライバル悪漢高イ求との戦いでうち負かして梁山泊の栄光を飾る筋書きなのだ。
水滸伝が単なる忠臣蔵のようなお話であったとするならばここで高イ求の首級をあげておしまいとなるはずだが
そうではない。
つまりもともと小者だった高イ求は殿師府大尉になりはしたものの宋国に力がある内は意味をなしたが
梁山泊が実力を蓄えた以上、もともとの小者的存在に転落している。
以降かれの出番はない。
単なる反政府運動でなく高イ求を越え宋国をこえ、遙か彼方を梁山泊は目指しているのである。

一般に世直し反政府の話として水滸伝をとらえることが多いのだが、
水滸伝がそういう存在でないことは、第八十回を読むとよく分かる。
林冲、楊志が睨む中、宋江達が一所懸命高イ求と仲良くやろうとしている。
また第四十二回で九天玄女より「高に逢うは是、凶ならず」と言葉を頂いており、
高イ求もたんなる踏み台にすぎないということがわかる。
では彼らが目指したものとはなんなのか。
それは「中華の栄光」である。

 ところで林冲の悲劇を知る者はなんとか高イ求に一泡吹かせたいと思うことであろう。
物語では残虐な仕返しはしなかったが、燕青が高イ求を相撲でしこたま投げ飛ばしみんなの笑い者している。
恨みの解決はなかなか難しいものだが、仏典にあり「我を罵った、我を笑った、我を打ったと思う人には
恨みは静まらない。恨みは恨みによって静まるものではない。恨みを忘れて、恨みは静まるのである。
彼我を罵り,我を打ち、我を破り、我を掠めたとかたくとらわれる人の怒りは止まない。
彼我を罵り,我を打ち、我を破り、我を掠めたとかたくとらわれない人の怒りはやがて止むであろう。」
鋸の譬えより
「もし、比丘たちよ。盗賊が鋸で御身等の四肢を切断することがあったとしても、そこで敵意をいだくようであれば
そのときその者はわたしの教えに従っていないのである。」
とまあ憎しみを抱いては先には進めないようだ。
上記漫画では、水滸伝において結局高イ求は謝罪の一言もなかったので、林冲があまりにも不憫なので
こんな風に描いてみた。
作品053
 高毬が水滸伝最大の宿敵でないことはno52で述べた。
彼の存在はいわば腐敗した中国世界の象徴であり、軟弱な中国軍の象徴である。
この高毬率いる政府軍を倒すことは、梁山泊軍が真の軍隊としての存在の証明となるのである。
すなわち北方「遼」との対戦「資格者」としての証明である。
分かりやすく表現すると「あいつ等みたいな腐った軍隊でなく、われわれこそ真の中国軍の姿だ。」
ということになる。
そのお膳立てとして水滸伝の最初に高毬が設定されているのである。
この高毬の軍事力と対等になるまでまで梁山泊は強化されなければならないのである。

 高毬は「高二」という名前で、チンピラでうだつの上がらない人物であった。
しかし蹴鞠の特技で端王に気に入られ殿師府大尉に上り詰めた。
高毬の存在の意味は上記のごとくの理由だが、その表現するところは1,人事の問題 2,軍隊の問題
である。
1,人事の問題は.
中世の宋時代、科挙(国家試験)の殿試(皇帝長直々の試験)が行われ
皇帝の意志を反映する者が採用されることになった。逆に言えば皇帝のお気に入りの者が採用されることとなり
風流な皇帝の場合とんでもない人物が採用されるようになった。
この殿試は唐時代、試験官にまかせていたところ派閥ができたうえに、どう考えても能力のない人物が
コネで採用されていた。こういう反省から人任せでなく皇帝直々に人を見定めようと始められたものであった。
しかし、皇帝がしっかりしていればいいが政治に無関心の皇帝の場合、くだらない人物を
採用してしまう弊害がある。
2,軍隊の問題は
宋はそれ以前が軍閥が力を持ち戦乱が絶えなかったので、中央集権化し軍隊は地方に置かないこと
にし、いらぬ勢力が発生させないようにした。文事主義が行き届き軍事面は重視されなかった。
武官より文官が上位の時代であり、軍人は冷遇の時代であった。
当然防衛力は落ち、外国のいいようにされるようになったのである。
これが高毬の指し示すものだが、彼から物語りが始まり、ビリヤードの玉のように物語が展開していくのである。

 その最初の弾かれた玉が王進であり、梁山泊のメンバー史進に引き継がれるのである。
王進は高毬の魔の手からいち早く脱出したのだが、向かった先は延安。
延安府の経略使(地方総督)をたよって向かったのだが、ここは外国「西夏」との最前線。
宋は「遼」ともきな臭かったが「西夏」とも戦いを繰り広げてきたのである。
水滸伝は「遼」を取り上げているが、平和な時代が続き戦闘方法を知らないものが多い宋は
「西夏」の精悍なる騎兵のまえにズタボロの状態であった。
ここまでだらしないと強い中国軍を夢見る作者の気持ちもわからんでもない。
作品054
 戦力が充実し兵力10万に達した梁山泊は童貫軍を破って、ついに正規軍に匹敵する力を証明した。
しかし政府軍も指をくわえて見ているわけではない。
徽宗皇帝の命のもと高毬が出陣することになった。
いよいよ梁山泊と奸佞高毬との戦いの火蓋は切られようとしていた。
高毬ひきいる政府軍は総数13万どうどうたる数である。
しかしそれだけではなかった異民族との戦いにおいて功名をはせた英雄「十節度使」を引き連れていたのである。
これはつまり宋国主力が梁山泊に戦いを挑んでいるのである。
腐敗し弱体化した宋国の軍隊、それに対し新規に英雄豪傑を集結させた新軍団「梁山泊」。
両者は激突することにより「真の軍隊はどちらだ」の証をたてるのである。
つまり、この戦いは「遼」と相対すべき「宋」の代表は誰だという、代表決定戦だったのである。
弱体化した宋軍の象徴として高毬がおり、彼の弾いた王進から始まり巡りめぐって今此処に相対する軍団が
結実し現れたのである。
相反する両軍。運命の歯車は両者を戦いへと導くのだった。
遼に対する挑戦権ははたしてどちらに転げ込むか、戦いは三度行われる。

 さて小さな反乱分子だった梁山泊も国軍なみの軍隊の形態を持つに至ったが、宋国正規軍を越えて
強化されなければならなかった。
それは彼らの存題意気が「中華の栄光」の具現だからである。
ではどの程度強くならなくてはいけないのか。
ちょっと歴史で見てみよう。
壇淵(せんえん)の役や太宗時代の遼遠征の戦いは以前述べたので、ここではさらに歴史を遡って
宋以前を紹介したい。
宋の前の前の王朝「後晋」時代に宋と同様にこれまた都を開封(東京)においていた。
この時代後晋は遼の実力を認めず野蛮人と馬鹿にしていた。
これに怒った遼は壇州(せんしゅう)まで攻めたが引き返した、これに気をよくした後晋は遼を破ると
遼の太宗は本気で激怒、大軍を編成すると南下した。
後晋の防衛戦はたちまち突破され都開封は陥落し皇帝は捕らえられた。こうして後晋が滅亡したのである。
しかも怒り治まらないのか「稲刈り」と称し老若男女を虐殺したのである。
こうなると政府軍は消失したとはいえ、一般民がゲリラ戦を展開するようになり、(作品no17のタイトル河北でレジスタンスはこの時代を指す)遼駐留軍を悩ます、
加えて暑さになれないのと、故郷懐かしさか帰還のムードが高くなり
遼は本国に帰還したのである。
とまあ、軍事がおろそかにされた文事主義の時代の宋のではなく
それ以前の中国王朝の遼との力関係を紹介したが、まあ大差ないともいえる。
この遼の軍団を滅亡させるほどの軍事力が梁山泊には求められるのである。
だから高毬の正規軍を三度どころか公明並に七度破るくらいないと本当はだめである。
作品055
 物語の百貨店「水滸伝」にないものはない。(一寸言い過ぎかな)
そんなわけで「ちゅーごく」と言えば功夫映画。
水滸伝では武松と蒋門神の戦いがある。
毒殺された兄、武大の敵を討ったため孟州流刑になった武松。
その地孟州で武松は地伏星の施恩の厚遇を得ることになる。
施恩は「快活林」という交易場(旅籠百軒、両替屋、博打場が二三十軒あるらしい)で料理屋を経営しながら
これらを支配していた。毎月二三百両の冥加金が手に入っていたが、蒋忠{蒋門神}(なんでも泰山の奉納相撲で
3年間負け知らずだったらしい)によって縄張りを横取りされたのだった。
施恩に恩義がある武松は縄張りを取り戻すべく蒋門神と戦うのだった。

 武松の使う拳は全く不明だ。
虎を退治する時も酒に酔っていたが、この戦いでも酒を飲んでいる。一般にいわれるように酔拳ともいえる。
しかし酔拳なる門派は中国武術には存在しない。各門派に酔拳の型があるだけである。
彼の十八番の技が玉環歩、鴛鴦脚というから足技が得意なのが分かる。
従ってかれの拳の間合いは蹴りにぴったりの離れた間合いであることがわかる。
まあ、簡単に言うとK1のような戦闘パターンであると推察される。

 このような素手と素手の戦いは水滸伝でのそうあるものではない。
人を殺すのに素手は非合理的なのである。事実武松もこの喧嘩で蒋門神をうち倒すが、その後殺害するときは
武器を使用している。
素手対素手は「格闘技」という娯楽だが、人を殺すとなると武器が前提の「武術」となる。
現在の中国武術は火器の発達により武術でなく伝統技に転落している。
したがってそれを修練するものは骨董的趣味をやっているといえる。
拳法を10年修行するより拳銃を1週間やった方が実用的で効率が良く、治安の高い土地では人を傷つけない
捕縛の技術のほうが役に立つのである。
はでな殴り合いは見た目すごいがよーく考えると陳腐なことをやっているといえる。

 さて上記漫画の2コマ目に両者が手を交わる絵を描いているが、実際は高速で腕が動いて交わっていると
理解して下さい。絵が下手なもんで。
この絵をあえて描いたのは中国武術の特徴が表現出来ると思ったからです。
ちなみに武松の場合は多分この間合いより離れているので違います。
両者は手を交差させていますね。これは手の皮膚感覚で相手の動きを読むことが出来るのです。
つまりこの交点をベースに攻撃が組み立てられるのです。
腕が上にねじられているのは、強力なパンチが来たときカウンターぎみに出すとねじりによって相手パンチ
軌道が横にずれるのです。さらにねじりの戻る変転力であいての腕を引っかけ採取し、あいて腕を誘導します。
手先のねじりは伝導して腕から胴体、足の動きを導き出します。
簡単に言うと相手の腕からの情報をたよりに相手を誘導し本体に潜入していくということです。
この時相手の動きは相手攻撃加速以前の段階で封殺します。
それから攻撃というわけです。
蹴りの場合も一寸違っていて、相手の手の交点より導き腕を捕捉し相手の蹴りが出ないようにしてしまう。
またこれによりディフェンス側の手をなくしてしまい。
守れない角度から蹴りをたたきこむ。
武松の足技は相手が自由に動けるので、トリッキーな動きで幻惑し隙にしかけるといったものでこれとは
戦いの思想がちがう。
 私の場合は高度な技なんて知らないので、1打目で喉を狙ってしかけ敵腕の交点は維持しもう一方で目を狙って
あえて受けさせ。採取すると相手重心を浮かせて足を払うのが好きである。
もちろん最終的には踏んづけるのだが。
作品056
 人殺しの罪を逃れて五台山で出家した魯智深(魯達)だったが、もともとの無法さが改まったわけでもなく
寺で大騒動を起こし東京の大相国寺にだされることとなった。
ようするに問題児を追い出したわけ。

 さてここらへんのあらすじはほとんどの方がご存じなので省略するとして、解説のほうを重点にしてみよう。
本来このネタは100作品以降に描くつもりだったのですが、急遽繰り上げて発表いたしました。
と言うのも、作品52,53,54にて水滸伝の構造を紹介したのはいいが、実はあれは全体の構造の半分だけ
であり変な誤解を与えそうなので急ぎこの作品を登場させたというわけです。

 水滸伝の成り立ちで「中華の栄光」を画いたものであること、宋国の弱体化した国軍にかわり夷敵を撃退する
ために梁山泊軍が存在すると述べたのですが、単純にそう考えては間違いになります。
たとえばその主張のままだったとすると疑問が生じます。
まず単に「中華の栄光」だったら遼を討伐して万々歳で終わる方がいいわけだし、あえて方臘を加える必要はない。
あるいは泣かせる話なら、遼との戦いでぽろぽろと仲間が死んだ方がお話としてはいいはずである。
梁山泊を解体するために方臘があるとの見解もなにか違うようだ。
では何故このようなことが起きるかと言うと、それは水滸伝がもう一つの柱をもつからである。
つまり2本立ての構造だったわけである。
一つの柱は「中華の栄光」であり、もう一本は「儒家の思弁」である。
一つ目の柱の中華の栄光としては目標として「高毬」なる人物が設定された。それと同様にもう一つの柱にも
人物が設定される、それが「魯智深」である。
魯智深は物語の最初のほうに登場し、ラスボス方臘を捕らえて全体の話を終わらせる。
水滸全体が魯智深に収まってしまう感じだ。
簡単に2つ目の柱の構造を述べると前半は仲間が集合する過程、後半は遼、方臘の戦いに分かれる。
前半は中華社会の表現と問題提起、後半はそれに対する施耐庵の答えである。
この答えのため遼、方臘のふたつが相対する完勝と辛勝というかたちで画かれる。
従って残念なことだが田虎、王慶は水滸伝には存在してはならない。
それは2番目の柱の意味を破壊してしまうからだ。

 とまあなんだか意味が分からないでしょうが。要するに2本の柱があることをご理解頂きたい。
当面この漫画は1本目の柱の軍団の形成と、2本目の中華社会の問題の箇所をやっちゃいます。

main( ){xxxxx} とはC言語のメイン関数のことである。
システム記述言語(OSのunixを記述していた)だが何故か一般的な言語となってしまった。
特徴としてアドレス値を示すポインタというのがある。シフト演算したりテクニックが必要。
またマシーン語並のレジスタ操作ができるのが面白い。。
同種の科学技術言語としてfortran、cobol、basicてのがある。
パソコンでは当初basicとマシン語が一般的であり、多くの者がソースを読んで改良したりして遊んでいた。
この当時の言語はgotoが多用されているためウナギのようなソースであった。
一部ソフトでは解読されないようにわざとむちゃくちゃなジャンプをさせてあった。
このころ提言されたのが構造化書式。
簡単にいううとgotoで番地にジャンプさせずにフローに従いブロック化して記述しようとしたのである。
これによりプログラムは見やすくなった。(と同時にコンパイルするのでソースが読めなくなった)
C言語はこの構造化書式に非常に馴染んでいたといえる。
その構成はmain(){ }(メインプログラム)が他の関数(プログラム)を呼び出している形である。
まあパーツごとに子プログラムが親プログラムに整列してはいっている状態かな。
そしてそのメイン関数の閉めとして}がおかれプログラムが閉じられる。
現在このC言語はプログラム全体をオブジェクトの集合体として作り上げるオブジェクト指向の言語になっており。
C++と呼ばれている。
C言語のソースを読みたかったらBSDかlinuxのカーネルソースを探されるといいでしょう。
作品057
 殿司制使の楊志は徽宗皇帝の万歳山の造営のため太湖から花石綱(奇岩)を運搬するように命ぜられた。
しかし黄河にさしかかった時、突風にあおられ船は転覆、大切な石を沈めてしまった。
マラソンで言えばゴール寸前で人の手を借りた状態のことで、まったく運がないお人。
そのために都に帰ることも出来ずに身を隠すことになる。
彼の転落人生の始まりであった。
この後も転げ落ちる暗い人生となるが、それは彼が天暗星という名ゆえなのかは分からない。

 青面獣楊志は北の「遼」、南の「方臘」に非常に関係した人物である。
遼では彼の先祖が遼との戦いで活躍しており、方臘ではかれの与えられた任務の石の運搬が方臘の乱のきっかけだからだ。
彼を通してこれらの複線にしていたのかはよく分からないことであるが、高毬のように弱体化国軍の象徴といかないまでも彼の
存在によりかつて栄光ある軍隊が存在したこと、今は哀れで落ちぶれた軍隊になってしまっていると言うことを教えてくれる。
彼は禁軍の武官だったのだがその転落の第一歩がこの「花石綱」である。
しかし不思議なことに水滸伝では彼の大きな事件「花石綱」については省略され紹介文程度にに記載されたものになっている。
これは方臘色を薄め「遼」にウエイトをもってきたためと推察される。このことは方臘編がはじまるといなや、作者に戦闘部隊で一番最初に戦線離脱させられるのは彼だからである。
彼は対「遼」の為の戦士だったわけで方臘との関係は取り除かれたのである。
また水滸伝が主人公達がお話のバトンを渡していく形式なので「花石綱」を入れられなかったとも考えられる。
さらには「花石綱」によって梁山泊の主力の面々が集まってしまったのでは面白くないというのもあるのかもしれない。
そのため楊志は林冲との一騎打ちをさせられ、晁蓋等に騙され任務を2度も失敗する仕事の出来ない駄目な奴になってしまった。
しかし花石綱の物語は軍隊の境遇を画く上で良い話しなので棄てがたいものだ。
高毬就任で軍事がなおざりにされていることがわかり、楊志の任務で軍隊がどんな扱いをされているか分かりやすい。
それでこの漫画で画かせていただいた。

 さて宋では文官優位の体制がとられており武官は1ランク下の存在だった。
それもこれも軍閥が力を持つと戦争ばかりして安定しないので中央集権制にし兵を取り上げた
のがそものもで、軍人の給与である財政を文官が決めていたのでかーちゃんに頭が上がらない状態になちゃったて感じなのである。くわえて武官が頻繁に交代するので兵練が行き届かなかった。
それでも雲燕16州の失地回復という理想にもえているうちはいいが、遼との壇淵の和議、により平和が訪れると宋国は大繁栄、ますます軍隊の意味が薄れてくる。
もっとも西夏との争いがあるので戦っているが平和ボケした連中ばかりで精鋭部隊がいない。
そうなると単純に頭数で勝負しかない。
水滸伝では80万禁軍なんていって驚かさせるが、宋建国時は19万の精鋭で天下を平定していったわけで、数字見ただけで水ぶくれ状態てのが分かる。
え!、もちろん梁山泊軍は新規の精鋭部隊ですよ。
当然水ぶくれした軍隊は国家の財政を圧迫するわけでいいとこなし。
楊志の任務も皇帝の庭の石を運んでくる仕事に、ワイロ金の護送とろくでもない任務である。
軍隊なめてんのかと言いたいところだろう。彼の先祖が見たら憤慨ものではないか。
とはいえ宋国は金で平和を買っていて繁栄しているわけだから案外正解かも。
作品058
 御史大夫崔靖の奏上により梁山泊を招安により帰順させ遼討伐にあたらせるとことなった。
しかし、この任務にあたった太尉陳宗善だったが同行した張幹辧と李虞侯まずかった。
使者の傲慢な態度に梁山泊側は怒り、招安は流れたのである。
このことにより奏上した崔靖はおとがめを受け、皇帝の命により討伐軍として宦官の童貫が出撃することになったのである。
童貫は東京管下八路軍を招集し近衛軍より2万を加え計10万の軍勢にて梁山泊を襲う。
官軍10万、梁山泊軍10万の対等の戦力どうしの戦いであった。

 梁山泊軍を単なる山賊と侮ってやってきた童貫であったが、装備も充実し組織的に連動する梁山泊軍に驚嘆。
梁山泊軍の陣立てはお得意の「九宮八卦の陣」であった。
両軍は激突。しかし童貫軍は梁山泊精鋭軍の敵ではなかった。
前軍先鋒の秦明、董平、索超が突撃すると陣はたちまち撃ち破られ1万の将兵が討ち取られ軍は30里後退した。
童貫軍は陣を建て直すと今度は「長蛇の陣」にて攻撃を再開した。
頭と尾が連動して攻撃を仕掛けてくる陣形であったが、梁山泊の変幻自在の陣立てにきりきり舞。
梁山泊の「十面埋伏の計」にて童貫は心肝寒からしめたのであった。
童貫軍は兵の2/3を失い、梁山泊軍は圧勝したのであった。
そしてこのことが、いよいよ高毬出陣となるのであった。

 第76回にて作者は梁山泊軍の描写に相当数のページを割いている。
各回で登場人物の様子を描写しているが、この回の描写は度を超して長い。
これは何を意味するかというと、梁山泊軍が完成し、それは山賊の軍隊ではなく官軍としても恥ずかしくない
ものになっているということを表現したかったからだ。
そのために対「遼」の戦術。「九宮八卦の陣」をベースに、各主人公の配置と装備を詳細に説明しているのだ。
いわば襲名披露みたいなものだ。
「こんな正規軍みたいな軍団が完成いたしました」と紹介しているのである。
スポーツでいれば先発メンバーとポジションが発表された感じである。
童貫戦はそういう意味では本番まえの観客試合でオールスターチームが勢揃いして活躍するのに似ている。
戦いも圧勝とはご祝儀みたいなものである。
イメージ的にはこの回は新装開店の花輪で覆い尽くされた店という感じか。
この戦いでは敵将を多く討ち取っているが、高毬戦は流石に「十節度使」が相手となるとドローが多くなる。
だがこれらの戦いにより将兵を失わないほど対遼の軍隊として十分な戦力を有することがわかるのである。

 梁山泊を単なる反政府の軍団と思われては困る。もしそうなのなら童貫軍を破った時点で都東京陥落は
はっきりしちゃうからだ。
しかしこの梁山泊軍をもってしても遼との戦いは薄氷を踏む思いをしたわけで、遼の戦いはそもそも無謀なんではないか。
作品059
shiori*2  梁山泊組織拡大の変遷

 東平府攻略の後、宋江は頭領が百八人も集まったのに気がつき、兄弟の心身の安楽を祈り多くの戦いで死んでいったものを養するため「星まつり」をいとなんだ。
公孫勝が祭りの主宰となり様々の高士を招いて執り行うlことなった。
公孫勝と四十八の道士が7日の祈りをしていたところ、突然天上に天門開が現れ火の玉が落ちてきたのである。
落ちたところを掘り起こしてみたところ石碑が現れ、その石碑にはなんと百八人の頭領の名が刻まれていたのであった。

 梁山泊も全ての仲間が集合し、彼ら本来の使命を果たすべく導びかれていく。
水滸伝の初回に洪信がおごりから石碑を取り除き封印されていた魔星を解放したのと関連して
梁山泊のメンバーが全員集合したさいのも石碑が現れる。
物語の冒頭で古い石碑なのに「洪に遇って開く」と洪信を示すかのようにが書かれているで妖怪ものかと思いきや
英雄豪傑のお話であり第71回でやっと彼らがあのときの解放された魔物だと理解する。
梁山泊の石碑にも彼らの名前が刻み込まれているのでここで水滸伝の物語が因縁系の物語であると分かるのである。

 しかしこの石碑の意味は非常に重要だ。
つまり梁山泊の組織において大変な意味をもつということである。
「聚義庁」はその名の示すとおりみんなで集まって評議する場のことである。
梁山泊においてこれは王倫時代、晁蓋時代を通じて同じであった。
それが替わるのは宋江時代になってからである。

 さて山賊つまり「匪賊」の内部構造だが一般に中国では家の権力秩序と同様に家族制度の上に成り立っている。
梁山泊の序列を見ていただければここのところがよく分かるでしょう。
従って家長である頭目には絶対的な権限が集中するし、配下は金品を差し出し、頭目は全財産を所有する。
金が集まるそこには当然裏切りも発生するのだが。
ところが反面、頭目は家長制度みたいだから強権的と思いきや違っていて発言に制約を受けてしまうのである。
複合集合体の匪賊場合はねらう獲物や取り分について聚義(みんなで話し合い)がなされるのである。
つまり頭目はみんなの意見を聞きながら意志決定を行うのであり、民主的というか合議制なのである。

 匪賊が集合し大集団となることが中国の歴史でもくりひろげられてきたが、構成する小集団はそれぞれの地域で力をもっていたわけで、それが外的圧力により一時的の他の集団と合体していくことが見受けられる。
しかしそれは固定的でなく外部状況が変化すると簡単に大集団から分離し別行動をとるようになる。
大きな方向転換では政府軍に編入しそちらの一部となるという変化も見せる。
つまり大集団の中の構成小集団は流動的で状況により簡単に解体しやすいのである。
各小集団が自律した行動をとる以上、それらを集めた匪賊の大集団は合議制を建前とするのである。

 梁山泊も以上の理由で他の匪賊同様に合議制をとっていたわけである。
さて皆さん思い起こしていただきたいが、梁山泊の集団が大組織になる過程だが別の匪賊集団を取り込んで大きくなっていることを。つまり官軍の圧力によって避難所的に集合していて、匪賊大集団形成の定石的展開だが梁山泊も例外でなかったのである。その中を覗いてみると梁山泊系、少崋山系、黄門山系、芒トウ山系、桃花山系、清風山系、二竜山系、飲馬川系、江州系、各種軍人系など数多くのグループで構成されている。
これらは呉用の組織改編により徐々に集団は解体されていったが、最後まで繋がりは残った。

 さて、そこで登場するのが宋江の「忠義堂」への改名。
これは何を意味するかというと意志決定は「聚義」ではなく、トップダウン方式になったんだぞとの宣言なのである。
晁蓋存命のうちは合議制していたのだが、60回でなくなるやいなや専制的路線を打ち出したのである。
つまり、組織改編と同様に梁山泊を山賊集団から軍隊に代えてしまうというもくろみがあったのである。
軍隊では合議制はゆるされないし、統制命令の一本化が必要なのである。
しかもその集団が寄せ集めで命令無視の勝手気ままな行動をされては困るのである。
対「遼」の精鋭軍としての統制形態それが「忠義堂」の意味なのである。

 これにより梁山泊内の小集団を離脱を防ぐとともに、宋江の意志決定に従う集団と変化したのである。
その精神的縛りとして登場したのが、天から降ってきた石碑なのである。
これにより108人の頭領は精神的にも離脱不可能になり宋江の命令に従う縛りとなるのである。
かれらが招安に不満ながら従ったのもこれらの理由がある。
しかしこの石碑のはではでな演出を考えたのは彼女、九天玄女なのであろうか。

上記漫画で「2001年宇宙の旅」をパロディたが。
2001年宇宙がパロディー作品なのでこの漫画はパロディー作品のパロディーなのである。
どうして2001年宇宙がそうなのかですって。
ニーチェの作品「ツァラトゥストラ」において比喩として「砂漠の旅」てのがある。
これは1、らくだに乗って砂漠の旅をする。2,獅子に変じて戦う 3、赤ん坊になる。
その意味を解説すると長くなるので省略しますね。
映画では1、二つこぶの宇宙船で宇宙の旅をする 2,コンピュータハルと戦う 3、赤ん坊になる
似ているでしょう。その意味も同じなんです。
私は赤ん坊が出てきて「苦笑い」しましてね。
ただしこれは映画の場合で、小説は意味合いが違いますよ。
作品060
 それは劉唐が保正の晁蓋に美味しい話を持ちかけたのが始まりだった。
彼のもたらした話によると北京大名府の留守司(とっても偉い人)梁中書は舅である蔡京の誕生お祝い(生辰綱)として十万貫の金銀珠玉を東京に送ろうとしているというものであった。
劉唐はこの金は不義のものだから略奪してもいいものであるとして勧めると、晁蓋は快諾した。
これに知恵者の呉用が加わり、さらに呉用が阮小二、阮小五、阮小七を仲間に加え、さらに公孫勝、白勝も参加し彼らによって生辰綱強奪計画が実行されたのであった。

 対する護送部隊隊長は楊志。
梁中書は現在の地位は舅である宰相蔡京のおかげであることは、十分承知していてなんとか舅のご機嫌をとらなくてはならなかった。
そのためには誕生日お祝いとして舅が喜びそうな品々を揃え渡す必要があったのである。
ところが問題なのが北京から東京までの間には荷を奪われ安い地がいっぱいあることだった。
紫金山、二竜山、桃花山、傘蓋山、黄泥岡、白沙ウ、野雲渡、赤松林など山賊が横行する場所があったのである。
事実昨年も誕生お祝いを輸送したが、途中奪われて犯人は現在も分かっていない。
そこで梁中書が白羽の矢を立てたのが楊志であった。

  この「生辰綱」のお話と作品no57で述べた「花石綱」の話は水滸伝設立段階の主要な二本の物語であった。
水滸伝の場合こちら「生辰綱」(お誕生お祝い)がしっかり画かれている。
現代でも主演三船敏郎の「戦国群盗」など伝好漢たちが政府の御用金を強奪するストーリーがあるが
このようなスリル満点の列車強盗などの盗人話は昔も今も同じ好かれるお話なのであろう。
元、明代にこのような話があるとは面白いことである。

 生辰綱の話は膨大な水滸伝の話の群の中に埋もれてしまっているが、この話だけを抽出してもう少し詳細に画けばもっと面白い話になるはずである。
というのも生辰綱では簡略な部分があるので腑に落ちない箇所があるのである。
それは情報の問題なんかがそれである。
例えば劉唐が晁蓋に話しを持ちかけるが、その情報はどうやって手に入れたのか。その信憑性は公孫勝が現れることにより高くなりはするが、晁蓋は何を持って信じたのか。
楊志等一行は行商人に化けていたほどのトップシークレットのはずで内応者がいないと分からないはずなんだが。
劉唐はどうやって詳細で確かな情報を手に入れたのか。
しかも、その情報の流通は素早く伝達されないと日程的に無理があるのである。

 劉唐がはっきりしない噂を晁蓋にもちかけ呉用が加わったのが5月であり、なおかつ蔡京の誕生日6月15日の
4,50日前となると劉唐が東渓村に最初に来たのは5月1日から5日の間である。
この時呉用は劉唐に北京に引き返し確かな情報を手に入れるように依頼している。
劉唐が直接全ての情報を北京大名府でて手に入れたと仮定する。
すぐさま晁蓋のいる東渓村にむかって進む、当然早足の徒歩とする。
一方護送側は日取りは最初確定してなかったが、楊志は梁中書に任命されるや変装のアイデアを提案し翌日メンバーの選定などの準備をし翌々日の朝つまり5月の20日に出発している。
ということは劉唐が最短で情報を手に入れて楊志が出発するまでの差は1日ということになる。
楊志がしびれ薬を飲まされ荷を奪われるのが出発から14日後の6月4日であるから、その差は荷物を担いで歩く速度と何も持たないものの差プラス1日ということになる。
どのくらい差があるのか分からないが同じく後に北京の廬俊義が梁山泊より家に帰り着くとき早足で夜通し歩んで10日とあるので以外とその差はないのではないのか。
劉唐が晁蓋の屋敷に到着し結成式をしているとき公孫勝が誕生日お祝いの情報をもってくるので劉唐は平均的速度で歩んだ可能性大である。翌朝阮小3兄弟は1日ほど離れた離れた家に帰り、晁蓋一行が黄泥岡に集合したのは6月3日であり、強奪が行われたのは翌日の6月4日である。
まあつじつまとしては合っているがきわどいような気がする。

ところで晁蓋は北斗七星の夢を見たのであった。、呉用は公孫勝を含めた仲間が7人だったので「これは瑞祥、北斗の星と符合するので成功すること間違いなし」として晁蓋を持ち上げた。
ところが話の展開で白勝が登場すると、この説がいきなりとん挫しそうなので北斗七星の脇の星を登場させつじつま合わせをした。
さすが呉用先生ごまかす頭の早さもただものでない。
後に白勝から足がつくのでその説にのっとるならら北斗の脇の星は凶星だったといえる。
作品061
 梁山泊のメンバーも勢揃いしたある日、灯籠を東京に輸送する一団を捕まえた。
まあ山賊ヨロシク「物は置いてきな」と本来は言うところだが仁の人宋江はれいによって解放するのだった。
そして彼が思いついたのが「東京の灯籠見物にいこう」ということだった。
しかし宋江という男お祭りが大好きのようだ、以前花栄の家で身を隠していたときも提灯灯籠に誘われて
お祭り見物なんてやってひどいめにあったというのに今回も懲りない。
さてツアーメンバーは宋江、柴進、史進、穆弘、魯智深、武松、朱仝、劉唐、李逵、燕青、戴宗だった。
都東京は「元宵節」の祭りで大にぎわい、梁山泊の面々もなんなく人混みに紛れて城内に侵入した。
ここで宋江等は李師師との繋がりをつくるととに成功。しかし李逵の大暴れで計画は頓挫、東京城内を
大混乱にしてしまった。だが知恵者の呉用、こんなこともあろうかと五虎将を救援にむかわせており無事退却したのだった。
この事件には政治的無関心の風流皇帝徽宗も流石に心配になり始めた。
それは軍勢がくることもさることながら自分の書斎に梁山泊の者が侵入していたという気味悪さがあったのであろう。

 さて梁山泊で「遼」を連想させる人物と言えば「楊志」、「呼延灼」だが、もうひとり「柴進」をあげることができる。
一般に言われるように関勝は「関羽」、林冲は「張飛」をイメージしたものだが柴進これは「柴栄」を意識したものである。
柴栄(世宗)は宗朝の一つ前、後周の皇帝である。五代中最高の名君との誉れ高き「若き皇帝」である。
「精鋭第一主義」のがポリシーの若き皇帝は勲功賞罰を厳しく行い、軍隊の志気は高かった。
継続的に近衛兵たる禁軍が強化がされていたが彼の時代に頂点に達したようだ。
かくして地方軍閥との力関係に差が出始め中国統一のきっかけとなる。
若き皇帝が即位すると北の「北漢」は帝位を奪うべく戦いを仕掛けてきた。
両軍は高平で激突したが柴栄軍はこれを撃ち破った。
続いて南の「南唐」と戦いこれを下した。
そして最後となるのが遼の地「燕雲十六州」の攻略である。柴栄軍は遼の州を陥落させていったが、惜しいかな
皇帝の柴栄が病に倒れ崩御した。ここに遼との戦いは道半ばにして終わったのである。
こののち彼の精鋭の軍団を率いたのが、柴栄の部下であった趙匡胤である。
趙匡胤は帝位に即位するや天下を完全に統一し、彼の弟趙匡義によって宋朝が完成した。
というわけで柴栄は宋朝の足がかりをつくった人物といえる。

 水滸伝で後周の末裔という設定でおよそ場違いの柴進がいるのも、柴栄を意識してのものであろう。
柴進の特徴は気品があるだけでなく、武勇にも優れており、演技だったとはいえ方臘編ではすばらしい武勇を見せている。
また年齢も若いのもそのためであると推察される。
柴進の設定によってわかるのが第一に弱体化た後期禁軍に対しは精鋭部隊だった前期禁軍。水滸伝ではこの精鋭部隊を
梁山泊軍が演じることになる。第二に柴栄の果たせなかった遼との戦いを梁山泊軍は遂行しなくてはならないこと。なのである。

 面白いのが水滸伝では現在の禁軍に対し挑戦状をたたきつける役回りが柴栄の子孫である梁山泊軍の柴進であることである。
物語では上記のごとく単なる元宵節の灯籠見物に行ったことになっているが、柴進の行動が作者が画いた物語での主要目的だったのではないか。柴進の行動を引き金にいよいよ腐っても鯛の宋朝禁軍と精鋭梁山泊軍は激突するのであった。
作品062
 「山賊は気楽な商売ときたもんだ」と言えないのが匪賊の悲しさ。
実体は官軍に追われ逃げ回る生活。死に怯え軍隊に編入か農民に戻れればラッキーでほとんどがのたれ死ぬ。
その構成員は若者が多い。若さ故の勝ち気な行動ができるが怪我でもしようなら足でまといと見捨てられる。
とまあ現実の山賊さんは哀れなんでやめといて、肝心の水滸伝だが。

 晁蓋が梁山泊の主になったときその総勢は800人であった。
その後、清風山の仲間が500人が合流したときはかなり増加していて、宋江の発言では人馬含めて4〜5千であると証言している。馬の数を含めてだから人間の数は不明だが3千はいたのではないだろうか。
江州事件のときは遠くまで100人を送り出せるように、頭一つでた匪賊になり始めたようだ。
晁蓋就任から清風山合流の間で武松とか宋江のお話で隠れてしまっているが、裏で着実に集団が大きくなっている。
800人から3千人といったら半端な増員ではない。それは多分社会派義賊とのキャチフレーズがあったからではなだろうか。
もともと任侠の世界では人気のあった晁蓋、(そのため劉唐から生辰綱の美味しい話が持ちかけられたりするのだが)
この人物が反旗の旗を立てたとするなら集まってくるのは自然の成り行きというものだ。
したがって100人台から一気に千人台に膨張したのも納得できる。

 晁蓋は東渓村の保正なので裕福な階級である。
通常の匪賊は農地を持たず職にあふれ兵にも雇ってもらえずその日くらしの若者たちである。
かれらは当然文字も読めず学識もない。したがって徒党を組んでも強力な基盤をもっていない。
匪賊の中で飛び抜けた存在になるには地方名士と深い繋がりをもち、巧みに利用するすべをもたなくてはならない。
政治に関与した強力な匪賊は一般民の支持エリアを持つのである。
晁蓋はもともと地方エリート層(有力郷紳)であり、ここのところは長けていたと思われる。
地方名士を巻き込んで梁山泊一帯は闇の政府状態だったのではないだろうか。
もちろん匪賊らしく地元豪商豪農から身の安全と称し貢納金をせしめるというのもあるが、多分晁蓋の性格としては政府の悪徳役人から梁山泊近辺の村々を守るという名目でなんらかの支持を得ていたかもしれない。
実際の匪賊でも地元の村々から支持された一団は存在するのである。
もっとも梁山泊の支配エリアの名士連中は匪賊であれ国家であれ、自分の財産、村に危害を加えないならどちらの支配でも良かったというのが本音であろう。
かくして晁蓋が梁山泊の主になり他の匪賊集団とは違った大きな存在になった。
もしかしたら、しぶちんの王倫のおかげで立地条件に恵まれていたのに発展してなかったのかもしれないが。

 しかしこのように大所帯になると、悩みの種は生活費。
どうやって収入をあげるかが大問題である。
江州のメンバーが合流したあとに起こる祝家荘との戦いは時遷の事件があろうとなかろうと、起こるべくして起きた戦いなのであった。その全ての原因は梁山泊の組織成長に伴う支配エリアの拡大だったのである。
一般に地元の支持を得た匪賊集団はその支配エリアでは関係は良好だが、よそのエリアに拡大しようとすると各種の摩擦が発生する。やはり地元産は地元でうけるのだろうか。よく考えれば梁山泊軍はその支配地域を変更しなかった。
これもそういう理由なのか。
どちらにしても詩の「天に替わって道を行い天兵を動かす」の天兵はここに形成されるのだった。
作品063
 奥さん殺しで逃げ回った宋江、親友の花栄の家に身を隠すつもりがとんだ災難にみわわれ、
このことが清風山系グループを梁山泊へ導く結果となった。
後の江州グループを入山させるなど宋江は初期の段階から知らず知らずのうちに人を梁山泊に
集結させているようだ。
清風塞は青州から百里(55.296キロ)にあり青州につながる三叉路の交点にあり、ここから二竜山、
清風山、桃花山に通じていた。
交通の要所のためここに駐屯軍基地が設けられていた。
この清風塞に武官としていたのが花栄、文官が劉高であった。
清風山での騒ぎの発端は、この文官の奥さんを清風山の王英が捕まえていたのを宋江が助けたことがきっかけだった。
物語では宋江は清風山を通過したがもし桃花山だったなら、魯智深と楊志はどんな対応をしただろうか。
とてもじゃないが宋江の名前なんて効力があるとは思えないが。

さて女の人質は「採花」というが、女性をさらう目的は性欲を満たすためか身の回りを世話させるためである。
今回の王英のとった行動はこれに該当する。
もちろん営利誘拐も考えることができるが、匪賊の世界では女の営利誘拐はあまり美味しいはなしでないようだ。
というのも現代と違って、女性の地位てのはないも同然で女は「物」とみなされる。
こういった価値の低い「物」をおさえておいて「金を出せ」と脅してもなんの効果もないのである。
例えば秦明などは奥さんを殺されて激怒したが、次の伴侶が決まると何の遺恨も残していない。
まあ女性は使い捨てみたいなもので、子孫を残す家畜みたいなものだろう。
山賊側としてはこのような脅しがいのない物件はないといえる。
かくして女は性的欲求と掃除機炊飯器になるのであった。
しかし、かりに匪賊に囲われるとしてもしても、そりゃー年齢の若いのはいいが年食ったらどうなるかわからん。
特に匪賊は官軍に襲われ逃げ回ることが多いので足手まといになりかねない、特に中国では纏足という
(簡単に言うと女を逃がさないために施した足を変形させる風習)があるもので、家畜同様維持できないとなると
殺しかねない。
パールバックは農地に縛られる中国農民の姿を描いたが、耕作地がある農民は良いほうで農地を持たない男子が存在する。
彼らに未来はなく、貧しい農民には嫁をとることなど不可能なのである。農村社会を飛び出し匪賊の群に入れば妻をとることも夢ではないのである。恐怖と飢えはどちらにも存在し強引ながら女を得られるとすれば匪賊も悪くないのかもしれない。
水滸伝の王英もスケベの男の代表みたいになってしまったが、「結婚したい」という切実な願望は匪賊本来の素直な姿なのである。むしろ女嫌いの晁蓋や宋江が不自然なような気がする。

さて「肉票」つまり誘拐は匪賊にとっては貴重な収入源である。交通の要所を押さえて通行料をせしめるのも常套手段だが
水滸伝では肉票でもってゆするパターンがないのは少々片手落ちの観がある。
私利私欲で地元民を苦しめ財をなした富豪をゆすれば以外と好意をもってうけることと思われるが、匪賊の現状を無視して
水滸伝ではゆすり、たかりは控えめのようだ。
ここが水滸伝の上品さといえるのかもしれない。
人さらいをして売りさばいたたり、役に立たなかった「肉票」をどんどん処分してしまうなどの冷酷な描写がない。
また仲間内での暴力につぐ暴力の制裁の生々しい表現もないのも、高貴な軍隊を目指す物語の所以なのか。
作品064
 登州の猟師である解珍、解宝は虎をしとめたがそれを毛仲義に横取りされたうえに無実の罪で捕らえられ死刑囚とされてしまった。
親戚が捕らえられた顧大嫂はこれを救出せんと夫孫新と義理の兄の孫立さらに楽和、登雲山で山賊家業の鄒淵、鄒潤をを巻き込んで牢破りを決行したのであった。

 孫立達の話は梁山泊と祝家荘の戦いの中で語られる。
水滸伝は全体が時間軸に沿ったものだが、孫立の話は少しだけ遡り別のお話となっている。
アラビアンナイト風のはめ込み物語になっていて、祝家荘の戦いで混戦状態になったところで
いきなり別の話になってしまうので、ちょっと拍子抜けさせる。
なんなんだと読み続けると孫立達が祝家荘に潜入したところで納得。
本来なら水滸伝の物語のパターンでいえば楊雄等のお話のあとにおかれる話である。
たとえば梁山泊に向かう途中孫立等に逢って(孫立等の場所が離れているので問題だが)物語を引き継ぐと言った具合に。
しかし、あえて本来のパターンを崩してもこういう形をとったのは孫立達の存在が祝家荘の戦いの終結の隠し球だったからであろう。祝家荘はなかなか手強く孫立達が登場するまでに王英、秦明、摧が捕らえられ欧鵬は手傷をおわされていた。
そこに援軍としてやって来た呉用の立てた計略は内応者を送り込むということだった。
かくして祝家荘との戦いは梁山泊側の勝利となり近隣の村を震いあがらせることとなる。

 孫立等が安心して牢破りを決行できたのも「梁山泊」という身の置き所があったればのことである。
梁山泊行きを提案したのは山賊家業の鄒淵だった。
このときの彼のセリフは「今、梁山泊はたいそうな勢いで、宋公明はどしどし有能なものを招いています。」とある。
また別の話つまり46回では石秀が「宋公明がひろく有為の士を招いている」と述べているし、44回では楊林が単身梁山泊へ入山を志している。このように祝家荘との戦いの段階で梁山泊は犯罪者の受け皿として知られるようになっていたということである。
しかし一番気になるのがその頭に宋公明つまり宋江の名があることである。
本来であれば頭目の晁蓋となるはずなのだがそれが宋江の名があがるのである。
もちろん宋江の名も大宋国に鳴り響いていたわけだか、それは晁蓋とてかわらない。
このことはなにを指し示すかというと、梁山泊の拡大路線を引っ張っているのが晁蓋ではなく宋江だということだ。
対外戦でも宋江は「まあまあ兄貴はここにいて下さい。私が行って参りましょう。」とどんどん行動するし、晁蓋は半分名目的な存在にされていた可能性がある。梁山泊の入山許可についても宋江がかってにどんどんやっていたにちがいない。

 どんどん人材を登用していたとはどんな状態かというと作品NO62で清風山が合流する前は3千人ではないかと述べたが、その後の祝家荘戦時点の兵員の数を述べてみよう。
祝家荘に出撃した兵員は歩兵6千、騎兵6百であり、後に援軍として呉用が5百を連れてきたので総勢7,100人となる。
これが全人員とは考えられないので仮に出撃軍を全体の2/3とすると、梁山泊の総人員は1万人ぐらいだったのではないか。
こうなると確かに宋江が意識して人を受け入れていたとしか考えられない。
水滸伝は英雄豪傑の話で百八人の頭領のことばかりに注意が向くが、それ以外の者達がぞくぞくと梁山泊に集合しつつあるのがわかる。
作品065
 親孝行者の雷横は親をかばって白秀英を殺してしまい、死刑になりかけたのを救ったのが朱仝。
朱仝は以前は宋江を同様に密かにかばって逃がし、今回も雷横を逃がすために自らを犠牲にした。
そして逃がした罪を得て滄州に流刑になった。
ところが知府は朱仝の風貌が堂々たるものであったので気に入りそのまま役所に留め置くこととなったのである。
雑用係りをしていた朱仝であったが、そのヒゲの見事さゆえか知府の4才なる子供に好かれある日子守をすることになった。
子守をしていた朱仝の前に現れたのは雷横と呉用、二人は朱仝に梁山泊入りを勧めたが朱仝はがんとして応じない。
ところがこんなことをやっている間に子供は李逵に殺されていた。
かくして朱仝は知府の恨みを買い梁山泊に入山するのである。

51回の朱仝の入山の事件は後味の悪いものだが、それは4才の子供を容赦なく殺してしまうというところにあるのかもしれない。
しかし実際の匪賊の虐殺はこれに似たようなものなので、それはそれと流すべきなのかもしれない。

作品no25、64にて自発的に梁山泊に人材が集結つつあることを述べたが、これとは別に強制的に入山させられた人物もいる。
お話の流れでは自発的な入山は目立たないが、強制的入山は非常に目立つ。
あと残りのパターンとしては戦い破れて、説得され入山するパターンがある。
遼遠征までに10万人の軍勢となることから推察しすると、雑兵を含めた全体の入山動機は志願者が大半なのではないか。
特に武将クラスの投降となると部下の兵士も一度に入山する可能性が高い。
全体の傾向としては別として今回は強制的入山の犠牲者たちだが、この朱仝の漫画はこれにあたる。
物語中他の犠牲者は、廬俊義、秦明、安道全、簫譲、金大堅、徐寧、であるが、どれもがかなり強引である。
彼ら全てにいえるのだが梁山泊がやってこなかったら平和な日々だったはずなのだが。
しかし彼らの正体は魔星であり贖罪のために生きているとするなら強制的にも集合させなければいけなかったといえる。
その手口は騙されて家を留守にしているうちに家庭をむちゃくちゃにされたのが廬俊義と秦明、大切な者を殺されて仕方なくが安道全と朱仝、梁山泊に誘い込まれ入山しなくならなくなったのが簫譲、金大堅、徐寧である。
なんでこうなるのというのが彼らの思いだろう。
不思議なのが強制入山されたあとの彼らの行動だが、以外とあきらめも早く完全に梁山泊の一員になりきっている。
梁山泊に人材が集中し始めているのだが、朱仝が入山したころはどうだったかというと出撃兵数を比べてみると分かる。
祝家荘の時は7100人であり次の高唐州の時は8000人であり若干増加しているのがわかる。
この増加分だけでも初期梁山泊の人員レベルである。
作品066
 蒋敬は目立った人物ではなくあだ名から計算上手だけが取柄のイメージがあるが、経歴を調べてみると以外と能力が高い人物なのではないだろうか。科挙の試験に落ちたとはいえ学力がありそうだし(事実計算についてはずば抜けている)兵法も理解している。また謀略にも長けている上に武術もできるときたらバランスがとれている。
こういう人物参謀府に置きたいものだが、謀略などの意地の悪さには呉用にはかなわないのか宋江によって会計係にされている。あるいは李雲などをみても分かるように人材難なので複数に能力が長けたものは不足部署に配属されるのであろう。逆に蒋敬を外して他の者を会計係に回すとしたら誰が適任かは悩むところである。

湯隆は鍛冶屋さんだが、李逵が梁山泊に鍛冶屋の仲間が欲しかったのでスカウトした。当然だが梁山泊の豪傑の職人さんだから普通でない,槍棒を使うのが大好きで、鉄爪槌を振り回して石をも粉々に砕く。
湯隆が入山した頃は政府軍の梁山泊掃討軍呼延灼との戦いが始まる前であり、いよいよ本格的軍事力の強化が図られていくころであった。

 ところで梁山泊では鉄の生産が武器にまわっているように描いたが、宋代の鉄の消費は実際は貨幣経済の発達によって貨幣鋳造に多量に利用されていた。まあ宋が繁栄していた証拠のようなものだ。
鍛冶屋さんついでに述べると、中国においては唐代末に火力革命が河北にて起こり始めた、これは従来薪を主体に生活の火力として利用してきたのだが、自然環境が破壊されその燃料を森に求めることが出来なくなったためにその代用として石炭が利用されるにいたったのである。石炭を使用するようになったことにより鉄の精錬が向上し、農具などの鉄製品が普及することとなった。またそのことが農業生産性を向上させることとなったのである。西洋にも同様の現象が発生している産業革命への道筋なのだが、どちらも同様に森林の薪にたよる手段が環境破壊により保てなったとき化石燃料にてを染めていく.
このことが火力革命となり鉄の生産と繋がってゆくただしその結果が東洋と西洋では違っていた。東洋では鉄を機械使用した蒸気機関などの方向には向かっていかなかったのだった。
西洋と同様にあふれた農民もいたし、金持ち階級もいたというのにどうしたことなのであろうか。
ただし東洋がそこでとどまっていたのに、西洋は機械文明、科学文明と大量生産、大量破壊と向かっていって、自分で自分の首を絞める状態となっているのは、産業革命からの過程が良きものであったか考えさせるところである。
まあいずれにせよ東洋も西洋も大量破壊かそうでないかの差はあったが国土を食いつぶして栄えていたのは確かだ。
作品067
ロールプレイングゲームではこちらが強くなるとあちらからもどんどん強い敵が出てくるのと同様に、水滸伝の物語も梁山泊の戦力に合わせた敵が登場してくるのである。
その点は古い時代も現代もお話の盛り上げ方のパターンは同じといえる。
水滸伝を読まれた読者は最初は個人のいざこざレベルからだんだん国家レベルの戦いになっていくのに驚かれるだろう。
これまでの解説から梁山泊がいかにその戦力を強化していったたかはおわかりになったことであろう。
そう梁山泊は九天玄女の深淵な計画により禁軍レベルまで強化されなくてはならないのである。

 しかしここまで詳細にその兵力を述べてきたが、高唐州あたりからから梁山泊の総数は明記されず出撃者名のみになるため分からなくなるのである。
これまでの推移と遼遠征までの増加を考えると呼延灼との戦いの時期は1万を越えているのは確実だ。
私は以前は梁山泊軍は最終的に2万なんだと思っていたが原作を読み返して本来10万であり最大で20万だったので、こいつらはただの山賊ではなかったと理解したしだいである。よく読んでいると簡単に気が付きそうなものなのだが。

 さて、柴進を救助するため高唐州を襲った梁山泊だったが、こうなると政府もだまっていない建国時の名将呼延賛の嫡流の子孫呼延灼を梁山泊掃討軍として出撃させるのだった。
いよいよ初の政府軍討伐軍と梁山泊軍の戦いが始まる。
ところで、騒ぎの元として李逵が引き合いにだされるが、童貫、高毬の宋主力の時といい初の政府軍派遣の呼延灼軍といい、なにか騒ぎの源が柴進であるような気がしてしかたがない。
ともかく両軍は対峙するのだが、呼延灼は部下として韓滔、彭キの武将を引き連れ精鋭の騎兵3千と歩兵5千総勢8千の軍勢で襲いかかってきた。対する梁山泊軍もおそらく同数か1万ぐらいであると推察される。

 呼延灼軍の特徴は重騎兵である。当初の一騎打ちでは梁山泊軍は敵将の一人彭キを捕らえるなどの成果をあげるが、連還馬の前には手も足もでないのだ。強敵現るの梁山泊はいかにこの危機を乗り越えるのだろうか。

 さて、重騎兵については以前解説したのでこれ以上の説明は必要ないと思うが改めて私見を。
水滸伝の呼延灼の回のお話は「金」との戦闘の史実をもとに描かれていると考えられる。

 「金」は遼、北宋を亡ぼした半農半牧国家である。彼らは重騎兵装備で馬も人も厚い鎧で覆われている。人に至っては目の部分しか出ていなかった。防御力抜群の重騎兵だったのである。しかも3騎を一つにつなぎ、一ブロックとして突進してくるのである。
史実ではこの軍隊に宋軍は散々蹴散らされたが、反撃を試みて成功している。
有名なのは岳飛の河南での戦いである。
岳飛は実体は宋室代々一番警戒していた大軍閥であるが、中国の愛国心として尊敬をあつめる人物である。
この岳飛と金のウジュが河南で激突したのである。
最初岳飛軍が騎兵軍を金軍に突入させた。これに対しウジュは両翼の重騎兵軍を突進させ敵両翼を粉砕したあと中央軍を包囲殲滅しようとした、ここで岳飛軍は進軍してくる重騎兵軍の馬の足をねらい、是をからめとり勝利したのだった。
それは金の重騎兵が1ブロックになっているものに、特殊な引っかけをつけた武器により兵馬を絡め取るという戦法だった。
もちろんそれだけではなく金の防具にあわせて武器も大きくて重い刀や斧を装備させていたのである。

 ここまで述べるとうすうすお分かりだろうが、呼延灼の装備はまさしく「金」の装備。
呼延灼の装備も目以外は厚く覆われている。また「金」は3、4騎だったが、呼延灼は30騎単位で攻撃ブロックを形成している。
是に対する梁山泊軍だが徐寧の「鈎鎌槍」はまさしくひっかけて崩す槍。
とまあ、南宋と金との戦いをモデルに描かれたと推察される。
差詰め梁山泊は岳飛ということになる。ただし物語の水滸伝では梁山泊側は武器が重い武器を装備させていなかった。
これらの武器は写真でみるかぎりかなりでかい。力任せに鎧ごと叩きつぶすという発想だろう。

 ついでに呼延灼の重騎兵とともに砲の使い手「凌振」が登場するのも「金」史実との関係もあるのかもしれない。
南宋時代に金の海陵王は中国統一を夢見て本気で南下した、南宋は国境を簡単に突破されたがサイ石山にて金軍を防御しこれを破った。この時使用した兵器が火砲であった。
もっとも効果のほどは怪しいが、実質的には金軍は仲間割れを起こして本国に帰還した。

 水滸伝が北方騎馬民族にたいする中華人の愛国心のお話だとしたら、これらの戦いの歴史をお話の中に取り入れたくなるのもわかる。中国人の愛国心を喚起する話として、ここの史実をいれて置きたかったのだろう。

 呼延灼の連還馬は徐寧の「鈎鎌槍」で本当に撃ち破られるのだろうか。非常に疑問だ。
というのも「金」の場合は小ブロックなので比較的横に回避でき、そこから馬の足や武具に引っかけられたが、横30騎も並んだ相手の両端に位置どりするのはかなり困難なのではないか。もちろん数珠繋ぎなので成功すると効果大だが。
ほとんど横に移動するまもなく蹴散らされるのではないだろうか。もちろん狭い空き地に誘い込んだら両端からに攻撃できるが,そんなところで連還馬する馬鹿もいないだろう。ビザンチンのくさび形陣形体の突進をうけたらひとたまりもないのではないだろうか。
作品068
呼延灼の討伐軍を撃退した梁山泊軍その後の兵数は不明だが、政府軍に勝利したことにより大幅増加は考えられ、多分2万あたりまで増加したであろう。撃退された呼延灼はすぐに二竜山、桃花山、白虎山の討伐に向かったが、是に対する梁山泊の援軍はわずかに3千、3山の総数が分からないので多分この数で援軍としては十分だったのであろう。このように出撃総数で全体は推し量れなくなったのは残念だ。この青州の戦いを通じて仲間になったのは、呼延灼、魯智深、楊志、武松、施恩、曹正、張青、孫二娘、李忠、周通、公明、孔亮。大収穫である。
作品no59の解説で匪賊が政府討伐軍から身を守るため、他の匪賊と合流し大集団を形成することは述べた。水滸伝の3山連合が丁度これにあたり梁山泊に取り込まれていくのである。しかし前の解説で述べたように現実は危機を脱するためにひとかたまりになったのであり。大集団のなかでも以前の小集団は維持しており危機を脱すると離脱してしまう。梁山泊の場合は組織改革で集団をばらしてしまっている。
同様に清風山が合流したときは隠れるように梁山泊にのがれたが、3山集合の段階では堂々と梁山泊に向かっている。
このことからも梁山泊軍がこの地域に強大な勢力をもっているということが分かる。

 さて水滸伝で気になるのが、武将等を味方に引き入れるさいの口説き文句だ。その発言に2つの言い回しがあるのでなかなか問題だ。一つは政府批判、もう一つは政府に協力して栄誉をえることである。
このことは水滸伝の読者をも混乱させており、前者を突き詰めれば宋朝転覆となり、後者の場合は宋朝に帰順することとなり相反する結果となる。しかしながら勧善懲悪主義でない水滸伝のそこが面白いところで、悪徳は官僚役人等だけでなく主人公達も悪人という凄い設定、当然そのスローガンも読者にはっきり分かるものじゃなくて蒟蒻のようにふにゃふにゃしていて味がある。
 ところで現実のスローガンが実体と一致して立てられていたかといううとなかなか難しい問題だ。
ここで清朝末期の義和団の「スローガン」について考察してみよう。
時代は帝国主義のころ中国においても列強の領土分割競争を行われていたのだったが、この西洋文化の流入について中国でも打撃を受けていた。例えば鉄道網。それまで運河をベースに輸送網が張り巡らされて都市も栄えていたのが、新しい輸送手段により新都市が栄え従来の都市は衰退することになった。また外国製品の流入により市場の崩壊、生活破壊が進んだ。
こうなると当然西洋憎しとなるのが当たり前。
数多くの秘密結社が登場し地主や富豪を襲いながら農村に支持され、やがて西洋の教会、学校を襲撃するようになった。
1897年にはドイツ人の牧師2名を殺害、怒ったドイツは軍事行動をおこした。
義和団は山東西北と河北省南部を根拠地とした、地理的には梁山泊とおなじエリアといえる。
この一帯は鉄道により急激に船の運航がすくなくなり失業者であふれていたのだあろう。
この集団は狂信的武術集団であり「義和拳」という独自の武術を発展指せていた。構成員は青年が圧倒的な数をしめており、よく言えば純粋、悪く言えば単純で、若さ故なのか戦闘力抜群で装備十分な政府軍をあいてに戦えた。
彼らは農村部、都市部で人々支持を受け勢力を拡大し、やがて失業軍人が賛同し兵器が強化されていく。
かれらの当初のスローガンが「反清復明」であった。つまり清を亡ぼし明を復興させるというものだった。まあ反政府集団といえる。
梁山泊軍の呼延灼軍撃退みたいに、平原の戦いで勝利し名をあげる。ところが政府軍に編入を画策するものが現れ「保清滅洋」をかかげた。義和団は山東に進軍「「保清滅洋」のスローガンのもと民衆の支持を受け鉄道を襲い天津を包囲占拠した。
簡単に言うと西洋の排斥のために清朝権力の利用をはかり勢力を拡大させたわけだが、列強8カ国連合が義和団鎮圧のために乗りだしこれは鎮圧された。皮肉なことに義和団の当初のスローガン清滅亡は清に協力することににより列強を呼び込み達成されたのであった。
まあ、以上のように梁山泊の形態ににている義和団でもそのスローガンはご都合主義で変化しているといえる。
義和団では清に対する反感で始まり支持拡大から洋滅になり、梁山泊も腐敗した政府の批判にはじまり遼討伐となった。
同じ山東ではじまりこの二つの組織は過程が似ていると言えば似ている。
宋江が仲間の反政府の感情を利用し、しだいに遼討伐へのスローガンに解釈を変えてゆくというのも不自然ではないのである。
作品069
  囚われた史進を救出せんと梁山泊軍は7千の軍勢が出陣した。3山を救援に行 ったときは兵数3千であったが随分増員している。おそらくは華州が遠隔地な ので援軍を送りにくいためこのような大規模な遠征になったのであろう。江州 のときは梁山泊の規模も小さくだいぶ離れていたが比較的可能な感じであった。 しかし華州の場合は規模も大きくなり官軍に目を付けられてよく遂行できたも のだと驚かさせられる。
作品68の解説にて3万ぐらいになっているのではい かと述べたがこの数字を華州攻略作戦は裏付けていると思われる。すなわち近場の祝家荘攻略時と同数の兵力を遠征させたこと、長期にわたって兵力を分割し官軍討伐軍を防ぎきるだけの残存兵力を梁山泊に有することである。この存兵数はかなりの数を必要とするであろう。その残存兵力は梁山泊守備に十分な兵と遠征軍の退路を保持する兵力が必要である。
もっとも奇襲戦法に自信があるのなら少数の守備隊のみ残し大多数が出陣することも可能だが、賢明とはいえないであろう。しかしこの作戦はあまりにも無謀といわざるをえない、梁山泊が山東でなく山西に所在するとするならこの問題はないのだが。

 さてこの華州攻略で重要な人物というと「宿元景」。殿司大尉であり勅命で華 山に参詣したとき梁山泊に拉致された被害者。以降梁山泊と朝廷のパイプ役と なる吾人である。
環道村で九天玄女が登場していらい梁山泊は急激な兵力増加の道をたどってきたが、それは彼女の予言通りに外夷を叩くためである。
彼女の天言には宿元景のことがの述べられており「宿に遇うは重々の喜び」となっている。宿が果たして宿元景であるとの断定は難しいが天言の「遇う」は「逢う」でも「遭う」でもなく、偶然出くわす状態を指している。まさしく宋江がどうしたものかと悩んでいるとそこに「鴨ネギ」状態で宿元景が登場する。よく言えば「渡りに船」てことだ。もっとも宿元景からいえば「遭った」ということになるのかも。(これは翻訳分からの判断で原典は違うかもしれないが)そういうわけで予言に載るように敵役の高毬と同様に重要人物なのである。

 九天玄女の天言は水滸伝の話の基幹部分であり梁山泊軍が何故形成され、なに をなすべきかについて述べられている。多くの読者はここのところが理解でき ずに集合しました終わりです、となってしまっているのが残念である。遼編で は廬俊義はその武芸のほどを見せているし、目立たない関勝も方臘の戦いでは はではでである。ここの戦いの部分は切り捨ててはならないのである。
以前に述べたように108人は正体は天の星々であり罪を得て地上に置かれているのである。そして彼らが天に復帰する条件は外夷内寇をかたづけるとのなのである。このように水滸伝は指輪物語のようなファンタジーの部類に入れるべきものなのであろう。まあ魔法使いは登場するし最初から分かり切ったことなのだが。108人の魔星が使命を達成するために、協力者として登場するのが「宿元景」なのである。洪信が魔星を解放し、九天玄女が使命を伝え、協力者「宿」が登場する。このように水滸伝は一貫した方向性をもって物語が展開してゆくのである。

 ちなみにご存じとは思うが東洋占星術では「宿」とは月が天球を28夜で1周 する時、一晩ずつ泊まってゆく星の宿である。この数28宿。まあ簡単に言う とゾディアックサインなんである。西洋占星術のように乙女座が長く天秤座が 狭いように「井」とか「斗」は長いくせに「心」とか「鬼」は短い。まあ西洋 が太陽をベースにしているが東洋は月をベーズにしている違いがある。ご存じ でない方は「晋書天文志」を読まれたし。
まあ梁山泊の魔星も天の運行の宿に遇うことにより順天するということなのか。
作品070
  梁山泊の討伐軍は3度ある。最初は呼延灼軍、次が関勝軍、最後が単廷珪魏定 国軍である。もちろん晁蓋入山時、108人勢揃った時などに討伐軍があった がこれは別格のものとして勘定したい。
最初の呼延灼軍は高毬の親戚が発端だ ったが残りの2軍は蔡京の親戚が関係した原因の討伐軍であった。呼延灼軍は 連還馬戦法で華々しく登場した後、3山連合の戦いに関係して目立つ存在にな っているのに、同じ討伐軍としての残りの2軍は目立たない存在となっている。 
これは後の両者が簡単に投降し仲間になったためとも考えられるが、本当のと ころもう梁山泊の脅威になる存在ではなかったからだと推察される。
関勝軍も総勢1万5千だが、梁山泊主力が北京攻略に出撃しているとはいえ持ちこたえられないほど梁山泊に兵力がないとは思えない。ましてや水火の両将が登場した段階では負けるとはとても思えないのである。

しかし関勝、水火両将軍の話の重要なポイントは政府精鋭軍が梁山泊軍に取り込まれていく事実にあるのだろう。政府軍の精鋭が宋江の口車にのって次々と山賊集団になってしまうのである。この頃の梁山泊軍の頭領の入山は政府軍人が増えて強力な戦闘集団と化している。いわばやくざ集団から始まったものが装備訓練の行き届いた自衛隊のようなものを内部に取り込み完全に軍隊化してしまっていくようなものである。逆に言えば梁山泊軍が軍隊を取り込むような大集団になつてしまったというべきなのかもしれない。しかも関勝等が仲間になる段階では既に梁山泊の命令形態は忠義堂による軍隊的命令形態となっており、本物の軍隊が合流してもなんら不都合は起きない状態であった。


 さて関勝が用いた計略「囲魏救趙」は三十六計の第2計である。
戦国時代の孫ぴんの用いた計略だが「趙」が「魏」に攻め込まれたとき「斉」はこれを救援せんと魏の都を襲った。はたして魏は趙「カンタン」の都の包囲をとき自国に引き返した、これを斉は待ちかまえうち破ったのである。これは強大な敵に力ずくで当たるのではなく分散させ翻弄させうち破るということである。魏の場合は精鋭軍で出撃したが本国は老兵が残り、ここを斉に襲われようとしたので慌てて趙への囲みをといて引き返した。しかしこのことが兵を疲れさせることとなり翻弄されて斉に破れるのであった。
関勝の作戦もなかなかのものであっあが、戴宗等の情報伝達速度と呉用の看破によって策は無効になってしまった。しかし一時的により北京の包囲を解いたのは半分成功と見るべきなのかもしれない。

 関勝についてだが、彼は遅くに登場したにも関わらず序列は5位、武将では筆 頭である。
これは彼が関羽そのものだからである。物語の流れでは林冲が上に 来そうなものだが、彼が張飛である以上上座に行くわけにはいかないのだろう。
 だからその後は物語の関わり度により秦明、呼延灼、花栄となる。
南総里見八 犬伝の犬塚信乃と犬江親兵衛との関係のように早めに登場した者は比較的に知 られる存在になり、後から登場した者は影が薄くなる。
しかし原作を良く読む と実は等しく活躍させているのである。犬江親兵衛の京都での寅退治や試合は はではでだが以外と知られていない。みんな途中まで読みはててしまうのだろうか。水滸伝の林冲は確かに初期に登場し活躍するがそれは108人が集合するまででそれ以降は数ある武将の一部になってしまっている。
関勝は頭領が増えて紹介できなくなった頃登場したのでその後の活躍はあまり記憶されていない。しかしよく読んでいただくとかなり活躍しているのがわかる。
最大の敵「遼」ではラスボスを花栄、張清とで追い込んで仕留めている。方臘編では林冲が廬俊義側の部隊にいたのでお話の舞台から消えているが、関勝は宋江側舞台なので結構登場する。ケイ政を一刀に切り倒し、銭振鵬も切っている。
方臘軍では最強を多分ほこる石宝を猛攻し自刎に追い込んでいる。良く読むと活躍しているのが分かるはずである。

 ところで梁山泊で力自慢といえば魯智深や武松を連想されるであろうが、騎兵 部隊では誰でしょうと問いかけるとなかなか悩まれるでしょう。
この件を考察 してみるとそれは関勝ではないかと思われる。その理由は彼の得物の青龍偃月 刀はとてつもなく重いからであ。
この兵器、技よりパワーで圧倒の武器で並 の体力では振り回せない。対重騎兵には有効で関勝は遼の総司令を殺したとき も鎧ごと打った切っている。恐るべき武器だ。
ちなみに得物の操作の器用さで いうと董平であろう。彼の持つ双頭槍は両先端に槍頭が付いている。これは離 れた敵と接近した敵に対応するためだが、なんと彼はこの槍を2本も使用する。 1本でも自分のお腹を刺しそうなのになんて器用なんだろうか、流石五虎将の 一人の加えられたのは分かるような気もする。

それにしても中国の漫画やテレビドラマで関勝が省略されているのは関羽に似すぎているのが許されないのだろうかと勘ぐってしまう。 
作品071
  百八つの魔星が集合する最後の戦いが東平府と東昌府の戦いである。この戦いは宋江が梁山泊の主の座に就く条件として持ち出したのがきっかけであった。 しかし本当の原因は晁蓋が何故だか宋江が仲間から一番慕われているのを分かっていながら、後継者に指名せず仇討ちを優先させてしまったからである。
これは良く解釈すれば宋江がナンバー2でありたい(責任回避のためか、事実宋江は晁蓋という隠れ蓑がなくなると後任者の代わりとして廬俊義に白羽の矢を立てている。このことから宋江が裏方でこそこそやるのが好きであるというの が分かる)というのを察して指名しなかったか、あるいは悪く解釈すれば宋江が次期のボスの座に就くのはわかりきったことであり、そのことにより自分の敵討ちを忘れ去られてしまっては口惜しいのであえて指名しなかったともいえる。
しかも運が悪いことに廬俊義が仇を捕らえてしまうのでますますややこしくなるのである。
宋江があくまでも総頭目の座を避けていたのは謙虚さという のものだろうか、しかし転生の事実を知っているのであるからこれから始まる苦難に対する責任の回避だったというのが妥当なものだったのではないだろうか。
いずれにせよ後継者決定戦というべき戦いが二つの都市で行われることとなるのである。
東平府は程なく陥落。その後宋江が廬俊義の東昌府にやって来ると、軍師の呉用がしらけきっていたため武将達がやられるがままだったのが俄然やる気をだして悪知恵を出すと程なく陥落した。これで宋江がはれて総頭目の位に就くことになったのである。


 東平府を守るのは董平という武将である。この人物梁山泊五虎将の一人になるから武芸に秀でているのであろう。特徴は双頭槍を二本使用することである。器用ーっ。しかも器用だけでない反射神経抜群。というのも後に相棒になる張清の石つぶてをよけるのである。他の武将が対応に悩んだ石つぶてだが、これをかわして張清を慌てさせる。
もっとも方臘戦では火砲にて腕に傷を負い、自慢の槍が使えず切られてしまうのは双頭槍を二本も使用していたという難度の高い得物が原因なのか。
ところでこの董平あだ名は「風流双鎗将」。なんで風流かというと頭が機敏な人で、諸子百家に通じ、管弦の道に通じているからである。現代風にはテニスにバスケットと運動神経抜群だが自然科学、社会科学など学芸に秀で、ブラスバンドやロックグループにも所属するみたいな感じか。まあ武芸一筋あるいは腕力一番が多い梁山泊には珍しい人物なのかもしれない。


 さて梁山泊のこの時代の総数はまったく不明である。しかも東平府と東昌府の 戦いが食料をせびりに来た理由のものなので真剣度は北京戦と比べることが出来ないほど低い。完全に余興化してしまっているのである。
しかしもう宋国禁軍主力との戦いを直前にして多分その総数は10万に近づいていると思われる。
もちろん破れた童貫禁軍と高毬禁軍の兵士が後に取り込まれたと過程するなら大幅に兵数を減らして勘定してもいいのだが。しかし宋の主要都市北京を陥落させたことを考慮するとあまり減らすこともできない。
ともかく108人の魔星は集合したのであり、兵士は全て遼と対戦出来るほど集まったと考えた方がよいのだろう。
作品072
 梁山泊の兵力の増加についてその経過を追ってきたが、途中兵数が不明なところがあるものの順調に増加して、童貫、高毬戦のときは既に完成型であったと考えられる。
晁蓋入山時七,八百人の小集団だった梁山泊もこの頃には10万の兵力を有する大集団となっていた。
しかも山賊集団というよりは精鋭戦闘集団として組織化されたものだった。そのことは童貫軍を「九宮八卦陣」にて迎え撃ったことで実証されている。
特に軍人のメンバーが多数存在することが軍事集団としての性格を強くしている。それに対して知識人のメンバーが少ないのが天下を狙う集団でないことをはっきりさせている。
 以前述べたように高毬との決戦は北方騎馬民族の「遼」と戦う宋国代表の決定戦であり梁山泊の軍事力のほどをわれわれに教えてくれているのである。特に童貫、高毬戦はそれ以前の戦いと違って総動員数が桁違いで10万を超え、まさしく宋国の本気度を表している。
物語の流れではそれ以前の戦いは梁山泊の仲間が集まる話なので小規模な戦いであったが(とはいっても1万以上いたが)ここになると、まったく性格が違う。

この宋朝と梁山泊の大合戦が済州の地にて行われたのである。
とはいってもどのくらいの規模なのかわからないから、あえて述べると「関ヶ原の合戦」くらいの規模の戦いが行われたとご理解いただきたい。しかも4回ほど。
しかし読者は童貫軍が高毬軍と兵数で変わりがないのにあっさりと梁山泊軍に諸将は討ち取られ軍も破られたのは不審に思われたことであろう。これは宋禁軍の実体に即したものだったのである。
つまり初期禁軍は精鋭部隊であったが時代が下るに従って、頭数だけ増やした訓練の行き届かない弱兵になっており、この実状をそのまま童貫軍として表現してあるのである。
史実では方臘の鎮圧、遼との戦いには童貫が指揮を執って苦戦するわけで、このことを童貫軍の有様は表現されいる。つまり梁山泊軍は史実の軍団を超えたと言うことを示す。

そこで登場するのが高毬軍だがこれは水滸伝オリジナルの軍団といえる存在で物語の最初に設定され超えるべきのもとして存在したわけである。そして高毬軍と童貫軍の違いはなにかというと「十節度使」の存在である。

節度使は唐の府兵制の崩壊後登場した制度で、辺境防衛の司令長官である。節度使はその後各地に設置され次第に州の長官化し、中央の統制に従わず後に軍閥化した。
宋ではこの存在を警戒し中央集権化をはかった。宋代の辺境防衛をしていたのは経略使と安撫使であり水滸伝では王進がたよって行った先がこの役職の人物である。
水滸伝の節度使は設立当時の十節度使をここで登場させている。
物語の説明によれば十節度使はもともと盗賊であり招按を受け入れ高い官職に就いた者たちであり、彼らは武芸に優れ金、遼、西夏、を討ち大いに国家に功績がある者たちであるとされている。まあ簡単に言うと招按を受け入れた梁山泊軍みたいなものである。
しかし経歴が盗賊出身と述べてあるから、いかがわしい者と理解しては困る。中国には盗賊は天下人に成るための最初のステップであることが多いのである。
官軍も盗賊も渾然一体化していて分離できないので、盗賊とは体制側でない軍事力を持った個別の集団と理解した方がいいのかもしれない。

さて宋国の軍が頭数だけ多いのに弱いのに対して、「郷兵」や「蕃兵」はやたら強い。郷兵は国境警備のため地元農民から徴兵したもので精鋭の兵であり、蕃兵は異民族の兵である。平和に染まった禁軍では西夏、遼には対抗できないのでこのような補強がなされているわけだが、物語の十節度使もこのような強力な軍事力として使える存在であったので、禁軍内に取り込まれていったと推察される。
とすると彼ら十節度使そのものが真の宋国主力ということが出来るのである。
つまり高毬は内部に配置している禁軍でなく最後の手段として国境警備に使用している精鋭軍を集合させこれに梁山泊軍に激突させたのである。
宋国としたらこれが最大最後のカードと言えるのかも知れない。

では戦いはいかにというと、簡単に童貫禁軍をうち破った梁山泊軍だったが流石に十節度使相手にはそうはいかない、ほぼ陸上戦は五分の戦いになってしまった。梁山泊は水上戦で勝利したが、果敢に騎馬戦にて十節度使を討ち取れなかったのは(1を除いて)同類の英雄豪傑だったからか。   
作品073
  梁山泊の目的が遼の討伐でありその実力のほどを示すため童貫、高毬戦があることは前回述べたとおりである。
特に高毬戦で十節度使を登場させたことが、梁山泊が辺境防衛にあたっていた彼らと同等の力を有することを証明させている。
読者は節度使といってもよく分からないので有名どころの名を挙げるとしよう。
いくらなんでも楊貴妃を知らない方はいないだろうが、楊貴妃に関係して玄宗皇帝、安禄山なんかが登場する。
この安禄山が節度使なのである。
イラン人と突厥人のハーフなんだが唐に反乱をおこした人物である。なにか例がよくなかったような気もするが、名前を覚えている方はいるであろう。
唐代の十節度使は平廬、范陽、河東、朔方、*石、河西、北庭、安西、剣南、領南に配置されたようである。水滸伝でも十節度使は各地からやって来ている。但しだいぶちがうが。

 水滸伝の物語が北方騎馬民族を意識したものであることは節度使の登場をみても推察されるものであり、その軍団は打倒宋朝ではないことはおわかりいただけたことだろう。


ここまでかなり梁山泊の拡大路線を根拠に危うさを残しながらも解説してきたのでその規模については把握できたと思う。そうなると仲間が108人らいざ知らず万単位となると集団の維持費について考察に向かしてしまうのは自然なことであろう。梁山泊は10万の規模になると流石に財政問題なくして語れないので、ここのところを覗いてみるとしよう。

さて梁山泊の当初は800人ぐらい。このころは確かに晁蓋持参してきたお宝が財政面で助けになったことだろうが、宋江入山後、拡大路線でメンバーの増加が著しく進み自転車操業みたいな状態では焼け石に水である。
まあテリトリーが拡大にするに従って通行料や冥加金が増えていったことだろうが、どんどん拡大する組織を維持するのはもっと広範囲にテリトリーを拡大させなければならない。しかし梁山泊はあくまでも梁山周辺に留まっている。
ではなんで維持できたかというと都市を襲ったからである。

その都市は高唐州、青州、華州、そして北京大名府である。もちろん他に曽頭市とか東平府とか東昌府なのがあるがこれは脇に置いておこう。
都市の制圧は被害が大きいが実入りの大きい仕事である。
物語では祝家荘を下し馬などの家畜や財貨、食料50万石など大成果をおさめたとあるが、単なる大きな村を襲っただけでこの調子だから大都市だったらかなり美味しい話なのであろう。
ちなみに祝家荘戦のころの梁山泊は1万ぐらいだから何日分の資金になるのだろう。

都市を襲うというのは季節が来て実りの頃果実を採取するのに似ている。ただし抵抗があるのだが、それはブキブキ抵抗する太った豚をつぶして食するににて自然な行動とも思える。よその土地を襲って財貨を自分のにするのは現代では非道だが、本来当然の行いだったのではないだろうか。
これは「戦争は儲かる」との考え方に通じるものがあって明治時代ロシアに勝ったと称して賠償金に不満を漏らした国民感情などがこれで、負けた奴から財貨をふんだくることの快楽があったのではないかと勘ぐってしまう。
モンゴル部族などの行動を見てみると他部族を襲って家畜(女も含む)財貨を自分のものにすることが繰り返され、お互いにやったりやられたりしている。
また騎馬民族にとっては農耕民族などは狩りをしやすい対象である。自然生えた草木を摘み取るみたいなものだろう。

まあ都市を襲うことの善し悪しは脇に置くとして、梁山泊はこれらによって食いつないできたと考えられる。特に武器などの装備は都市でないと得ることはできない。わずかな横流しの武器では人数分をそろえるにはかなりかかってしまうのである。

水滸伝の物語ではサンダーバードのように救助にむかって、命知らずの義を重んじる奴らという感じがするが、よーく考えるとかなり財政面で恩恵を受けているのである。

この都市を制圧することのうま味を覚えたのが高唐州の戦いなのでなないか。.
作品074
梁山泊が都市の制圧によってその財政を潤してきたということを述べたが、それも高度に訓練された軍隊が存在していたからである。
どこそかの小説では梁山泊の財政の基盤を塩の密売にもとめていたが、これもなかなか面白い設定だ。確かに塩は国家の専売産業でこれを不法に密売するのは梁山泊のようなやくざな連中にはぴったりかも知れない。
しかしながら都市を制圧し支配下に置いた方がもっといろいろ手にはいるような気もするのだが。

梁山泊は定着形匪賊で梁山泊を根城に周囲の都市を襲っている。これは梁山泊が交通の要所にあるとともに、湿地帯が広がり格好の隠れ家になっているからである。この地に10万の大軍が存在して政府に反旗をかかげているのは(宋江は帰順のつもり)なかなか壮観だが、今ひとつスケールに欠ける。
というのも中国の歴史の反乱はもっとダイナミックだからである。
それはねぐらに閉じこもるのではなく、大手振って大道を歩んでいるかのようである。

梁山泊を定着形というのなら、こちらは遊牧形あるいは流動型というべきものである。
一般に「流賊」と呼ばれるもので、進行方向の都市を食い散らかしながら大陸を渡り歩くのである。
中国のような大陸だからできる大集団である。
まあ、もっと分かりやすく言うと「さらば宇宙戦艦ヤマト」で登場する「彗星帝国」みたいなものである。こちらは宇宙を彷徨い進み進行方向の星々占領し破壊する帝国なのだがなかなかおっかない存在である。但し最後はちんけな宇宙船に破れたが。
これと同様な存在として、中国大陸には「流賊」なるものが存在し都市を襲いながら次第に規模を拡大し何十万の集団になってしまうのである。
分かりやすく表現するといなごの大軍が田畑を通過していくようなものである。
ここら辺は日本人の我々には「流民」と同様に理解しがたい世界だが。道徳もへったくれもない無法地帯のサバイバル世界だと思えばいいのかもしれない。

 ちょっと脇道に逸れるがモンゴルが広大な土地を所有する大帝国になったのも 都市から都市へと戦いながら移動していったからではないだろうか。もちろん カラコルムなるものは存在したが移動する民だったからこそ拡大し得たのでは ないだろうか。


 さてイナゴのように大陸を彷徨い歩く集団が存在することは述べたが、あまり にも抽象的なので具体的人物を紹介しておこう。中国の歴代の支配者をみても匪賊のような存在からスタートして次第に変貌して皇帝に上り詰めるのだが彼らも拠点移動をしている。しかしここでは成功者の彼らではなく明智光秀のように3日天下の人物で「流賊」なのがいるので紹介しておこう。


一人目は宋江が酒に酔って詠んだ詩の中に登場する「黄巣」である。
時代は唐代末期(西暦875年)黄巣は塩の闇販売をしていた人物である。仲間の王仙芝が反乱を始めると、自分に手が回ることを恐れ反乱に加わる。最初は濮州で反乱をおこす。その後河南省南部に移動、30万の大軍を創り上げる。揚子江を渡り江西から福建そして広東へ進軍。江南から湖北、江西へ。洛陽に向かい長安に達する。
簡単にのべるとこのようなものだが実際は河南の移動はめまぐるしく全部描いていたらよく分からない。ともかく中国を真ん中から南へ東から西へ移動しているのが分かるだろう。彼らは行く先々の都市を襲っていったのだが、次第に人員も雪だるま式に増加し、戦闘も次第にこなされたものになってゆく。


次に紹介するのは明代末期(西暦1606年)。「李自成」である。
清との戦いのため明は戦費捻出の方法として増税をかさねた。これに各地で反乱が起こり流賊が大発生。時おなじくして延安府の李自成は駅卒を解雇され流賊となった。独立流賊となっていた李は潼関の戦いで大敗。四川から河南に移動。知識人を仲間に加えた李の軍隊は流賊から革命軍に変貌。精鋭10万と流民軍100万にて開封を攻撃。その後襄陽、西安に移動。大同と進み首都北京を攻略す。金に破れ最後は西安、湖北となる。まあ中国の半分から上を荒しまくった感じか。

両者とも天下を手に入れたが、すぐに取りこぼした点で似たもの同士といえる。
海は広いな大きいなみたいに中国大陸は英雄達が自由に泳ぎ回れるほど広大だったのである。
作品075
  梁山泊は山賊という捉え方だが歴史に登場する政治的人物もやっていることは 武力で強奪するやりかたがほとんどで梁山泊と何ら違いはない。違いと言えば水滸の仲間がねぐらの梁山泊から一歩も出ないことか。
都市のの制圧によって梁山泊が軍事力を維持したの述べたが。どう考えても割が合わないのが華州攻略。
ここまで行軍すると落伍者続出で戦う前から気力が失せてしまうであろう。しかも盗品を梁山泊まで無事に運ぶのがこれまた大変。はたしてリスクを賭けた分の実入りがあったのだろうか。


というのも、北宋時代十七路(省)の税収でいうとそう高くないからだ。
ちょいとこれについて説明すると。梁山泊のお隣には首都東京のある「京畿路」があり全国ナンバーワンの税収。これは美味しそう。当然リスク面で問題があるが。
ナンバー2である中華の食料庫、江南の「両浙路」は既に方臘がお食事中なのと、遠いので除外。北にはナンバー3の「河北東路」があり、梁山泊は北京大名府等で荒稼ぎしている。さらに東には4位の「京東東路」があり 青州攻略でこれまた儲けた。南には5位の「淮南東路」がある。なぜだか南京大名府は襲わなかった。
こんな調子に梁山泊の周囲は結構お金持ちの都市がいっぱいあるのである。では華州はどうかというと、全国7位の「陝西路」となる。これはあまり美味しくないんじゃないかい。

 都市制圧というと攻城戦。これはかなりの被害が出るので孫子なんかも嫌がっていた。もっとの守備側としては墨子は大好きだったが。招安前の梁山泊軍はだまし討ちや工作員によって効率よく陥落させている。梁山泊の事情からいって兵糧攻めなどはできないから短期決戦としてはなかなかの成績だ。
城攻めの難しさで言うと天才軍師と誉れ高き「諸葛亮孔明」でおわかりであろう。かれは陳倉攻略であの手この手で城を攻めたが陥落させることが出来ずに魏の援軍が来たので退却しなければならなくなったのである。こう考えたら確かに呉用の用いた奸計は彼のプロフィールにあるように孔明を驚かすに十分なのかもしれない。


正規の攻城戦を以下に述べて梁山泊との違いをみてみよう。普通城といえば一番の弱点は出入り口の門である。ここをぶっ壊して侵入すればいいのだ。城門を破城槌なんかでぶち破る。もっとも突破しても先にボックス状の空間があり四方から弓矢でねらい打ちになる。
その次は城壁そのものを破壊する方法。当然守備側も妨害する。密集陣形で一気に塀をよじ登る。これは被害絶大。だったら梯子をかければいいと登ってもかなり不安定。そこで城壁の高さの攻城塔の登場で大がかりな工作物で城壁を乗り越える。戦いは地上だけではない地下でも穴を掘って侵入を試みる。守備側も瓶を埋け動きを読む。時には城壁の真下に穴をあけ地盤沈下により塀を壊す。水攻めも有効で開封の都はこれでぼろぼろになった。
最後の最後は兵糧攻めだがこれは根気がいる。金がモンゴルにこれでやられている。そうそうカタパルトを使った砲撃てのがある。水滸伝では招安後に攻城戦において火薬を使った砲撃を試みている。火薬の破壊力が高かったら城の攻防も変わってしまうが水滸伝の中世までは以上の攻城戦をしていた。
作品076
 攻城戦といえば日本人の連想するものは秀吉の小田原城攻めや家康の大阪城夏冬の陣でああろう。
まあいわば要塞戦みたいなものである。日本では軍隊てのが遙か昔に解体して存在せず、明治になるまで軍隊という者が存在しなかった。
(ちなみに現在も存在しないことになっている。日本は軍隊が名目上存在しない歴史が長い不思議な国なのだ。)
その間はボディーガード的存在であった武士団が大規模やくざみたいなな様子で切った切られたを繰り返していた。
そこにおいては武士団制圧そのものが対象であるため城の形状は一般人は蚊帳の外となっている。


しかし中国世界の水滸伝は中国の攻城戦はちょっと様子が違う。
中国の城は城郭都市であり城の中に市民が生活しているのである。
世界的に見てこれが一般的な形式だが、当然その規模たるやいなとてつもないものである。
例えば有名な長安だが縦9.7キロ、横8.2キロのと当時の日本人が驚くのも無理もない。中で市民が生活しているのでこのくらい広い方がいいのかもしれないが。

このような市民を安全を塀で囲って守るという考え方は「邑」と呼ばれる都市国家時代からの伝統的考え方である。殷周時代にはこのような都市国家が3千国あったそうである。このような世界では当然都市国家間の戦争はあったわけでそれぞれのグループが連合体を形成して、潰し合っていたと思われる。当然住民は皆殺しか奴隷にされるような存在なので城を拠り所にするのもわかる。
時代が下って安定した群県制の時代に城というものが必要なのかについては、中国の治安は悪いので安全な都市で生活するほうがよかった。それに異民族の侵入や反乱や軍閥割拠など混乱要因が多いので安全のため都市に生活するのがいいのである。この様に中国の城は都市なのである。


さて水滸伝の時代の城郭都市はどんなだったかというと、これが今までの城郭都市と様子違っていた。それは都市のあり方の変化といえる。
つまり唐以前の都市は政治主体の都市であったが五代、宋以降の都市は経済主体の都市でになっていたのである。

例えば長安などは随分大陸の内陸部にあるが、途中に関もあり防衛面ではなかなか都合がいい土地である。天下を平定した秦はこの地が本国だ。このように政治的目的として首都が選ばれたのである。また各地の都市も群県を統治するためのベース基地として存在したのである。
ところがこらが宋になると首都は東京(開封)となる。この都市は防衛の面では疑問符だが経済に関しては最適に土地なのである。実は唐代に大運河建設をして黄河、淮河、長江が繋がり船の輸送による、まあ物流革命?が起き、五代に勢力をあらそい経済を振興したのであちらこちらに新興経済都市が出現した。「鎮」もそのなかのものだ。(日本では景徳鎮などが有名)
東京もこの水運の要地に存在し、長安の様な内陸部などより水運の便利なところに首都があるほうがよくて、経済活動の中心地としての首都があったのである。五代の梁、周もここを都としたのも経済的便利性を追求したためであろう。
政治主体の都市から経済主体の都市に転換した時代それが水滸伝の世界なのである。 
作品077
梁山泊は城攻めは内応者や工作員によって陥落させる。
まああまりにも手際よいので被害がほとんどない状態のようである。
北京大名府も正月の祭りに乗じて多数の工作員を場内に送り込み、内と外から攻撃して落としている。
工作員は時遷が忍びの術で潜入し、解珍、解宝は猟師として、孔明、孔亮は乞食に変装。鄒淵、鄒潤は灯籠売り、楊雄、劉唐は市民?、魯智深、武松は僧侶として。王英と扈三娘、孫新と扈大嫂、張青と孫二娘は田舎者の夫婦として、杜遷と宋万は荷車を引いて、公孫勝と凌振、柴進と楽和が潜入している。
まあ元宵節(正月のお祝い)なので潜入が容易であったというのも分かるが、本当はもっと根本的な理由があったのではないだろうか。

作品76の解説で宋の時代の城郭都市が経済都市になったことを述べたが、政治的都市などにおいては住民の保護、防衛を主たる目的てしていたので[坊市制]や[夜禁制]が根本であった。
これは決められた場所以外で商業取引を禁じるものとか、夜は城門を閉じて出入りを禁止するものだった。
この制度は都市に限らず関などにも見受けられる、斉の孟嘗君が函谷関で足止めになったとき鶏の鳴き真似をして脱出したなどが良い例なのだが、自由に出入りや移動は出来なかったのである。

ところが運河を基本とした流通が発達し商業が盛んになると、決められたところでの商取引や決められた時間での活動では支障をきたすことになり、必然的に坊市制や夜禁制はなし崩し的に破られていくのであった。
その良い例が首都東京(開封)の町の形状である。
この都市はもちろん最初はちゃんとした都市だったのだが、全国の経済の中心として拡大するにつれて、いちいち規制の多い城内で商取引するよりは外でやったほうが合理的と城壁の外に都市が発展してきた。
当然映画館とかキャバレー、高級料理店などの城の外に乱立するようになり(東:朱家橋瓦子、西:州西瓦子、北:州北瓦子、南:新門瓦子がある)そうなると城壁をさらに外に増築することなった。
つまり東京は政治を治める城の外に市民の居住区を治めた城壁があり。さらにそこを飛び出て発展した街を追いかけるように囲い込む第三の城壁を持つ都となったのである。

とまあ、遼との戦争もなく(西夏は別だが)戦争放棄の経済一筋だったので東京が不夜城状態になれたのだろう。首都がこんな調子なら当然他の副都市も似たような状況であったと思われる。
梁山泊が北京大名府に工作員をやすやすと忍びこませ、任務を成功させられたのもこのような理由があるからではないだろうか。 
作品078
梁山泊が都市を襲ってその財政を賄っていたとこは述べたが、都市ではない場合での最初の犠牲者といえば祝家、扈家であろう。この村は非常に梁山泊に対して好戦的で、なかなかてこずらさせた。
水滸伝では政府以外で好戦的な仇といえば、祝家荘、芒トウ山、曾頭市の三者が挙げることができるが、祝家荘の戦いは性質的に他の二者と比べて原因を都市の攻防に類似する形式の戦いであった。
祝家荘側から見れば、近くに強力な山賊集団がありこれから村を守る意味で自衛団を組織していたわけである。
欒廷玉なる用心棒を雇い入れ、七人の侍のように野武士の集団(梁山泊)を待ちかまえていたのである

このような自衛組織団があるのも中国においては中央政府の治安能力の問題もさることながら政府軍の兵士そのものがいつ強盗集団に変化してしまうか非常に不安定で、自分身は自分で守らなくてはということで村単位で自衛組織を創り上げているのである。
また村民においても自衛力の強化をはかり武芸なのが練習されている。
その例をあげるとするなら。雲を漂うような架式(型)あるいは超密着戦法で有名な太極拳は一つの村の拳法である。
陳家溝と呼ばれるところだが。太極拳はなにも老人の健康のために誕生したわけではない。
そもそもがの防衛の手段として村民が修練していたものである。このように述べると陳家溝の人々はなんて好戦的なんでしょうと勘違いされるでしょうが、そうではなくこの地域は匪賊発生地図によれば梁山泊あたりと同様に匪賊が発生するエリアなのである。
従って村々は防衛の手段を講じなくてはならないのである。事実陳家溝の歴史においても匪賊団が村を襲いこれを撃退したことがあるようで、少女が華々しく盗賊をうち破ったそうである。まあ水滸伝の扈三娘を連想させるが。
さらにこの村は一般に知られた架式単体での戦い方だけでなく集団で賊を捕縛する型があるそうである。
これなどを見てもこの拳法が防衛手段として真剣に練習されていたことがよく分かる。
中国大陸は広く治安を維持するのは難しい。またいつ政府が崩壊してカオス状態になるか分からないのである。
中国の歴史は秩序と混乱を繰り返し、その中に生きる者は自らの手により自衛の手段を考えなくてはならないのである。
陳家溝は有名なので例に挙げたが、中国各地にはこのような村々は多く。中国各地に様々な拳法が存在するのもこれらの理由によるところなのかもしれない。

 というわけで祝家荘の戦いも中国らしい状況であったといえる。水滸伝では梁山泊が主人公なのでよく分からないが、祝家荘側から見れば匪賊の群れに果敢に立ち向かい破れてゆく悲劇の話といえる。
しかし、破れたとはいえなかなかの防衛力である。その戦い方は地の利を最大限生かした戦い方であった。
すなわち大軍を迷路に侵入させ、隊列を混乱させたあとに、狭い道で個別撃破。といった感じである。
確かに大人数あいてにはスパルタがペルシャの大軍を狭い道で守り抜いたように有効であるが、呉用の奸計には通じなかった。

ちなみに、梁山泊と祝家荘のある斉州はどうしていたかというとなんにもしなかった。
以降斉州が襲われる話もないので、この時点で斉州は梁山泊と通じていたと解釈した方がいいのかもしれない。
作品079
 梁山泊に対し好戦的な一団として祝家、芒トウ山、曾頭市の三者を挙げた。78作で述べた祝家荘は手こずらさせた
という意味では印象深いが、本質的に村の防衛が主体であって積極的に梁山泊を退治したしまうほどの意気込みを
もっていたものではなかった。それに対し芒トウ山は全く違った。
それはかれらが公然と「梁山泊を併合する」という意思表示をもっており、これが山賊対山賊のバトルだったからである。
もっと分かりやすく述べると、やくざ梁山組は警官とごたごたを起こし、時々大規模「祝」農家なんかや商工業者の「曾」工業など逆らう一般人を痛めつけていた。やくざナンバー1を自負したいたが、突然南に新しいやくざの事務所が立ち上がり挑戦してきたのである。しかも旗揚げしたところがやくざ世界では由緒ある地、梁山組とは訳が違う。
当然梁山組もだまっているわけにはいかないのである。つまりこれはやくざとやくざの抗争だったのである。
水滸伝の物語中、同類の匪賊集団どうしのぶつかり合いはこの芒トウ山の戦い以外存在しない。
その他は官軍の追撃を逃れるために合流したりするのがほとんどで、正面からぶつかり合う話はない。
そいういう意味で芒トウ山の話は物語の流れからは付けたしのような存在ではあるが、非常に異種の存在である。
とはいえ芒トウ山の連中の意気込みはすごかったが一寸遅かった。急速に構成員を増やしてはいるものの、たかだか3千人では
万を越える梁山泊の敵ではなかった。まあここら辺の心境は秀吉に立ち向かう伊達政宗てところか。

 彼らが居を構えた場所は史記伝に登場する漢の高祖「劉邦」が山賊家業をしていたところである。
劉邦は家の仕事にこだわらなかたというから多分ぷらぷら仲間と酒を食らって遊びほうけた人物と思われるが、どうしたわけだか亭長の職にありつく。この役人の職で秦の「リ山」まで人夫を送り届ける仕事を受けたが、そこは人夫達も馬鹿ではないので秦の厳しい土木工事で命を落としかねないのでたちまち逃亡。困った劉邦はどうしたかと近くの芒山、トウ山の岩ごろごろの沢に隠れて山賊家業を始めたのである。ここいらへんは任務に失敗して落草した楊志を連想させるが、劉邦は持ち前の人気で大きな山賊集団になってゆく。
史記では劉邦が大蛇を切ったがそれは白帝であり、劉邦が赤帝であったとか、山賊業を営んでいた劉邦を雲気がを目印に呂后が訪ねて来たり。それは始皇帝が東南に天子の気があると恐れたそれを指しているなど。
後の皇帝になった実績からお話が作られているが、実体は親分肌の劉邦が仕事で失敗し殺されるのを恐れて山へ逃げ込んだというのが実体であろう。しかし彼にも好機がやってくる陳勝の乱が始まり動乱の時代に突入したからである。
劉邦は山賊家業ののち沛の県令に迎え入れられ沛公となり天下取りの一歩を歩み出すのである。

 この様に芒トウ山は天下取りの一歩として有名な小山なのであるので、樊端等が「梁山泊を併合し」と高い志を抱くのは当然なことであろう。その先には天下人の理想があったのかもしれない。
事実その歩兵戦力はたいしたもので、項充、李袞の突撃に小華山グループは敗退したのである。
梁山泊の援軍が来て公孫勝の公孫勝の陣方により両者は捕らえられ樊端は説得され投降したが、公孫勝いなかった場合
梁山泊軍は樊端の妖術と項充、李袞の突撃に苦しんだことであろう。
この芒トウ山グループの構成は宗教をベースとした反乱軍を連想させるものである。中核に宗教的魔力をもったものがおり、屈強な武将がいるといった形だが、梁山泊に吸収されなかったら黄布党のような一大勢力になった可能性もあるかもしれない。
芒トウ山の兵士の志気は高く、招安後、遼遠征の始まりとして陳橋駅を進軍していたさい項充李袞の盾の兵士が私欲の役人を
殺してしまう事件が発生するが、このような小兵士まで志の高さはこのグループがただ者でないことを表している。
もしかしたら多くの読者が願う宋朝打倒の旗印は惰性で行動している二竜山などの連中より実現性が高いのかもしれない。
芒トウ山の歩兵部隊は李逵と組み合わされ、梁山泊の屈強な突撃部隊となる。
梁山泊歩兵主力といっていいだろう。
梁山泊にしてみれば制裁のつもりで芒トウ山にやって来たが、価値有る戦力を手に入れることになったのである。
作品080
 梁山泊に好戦的な集団として祝家荘、芒トウ山、曽頭市を挙げたが、今回は最後の曽頭市だ。
この戦いは一般的に物語りでは晁蓋がやられることに注目が行き過ぎてその意味がわからなくなる。
この戦いは祝家荘との戦いとの対比でとらえてみるとよい。
つまり祝家荘の戦いは農業民と匪賊の戦いであったが、曽頭市は商業都市民との戦いであった。
前者は地主階級との戦いであり後者は豪商との戦いであったともいえる。
以前解説したようにこの時代都市が商業都市化して以前の形態の政治都市のみならず、振興都市が各地に出現し
多分この曽頭市もこの新興都市の一つであったと推察される。
ではこの新興都市である曽頭市がなみなみなぬ敵愾心を何故梁山泊に抱いているか考察してみよう。
祝家荘の場合は梁山泊の近くであり、初期段階からこの村は匪賊の来寇を心配していた。
このことは当然のことであり、その防衛手段として地の利を最大限に生かす戦法をとったのであったのは以前解説した通りである。しかし曽頭市は梁山泊と距離も離れており、危機感を抱くようなものはいっさいなさそうなのに、かのように臨戦態勢というのは
なかなか理解しがたいところである。
もちろん芒トウ山のように売名行為と判断する手もあるがそれは本質を突いていないようである。
その鍵となるのがこの事件の原因となった人物「段景住」の存在である。
段景住は馬泥棒である。騎馬民族「金」との国境近くのタク州で活動している人物であるが、宋江への献上馬を曽頭市に奪われたことにより梁山泊と曽頭市の戦いが始まるのであった。
これは偶発的なものかというとそうとは思えないのである。
というのは曽頭市は戸数3千の都市なのであるが、なんとこの時点で7千人の兵を集めていたのである。
この兵士数は都市にはだいぶ負担になったはずであり、恒久的にこの兵員を保っていたとは考えにくく何らかの目的のために
この兵力を集めたと考えるのが正しいだろう。その証拠に、かれらは50あまりの護送車を用意しており、明らかに誰かを捕らえんとするのが目的なのである。
彼は兵を集めるのみならず塞をこしらえて、用心棒として「史文恭」と「蘇定」を雇い入れていた。ここいらは祝家荘と同じである。
そして名指しで「梁山泊の頭領を一人残らずひっとらえる」と宣言しているのである。
つまり段景住が馬を奪われたのも偶然でなく意識的に曽頭市がやったことであり、かれらの兵力は対梁山泊との戦いを想定したものであったのである。
しかし曽頭市が遠くにあるのにここまでして梁山泊に食ってかかるとはどういうことだろうか。
それはかれらのスローガンがら推察される。
つまり彼らは「梁山泊とは両立できない」といっているのだ。
匪賊でもない彼らが匪賊と両立できないとはどういうことか。
考えられれるのは梁山泊が曽頭市の経済活動になんらかの妨害を引き起こしていたのではないか。
しかも市の存亡にかかわるような重大なもので、曽頭市と梁山泊の商業的縄張りがぶつかり合っていたに違いない。
梁山泊は交通の要所にあり、梁山泊が組織維持のために広範囲にしていた活動は一部商業活動と商圏が交差していたに違いない。そのために曽頭市はなんとしても梁山泊を排除しようと考えたのであろう。
しかし曽頭市のなにが利権がぶつかっていたのであろうか。
それはこの市の始まりが「金」出身の曽長者がこの地にやってきて居を定めたことなのであるが、このことから分かるように、この市は多分金との貿易によって成り立っていたに違いない。
金といえばその名の通り金の産出地方なのであるが、単に金の交易を考えては単純すきる。例えば段景住などのようにこの地方は馬も豊富なのでこいらへんも勘定にいれることができる。
つまり金との全般的貿易に梁山泊が絡んできていたと考えるべきなのであろう。
そして曽頭市が立ち上がった。とこういうことか。
梁山泊が金との交易に腰を上げていたと推測されるの段景住の行為で分かる。
そんな金国の境にすんでいた者が何を好んで済州の宋江に名馬を献上するのか。
それは商売がうまくいくように梁山泊との繋がりを作ろうと考えていたのではないか。
このことは段景住のみならず多くの成り上がり者が梁山泊と金との交易で利益に預かろうとしていたことであろう。
以上のように晁蓋の仇討ちにかき消された曽頭市戦の謎であるが、祝家と比べるとなかなか面白い。
ちなみに曽頭市は梁山泊から離れていた理由もあり、ちゃんと青州と凌州の援軍を受けられるのが心強いかぎりである。
その点は祝家荘との大きな違いであり、政府に見放された祝家荘の悲劇といえる。
ともかく梁山泊は政府の援軍の到着前に曽頭市を掃討しなくてはならなかったのである。
ところでこの時点での晁蓋の立場てなんなんだろうか。
段景住は馬の貢ぎ物は宋江に献上しようとするのである。本来なら晁蓋のはずなのであるが。
作品081
shiori*2  水滸伝の背景

shiori*1  遊牧民族と農耕民族の歴史について

 水滸で釣りも80作品めになりだいぶ充実してきたのですが、全体を見渡してみると田虎と王慶の部分が寂しいので
ここら辺を漫画は描いていきましょう。
水滸伝ではこの2作は後で挿入されたものであり水滸の骨子から離れたものであります。
しかし100回本と違い戦争部分がしっかりとしていることや登場人物の特徴をとらえて活躍させていることなどから
水滸で釣りでは取り上げてております。
ただし、原本の100回本をベースに解説をしているので、描いた漫画から内容が相当逸脱することになりました。

 田虎討伐で初戦3つの城を陥落させた梁山泊軍は蓋州にて正月を迎えた。
迎春の儀式を終えた宋江は頭領を集め蓋の郊外の庭園「宜春圃」にて宴を設けることにした。
山賊と言えば酒宴だが、水滸伝中ここのお話が一番のどかな宴会であった。
特に李逵がコミカルで鼻息で雪が溶けるのでみんなで大笑いし、夢の中では
読者長年の願望、蔡京、童貫、楊セン、高毬の首を斧でブッたぎるのである。
ついでに徽宗皇帝の首まで切ったら満点だったのだが。
さらに虎に食われた母親との再会、娘を拐かす悪漢を退治するなど大暴れ。
ちなみに百八人の頭領が宴に全員集まったかと言うと残念ながら、漫画に描かれている柴進、公孫勝、関勝、李俊、阮小二
はこの場にいなかった。
と言うわけで水滸で釣りでは春の宴に招いちゃいました。
漫画の李逵のセリフは一寸なじみがないでしょうから解説すると少女小説の最後の言葉です。
特に意味はなく、思いつき。分かった貴方は全巻読破してますな。

 中華というと広範囲な面積を所有する沢山の人民をかかえる国と我々は理解しているがそこまでに至には数々の興亡を
勝ち残っているのである。
そもそも中華世界は黄河中域の狭い世界であった。
我々は四大文明として単純に黄河文明から始まったと学んだがこれは間違いである。
何故このような事になったかというと、歴史は勝者の過程を学ぶものであり勝者の価値観によって描かれるものだからである。
歴史に消えていった国家は脇役に過ぎず、敗者はものを語ることを許されないのである。
さて実際はこの中国大陸に興った文明は黄河文明(上、中、下)、長江文明(上、中、下)、遼河文明である。
このうち古代中国の中心的文明は長江中域文明である。
この文明は稲作農耕文明であり、畑作文明の黄河文明と違った。
この長江中域文明から下流そして上流と稲作文化が伝播していったようである。
黄河の「夏」が登場するのがBC2000年〜1500年頃なのに長江下流でBC7000〜5000年頃
長江中流はさらに遡る。
ちなみに長江上流の有名な三星堆遺跡はBC2500年、最近発見された下流の良渚文化の290万平方メートルの城は
BC4300年のものである。
このように実際の中国の歴史は教わっているものとだいぶ違う。
現代の中国の系図はここからでなく黄河中域から始まる。
つまり三皇五帝の流れである。
長江文明が何故滅んだかは不明である。一説には金属器の特に武器の有無、あるいは稲作と畑作によるベースの違いから
社会組織のあり方が違っていたので長江文明は弱かったというものがあるが全ては謎だ。
長江文明の残り火が苗族であるとの見解もあるが、ともかく黄河文明がのこり長江文明は消えたのである。
ここいらへんは農耕文化のアジアを支配した牧畜文化の西洋文化に似たようなものを連想させる。
日本の古事記、日本書紀をベースに考えるように、中国の歴史も史記、十八史略をベースにして捉えてゆくのである。
ところで戦国春秋あたりを読むと黄河に長く中華世界があるのだなあと錯覚するが、実はその少し前までは山東省の「斉」
なんかは「夷」と呼ばれていたのである。夷といったら外世界の野蛮なものたちのことである。
それほど天下とは狭かったのである。
ちなみに長江文明の一部、長沙のものが黄河文明を馬鹿にするくだりがある。
しかし時代を下るに従ってそのエリアは拡大してゆく、単に侵略というだけでななく呉、越のように合流していたものもある。
また別の要素としてエリア拡大の要因となったのが流民の発生であろう。
中華世界では仲間割れの争いを徹底的にやるので被害を恐れて住民が安全な周辺部に疎開するのである。
三国志の時代などは多分、多くの中国人が長江域や周辺部に流れ込んだであろう。
しかしこの黄河文明でも最近まで越えられない壁があった北方騎馬民族である。
ここらへんは別の機会にお話しするとして、中華圏の拡大に従って消えてゆき民族がある。紙面上少しだけ紹介すると。
犬戎、昆夷、林胡、北狄、羌、氏,鳥孫、夜朗、衛氏朝鮮、鳥桓、扶ヨ、康居、西匈奴、赤土国、百済、白蘭、南詔
などだが。従属した民族も多い。李氏朝鮮、女信、ビルマ、シャムなどがこれ。
現在は中華人民共和国内に50〜60の民族を支配している。もちろん漢民族を入植させてばっちり領土としている。
こう書くと中国悪党みたいの思われるといけないので弁明するが、アメリカの世界支配により西洋の取り決めによる
領土が確定するまで弱い奴は食ってしまうのが世界の常識だったわけで、逆に言えば中国は膨大な人民をかかえ
このただ広いだけの土地に封じ込まれたといえる。
現代はイラクを見て分かるように領土を拡張することはできないのである。
このように中華世界は拡大していたのであるがその間、数々の民族との興亡があり。
その過程の場面として北方騎馬民族との戦いがあり、その流れの中で水滸伝が誕生するのである。
作品082
 水滸伝の漫画や108人が集まって終わる水滸伝しか読んだことがない読者は彼らのことをしることはないことであろう。
彼らは108人後に集まった英雄豪傑である。
唐斌は「水滸で釣り」で作品25の段階で登場させており(後ろ姿だが)、同じく馬霊などは作品31にいる。
彼らは水滸伝の新たな仲間であるが、そのメンバーが田虎ではぞくぞく登場する。
その一番手が唐斌である。
彼は元軍人で関勝と交友がある人物であった。悪漢を殺し梁山泊に逃亡しようとしたが、抱犢山の崔埜、文仲容とともに山賊家業に入った。のち田虎に投降するが、梁山泊軍がくると帰順しその後数々の活躍をみせる。
梁山泊の二竜山とか小華山などグループごとに結束が強いように抱犢山の3人も強い結束力をもつ。
山士奇も新たな仲間であるが、何度も梁山泊に撃ち破られ帰順する。
戦闘能力は林冲と戦い互角なので、なかなかの豪傑である。

作品81にて中華文明圏の拡大について述べてきた。
つまり南に水耕農業の文明、北に畑作農業文明が存在したということであり、そして水耕文明は消滅したということだった。
では畑作文明はどうだったかというと、殺ったものが殺られるものに転じるということか、さらに北の遊牧民族の脅威にさらされることになった。
畑作を言い換えて以降農耕文明と称しよう。
そもそも農耕文明において都市国家だったものが次第に統合されて巨大国家を形成されるというプロセスをたどってきたのであるが、これが他(遊牧圏)に発生しないということはない。われわれは農耕文化を中心のものを考えるが、この過程は遊牧民族にも当然あてはまることである。
東アジアにおいてそれが発生するのはBC5世紀からBC3世紀である。
遊牧民族も農耕民族は異質とはいえ両者は隣接した世界にあり深く影響し有って存立していた。
遊牧民も氏族ごとにバラバラであったが、南蒙あたりにひとかたまりの集団が形成されてくる「匈奴」である。
農耕民族は彼らの侵入に頭を痛め、戦国時代数々の長城を建設し防衛した。
もっとも頭を痛めたのは北に隣接する趙国と秦国で、趙の武霊王はスカート式の服からズボン式の服に改め兵士に馬に乗って戦うようにしたのである。また秦の始皇帝の場合長城の強化だけでなく、都「咸陽」から北に真直ぐ幅の広い軍用道路を建設したのも北つまり遊牧民族の脅威があってからである。
始皇帝の占いの話で秦がなんによって亡ぼされれるかの問いに「胡」によって滅ぶ」とでたのでビビったというのがある。
実際は出来の悪い息子「胡亥」だったという落ちなのだが、この話が真実かどうかは別としていかに異民族の侵入を恐れていたかがわかる。
下って漢の劉邦の時代(BD102〜BC195)の「冒頓単丁」が蒙古統一。この冒頓が太原に侵入してきたので、これをを向かう打つべく劉邦軍も果敢に平城出撃したが、白登山に包囲されてしまうていたらく。結局和睦により劉邦は娘を献上し100年にわたり貢ぎ物を送ることになったのである。攘夷思想の武帝が登場すると一転「霍去病」などの将軍に命じて匈奴と戦う。
結局一番効果があったのが直接対決より、内部分裂の画策であり。これにより匈奴は分裂してゆく。
ところが三国志で有名なように農耕民族内部で覇権争いが激化。この点は匈奴となんらかわりない。
晋が興ったものの直ぐ弱体化、周辺民族がどんどん侵入することになり、中国の国土は三国時代で疲弊しまくったのが、さらに大混乱収拾がつかない状態になった。「五胡十六国時代」である。
このときから南方に流れ込む漢人の数が増え、南方に中華の主体が移りつつあった。
北は当然「匈奴」、「鮮卑」等の世界になってしまうが。次第にかれらも農耕民化(中華化)してゆく。
その後中国を統一したのは「隋」と「唐」であるが彼らが純粋な漢民族であったかは怪しく。
その軍団の構成が重騎兵に傾向していること、彼らの出身をみても漢化した異民族のような気がする。
このころ「唐」は強大で軍隊も強いが、隋の時代日本の聖徳太子が対等外交を要求したのも彼らが漢民族でなかったからではないだろうか。
五代時代から宋にいたり漢民族が復活。
このころ北には巨大な初代征服王朝「遼」が興り、その後「金」が台頭してくる。
農耕民族はこの北方騎馬民族に散々蹴散らされるのだが、彼らだけでも恐怖だったのだがさらにそれを上回る騎馬民族の攻撃にさらされることになる。そう西洋人も震撼させたモンゴル族の侵略であった。
このトラウマは西洋にても代々記憶として残されてきたが、中国においても例外ではなかった。
ある意味この北方民族への漢民族の恐怖の証として水滸伝は存在するといえる。
簡単ではあるが遊牧民と農耕民の関わりの歴史を見てきたが、中国の歴史をみるかぎり遊牧民の歴史を無視して語ることが出来ないということがお分かりであろう。
現在の中華人民共和国の地図を見る限りそのことは分からないが、少しまで中華世界は北に大国があり脅威を与えていた構図だったのである。
そのなりよりの証明が宇宙から見ることが出来る中華の誇る建造物「万里の長城」である。
中国人をそれを忘れ去ろうとも、急な山々を走る長城はかつての歴史を雄弁に物語ってくれている。

作品083
田虎討伐にて新しい仲間が加わるのは紹介したが、ここに登場しているのは魔法使いの喬道清。
彼の実力のほどは樊端より上で公孫勝より下である。公孫勝との戦いでは華々しい術を繰り出すが公孫勝の敵ではなかった。
公孫勝登場以前の段階では梁山泊軍を苦しめ、もう少しで宋江達を自刎させる所まで至っていた。
宋江等は土地の神に助けられたのであるが、喬道清なかなか手強い相手である。
友の「孫安」の説得により帰順し梁山泊と行動を共にするようになり、王慶討伐にては頼もしい魔法使いであった。

 前回は東アジアの遊牧民国家と農耕民との関わり合いを述べてきたが、このようなことは東アジアに限って発生していたわけではない。中国関係として匈奴の発生を紹介したが遊牧民の発生は遙かに古く、その発生地域は中央アジアである。
BC数千年前に遊牧様式が発生し、BC1千年まえに騎馬の使用が考案され、行動範囲が拡大するにつれ次第に東西にその遊牧の生活様式が拡散してゆく。匈奴などのアルタイ系遊牧民は比較的新しいがアーリア系はかなり古い。
この中央アジアに遊牧民の世界が東西にわたり広範囲にあることは中国においてもギリシャにおいても知られていたことである。
ヘロトドスによればスキタイの東にアルギュパイオス、その東にイッセドネス、さらに東にアリマスポイ、そのまた東にグリュプス、そして東の彼方にヒュペルボレオイ(多分モンゴル)がいる、と記述されているように古くから遊牧民の世界があったのである。
ではこの遊牧民と農耕民の関係は東のそれとまったく違っていたかというと、そうではなかった。
ここで西アジアの遊牧民と農耕民との歴史をおってみることとしよう。

 まず西アジアに筆頭にあげるべきはスキタイだあろう。ヘロトドスが最初に述べた民族である。西にあることからヨーロッパに深く関係する。もちろん彼ら以前にキンメリアがBC8世紀に存在したがスキタイに追われてアナトリアに移動している。
スキタイ勢力範囲は東欧全域にわたっている。
東の匈奴同様周辺国を荒らしているのだが、イランのメディア王国に侵入。さらに西に向かいエジプトまで達してウクライナに引き揚げている。こんなことを繰り返していてオアシス都市を荒らしまくっていたのだが、BC500年ごろ有名なアケメネオス朝ダリウス王が遊牧民討伐を計画し実行に移した。まず遊牧民サカをイランから駆逐、その勢いで北方のスキタイを亡ぼさんと意気込んだが
致命的打撃を与えることができず撤退するしかなかった。もちろんダリウスの軍も騎兵をメディア、アルメニアの名馬の産地を持っていたので中央軍に騎兵軍を有していたがスキタイの機動力には及ばなかったようだ。
しかしこれらの転戦でスキタイの南下の抑制になったのも確かであった。
BC300年頃マケドニア王のフィリッポスもスキタイと戦い、彼の息子イスカンダルはスキタイを攻めたが敗退している。
結局スキタイを亡ぼしたのは同類の東からやって来たサルマトであった。
とまあ古代において東と同様西でも興亡が繰り広げられている。

 次に紹介するのは多分知らない人はいないと思われる、ゲルマン大移動を引き起こしたフン族である。
AD400年頃なのでスキタイからだいぶ下ったが、突然東ゴートにフン族が侵入してきた。
ここいらへん解説いるのかな。
フン族は東ゴートを破り王を自殺させ、これを支配下に治め、西ゴートを攻めた。
ともかくフン族に侵入されて行き場の無かった西ゴートはローマ帝国内に避難した。ところがローマとの間に戦いが起こりローマ軍は大敗し帝国は衰退しゴートが力をつける。447年フン族のアッテラ王東ローマに進軍、コンスタンティーノープルまでせまったので東ローマは講和し毎年貢ぎ物を差し出すこととなった。ここら辺は劉邦を彷彿させる。西ローマ方面では450年にガリアまでアッティラは進軍し、2年後ローマを目指し北イタリアを荒らしまくったが疫病の発生により退却。
東西ローマはアッテラにとって脅かしがいのある搾取源であったのは確かで、匈奴が絶えず中国に貢ぎ物を要求したように、東西を問わず弱い金持ちからふんだくるのが定石のようである。
栄光のローマ帝国も漢帝国同様無様といえば無様である。
このようにながいことこの地に居座ったせいかフン族は化け物のように恐れられたが、東の世界と同様遊牧民ぽいといえる。

その次にフン族の再来と恐れられたのがマジャール人(ハンガリー)である。彼らはドニエプル河に住んでいたがペチェネグ人に押されて次第に西ヨーロッパに侵入してきた。ドイツ、ドイツ、イタリアと略奪をほしいままの行動をしたので恐れられた。

(ここまで述べたところ、パソコンがフリーズするので解説途中で中断します。)
とにかく東西どちらにしても、遊牧勢力に頭をいためていたというわけですな。
作品084
 孫安は田虎配下の将軍で殿帥の地位を与えられていた。 梁山泊が晋寧を攻撃するとその救援に向かったが既に城は陥落していた。
ここで五虎将霹靂火との一騎打ちとなったが決着がつかなかった。秦明相手になかなかの腕前であり、双刀を使う巨漢らしくなかなかの豪傑だ。(この漫画では普通になってしまった。)。かわって盧俊義との激しい対戦となり激戦のすえ誘い込まれ伏兵に絡めとられてしまう。
ここで盧俊義の男気に魅かれ宋朝に帰順することとなる。 喬道清の親友なので、彼を仲間に誘い込んで以降梁山泊軍とともに活躍する。世に出回っている水滸伝の漫画には彼らは全く登場する機会を 与えられていないが是等の英雄豪傑を切り捨てるのは惜しい限りである。

 さて前回は遊牧民と農耕民の戦いの西洋の歴史を述べていたところ、パソコンのダウンで中断したのでその続きといこう。 ロシアといえばトルストイの「戦争と平和」を想起するが、ここでナポレオン軍は冬将軍に苦しめられロシアから撃退する。またナポレオン同様ヒットラー時代のドイツ軍も冬将軍にやられてしまう。ここいらへんを読むとロシアとはなんと厳しい土地なのであろうかと想像し。冬の寒さには戦争などしてられない、ロシアはすごい自然という武器を持っているのだろうかと納得してしまう。しかしそれらを無惨に打ち砕く連中がいた。モンゴル軍団である。
彼らの元々の寒冷地に生活しているので、ロシア程度の寒さはなれっこ、逆に言えば戦争するのはちょうどいいくらいである。 モンゴルのタフさは半端ではない。 その彼らがヨーロツパで威圧に乗りだしたのは1235年のことであった。 出陣したのはスブタイ、バトゥ等であった。
モンゴル軍団は中世において世界最強の軍団であった。単に殺戮が激しいということでなく組織がととのっていて用兵、作戦が洗練されていたのである。

 当時ロシアには多くの公国があったが、二大強国が存在した、一つはモスクワあたりのスズダリ公国ともう一つはそれより西のキエフ公国であった。ロシアの冬になんなくヴォルガ川を渡ったモンゴル軍はリャザン公国を襲う。見せしめのために君主一族は虐殺にあった。つぎにコロムナ、モスクワ、スズダリ、ウラジミールと向かう。モンゴル軍は分散しロシアを縦横無尽に駆け巡り各地に恐怖を振りまいた。
スズダリ軍を壊滅させたあとウクライナ方面に進軍し、途中コルゼルクスなどの抵抗の強い町を虐殺して通過しドン川下流で休息した。 その後西に進軍チェルニゴフとキエフを陥落させた。キエフ攻略は激しく、町に残ったのがセントソフィア大聖堂のみというものだった。 ブシェルミンに到着したモンゴル軍はここをヨーロッパ進攻基地とした。 そしてモンゴル軍最大の目的ハンガリーの攻略であった。

 ハンガリー人はもともと騎馬民族でありこの地に住み着いたものである。ハンガリーのベーラの騎馬軍は侮りがたく、多分その軍はヨーロッパ最強であったであろう。
モンゴル軍は凍てついた大地に作戦することを好み冬進軍開始した。スブタイ、バトゥの主力はハンガリーにそれぞれ向かい、別働隊のバイダルとカダンは北からの攻撃を防ぐためポーランドに進軍した。作品35の解説で述べた「リーグニッツの戦い」はテンプル騎士団、ホスピタル騎士団、チュートン騎士団と勢揃いしたので有名だが結果はヨーロッパ騎士団連合の完敗であることと、そのモンゴル軍が主力でなかかったことから、モンゴル軍とハンガリー軍の戦いそのものが真のヨーロッパ大戦といえるのかもしれない。 モンゴル軍とハンガリー軍はサヨ川とヘルナッド川の合流地点「モヒ平原」で激突。 まさしく両者は一進一退、勝利がどちらに転んでもおかしくなかったが、完全包囲をモンゴルが完成。勝利した。
ところがオゴタイハーンが崩御、後継問題もありヨーロッパ遠征は中止となった。
西欧はモンゴルの惨禍を受けることはなかったが、世界のど田舎の西欧がモンゴル人にどれほど魅力的であるのかはなはだ疑問で、崩御の事件がなかったとしても意外と西には行かなかったかもしれない。
作品085
 「卞祥」(べんしょう)は田虎配下の武将で右丞相太師であった。その腕力は凄まじく武芸に精通し田虎きっての上将であった。 実力は山士奇より上であり、梁山泊との戦いでは史進、花栄、董平ら三者を一度に相手にし戦えたほどの実力者であった。
宋朝に帰順し以降は梁山泊軍とともに王慶討伐に従軍。水滸伝では田虎の主力の武将がほとんど梁山泊軍にとりこまれ、王慶戦で消化してしまうという感じになっている。田虎の武将も梁山泊同様に強いのだが、それと同等に王慶の武将もなかなか強い。
王慶討伐において山士奇と卞祥が命を落としたのが平泉の戦いであった。盧俊義軍に従軍していた孫安、山士奇、卞祥はここで激戦を繰り広げる。山士奇は衛鶴を倒すも敵将?泰に打ち取られ、さらにこれを卞祥が槍で突き殺した。ところが敵には魔法使い「寇?」がいて火炎の妖術を つかって辺り一面火の海にしてしまうと、卞祥は火炎に飲まれて火だるまとなり絶命。盧俊義は燕青の機転で助かり、ここで田虎の有能な2将を失うこととなる。
 平泉の戦いは喬道清が登場するに及んで魔法使い同士の戦いとなるが、喬道清の術は寇?を上回り水の魔法でこれを打ち破った。 水滸伝における田虎将の存在は、梁山泊の頭領を無傷で方臘編に移行させること。戦争小説における悲壮な戦士という一番面白い場面を演じるという、相反したことを成り立たせるためにある。その意味で彼らは可哀想な役回りだが、戦争小説の場合水滸伝の方臘編が面白いことで分かるように主人公たちが戦死していくのが必要なのである。

  解説を読まれた方は「低レベルな世界史の授業などするな、高校で履修しておるぞ」とお怒りだろうが、水滸伝の背景を理解する上で必要な知識だと思うので、ご存知の方は許されよ。
十字軍はご存知であろう。簡単にいうとイスラム圏にヨーロッパ圏のものたちが喧嘩を仕掛けた出来事だが、教科書は西洋を中心とした捉え方をしているので有名だがこの程度のことを大げさに記憶しなければならないほどの事件には思えないのは私の偏見か。 いずれにせよ当時のヨーロッパ圏の戦闘能力はまだ未熟者でありイスラム圏に太刀打ち出来なかったといえる。 イスラム側からいえばこの当時一番の事件といえばモンゴル軍来襲であろう。それは十字軍がエルサレムをめぐるこせこせとした攻防であるのに対しモンゴル軍の場合はもう少しでイスラム圏の息の根を止められてしまうほどの事件だったからである。
 オゴタイハーンの崩御により辛くも西ヨーロッパは救われたが、後継問題も決着しモンケが第三代ハーンに即位した。早速遠征の継続を計った。しかし彼が目指したのはヨーロッパでなくイスラム圏であった。モンケハーンにとってヨーロッパより文明が発展したイスラム圏のほうがおいしい食事だったのである。まあ常識的に考えれば当時のヨーロッパはやせたチキンだがイスラム圏は丸まると太った羊なのである。モンゴルが後者を選ぶのは当然といえる。世界史的には当時の中国、イスラム圏の制圧は驚くべきことなのだが歴史ではまったく無視されている。
 東にあるキリスト教を信奉する王「プレスタージョン」がイスラムを背後から攻撃しヨーロッパを助けてくれるという西洋人が憧れた伝説のようにモンゴルのフレグ軍は進軍を開始した。1256年フレグ軍はオクサス川を渡りペルシャに侵入した。最初に倒す敵はイラン北部のエイプールズ山脈に「鷲の巣」という要塞を建設している「暗殺教団」。かれらは暗殺を得意とし十字軍を恐れさせた。もちろんターゲットはイスラムも同様にだが。このときモンゴル軍はカタパルトの攻城兵器を持参し、200の要塞を2年がかりで全て陥落させている。このときのモンゴル軍は徹底していて、降伏しようがどうしようが、女、子供、赤ん坊に至まで虐殺したのである。かくしてペルシャの暗殺集団は地球上から完全に抹殺されてしまったのである。この点アルカイダに置き換えるとアメリカよりもすごいな。
次に目指したのは「バクダット」。フレグは軍を西に向かわせメソポタミヤに侵入。このときキリスト教国グルジアからもバクダット攻略に参加する。迎撃に都市から出陣したカリフ軍をモンゴル軍は堤を破壊し水攻めにし、そこを重騎兵にてめった切りにした。その後バクダットを包囲し城攻めのすえ陥落させた。当然バクダットは略奪のかぎりをうけ、カリフ一族は皆殺しになり、かくしてアッバース朝カリフは滅んだ。ちなみにモンゴル軍として参戦していたグルジア軍は昔年の恨みかイスラム教徒住民を虐殺しまくったと付け加えておこう。
世界最大級の都市の消滅は衝撃をもって伝えられ君主が次々と帰順しフレグ軍はシリア遠征に向かった。シリアのアレッポから迎撃に出陣したシリア軍を粉砕するとアレッポを陥落させた。ダマスカスに退避していたスルタン、アル.ナーズィルはサマリアに逃亡したがダマスカスを陥落させたモンゴル軍は追撃しザマでこれをとらえた。残るイスラム勢力はエジプトのマムルークである。イスラム側からみれば最後の崖プチに追いやられた感じである。いよいよマムルークに大して最後通牒を送り進軍を開始しようとした矢先東方より伝令がきた。モンケ.ハーン崩御である。 こうなるとフレグにしてもこの地にかまってもいられず、守備部をダマスカスに残すと全軍撤退した。ヨーロッパの場合といいイスラムの場合といい仲良くハーンの死によって命を救われたのは面白いことだ。やはり後継問題は事業を放りささねばならぬほど重大なことなのであろう。
さてシリアの地はどうなったかというと、十字軍の二人の君主が果敢にモンゴル守備隊に戦いを挑んできた。モンゴル守備隊はテンプル騎士団を圧倒的破壊力で一蹴。まったく敵ではなかった。がこのことが最後に残ったイスラム圏のマムルークにモンゴル軍は撤退し、現在この地にいるのは分隊しかいないことを気づかせることになる。このチャンスをのがしてはならぬとマムルークは十字軍と密約のうえがらがらになったシリア向けて進軍した。モンゴル守備隊は機動力を活かせない渓谷に誘い込まれマムルーク全軍を挙げての攻撃に破れ、イスラム圏はシリアを取り戻すことが出来たのである。
以上長々と記述したが、ユーラシアの西側においてもこのように遊牧民族との戦いが繰り広げられていたのである。
作品086
 王慶軍要害の地、山南群の城を陥落させんとした梁山泊軍であったが、王慶軍も手をこまねいてはいなかった。
王慶軍としてはここを押さえられると勢力を3つに分割されまずいことになる。 参謀の左謀は梁山泊軍の兵站は宛州を通じているとみるや、密かに軍を進軍させた。ここを押さえられると梁山泊軍は食料資材を供給不能という一大事になるところである。いわばどちらとも相手の急所を打ち合った感じである。
宛州に到着した王慶軍は次々に軍を出撃させ林冲、花栄、呂方、郭盛を城からおびき出すことに成功した。城に残るは宣賛、?思文の2将のみであり、しかも残存兵は老兵や経験に浅い兵ばかりであった。宛州陥落はまじかであった。
しかし蕭譲の進言により「空城の計」(門を開いてはったりをかます計)を実行すると敵は怪しみ退却した。ここに4将が帰還し王慶軍を撃退し 梁山泊軍が危機を脱した。
田虎の将「馬霊」は既に仲間になっていて、宛州の状況を本軍に伝達している。梁山泊軍の強みとして情報伝達の早さがあげられる。 このとき梁山泊軍には戴宗と馬霊という2枚の足の早い将を持っていた。特に馬霊の場合妖術が使え、金センという飛び道具が百発百中で、神行法が使えて一日に千里を走れて戴宗よりも早い。まったく使える人物である。
ところで蕭譲の空城の計に天魁星の評価は手厳しいものであった。まあそれだけ急所だったというわけで王慶軍もなかなかのものである。

 ヨーロッパとイスラムにおいての騎馬民族との戦いをここまで述べてきたが、両者とも恐怖をもってモンゴルの騎馬軍団をみていたのである。 その大きな理由として、当時の戦闘観では徹底的に戦争をやらないとの暗黙の了解があり、これを前提ののもとに戦闘がおこなわれて来たのであった。しかしモンゴルはそういう世界外からやってきた宇宙人のため、戦いとなると組織的に徹底的にやったため非常に恐れられたのである。したがってヨーロッパ、イスラムはかなりのショックをうけたようでモンゴルの虐殺について誇大に述べている。
イスラム圏の虐殺の記述については実数の百倍の被害が述べられており、そのことはいかに彼らに大きな衝撃を与えたのかということを物語っている。
実数より水増しして大げさに表現する方法ついては中世の時代でも現代でもあてはまることであり、いかに自分たちがショックを受けたかを部外者に理解してもらうための手段である。現代人は実数にこだわるが心理的イメージをアピールするのは良い方法といえる。 つまり 被害の印象=実数*心理的ダメージ ということなのである。 この計算式はマスメディアの発達した現代には当てはまらないが50年前までは適用可能であったと思われる。
 ではモンゴル軍は実際どうしていたかというと。まず攻略する都市には降伏を勧告する。降伏に応じた都市は命はたすかる。その反対に抵抗すると都市落城の後に職人等を除いて全て虐殺される。ようは抵抗するか否かが運命の分かれ道ということで、完全二者択一なのである。 例えばイスラム圏でも帰順した者は虐殺を免れている。モンゴル側からいえば白黒はっきりさせろということだろう。

 さてここまで西域について解説をしてきたが水滸伝の舞台は中国。中国のモンゴルについて語っておかなくてはならないだろう。 三代目モンケハーンの時代、イスラム圏の制覇に乗り出したことは前回述べたが、実は世界征服計画は中国においても進行されていた。 彼の時代標的は南宋であった。南宋は黄河に勢力を張っていた王朝が騎馬民族の金に追われて揚子江南に移り住んだものである。 黄河一帯はその後金がモンゴルに攻め滅ばされ騎馬民族の世界帝国の一部となっていた。
ここでモンゴル軍が考えたのが北と西から南宋を攻略するという二方面作戦だった。その西からの攻略を命じられたのがフビライであった。モンゴルは四川省の南西大理を攻略した。ここはビルマ、タイに通じるルートでもあった。いよいよモンケハーンが南下し四川を攻略せんとしたや先 大ハーンは赤痢にて崩御した。
(彼の死をもってモンゴルの世界帝国は終焉したといっていいのではないだろうか。その後弟たち同士の戦いになりモンゴルは分裂してゆく。 先に述べたイスラムのマムルークがモンゴルのキプチャクハンと同盟したりどうなっていることやら。)
モンケハーンの次にハーンになったのは弟、フビライだったが、この男中国かぶれしていて東アジアの皇帝と言った方がいいのかもしれない。 中国かぶれしているとはいえ、モンゴル人、競争相手の弟を屈服させるや早速南攻略に歩みだす。
かつては長城が北との防衛ラインであったが、このころの南宋は長江の大河が防衛ラインであった。この中央地区の漢水平原は南北の流通ラインで、南宋はこの先端のジョウ陽という要塞が騎馬民族の侵入を防いでいた。ここいらへん事情は三国志の曹操が新野城に攻め込むあたりを連想していただければよくわかるでしょう。この要塞にフビライは正攻法で攻めて来たのである。
中国人は要塞戦にはなかなか強く「堅壁清野戦」を得意とし、ジョウ陽の要塞は簡単には破られなかった。モンゴル軍の要塞包囲は何年にもおよんだがペルシャのカタパルトが持ち込まれるやいなや要塞は陥落した。(ちなみにこの戦いで「張順」なる将軍がモンゴル軍の包囲を破らんと戦死しているそうである。)
これは強固な堤を破られたようなもの、水が溢れだすように、モンゴル軍は一気に武漢まで到達してしまった。こうなると長江中域はモンゴルの手に落ちたようなものであった。首都臨安までにかずかずの防衛線があったがモンゴル軍は難なく突破。このときモンゴルにはペルシャ遠征のバヤン将軍が率いていた。南宋も水上戦で逆転をねらったが、あえなく敗退。三国志の呉のようにはいかなかった。ほどなく首都臨安政府が降伏すると、南宋の忠臣は幼帝をつれて南に逃亡。しかし泉州にて追いつめられて幼帝ともども水に身を投じた。 かくして宋朝は終焉し中国は完全に遊牧民によって支配されたのであった。 解説は以上長かったが水滸伝誕生前夜までやってきたといったところか。
作品087
 いよいよ王慶軍主力が総力をもって出陣してきた。またこれに呼応するかのように、散開して各地を平定してきた梁山泊軍もここに全勢力を集結させてきた。いよいよ王慶軍と梁山泊軍の最終決戦が始まろうとしていた。
 さて大軍勢ともなると食料物資の輸送は大切なものである。人はなんだかんだいっても生活しなくてはならないから、軍事行動に補給の安全確保は第一である。ここを襲われると20万の屈強な軍団であったとしても瓦解するのは確実である。梁山泊軍が集結し始めていた頃、撲天閧フ李応と小旋風の柴進は軍団に食料を輸送せんとしていた。しかし王慶軍がこの食料輸送を察知し竜門山に待ち伏せしていたのである。 巡察していた薛永がこれを発見し、柴進と李応等は逆に罠を仕掛け火種と火器で撃退した。兵糧担当は地味だがこのような活躍をさせるとは、作者はなかかな行き届いた気配りをしてくれる。

 遊牧民と農耕民の戦いの歴史でその遊牧民側が最大になったモンゴルについて説明したが、単純に遊牧民は加害者の悪い人、農耕民は被害者の良い人などと考えないでいただきたい。両者の関係はやったりやられたりの関係であり、どちらが加害者、被害者とは言えないのである。 水滸伝を語る上で原作者の心情のアウトラインを説明するために、どうしても中国の農耕民族主体に解説しなくてはならないのでこのようなことになるのである。
例えば中国は「南船北馬」といって北と南の生活のしかたが違う。同様に防衛についても北は長城、南は長江で防衛という図式である。これをただ眺めていたら長城で遊牧民の侵入を食い止めなくてはならないのだが、哀れかな防衛ラインを突破され長江で必死に守らなくなっていると普通は同情してしまうところである。しかしよーく考えてみれば長江の土地はもともと誰のもの?
さらに北の長城そのものがいかがわしいしろものである。常識はずれの土木工事をやって延々と壁を築いたが、そもそもそこに住んでいた異民族を退治したり追っ払ったりして得た土地を包み込むようにして塀を立てたのである。現代でいうと戦車でパレスチナ住民を追い立てたあと、防護壁を立てるイスラエル人みたいなものだ。現代では非難轟々のしろものだが古代においてはやったが勝ちの世界である。
戦国時代の秦、趙、燕の三国は隣接する異民族を蹴散らして得た土地に長城を建設しているのである。特にこの時の趙の長城はいやらしくて、必要以上にオルドス高原の北に延びているのである。遊牧民の土地を荒らしてなにが中国固有の領土であろうか。中華の土地を守るためならばもっと南に建設すべきであろう。
下って漢の時代になると長城はもっと悪辣なものになる。総延長7930kmまでのび西は敦煌あたりまである。ここのどこが中国だというのか。 さらに平原にはなれ島のようにある居延城あたりの長城の存在でバダインジャラン砂漠はすっぽり中国に取り込まれていて、どこまで匈奴の土地を切り取れば気が済むのだろうとおもってしまう。
このように長城は漢民族が遊牧民族の攻撃から必死に国土を防衛していたということの証明でもあり、逆に遊牧民を追い立てて自分の領土とした侵略行為の証明の歴史的遺跡ということになるのである。
ここらへんの攻防は海に守られた日本人の我々には理解しがたいところであるが、大陸の境のない大平原はとったり取られたりの攻防の繰り返しなのであろう。
作品088
  南豊の宮殿から王慶は李助を統軍大元帥に任命し、自らが出陣した。総勢11万の大軍であった。迎え撃つは迫りくる梁山泊軍であったが、梁山泊軍は総勢このとき全頭領が集結しこの一帯に大勢力を形成つつあった。梁山泊軍は王慶討伐の初期の段階で20万の勢力を有していたが、度重なる激戦による兵の消耗と守備隊分を差し引いたとしても15万の陣容をほこっていたと思われる。
いよいよ大勢力と大勢力のぶつかり合いが行われようとしていた。梁山泊軍の斥候舞台と遭遇した王慶軍はさらに進軍し、その先に凄まじい陣容の軍団を目撃したのであった。彼らが目撃したのは鉄壁の九宮八卦の陣をかまえた梁山泊軍であった。この陣形は梁山泊軍の戦闘形式そのものといってよく、大決戦になると好んで使用する。長い水滸伝の物語の中でも4回ほど登場する。最初は軍団完成期に童貫が攻めて来たとき、2つ目は遼の兀顔延寿との陣形戦の時、3つ目は遼のラスボス兀顔光との戦い、4番目が王慶との最後の戦いである。 このうち遼の二者の戦いではこの陣形をもってしても薄氷を踏む思いだったが、童貫、王慶の戦いでは圧倒的強さを見せつけた。 梁山泊軍が総勢力として兵を集中させて戦う姿はこの王慶戦が最後となるのであった。
王慶軍元帥李助もこの陣形ついての知識があったので攻めかからさせたが、打ち破ることは叶わず力の差を見せつけられるのであった。 かくて王慶軍は破られ王慶は命からがら南豊に落ち延びてゆくのであった。

  さて中国の歴史では初代征服王朝が「遼」、続いて「金」となり、その次が「元」となる。国土から言えば遼の時代は今の北京あたりを侵略され 金の時代は黄河一帯のまで取られ、元になると中国全土まで略奪されたという、時代を下るに従って切り取られ最後は消滅したという哀れな歴史を歩んだことになる。この解説では作者の目から追っていかなくてはならないのでこういう視点でいくが、実際のところ遼を征服王朝と呼んでいいのか疑問だ。というもの以前述べたが遼の領土は正式に移譲されたものである。例えば江戸幕府が朝廷の許可をえて北海道をロシアに売ったと仮定して、後の明治政府が「江戸幕府がやったことは無効だ、ただちに返還せよ」とロシアに迫り、争いを仕掛けるとしたらどちらが正しいだろうか。それを征服というのはおかしい。金については征服としてもおかしくはないが、そもそもそうなったのは宋が同盟国の金に約束の金を出し渋ったことにある。相手にしてみれば約束通り仕事したのにお金をくれないなんて、なんて奴だと思うのは当然。だったら家を差し押さえてもらうぞといった感じだ。この約束を守らない傾向は近代中国でも西洋諸国とのいざこざの原因はたいてい約束を勝手に反故にしちゃうてところにあって、まあこれは伝統といえる。最後の元については征服王朝と呼んでいいでしょう。ただし、これも金がモンゴルにやられていい気味だと思っていたあさはかさがこんなことになったといえる。
 まあ、このような私的評価はさておき、宋という国は北方民族から侵略され少しずつ領土を削り取られやがて消滅したというわけだ。 いわば中国が異民族の軍門に下り奴隷になったようなものである。実際モンゴルの中国支配は「モンゴル至上主義」と呼ばれるものであった。中国人はブライドが高くモンゴル人を蔑んでいるところがあり、モンゴルは徹底的に彼らの精神的な所に打撃を与えたのである。それは異民族による階級支配をおこなったということである。中国には階級支配がなかったかと言えばそうではなく、古くから貴族支配というものがあった。また地主と小作人とか「士」と「庶」などと差別はあったものの厳格なものでなかった。古い時代は貴族が優遇される制度であったが、宋時代ともなると科挙(唐もあったが)などにより一般人が出世出来るようになった。まあ一族に継続される貴族時代と違って一代限りの貴族制度みたいなものか。特に皇帝が直接任命したりして能力ある者は出世できるというものだった。そこで中国の知識人は栄達を夢見ていたというわだ。
モンゴルがもたらしたものは厳格な身分制社会。大まかに偉い順番から言うと頂点にモンゴル人がおり次に色目人(主にウイグル人)第三として漢人(キタイ、女真、北部漢民族)、最後に南人(南宋の漢人)と区別されていた。簡単に言うと、古くから仲間になったものを重用したということだ。さらに面白いのが位10等級のうち、知識人の等級は下から2番目、8位の「娼」と10位の「奴隷」の間に「儒」としておかれたことである。モンゴル人の当てつけはここまでくると意地が悪い。それまで高官にあったものは公職追放、替わって色目人がその地位に就き知識人は路頭に迷うことになる。
しかも決定的なのがモンゴル人が伝統の科挙制度を廃止してしまったことである。こうなると知識を武器に高官にのし上がる栄達の夢も断たれるこのになった。われわれ日本人は一芸に秀でたものを尊ぶ習慣がある。それぞれはそれぞれに日本一があるのだという考え方であり。どのような仕事も尊ぶものである。しかし中国にはそのような価値観はない。全ての分野の頂点は政治だという考え方で成り立っている。例えば医師の頂点はなにかというと政治家となる、それは政治が民を治すからだ。われわれの感覚では政治と医学は関係ないはずなのだが中国人の感覚はこんな感じなのである。全ての地位の頂点が政治、官僚なので知識人は高官を目指す訳だ。ところがモンゴルのように科挙を廃止してしまうと完全に栄達の夢は終わってしまう。中国人(知識人)にとってこれは中国の伝統を踏みにじらたも同然で死んでしまえといわれたようなもの。「遼」「金」も中国を支配したもののそこは中国の伝統に乗っ取った運営の仕方をしたが、モンゴルのそれは完全に中国を否定したものであった。中国人はあまりのも政治に執着しすぎるので、こういったとき隠遁に入ってしまう傾向がある。ともかく中国の知識人は低い身分に落とされ恨みつらみを抱きながら100年のモンゴルの支配を受けるのであった。
かくして水滸伝誕生の土壌が養われていくのであった。
作品089
  林冲落草は有名な箇所で説明もいらないだろう。日テレの水滸伝では主人公だったが、八犬伝の犬塚信乃みたいに諸段階で登場すると得だ。「水滸で釣り」では林冲の顔が二枚目ではありません。まあたいした理由はなく、漫画を描いている筆者が絵が下手なためです。二枚目の林冲を期待された方はごめんなさい。この絵で一番意識して描いたのはエラのはった顎、狭い額、虎のひげにまん丸の目です。私個人としては林冲はなにか根暗なので好みでありません。奥さんのことをいつまでもぐでぐで言っているよで、秦明ほど変わり身の早さは必要ないがもう少し闊達なほうがいいのだが。

  それでは水滸伝誕生のお話の続きといこう。
中国では宋以前と以後では社会の様子がだいぶ違っていた。唐あたりまでの社会は貴族階級社会であり、先祖の実績の積みかさねによる官爵が彼らの存在を足らしめていた。文化も貴族階級に独占されていたがかれらは知識人ではなかった。ところが宋代のころにもなると貴族階級は没落し替わって国家試験を合格た有能な一般人が官職に就くようになる。かれらはほとんどが知識人であり,ここに貴族階級に替わって士大夫階級が登場することになる。階級といっても一代限りの流動的なものであった。そして彼らは士大夫文化を花咲かせたのである。宋の時代に大きな社会の変化が起こりいわば大衆化が進んでいった。それは社会変化によるもので、中国社会も以前述べたように唐代からの運河などの発達により流通革命らしきものが起こり、都市は政治都市から商業都市に変化し振興都市や裕福層誕生した。また宋の時代は平和を金で買ったような感じで長い平和はもたらされていたので尚更民衆化が進んだといえる。
ともかく科挙試験により一般庶民でも試験に合格すれば宰相以下の地位を獲得することも夢ではない世界を達成していたのであった。しかしモンゴル支配により完全に階級世界になってしまった。このことは中国知識人には大打撃であったが、中国のもつ政治に対するこだわりから強制的に開放するきっかけとなったことは否定出来ない。つまり優秀な人材がカビ臭い四書五経などの暗記にあけくれ、そういったものに思考が固定されてしまていたものから解放されたのである。科挙はその後も復活したが清朝の時西洋の学問を導入すべきかどうかでもめた際、なかなか孔子様から脱却できなかったことをみると、こうでもならないと手放さないということだろう。
宋代から豊かにになるに従って庶民の文化が発達をし始めたが、元の時代においてむりやり政治から切り離されてたことにより儒学的思考から解放され自由な発想の庶民文化が花咲くことになる。この点は怪我の功名といったところか。大衆化が進みさらに伝統からの抑圧がなくなるといろんな文芸の花が咲くというのは道理だ。水滸伝に関係すると言えば元の時に登場するのが「西廂記」「竇娥冤」『漢宮秋』『梧桐雨』『倩女離魂』などの戯曲(元曲)である。まあ演劇なのだが水滸伝でおなじみのメンパーのお話もこのころたくさん作られる。水滸伝の好漢と性格が違うようで、このときの登場人物が下敷きになって水滸伝は構築されてゆく。
後に科挙制度が復活し儒教的世界が戻ると是等の作品は色あせたものに戻ったそうである。これらの戯曲が何故突然さかんになったかということはこれらの理由によるものだが、一説には政治から追放された知識人が食い扶持をもとめて是等の作品に関わったので盛んになったという説もある。
作品090
 生辰綱事件は迷宮入りかと思いきやどこかで誰かは見ているもので晁蓋たちが犯人であることは知られることとなった。 たまたま事件担当の何濤と宋江は遭遇することとなり、宋江は晁蓋たちに危機が訪れていることを知った。 宋江は密かに晁蓋を訪ねると速やかに逃れるように進言するのであった。 宋江の派手派手なアクションは以降なく、捕まって殺されそうになるシーンばかりになるのでここが唯一のかっこいいシーンである。

さて
  モンゴル支配下において宋の「士大夫」層は色目人に取って代わられ、多くの知識人が路頭に迷うことになった。彼らは多いに憤慨し反発した。だが反発したといっても生活が在る以上どうすることもできない。一部のもは元に協力することにより地位を保った者たちもいたが、ほとんどは支配の地位から転落した。中国人の世界でなくなったのはたしかなことであるし、彼らは仕方なくその知識を有効に生かせる手段として「胥吏」に身を落とすこのになった。
胥吏は日本での役職に置き換えると奉行所の与力、同心の下にいる「岡っ引」といったところだ。役人ではなく、役所のさまざまな雑務をこなす便利屋さんなようなものだ。かれらは役人ではないので無報酬なのである。それでは生活に困るではないかと心配されることだろうが、そこはちゃんとしたもの。何で収入を得ているかというと役所と庶民の仲介をして手数料を頂戴して生活しているというわけだ。現代でいううと「行政書士」「司法書士」「税理士」さんみたいなもので、役所に深くかかわるのである面ノキャリヤの役人、はたまた清掃夫、設備管理からいえば非常勤の用務員さん。といったところになる。
 知識人が胥吏になった状況を現代風に表現すると東大法学部卒で外務省の米担当だったのが政変で公園の守衛になったといったところだろう。とにもかくモンゴルの支配により高官の地位を奪われたものたちは、職をもとめて胥吏階級に身を落とし都落ちをしていったのである。 ところでこういった政変はいつの時代でもあることで、詳しくは調べていないが日本の敗戦時に公職を奪われたものは多く存在するのではないだろうか。皮肉なことに元の時代の知識人の胥吏への流入はある意味この階級の知識レベルを向上させることになる。
こう述べると、社会的には知識水準が上がって市民へのサービスが向上したのではないかと思われることだろう。 しかし胥吏階級の水準はあがったとこで万々歳と喜ぶのは早い。人間には知恵といっても悪知恵というものが存在して、人間の欲というのは知識水準とは関係ないところに存在する。所詮人間は欲望の生き物。支配層のモンゴル人や色目人は中国の事情というものがよくわからない。つまり実務に疎いのである。勢いこざこざの仕事は胥吏にまかせてしまう。こうなると上司が分からないことをいいことに好き勝手のし放題となる。 上司の見てないところで勝手に税と称し取り立てる者や賄賂を要求する貧欲な胥吏が溢れ出す。こうなると民は汚吏、貧吏に悩ませられることとなった。後に胥吏に幾ばくか給与をを支払う制度が出来たがあまり改善はみられなかかったようである。
ここいらへんの事情は水滸伝のメインの主人公天魁星及時雨の宋江の設定を見てみるとよくわかるであろう。彼の身分は主人公であるにもかかわらず「岡っ引」の存在である。非常に情け深い胥吏であり、困った人にお金を恵んだり、世話をしたりするのである。それ故に大宋国に名を轟かせ一般市民だけでなく任侠者までにも慕われる存在である。普通に考えれば、お金を恵んだ程度でなにを大げさなというのが一般の反応であろう。しかし彼の存在そのものが上記に説明したような社会状況を遠回しに説明しているのである。悪く言えば胥吏社会に対しての当てつけとしての、あり得ない胥吏といえる。このような乱れた胥吏階級に主人公を設定したのも、水滸伝原作者たちの状況をある種物語っているのかもしれない。いずれにせよこのような腐敗汚濁の世界を水滸伝は描き出し、それは現実の世界をモデルに構築されていくのであった。 かくして元の時代は過ぎ、やがて水滸伝誕生の明代初期となるのであった。
作品091
 魯智深は殺人の罪から逃れて五台山にて出家したが、あまりにも乱暴者のゆえ智真長老により東京の大相国寺に厄介払いされてしまう。ここで有名なシーンは菜園の柳を引っこ抜く場面である。まあ力自慢として五台山時代は62斤に禅杖をこしらえたほどのものである。さすがに関羽の青竜偃月刀と同等の重さにはできなかったがたいした力である。柳の事件はチンピラ連中にみせる余興として行ったものだが柳の木を引っこぬくなんて、大根じゃあるまいし気違い沙汰である。この漫画を描くにあたって現実寄りに細めの柳にしようかとも思ったが、冴えないので太めの幹にしてしまった。豪傑の話ではこのように力自慢を誇るようなお話が登場する。しかしよーく考えてみれば馬鹿げたことである。


  牧畜民族と農耕民族の攻防をみてきたが、中国人民が中国そのものである「宋」が滅亡し絶望に打ちひしがれたことは先に述べた通りである。まあ日本が中国に支配され東海省の名前をあてがわれ政治的指導を与えられるのを連想すれば状況がわかるであろう。長い伝統の日本という国が世界から存在しなくなったのである。このような状態のとき反発して抗中国の文学作品がつくれるかといったら無理であろう。捕まって殺されるのがおちである。
 元の時代も同様の状況であった。そのもそも中国を支配したモンゴルは中国がただ広いだけで、人間がうじゃうじゃいるんもんで魅力ないところだと思っていたらしく、本気で中国人を殺しまくったあとに牧草地にしちゃおうかなんて考えていた連中なのである。こんな支配者がいたのでは本音なんていえたものではありません。当然中華世界を賞賛し騎馬民族をさんざん蹴散らす作品が登場する時期といえば、異民族の支配が終わってからと考えるのが順当であろう。
 水滸伝は雑劇が次第に集められ物語は形作られてきたことは先に述べたとおりである。 それが一応の水滸伝の原型となるのが明代初期の「大宋宣和遺事」である。話の骨格は楊志を中心とした庭石運搬の話、晁蓋を中心としたお誕生日祝い金の話、宋江を中心とした奥さん殺し話、みんな集合で張叔夜のスカウトで方臘退治でハッピーエンドのお話。原始水滸伝といった感じで雑劇より進歩といったところか。山東ではなく主人公たちは河北の太行山脈で山賊家業を営んでいる。
 これがもともとの形だったのがその後現在の水滸伝に大きく変化する。それは北方民族キタイとの戦いと、方臘討伐である。物語は集合するまでが、伝承された雑劇を整理統合したようになっているが後半は少数の者が物語としてひとまとまりとして作成したようになっている。さらにその後田虎、王慶戦が付け加えられ明代中期あたりに現在の姿になったと思われる。水滸伝文中魯智深が変なコースをたどったり、史進の経歴がおかしかったり、李雲の設定が変なのもばらばらなのを統合整理された段階で残った矛盾というわけである。


 われわれの知識というもは大半がつぎはぎだらけの借り物にしかすぎない。自己検証したものがいったいいくつあるのであろうか。ほとんどが他者の検証したというものを借用し、さらにまた借用して自己の論理の基礎としている。その情報量も少なく判断材料にことかくのが普通である。そして本人が意識しておらず独自に創造したものと思い込んでいたとしても、その時代の記号を使用するためにその時代のロジックつまり風潮に思考が流されるのが当たり前である。20世紀においては科学万能、人間は自然を淘汰し明るい未来がやってくるという考えかたがあった。現代21世紀になると豊かさがおおよその目的を達し、逆に環境問題なるものが前面に登場してきた。時代の思考が明らかに変化しているのである。そしてこれらの思考の潮流に我々は知らずしらずに流されているのである。
 ところで文学といえども時代の風潮をうけるのは当然で水滸伝も例外であるとは思えない。「大宋宣和遺事」以降なんらかの意志を持ってそれは統合整理されたきたと考えるのが正しいのではないか。
「大宋宣和遺事」と現水滸伝の差はなにかというと北方キタイ「遼」の存在である。ここに水滸作者の意図があるのである。

 ところで文学が時代の影響を受けるということで児童文学を紹介しておこう。これは「家なき子」でご存知のエクトル・マロの「EN.FAMILLE」(アン、ファミーユ)である。この作品は児童文学の形をとっているものの、初期社会主義(空想社会主義という名称が嫌いなもので)の世界を少女を通じて実現しようとしている。簡単にいううと社会派小説といった感じである。
 水滸伝ファンの方はそんなものと眉をひそめられることでしょうが許されよ。時代の影響を受けるという意味で述べているのです。それについて友人に対するメールとして面白がって作成した世界名作劇場感想文なるものがあるので紹介しよう。本来の目的が一個人を楽しまさせるためのものであり、おふざけいっぱいの文章なので恐縮するが、改めて公用に書き改める時間もないのでそのまま添付した。2002年頃作成したものなので筆者も内容が思い出せないが、マロの意図したものはこれだということで書いたはずということだけ記憶している。 前半部分第一章はふざけすぎてどうでもいいので、後半部分第二章が肝心なところなのでよろしければ読まれたし。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以下添付文書ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

*** ペリーヌ物語について一言 *** なるメール文書を添付していたのすが、読者より文章が長いとご批判をうけ。
そんなに長いのであれば解説文中でなく別項目として独立させるべきとのアドバイスをうけましたので、展示場所を「散策」に変更いたしました。よろしくお願いします。 なお直行はこちらです。
ペリーヌ物語へ直行 


作品092
 長々と武松の話のあとやっとこさ水滸伝は本来の話にもどる。このとき武松は酔いつぶれて川に落ちたところを捕まってしまうが、いったいどのくらい飲んだのか分からない。虎を素手で殺したときも酒屋の主人の言葉を無視して酒を飲んでいたが平気だったのにこれはどうしたことか。あるいは空きっ腹に酒が利いたとも考えられるがどうだろう。ここで武松は宋江に再会し助けられる。気になるのが宋江が武松に別れ際、勇気つける言葉を述べるが、九天玄女に逢ってもいないのにこの発言なんなんだろうな。そもそも宋江そのものがこういう思想の持ち主だったのだろうか。あるいは転生で消えた記憶が一部残っていたのだろうか。わからないことだ。


 水滸伝は山賊集団が帰順し官軍となって外国の軍隊蹴散らしたり、反乱軍を鎮圧するお話なのであるが山賊風情がなにを正義を語ることができるのかと反発をもたれることであろう。それらの考えはもっともなことであり。事実その発想から描かれたのが清代に書かれた『蕩寇志」である。この作品は山賊には正義などは存在してはならないとの発想のもと梁山泊を退治するお話なのである。しかし作品は時代の背景をもって描かれるもの。水滸伝誕生の「明」前期から中期の時代ではどうだったかというと少し違っていたのではないだろうか。そもそもが明朝誕生の歴史が中国お決まりのいかがわしいスタートから始まる。
 先の解説にてモンゴル軍は中国を制圧しそこに中国の伝統を全く無視した世界を作り出していたことを述べた。当然漢民族は異民族の支配から脱却すべく華々しく皇軍としての旗を掲げて起こったかというと全然違った。実際はわけのわからぬ塩賊や海賊、はたまた宗教がかった任侠集団が元朝内部の抗争をいいことに勝手に南方で暴れまくったというのが実情である。


 この群雄割拠の時代の主要人物を紹介しておこう。

まずは浙江の海賊「方国陳」。元は水軍に弱く、彼が数重なる討伐隊を撃退したので、逆に元は 方国陳に位を与えて取り込む。元としては食料庫江南より首都大都までの食料の輸送を海運に頼っていたのでここの安定は絶対条件だったのである。この元朝の弱みにつけこみゆすりたかりは流石海賊さんである。日和見主義者で群雄に反復を繰り返し最後まで生き残る。

 つづいて江蘇の「張士誠」。この人物は明の太祖と最後まで覇権を争った人物だが、本質的に塩賊である。塩賊といえばよくわからないだろうが国家の専売品である塩を闇で密売していた連中のことである。重労働で腕力自慢の者たちで屈強な者たちである。牢に捕らえられた仲間を助けるために行動を起こそうとしたところ、これを察した役人は逆に役職を与えてとりこんだ。しかし金持ちとの賃金のいざこざが原因で泰州を占領し旗揚げした。元朝は彼に官職を与えて懐柔させようとしたが決裂。元朝はトクトに彼らの鎮圧を命じ 張士誠は壊滅状態に追い込まれそうななったが、元朝内部の抗争の故か突然トクトの軍権剥奪、撤退命令が下り救われる事に成った。張は高郵から蘇州に拠点を移し勢力を拡大していったが朱元璋軍との勢力争いが始まると一転元朝に帰順した。その後東の 方国陳と和議を結び、強敵楊完者を倒し大勢力を築くが3年に及ぶ朱元璋軍との戦いの末滅亡した。
 ここまで見ると彼等らがうまく元朝を利用して世渡りしているのがわかる。

 江南の「紅布軍」は宗教結社であり雑多種類人々の寄せ集まりであり、宗教にありがちな爆発的に起こり広がり急速に衰えるといつた存在である。弥勒仏の世直しを信奉する連中なのだが劉福通と杜遵道が加わることにより政治色を帯びてくる。しかし彼らは寄せ集めの集団であり、ある程度の勢力を持ち始めると内紛を起こし自滅していく。

 最後にのこるは明朝を打ち立てた「朱元璋」である。彼は豊臣秀吉と類似して語られるので有名だ。彼は群雄の中の一人「郭子興」の部下だった人物である。 郭子興も闇の世界の住人である。憲兵から裏家業の者を守る暴力集団がかれらである。まあ任侠集団かな。紅布軍が興ると、それに便乗して濠州を取ってしまう。面白い事にこちらも元朝からクルが討伐にやってくるが、脳卒中で倒れたので討伐は中止となり命を救われる事と成る。その後拠点を和州に移動したがここで郭は没した。朱元璋は南京を占領しここを拠点と定める。
 西には西系紅布軍である強敵「陳友諒」がおりなかなか厳しい状況だったが、両者は熾烈な戦いを繰り広げ最後は?陽湖にて三国志の赤壁の戦いを彷彿させる水上戦いの末打ち破った。その後 東の張士誠に攻め込み自刎に追い込んだ。

 かくして諸勢力を激戦の末打ち破った朱元璋はいよいよ元討伐に軍を進めるのだった。ここで血肉脇踊る戦いが繰り広げられるとおもいきや、相変わらず元朝は内紛を繰り返し朱軍が北上の報に肝心の皇帝順宗はあっさり都を捨てて故郷への帰還を選択したのであった。
まったくあっけない幕切れだったが、モンゴルにとって中国は本国でないという意識があったのか、はたまた逃げるは恥にあらずという伝統のためかわからないことである。ただ彼らの誤算はかれらが中国に在住のあいだに、凍てついた大地に軍を展開し縦横無人に草原を疾走する恐怖の軍団でなくなってしまっていたことだろう。その後が哀れである。

 さて以上のように中国の地をモンゴルから取り返した英雄たちであるが、史実はこのようでありきらびやかな存在ではなかったのは確かだ。従って山賊だった梁山泊軍が遼遠征に国軍として名乗る物語が作成されても陳腐な事ではないのだ。実際元の北伐を行った副指令「常遇春」などは盗賊あがりなのである。

このように異民族を放逐した中華の英雄たちはいかがわしい連中であったが、中華世界の復興をさせたという意味で讃えられる存在であったのであろう。水滸伝はこののりで作成されており、明代初期から中期までは匪賊も十分英雄になる資格が在るものとして認識されていたのだろう。 しかし明代後期になると漢民族の王国「明」を脅かすのは同じ漢民族の匪賊連中となってくると状況は違ってくる。実際明末期には流賊が猛威をふるいどうにもこうにもならない状態になってしまったのである。必然的に水滸伝の英雄たちも同じ匪賊として英雄の座から落とされてしまうのであった。
作品093
 激戦の末、遼の主力を打ち破った梁山泊軍はいよいよ敵皇帝のいる燕京攻略に向かった。しかし主力を失った遼は戦意を喪失。宋に投降することに決め降伏の旗をあげた。宋朝はこれに応じ和議を結ぶこととし、遼をもって北方防衛の盾とし貢ぎ物を毎年献上させることとした。梁山泊軍としては自分たちの方が全滅されかねないなかかでの死闘を制した結果としてのこの和議はなかな受け入れられないものであったろう。かくして宿太尉が派遣され宋遼間に講話が結ばれるのであった。


 水滸伝誕生の清代中期はモンゴルが北に帰ってから百年から二百年が経過し、かつての支配された時代のことは漢民族は奇麗さっぱり忘れ去ってしまっているのではないか。ましてやそんな安定した時代に異民族との危機感を持った作品が作成されるはずもなであろうと思われることであろう。
確かにその通りだろう。
 ところで水滸伝はやたら忠義忠義と唱え国家につくすとことを訴えている。これは何を示すかというと北方勢力への危機感の欠如と国家に対する忠誠心をまったく国民が持ち合わせていない事を意味する。
(「忠」とは私を捨てて誠意をもって集団に尽くす事、君主の関係は秩序たる「礼」のこと)現在中国でも道徳が第一番に取り上げられ共産党に対する忠誠心の教育がなされている。最近は汚職追放かな。

 これらを声高々に取り上げるのも、言った事を馬鹿みたいに素直に信じ実行する統治者には誠に扱いやすいどこかの国の国民と違い、中国の国民がいい意味で主体的、悪い意味自分勝手で儲かるためなら国を売るみたいな商魂逞しい人々だからである。自己の利益追求が彼らのエネルギーなのである。
彼らの構成単位は個人あるいは一族であり国家ではない。

 このような国民に自己の利益を捨てて天下、国家に尽くせよとはかなり苦しい教育である。しかしだからこそ国家というものを口やかましく唱えなければならないのである。水滸伝などがあからさまに忠義を語るのはこんなところに作成者たちの意図があるのではないだろうか。

 しかし一般民の記憶が薄れたとはいえ一部の知識人にとってモンゴルの支配時代の記憶は受けつがれ、また北の脅威ははっきりと認識されていたと考えられる。モンゴルは中国の地から去りはしたが依然北方に存在したのである。つまり自宅を占拠していた者は追い出されたものの依然お隣でうろうろしこちらを伺っている状態なのである。


 ここで明を建国したの後の北方との関わり合いを見ていこう。
明建国時は元を中心として朝鮮、満州、モンゴル、チベットが中華世界を取り囲んでいた。明朝は国土安全のためにこれらを切り離さなくてはならなかった。つまり北の防衛が明朝最大の問題だったのである。

 洪武帝時代何度か出兵し勝利と敗退をくり重ねついにこれらの分断に成功した。一方ハーン家の力も衰退し北の草原は東のタタールと西のオイラートが覇権を争う下克上の戦国時代に突入した。
 
 明朝3代目皇帝永楽帝は漢民族皇帝の中でも自ら軍を率いてモンゴルの平原に遠征した唯一の皇帝である。彼の軍団はモンゴル式騎馬軍団であった。(この漫画水滸で釣りも彼にあやかって梁山泊の騎兵を原作よりも強化している。)この強力な軍団をもって戦いに赴いたのである。彼の遠征の目的は再びモンゴルに強力な一大勢力を形成させないこと。そのためにオイラートが強大になるとタタールの要請を受けオイラート討伐にでかけ、逆にタタールが大きくなるとタタールを討つといったことをした。

 しかし永楽帝後積極政策を放棄し不干渉主義を明は選択したので、下克上は進みやがてモンゴル平原の戦乱はドゴンが終息させ、息子エセンはさらに領土を拡大しジンギスカンに次ぐ巨大な領土を持つに至ったのである。明の貿易制限に怒ったエセンは中国内に進軍してきたが自国のハーンの動向が気になり明と和議を結ぶ。しかしエセンが部下に殺害されるとモンゴルは戦乱時代に戻った。

 世宗皇帝の時代(明代中期)ダヤカーンがモンゴルに秩序をもたらし明を脅かした。その後彼をしのぐアルタンカーンが登場し領土を拡大すると明からの亡命兵や白蓮教徒を使って明を攻撃、毎年河北、山西を荒らしまくり、北京を包囲した。

 以上ざーっと北の当時の状況をのぞいてみたが、遊牧民との関わり合いに頭を痛める明朝の姿が見えるようである。元を北に追い返してはみたものの頭の上には熊ん蜂がぶんぶん舞っているのである。明代といえど北の脅威は存在したのである。
そしてこの支配された時代そして解放されたがまたいつ支配されはしれないかの不安を抱きながら平和を謳歌している時代これが水滸伝誕生の時代である。
 始皇帝により中国は形成された、そして彼は北方民族の宿題を残したまま死んでしまい。その後の皇帝はその名を引き継ぐと同時に残された宿題に頭を痛めることになったのである。
作品094
 魯智深は五台山を追い出され東京に向かう途中、桃花村にて李忠、周通と遭遇する。ここの物語は孫悟空の一説みたいな感じで、村の娘を山賊(西遊記なら妖怪)がさらいにくるのを主人公が助けるといったものである。力自慢の頭なさそうな好漢が活躍する一番の設定である。まあ言葉で分からん奴は同じ暴力で分からせるというやつ。ここの部分読んでもやはり主人公達は悪党どもだなというのがつくづく分かる。この漫画では山賊側で描いたが、李忠と周通の金に対する細かさがうまく表現出来なかった。また周通が実際に持っていたのは銀の酒器です。ちなみに李忠の顔は小池さんキャラを108人の中にいれたかったんでこんなになっちゃいました。


 水滸作者は口が酸っぱくなるほど北方の脅威について説いていたのだが残念ながら、明の終わりにさしかかると元に支配された経験はさっぱり生かされず清の台頭を許し、しかも水滸伝の忠義に反して異民族の清を導き入れたのは忠義いっぱいの漢人であった。まあ何たる皮肉としかいいようがない。

 匪賊になるのははっきりいつて生活に困った連中とか、一般社会になじめないどうしようもないクズの連中だ。元の終わりに彼らは多いに役に立ち北方民族を追い返す力となった。しかし中華世界が安定期にはいると彼らのような存在は非常に困った存在であった。このような連中が徒党を組んで悪さをしては中華世界の秩序が崩壊しかねない。
しかし、このような世間から外れた存在は物語としてはなかなか庶民に人気がある。それは現代日本でも同じでチョイワルや不良がもてはやされると同じである。現実はこのような存在はやくざ世界に吸収されるか、普通の庶民に次第に戻ってゆくのがほとんどである。

 物語を作成するうえで人気のある社会適合能力ゼロの豪傑を水滸伝はどう料理したかというと社会復帰であった。それは北方民族の制圧と反乱軍の鎮圧によって社会的名誉を得るというものだった。
水滸作者たちにとって、「ほら、不良の皆さん、徒党を組んで悪さをしている若者諸君、そんなつまらないことは止めなさい。物語の英雄も立派に社会復帰しているではないですか。君らの力はここで役立つのです。その槍で栄誉を掴む事が出来るのですよ。」といいたいのであろう。これまでの解説にあるように北方民族はまだ脅威として存在するし、中華内部が無頼漢によって混乱するなは許されないことなのである。是等若者のエネルギーは対外防衛体内統制に差し向けなくてはならない。水滸伝は明成立の無頼漢が暴れまくって漢王朝復帰という大事を成し遂げたのりで作成してある。
もっともこれは明代初期の水滸伝はこののりだが、中期になると第二の柱の要素があるために悲劇で終わる。  現実の姿に反して反社会的なものは物語として何故か好まれるが、これらの悪党を主人公として物語を形成するのはかなり難しい、水滸伝も物語の構成が残念ながら成功しているとは言いがたい。

 水滸伝を読むと作者たちはものすごく冷徹で的確な判断をしている。
例えば遼を倒したとき四姦によって遼は延命させられたというのがあるが、その理由が遼をもってさらに外縁部の異民族の防衛網とするとのアイデアである。これはまったく道理にかなっている。梁山泊が遼にとどめをさせなくて残念との意見もあるが、遼を生かしておいた方が戦略的は勝利といえる。
戦いは戦略的勝利を達成するために戦術がある。ゆえに梁山泊軍は戦う必要はないのである。

 さらに梁山泊については、これは宋国内に存在しては成らないものである。英雄豪傑といっても強力な匪賊集団はやはり抹殺されなくてはならない。水滸伝はそれを冷徹に遂行し完結させている。 水滸伝の作者は社会から逸脱した主人公たちを本来退治されなければならないものとして理解している。どう考えても彼らを生かしておいてもその後やはり匪賊集団に戻ってしまうのは分かりきったことだ。それではこれまで積み上げた栄誉はなくなってしまうし、だったら英雄のまま非業の死を与えてやろうというわけである。 しかも大半が病死。かくして梁山泊の不良たちはは英雄として名を残したというわけである。


 さて水滸伝完成後のその後のこの物語の運命だが明代末(ほぼ終焉のころ)に「金聖嘆」なる人物がお大幅に水滸伝を改訂した。水滸伝の持つ忠義なるもに違和感があったためである。かれは水滸伝の本質を見抜いていたのであろう。これらは中国人の本質にそわないものと理解した。忠義の思想の否定でありそれはその権化の宋江の否定であった。この構想のもと水滸伝を再編し梁山泊が集合した段階で話を打ち切った。もちん彼らが匪賊であるので成敗されることを暗示させて。
 彼も結局ワルの主人公たちをどう始末させたらいいかわからなかったようである。悪は退治しなくてはならない、しかし愛すべき主人公たちを抹殺は出来ないし。ということで夢でごまかしたのである。
金聖嘆はそういう意味で水滸伝作者よりドライでなかったといえよう。

 もちろん別の選択肢がなかったわけではない。それはズバリ打倒悪政宋朝。
もちろん中国の文学は歴史ものを土台にしているので飛躍しないというのはあるが、水滸伝が悪政治に立ち上がったということで一貫した主張をすればなんの矛盾も発生しないのである。
水滸伝のよくしっくりしないのは、悪政に反旗を掲げたんだと思い込んでいたら、その政治にすり寄る展開を見せるためである。

 しかし金聖嘆には悪政打倒の物語を作成することが出来ないであろう。一つには国家は許さないというのもがあるが、一番大きいのが現実の匪賊がそんなことをすればどうなるかよく分かっていたからである。
彼らの時代は流賊が横行する時代。張献忠とか李自成が暴れまくったのである。この流賊連中はいわば梁山泊が天下をねらったらこう成るだろうという見本であった。 結局李自成が明朝を滅ぼし天下を自分のものにしたが、所詮は匪賊集団、清がやってくると金めのものを持って北京から逃亡したのである。かくして漢民族の天下は終わり再び北方民族の支配下に置かれる事になった。これらの事柄は梁山泊の連中と同質の流賊連中によってもたらされたのである。

  このような理由で金聖嘆が梁山泊に天下をとらせる物語を作成する事はありえないのである。忠義を否定するとこが精一杯で、集まってなにをさせるか答えを出せないでいる。もっとも物語が短くなった事も手伝って中途半端な終わり方をする水滸伝が中国では主流になっていってしまった。

 金聖嘆にはそんなつもりはなかっただろうが、漢民族を支配する清にとつてもともとの水滸伝のような異民族撃退、漢民族に忠誠をつくすことをおもいっき全面にかかげた作品は目障りである。
この点 金聖嘆の支配する側から言ったら、いいことこの上ない。(とはいえ彼は処刑されるが)第一に中国人の豪傑英雄と言われる連中が意味もなく集まり、誰かに尽くすというわけでもなく不平不満を持つだけで、最後はどうがんばってもそんなものどもは退治させられてしまうのだとわからせているからである。
さらにこれを押し進めたのが清代の「蕩寇志」なのだが、ここまでくると完全に正義は清朝にあり詰まらぬ反乱はこうなるどとの見せしめみたいな感じである。清朝の時代は水滸伝の元々の形はなかなか存在が難しかったのかもしれない。そんなわけで中国では 金聖嘆の70回本が一般的な水滸伝なのである。

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漫画の台詞が鮮明でないの明記いたします。

*今日もだいぶ実入りがあるぞ。お宝でいっぱいだ。
*俺たち稼ぎ上手ですよね。
*ところであの燭台はどうやって手に入れたんだ。
*あれは以前役人に捕まったとき司祭がおれをかばって「差し上げたもの」と証言して助けてくれた時のものなんですよ。
*変な奴もいるもんだ。
*でもその司祭が、あなたは悪の味方でなく善の味方になるのです。私はあなたの魂を買いました。その魂を神に捧げますと言いやがったんですぜ。
*それで?
*人を勝手に売り買いしやがったので司祭の舌をちょん切り目をくり抜いて耳を削ぎ落とし燭台と食器を頂いたというわけです。
*明津相手になんだろね。
*まったくで。ちょいと桃花村の劉家の娘に逢いに行きます。
*また変な司祭にひっかかるなよな。
*ひっかかった
作品095
 梁山泊軍の両討伐では108人の頭領が無傷だったことも在り楽勝だったイメージがあるが、序盤戦遼に打ち破られたりしている。幽州攻略における青石峪の戦いでは副先峰の盧俊義等があやうく命をお押しかねない状態であった。
遼は梁山泊軍が進軍してきたので、計略をもってこの地に誘い込み、地の利と妖術を使って倒すつもりだた。この計略は呉用、朱武に見破られていたが、宋江、盧俊義が押し切って遼を追撃したために、遼の作戦は成功した。盧俊義軍は袋小路に追いつめられ風前の灯火になった。しかし遼の誤算は魔法使いの公孫勝がいるということを知らなかったことだった。かくしてもう一歩のところで遼の計略は成功しなかったのである。


 さて中国王朝としての宿命として大雑把に3つ課題を負っている。
第一に官僚機構(内部抗争とか腐敗)、第二に北方民族などの異民族からの防衛、第三に国内の反乱軍、匪賊の討伐である。
これらの問題は中国の漢民族の王朝がかかえる問題であった。
宋の時代でもそうだったが、明の時代でも同様だった。あまりにも似たような事件に遭遇するので中国の歴史は何の発展もないのかと錯覚しそうである。
素人目には宋で起こった事件も明で起こって事件も全く区別がつかないというのが実状だろう。 水滸伝ではこれらの問題はきっちり描いている。四姦、遼、方臘がそれであり物語を読んだだけで中国の要諦を掴む事が出来る、まことにたいした文学だ。
これらの構造の解説は水滸伝の2本目の柱の記述にて十分なされることであるからここでは論議をさける事としよう。
 とにもかくにも中国の歴史はこの3つが繰り返し絡み合って織りなされる。 この普遍的な中国の問題は反復してきた歴史なので明代の人々にとっては水滸伝の物語は遠い過去の事ではなく現在の物語であるととらえることが出来たのではないだろうか。


 モンゴルの中国支配は漢民族に大きな衝撃を与えたが、元の力が弱まると漢民族の王朝と取り戻すことが出来たととは先に述べた。その後の明とその滅亡について述べておこう。 といっても賢帝が出れば愚帝が出てくるし、高官や宦官の政治抗争は相変わらずなので気力が失せてしまうので、水滸伝の徽宗皇帝にあわせて正徳帝(武宗)を紹介しておこう。

 彼の父弘治帝(孝宗)は名君とうたわれた皇帝である。万貴妃の魔の手を逃れ生き延びるところなんかはすごいドラマだが、即位すると人事刷新し父の悪政を改め臣下と膝をまじえて語り合いの直言を 聞き入れ政務に精力的に勤めた。弘治帝の必死の努力もあり平和な時代は過ぎていったが、息子武宗(正徳帝)の時代になると一変。
この帝親のなにを見ていたのか、道楽息子。芸術家だった徽宗皇帝のほうがまだましに思えるのは気のせいか。彼の周りには八虎という帝に道楽を教え込んだ者たちがいて遊び癖をつけていたのである。簡単に言うと遊び好きの変わり者。宮廷内でおおがかりなごっこ遊びに興じたり、邪淫の寺を建てたり、人妻をさらっては犯したりろくな人物でない。このように善政と悪政を繰り返し次第に明朝も滅亡へ向かってゆくのである。 せっかく漢民族に取り戻した天下だったのに、同じ過ちを繰り返すのだからどうしよいもない。

 武宗は明中期の話だが、明末期は東林派と反東林派が大抗争の末、無頼漢の魏忠賢(高?みたいといえばお分かりだろうか)が政治を牛耳る時代だった。
明最後の皇帝崇禎帝は父の時代の魏忠賢を追放し国政を立て直そうとしたが遅かった。すでに内外からの圧力は強まっており崩壊寸前であった。 時は第一の要素を引き金に第二と第三の要素が複雑に絡みながら明の滅亡を描くのである。

 さてこの明にとどめを刺したのは流賊の李自成だつた。ここでは彼には語らずこれまでの解説の流れの経過から異民族の金について先に述べておこう。


 明は北方民族対策に心血を注いできたのは理解できる事でしょう。その方策は巧妙な分断化工作により大勢力を形成させない事であった。しかに満州の女真族(北朝鮮の西)にヌルハチが登場すると満州を統一してしまった。
 そもそも北朝鮮の西の地は古くから強い勢力は存在した地域であった。ご存知「高句麗」であるがこの強力な勢力を「随」「唐」はなんとか責め滅ばさんとやっきにんなっていた。朝鮮の新羅と同盟を結んで唐がやっと責め滅ぼしたが、それまでさんざん痛い目にあっている。
 時代を下ると高句麗より少し西の連中が金を打ち立て中国の北半分を支配した。

 こんな土地柄なので勢力の形成は明については一大事なのである。ヌルハチ立つに明も放っておくわけにはいかない10万の大軍にて掃討に向かった。しかしサルホ山の会戦以降明軍は押され続け瀋陽に都を作られてしまう。ヌルハチが没すると息子ホンタイジが後を継ぎ朝鮮を攻撃し、モンゴルに手を伸ばし長城を超えて河北に侵入してきた。これには明もあわてて必死の防戦を行った。かくして長城の彼方には「清」という強国を存在させることとなったのであった。

 さてこの第二の要素が第三の要素と絡み合う。清とのうちつづく敗戦により、明は軍事費が増大していった。戦費は当然租税によってなされるが、このときあいつぐ増税により国民に耐えられないものになってきた。ここに飢饉がやってきたのでついに農民蜂起が各地で発生し、食い物を求めて流民が発生し、流賊が荒し回る世界なっていった。こうなると明朝は手の施しようがなく、外は清、内は流賊とお手上げ状態になってしまったのである。宋の時は嘘をついて金を怒らせちまったのが河北を追われる原因だったのだが、明の場合は身から出た錆みたいなものだった。

作品096
 祝家荘との戦いは、時遷が時を告げる鳥を盗んだことから始まる。しかし作品78の解説で述べたように、時遷の事件があろうがなかろうが祝家荘と梁山泊は戦う宿命にあるのである。かれらはそのきっかけを作ったにすぎない。 この時遷の鳥盗みの事件をよーく読んでみると、確かに盗みを働いた時遷が一番悪いし楊雄と石秀は知らなかったとはいえ、ばれなきゃいいやとばかりに共犯になってしまったことは責められることだ。しかし村人の態度には被害者とはいえ、最初から痛めつけるのを前提に行動しているのは一寸疑問に思う。悪さをしないように痛めつける確かにそれは正しいことだ、しかし苦痛を与えるという手段がはたして改心させるということにおいて最善であるかどうかははなはだ疑問である。とにかく両者とも鶏以上の損失を被ったのであった。



 前回は漢民族の王朝「明」を脅かす外敵の金の勃興について説明した。絶え間な続く清との戦いにおける戦費の調達、これにより民は疲弊しきってゆく。増税により逃亡者が続出、各地にアウトローたちが続出、そこに飢饉がやってきて流民を取り込みながら流賊が増大してゆく。また軍隊そのものも兵匪と化していった。
 王嘉胤らが3万農民軍反乱を起こすと明はこれを鎮圧したが、火の手は治まる事を知らず、峡西のみならず河南、山西、河北まで流賊が発生し始めた。その群れは10万単位の大軍になっていた。

 これは悪循環の連鎖で、増税に苦しむ、逃亡、田畑が荒れる、食えない逃げる 流賊の仲間にはいって食を得る。流賊となって村や町を襲う。襲われたものは、すべてを無くすので しかたないので流民となり流賊に仲間入りすることにより食にありつける。彼らが別の町を襲うといった案配にどんどん膨らんでいったと言う訳である。
このように蜂起は拡大はしたものの所詮は農民、職業軍人の集団の政府にかなうわけなく高迎祥、掃土王、過天星などの首謀者は次々捕らえられて殺されてゆく。

 「李自成」は高迎祥配下の者であり明政府軍の猛攻に反乱軍が破れ行くなか高迎祥が捕らえられて殺されると、自信は河南に逃れた。ここで彼は知識人を手に入れるのであった。
 三国志でいえば臥龍鳳雛といったところか、「金牛星」と「李厳」であった。以降李自成の軍は変質してゆく。集団の組織も整備され厳格な規律を持ち政権としての意思を持つようになったのである。
以降ほかの流賊の群れとは違い人気取りをし始め、悪徳の王を殺害するとその財貨を皆に分け与え、大地主、官僚以外に害をくわえなかったので知識人、中小の地主の支持を得るようになる。大勢力となった李自成軍は次々に都市を陥落させ西安に至り大順国を建国した。ここを拠点としていよいよ明から帝位を奪うだけとなった。

時が来て李自成は北京攻略に軍を進めたが、もちろん明としてもだまって見ていた訳ではなかった。清との国境防衛にあたらせていた「呉三桂」の率いる精鋭群を西に走らせた。 だが時既に遅く李自成軍の進軍は早く、あっというまに北京を陥落させてしまったのだった。かくして明は滅亡し、同じ漢民族の李王朝が始まる。。。。かと思いきやそうなならなかった。

 金の東方山海関は要害でであり、清は攻めあぐねてどうしても長城を越えることが出来なかった。ある日、清の摂政ドルゴンは10万の兵を従えて山海関の近くまで進軍したところ、なんと明の司令官から明帝の仇討ちのために兵を借りたいとの書状をうけとった。かくして清軍は関を越え 明の呉三桂等とともに北京むけて進軍したのだった。
 一方李自成側もこれを向かい討つべく出撃したが、目の前に登場したのは明の残兵と思いきや、清の精鋭軍であった。順国軍(李自成軍)は敗退し、北京を逃れ西安に向かった。しかし清軍の追撃は続き九宮山にて李自成は果てたのであった。

 「呉三桂」が何故裏切ったのかには女がらみという話も有るが疑わしい、清に協力し多いに力を発揮したた漢人は「洪承疇」という人物がおり、こちらは男色で変節したと言われどうも裏切り者に対する悪口のような気がする。その他清に協力した者に「尚可喜」「孔有徳」「耿仲明」もいるがその真意は不明だ。

 忠義大好きの水滸伝作者もこの状態は想定外の事件だろう。いわば隣の悪いやつを相手に死闘をしていたら、たちの悪い丁稚が主人を追い出して新しい主になったようなものである。
主人の仇を討つべきか、家自体を守るべきかなかなか悩ましいところだ。明朝に忠誠を尽くすならやはり清の力を借りなければならないし、漢民族の世界を守るなら流賊に帰順しなくてはならないし。 はたしてどちらが忠義といえるか。

 まあとにもかくにも、かくしてやつとモンゴルから取り返した漢民族の世界は自らの手によって異民族に手渡したことになった。こうして長い清の支配を受けるのだった。

 ところで作品no14邯鄲栄花夢はこの李自成のように梁山泊軍が天下を狙ったらどうなったかを想像した作品でした。今回の説明により李自成をまねたものであることがお分かりであろう。もちろん最初から分かっていたというあなた、すごいです。また作品no32のタイトルの金牛星は李自成の参謀「牛啓東」のことです。
 李自成については講談社に「叛旗」なる小説があるのでこちらで詳しくわかるでしょう。
作品097
 水滸伝108人の中でいの一番に登場するのが九紋竜史進である。最初に登場するせいか知らない者なしといったところか。有名なのが彼の入れ墨。遠山の金さんなみに人気があるのだが九紋竜の入れ墨がどんなものか全く不明だ。九つの紋がはいった竜なのか、竜が九匹の入れ墨なのか悩むところである。ところで彼の師匠の王進だが、史進と分かれてからのその後が気になるところである。まあ追われる身なので、分からないというのが無事に生きている証明なのだろうが。気になる。逃亡先が西夏の最前線なのであるいは、偽名によって異民族との戦いにおいて活躍しているかも知れない。しかし、王進が仕込んだ武芸も弓矢の乱れるうちの前には無力だったのは残念だった。



 北方騎馬民族と農耕民族である漢民族の攻防をながながと述べてきたが、このような中国に歴史の土壌に水滸伝が存在するのは少しお分かりいただけたことだろう。このような歴史が分からなかったとしても有名な万里の長城の存在を考察してみれば、中国の思考になんらかの影響を与えているとは想像できるというものだろう。
では水滸伝の今日における、その存在意義はというと、残念ながら「ない」と言っていい。 ようするにその使命を終えたのである。 いまさら、遼といってもなんのことです?と問い返されるのが関の山なんである。

 現代では遊牧民の脅威はなくなったといっていい。
第一に銃火器の発達にて、騎馬の優位性がなくなったしまった。近代まで銃騎兵なる部隊が存在したが日露戦争時において連式銃のまえに敗北をきし戦闘方法がすでに過去のものであることが実証された。

第二にモータリゼーションの現代においては馬ではなく車であること。戦闘で言えばそれは装甲車だったり戦車だったりする。 つまり鉄の馬が大地を駆け巡るわけであり、それらの生産地は遊牧民の牧草地帯でなく、農耕民の工業地帯なわけで遊牧民と農耕民の力関係は完全にはっきりしてしまったのである。

 仮にモンゴルやチベット民が戦いを起こしても、人民解放軍は簡単にこれを排除できるだろう。 (現代中国軍が周辺国のベトナムを侵略し敗北した事例はあるが、それは単に装備の差であった。)  現在の中国の領土は純然たる漢民族の世界と言ってはならない。それはかつての北方異民族支配者「女真族」の遺産を受け継いだものであるということを知らなくてはならない。
そもそもチベットの支配を確立したのは清の乾隆帝の時代であり、後に中国共産党が攻め込んだが単に清の版図を再び描いたに過ぎない。そういう意味では現在の中国の領土は漢民族の領土ではないといえる。もちろん女真族は中国人民の一部であると称するなら現在の領域はその通りだといえるが、その手法はかつて日本が満州に国家を建設しようとした方便と大差ないではないか。

 これまでの解説で漢民族が必死に異民族侵入から国土を防衛していたことはお分かりであろう。 清の始皇帝の時代から歴代皇帝に与えられた宿題は、現代において終了したのであった。 すなわち、西蔵自治区、新疆ウイグル自治区、青海省、甘粛省、内蒙古自治区、黒竜江省、吉林省、遼寧省は完全に漢民族の支配下にあり覆されることはないからである。

 なぜ覆されないかというと、装備の問題もあるが国際社会における領土の区分がこれで固定してしまったからである。
すなわち、現代の領土の区分は西洋人の認識や都合によって引かれたものであるということである。 ヨーロッパ人の中国についての認識は「清」の姿であり、その版図なのである。これは仕方ない事で 欧米人が世界に支配エリアを拡大していった時代、中国の支配者が清だったからである。 彼らが東アジアの攻防など知るはずはないのだから、理解しなさいというのが無理なのかもしれない。

 だいいち日本人においても、満州国建国において女真族の皇帝をみこしにかかげたのだから偉そうな事は言えない。満州建国は中国人から見れば、やっとこさ異民族を打ち倒したと喜んでいたらどこかの馬鹿が魔王を復活させようとしており、「また漢民族の支配を狙っている」と思われても仕方ない事である。日本人ですら東アジアの攻防を知らないのである。

 チベットが1950年に各国に独立国としての認定を求めたとき受け入れられなかったのは、清の版図が中国の姿であるという認識があったからだろう。現代チベットを人権問題としてとりあげることはあっても国際社会が中国から分離させるということはまずない。 それが実現するとするなら中国に大規模に内乱が発生したときだ。
(これらの領土分割の混乱は西洋人の尺度の国家なるものが東洋の場合どう適用していいのか分からなかった面もあるのであろう。)

 ただし中国が完全に清の版図のまま得られたかというと、そうではなくモンゴルなどは中国とソ連との緩衝地帯として辛うじて存在し得たのであり、まあ境界線が西洋人のご都合というのがよくわかる。 というわけで西洋、いやパクスアメリカーナによってもたらされた領土区分は揺るぎないものである。これらの境界は世界の支配者の世界観歴史観によって構築されているのである。


 中国はかくして悲願の中華の防衛圏を手に入れる事ができたのである。それは自力ではなく西洋の世界観を利用した領土分割と保証であったとはいえ従来の漢民族の土地を囲むように異民族を支配下におけたのである。
この偉業を達成した中国共産党は初代皇帝である始皇帝から間違いなく及第点をもらえることであろう。

このようにして、108の主人公の命をかけた激闘の意味を分かる者はだれもいなくなったというわけである。

作品098
 手に汗握るご用金強奪計画は劉唐が晁蓋と接触することによって始まった。
しかし山東のうん城県に新しく着任した知県、時文彬もただ日々を無作為に過ごしていたわけではなかった。なうての教頭、朱仝、雷横に監視強化を命じたのであった。確かにこの命令は的を得たものであったが、残念ながら盗賊団からご用金(お誕生日お祝いの品)をまもることが出来なかったのである。
強奪のメンバーには参謀クラスの呉用、公孫勝がおり梁山泊の核となるものが登場する。
故にこの事件をもって梁山泊の始まりとしていいのかもしれない。
ところで強奪メンバーご用金強奪の目的は金目当てというより、権力にあぐらをかいて私欲を貪るものへの懲罰とて決行しているのはわかるのだが、公孫勝までそののりなので何か変である。この頃は未熟で仙道の修行に励む宗教人というよりも直接社会に関与する社会派人間であったということなんだろうか。
師匠からいえばまったく困り者の弟子である。



 水滸で釣りのトップページにて水滸伝は英雄豪傑を勢揃いさせ異民族と戦わせる国粋主義的な文学であることは述べた。しかし、このいわばこの「こてこての中国右翼文学」という表現にこのような意見をもたれる方がおありであろう。

 「日向君は中国のことがちっとも分かっていない。そのような意味で中国で右翼を使うのはおかしい!。そもそも毛沢東の継続革命論では資本家階級と労働者階級の戦いは継続していることになっている。この理論では資本主義に戻ろうとする者が当然発生してくるとしており、このような反革命分子や右派分子に対し共産主義は常に戦っているのである。つまり共産党に逆らう者が知識分子、右派分子であり、民主化を志す者が右派なのである。というわけで日本と違って中国の愛国心は共産党を守る限り継続革命の守護者であり左翼といったほうがいいのではないか。」

この意見は確かに主張ごもっとも、なのだが、この水滸で釣りは日本人相手に描かれたものであり、日本では国防を論じる者は右翼といういい加減な区分がなされているので便宜上利用させてもらったというわけである。

この右翼、左翼の二分割方式は非常に理解しやすいのだが、あまりにもおおざっぱしすぎて問題もある。
 そもそもこの分割方式が登場したのもフランス革命時代、国民会議で右にジロンド派、左にモンターニュ派が着席したのが始まりと言われている。 政治思想を単純に二分類した手法なのだが左とは革新で右は保守ということになる。
それは時代によって変遷したが、20世紀はマルクス教が知識人の間で大流行したため、だいたいこの教えに従った教徒の方々を左翼と呼んだ。
しかし、レーニンが世界革命を唱えて人々をワクワクさせたが、スターリンが一国社会主義を推進し農民から収奪するとか、毛沢東の大躍進政策の惨めな結果などにより千年王国の夢から冷め現在新しい革新すなわち左翼を模索中といったところである。 右翼の曖昧さもさることながら左翼も社会主義、リベラル、アナキズム、共産主義と多種多様で訳が分からない。 マルクス教のような強烈なインパクトある主張があれば革新の旗となりうるであろうが現在はない。

 この二分法ある種面食らう場面もある。
たとえば、
「お前、アンチ巨人だな」
  「いいえ、違いますよ」
「じゃー巨人ファンなのか?」
  「それも違います」
「じゃーなんだってんだ」
  「鹿島アントラーズファンです」
「ほーらみろ巨人ファンじゃない。お前はアンチ巨人だ」

 巨人全盛時代を知る方は理解できるでしょうが、このような思考の展開がなされるのである。
つまり複数の考え方があると言うことを理解できない。
これはアメリカンコミックみたいな勧善懲悪の滑稽な論理だが、これが複合並列形式の論より遙かに理解しやすいのは否めない。 例えば小泉総理の時代、単純に議員を改革勢力と抵抗勢力に2分割して国民の支持を得た。 この分かりやすさは恐ろしいほどだが、ここに人間のお馬鹿ほどを見せつけられた。

と言う訳で、水滸伝の右翼文学という表現も軽ーい意味で使用したものである。 簡単に言うとナショナリズムは右翼といったかんじ。 するてーと左翼はグローバリズムになるのかな?
ともかく、この安易なる分類法は結構面白いので今後も使っちゃいます。

作品099
 
 方臘編杭州戦、後の南宋の都となる地方都市であるがここで梁山泊軍は攻めあぐね最後はお得意の食料運搬にまぎれて変装して城塞に侵入する手口で陥落させた。
方臘の太子方天定は杭州南門から脱出して五雲山の麓まで逃げたが、そこに一人の男が現れ一刀のもと首を切り落とされた。この男こそが湧金門で矢に果てた張順であり兄の張横の体を借りて方天万を討ち取ったのであった。
 物語百貨店の水滸伝、当然幽霊話があるのだが、登場する幽霊の中では張順はずば抜けている。
ほかに登場するといえば武松の兄がいるが、まあ武松の生気に押されぎみで霞のような存在だ。次にあげるとすると晁蓋だがこちらは曾頭市の戦いにおいて史文恭が逃走するのを遮り廬俊義に討ち取らさせた積極的な幽霊なのであるが、しかし惑わすだけの普通の怒った幽霊だ。しかし張順の場合は完全に手にかけているので凄まじい。 もちろん幽霊が呪い殺すとか脅かしまくって自殺に追い込むてのがあるが、こういうのは相手が多少なりとも罪の意識とかなかったら効果がない。第一さんざん人を苦しめておきながら平気で安泰に生きている者がいるのから察すると、呪いって罪の意識の自覚がない人には影響がないようだ。このような場合張順のように自ら手に掛ければ確実だし、もちろん自分はこれ以上死ぬことはないのである。そんな訳で、張順がこの物語りではNO1の幽霊かもしれない。



 梁山泊軍と戦った方臘だが、こういう宗教がらみの反乱は中国では日常茶飯事だがこれもその中の一つにすぎない。方臘は漢民族王朝の宋時代に起こったのでけしからん反乱分子となるのであるが、これが異民族支配の元の時代に起こると民族の英雄達になる。

 明建国のきっかけとなった江南における群雄割拠も下地として白華教という宗教があったわけだし、明の太祖朱元璋は一時期僧侶だったこともあり政策的に宗教的な理念を漂わせている。方臘もマニ教を基盤として反乱を起こしたわけで、鎮圧されたこと、漢民族復興の旗印がないなどの数々の相違はあるものの、似たようなものではないか。

 似たようなものといえば、上帝教(キリスト教変形)の太平天国と中国共産党はなにか似たような存在だ。太平は偶像崇拝を嫌い神像仏像を破壊しており、共産党も文化大革命により中間層の指導者がいなくなるなど宗教等に甚大な被害を与えている。
太平では農政の基本政策としては神の下みな平等を目指し「天朝田畝制度」を発布した。
 天朝田畝制度とは耕作地の私有を禁じ国有としてとりあげ、耕作者に均等に分配し収穫の余剰分を国に納入させるというものであった。中国共産党もソ連を手本に地主連中から農地をとりあげ国有化を目指した。中国共産党はこのような利益の再分配化によって支持を増やしていたわけで、似ていると言えば似ている。違うとすれば太平のほうが宗教理念が強かったので戒律も厳しく身内ににも容赦ないことか。

このような歴史の過程を眺めてゆくと中国の共産党は西洋の共産主義の理念から解釈するより易性革命のほうがしっくりくるのではないか。 「おいおい、なにいってんの。太平天国は農民の階級闘争の初期段階であり革命的意義を持つものである。これが共産党に続く解放運動につながるのだ。」という意見もあるかもしれないがそれはさておき。
聖書=資本論と見なすと、その熱狂ぶりからみればあまり変わらないような気がするのだが。

作品100
 
 ついに水滸で釣りも100作品を発表することが出来ました。
これ偏に皆様のご指示の賜と存じ奉ります。
さてここまでおつき合い頂いてだいたい「水滸で釣り」がどの様な考え方を元に作成されているかおわかりに成ったことであろう。 え、分からない。まあそれはしょうがないですよね半分しか説明してませんから。
でもまあ。遼編を大切にしているのがおわかりでしょう。 それで記念すべき100作品目は遼との最終決戦を描かせて頂きました。 原作は雪降る夜の戦いですが、堂々昼の決戦にしてしまいました。

 ところで巷には水滸伝のいろんな作品がありますが、しっかりとみんな遼の存在を無視してくれるんですよね。中国のドラマのもいきなり方臘となり、まったく失望させてくれます。
水滸伝の物語でははっきり宣言しているのですよね。108人の正体が堕天使みたい存在で罪を贖うために苦難を受け、やがて天に還ることを。だいたいそうでなかったら、呉用と花栄があとを追っかけたのが訳が分からんではないですか。その苦難というのが遼であり方臘なのだが。冒頭、洪信が魔物を解き放す所から見ても水滸伝がファンタジーなのは十分おわかりであろう。
でも、水滸伝が単なるファンタジーなのならここまで歴史を生き延びて支持されることはないでしょう。だいたいファンタジー完成度比べで言うと「指輪物語」にはかないませんから。
水滸伝の最大の魅力はアウトローつまり反社会性にあります。

 特に反社会性は若者に受けやすく、一寸昔だったら「チェ・ゲバラ」かっこいい。解放戦線ばんざい。なんて言っていたところだろうが。
とにもかく反社会的というのは、社会に従属しなくては生活出来ないと分かっても興味をそそる合い言葉である。もちろん銃や棒をもって暴力的にやるのだけが反社会的というのではなく思想表現もこれに類するものである。
みょーに常識外れだったり、社会道徳、既成概念に逆らうのはどこか密の味がするのである。

 例えば古く東洋では後漢の「王充」(AD27〜96)なんかはどうだろう。彼の合理精神は今では考え方としては普通だが当時としてはものすごくへそ曲がった人物なのではないだろうか。漢は初期は道教その後儒教が国教となり五経の経学が完成し思想界を統一し、以降近代までこの流れが脈々と受け継がれていくのだが、この圧倒的思想の中でみょうーに異質で、思想的に実証主義的で唯物論的なのである。数々の迷信を批判し、例えば幽霊なども否定し、天は自然の物体、運命は偶然と言ってのけるなど変わり者である。
 現代西洋では西洋人ながら西洋の思考に批判した「レヴィ=ストロース」や「エドワード・サイード」なんかどうだろう。われわれ東洋人からみればなにを今更。といった感じがするが、西洋の文化にどっぷりつかった者が自己批判をするのはすごいことなのだ。
ちょっと思いつきで書いたのでぴったりの例がなかったが。

体制に逆らったひねくれ者の精神これが水滸伝の最大の魅力であり、このことが贖罪の物語をかすませている原因である。
作品101
 
  水滸で釣りでは108人の好漢のうち現在2人しか死ぬシーンを描いていないが、張順だけが生きていた時代の姿を描いていなかったので急遽作成いたしました。
シーンとしては、他に安道全を仲間に加える場面とか高毬を捕らえるとかあるが、ここは江州の李逵との格闘シーンに登場いただいた。 この場面は彼が水練に達者であることがよく分かる場面である。

 さて、この水滸で釣りの水滸伝解釈は中華人民共和国の人々には非常に困惑するものであろう。 というのも、現在中国は周辺の異民族を支配下におき、同じ中国人として教化している。 周辺民族は漢民族と一緒に国を作るメンバーだという名目のうえに漢民族が支配し、それは漢民族自体が内乱を起こさない限りゆるぎないものである。
この思考のもとでは、敵対的異民族という存在はあってはならないことであり、一つの中国を維持するうえで、北の脅威の歴史などありはしない。歴史の異民族のと熾烈な戦いは国内の同族同士のいざこざ程度のものであり、それは漢民族内でおこった国々と等々のものでしかないのである。
そんなわけで、北に漢民族が頭が上がらなかった遼という外国があってはならないし、水滸伝の遼遠征は方臘同等の反乱軍討伐にしかすぎないということで収めなくてはならないのである。東北地方も内モンゴルもチベットも中華の世界でありそれは過去、現在、未来にわたって不変なのである。

 それにしても水滸伝の反政府的態度に人気の秘密があるのに主人公たちが政府側について読者の期待を裏切ったり、悪い政府には反逆の狼煙を揚げなさいと教唆してみさせたり、せっかく一つの中国で統一しているのに遼という北の脅威を思い出させてくれるなどと、なかなか厄介な小説ではある。



 都合が悪いで思い出したがこれに似た理由で管理者(日向)が思索を止めてしまったものがある。 それは日本古代における中規模国家多元論である。
これは簡単にいうと隋、唐の時代の日本は統一されておらず。複数の国家が存在したという考え方である。まったく教科書に逆らった考え方であるが、その主張はなかなか興味深いものである。その主張は人により各種様々だが、管理者の勝手な解釈でちょいと説明しておこう。

 教科書等で習った日本の歴史はだいたい古事記、日本書紀をベースに構築してあるが(津田左右吉氏により神話性は排除されたとはいえこの流れ)、中規模国家多元論の場合は中国、韓国の文献をもとに構築している。
日本の支配者の主張する自国の歴史と世界の帝王を自認する中華意識まるだしの者が野蛮人について語るどちらが真実に正確かははなはだ難しいところであるが、管理者の場合後者のほうが詳しくはないが他人な分ましなように思える。
中国の文献は魏史倭人伝、後漢書倭人伝、隋書タイ国伝、煬帝紀、琉球国伝、旧唐書倭国伝、日本国伝、宋書倭国伝などが挙げられる。

 漢の時代、朝鮮地方には楽浪郡というのがあって中国の支配エリアだった。もちろんそのころ北には匈奴というおっかない敵とも隣接していたわけだ。 古来日本は中国の配下にあったのは否定できない。それはこの頃の先進国は中国だからである。中華組織に組み込まれていた例としては百済、倭国それぞれに安東将軍、安寧将軍(だったかな?)賜っていたということだ。これは完全に中華の組織に組み込まれていることを示す。
 このころの日本は韓国なのど文献からのイメージでは盛んに朝鮮半島にちょっかいをしているようで(三国史記等)非常に積極的に国際政治に関与している。
倭人国つまりタイ国は年号が日本で始まったとされる大宝(701年)以前から年号を有し、それは中国の暦に合わせたものであった。しかも、官職に12階級すなわち大徳から小信まで存在した。朝鮮同様中国にならった律令制にあったというわけである。
現在日本史では大化改新あたりから国家の運営がは始まることとなるが、それでは朝鮮より遙かに遅れたスタートとなる。

 説明が遠回しだったので、乱暴にいうと。その頃の日本は朝鮮が高句麗、新羅、百済、任那、みたいに分かれたように日本も九州、近畿、関東、東北とだいたい別れていた。
このうち九州は大陸の影響を一番に受け国際政治に関与していたようだから韓国のグループに属するといっていい存在であり、そのほかはまだ未開の文明みたいなものであった。
要するに現在の領土でこの地域を分割しないということである。

 九州が矛のシンボルで好戦的であり、それより東は銅鐸などが採用されちょっとカントリー風。まあ、近畿、関東はでっかい墓にうつつを抜かすほど暇だったというわけである。 ちょっと乱暴な表現だったかな。

 さてこのような、東アジアの様子が一変する出来事が起こる。すなわち大国唐による朝鮮出兵である。
百済と倭国(タイ国)はこれを迎え撃ったが、663年白村江(はくすきのえ)の戦いで大敗戦をしてしまう。
これにより、東アジアに大異変が起こる。(その後の高句麗戦があるが) 百済は滅亡。朝鮮は唐と組んだ新羅が全国を支配し、朝鮮半島の地図が塗り替えられた。
では倭国はというと、実はこれも滅亡していた。(本当の最後は700年)特にこの頃の戦争は王自ら前線に立って戦うので、倭国の王は唐に捕らえられてしまう。そのまま中国に護送され何十年にも渡る捕虜生活を味わうことになる。もしかしたら奴隷扱いだったかもしれない。後に王は倭国に帰還したが支配者が変わり世の中が変わってしまったので愕然とするのであった。
以降近畿勢力を軸に倭国以東の再編成がなされ新暦が表に現れ律令制がひかれるようになる。新しい支配の始まりである。

 白村江の戦いは丁度、現代の対米戦に似ている。非常に好戦的な日本だったが敗戦以降平和主義に邁進したように、倭国は中華の一員から離れて、以降独自路線を進むことになる。
簡単にいうと血の気の多い九州人から、おっとり平和な関西人に社会の軸が移ったということになる。従って100年後平将門、藤原純友の乱の平定をもって完全に日本統一を成し遂げたといったいいだろう。

 まあ、以上とんでもない説を述べたのだが、これにも様々の説があるので詳しくは自分で調べてください。中には現在の近畿勢力と唐との間で戦後処理についての密約があったという、まあ週間紙の記事のような説もある。

 この説に興味があったのも、昔から平将門が 何故脈絡もなく突然新皇を名乗ったか不思議でしょうがならなかったからである。しかし日本が統一されていなかったこと倭国の支配者が変遷したこと、その100年後に将門が天皇と同等の位を名乗ったと考えると心情的に納得出来たからである。
また遣隋使、遣唐使が玄界灘を渡れば安全なのに、わざわざ危険な鹿児島沖から中国を目指したのでこいつ等馬鹿かと思っていたが、途中に強力な勢力が存在すれば合点がいくことだったからである。
ついでにここで正しておくと607年隋の皇帝に「日出る処の天子、日没する処の天子に致す」と親書を送ったのは「あまのたりしほこ」という倭国王であり、聖徳太子ではない。 隋書タイ国伝でははっきり書いてあるのに、何故日本史では勝手に聖徳太子にするのかわからない。


 とまあ、中規模国家多元論なるものに熱中していたのだが、ふとここで思った。 この説て現代日本にとって都合悪くねえ。 もちろん、天皇の正当性の問題はどうでも良いが、日本が中華世界にどっぷり浸っていたこと、九州が別の国だった等の説は中国とか韓国にいいように利用されはしないかとの心配が起こったからだ。とくに韓国などは対馬は韓国のものだったと言い始めているし、東シナ海をめぐる資源の問題で支配エリアの歴史が取りざたされるのは目に見えているからだ。もっとも韓国の場合はもっと問題で漢代に楽浪郡があったのははっきりしているし、もともと中国なんだよと言われれば困るであろう。
 とまあ、領土的問題ではやはり日本は近畿勢力が遙か昔に日本を統一し現在のままの領土だったてのが都合がいい。そういう訳で、現在管理者は教科書の歴史を支持している。
作品102
流れ者が小山を乗っ取る話で一番はではでなのが晁蓋たちが梁山泊を乗っ取るお話である。次には二竜山の魯智深達の乗っ取りだ。
魯智深達の場合も一応計略もあったが、そこは力自慢の面々、かなりの活劇で二竜山を我が手にしたのであった。
いっぽう梁山泊の場合、参謀クラスがすでに2人もいたせいか自分の手を汚さずに山を乗っ取っている。
「お止め下さい」と叫びながら、林冲をけしかけるとはなかなか意地が悪い。しかし、山賊さんの生活も楽ではありませんなあ。
雄ライオンが縄張り内にハーレムをこさえていても、どこから強い奴が現れて乗っ取られてしまうように、山賊家業も脅して好き勝手に財貨を稼ぎはするものの、いつ山を乗っ取られるか分かったものではない不安付きまとう。
こういう意味で、王倫の心配もまったくごもっとものものだった。
事実、この晁蓋達の梁山泊乗っ取り事件についても林冲がいなかったら達成できないことだったからである。王倫も最初の判断のように林冲を入山させなかったら、こういうことにはならなかつたのであるが。もっとも、呉用のことだからその場合は別の計略を行ったことだろうが。


 さてこの水滸で釣りの解説では、遊牧民勢力と農耕民勢力の果てしない戦いを解説してきた。
いかに漢民族が夷狄の侵略に頭を悩ませてきたかを歴史をたどって眺めてきたのだが、舌足らずの面はあったとはいえおおよそのことは理解されたことだろう。
 つまり遊牧勢力にも農耕勢力と同様に大勢力を古くから存在したこと(例えば匈奴)それが最大になるのはモンゴル時代、そして現代は消失したこと。
そしてこの中国人に刻み込まれた長い歴史の意味を分からずして水滸伝は分からないということだった。

 一説には方臘編がメインであり遼編はオマケであるという説もあるが、それでは梁山泊の構成が騎兵中心で水軍が少なく、さらに108人のメンバーの中に何故馬を売買するものがいるのか、何故遼の領土に関係した好漢がいるのかの説明にはならない。 何故、高毬との決戦に辺境の防衛の主力だった節度使を登場させたのか、これらは北方民族を意識したものだからだ。
 このように水滸伝の一番支持されている、悪い権力者、役人を懲らしめるという面を含んだ数々物語を統合した水滸伝は著しく民族色を前面に押し出した物語と成っているのである。

 中国内に北方勢力がはっきりした形で征服者と最初に登場するのが「遼」、その後「金」、そして「元」となる。ここら辺は徐々に侵略されるのがはっきり分かる。
この初代征服王朝と梁山泊軍は戦うのだ。
 任侠集団が外国の勢力と戦う訳であり、現代で言えば高倉健、菅原文太(漢字こんなだったけな)たちが融通のきかない自衛隊に替わってイラク戦争に行くみたいな話なわけだ。 まったくとんでもない話なのである。
梁山泊に集まったのは好「漢」であり。「男だねー」というより「よ。中国人だね」とい意味合いの面々である。

 ところで、この解説では遼によって初めて漢民族は領土を侵されたという説明をしてきたのだが、実際は遊牧民との関係はもっと複雑である。 この解説において悩んだのは「隋」「唐」を漢民族の王朝として認めていいのだろうかということだった。
というのも、この王朝は漢民族というのが非常に怪しいからだ。

 三国志をご存じだろうか、漢の時代から辺境の防衛に異民族の力を借りてきたのだが三国鼎立の時代になると、権力闘争の重要な戦力として組み込まれていくようになる。
ようするに外人部隊を重宝してどんどん利用するようになる。 ここが三国のお馬鹿なところで、やがて大量の異民族によって中華全体が大混乱になるのであった。ここいらへんは、大量の外国人労働者を受け入れ社会全体の風紀が乱れると同様のものであり、普遍的事情で外国人労働者は悪条件で働かされ恨み辛みがある日爆発するのだ。

 これと時同じくして世界規模で変動が起きる。すなわちフン族の大移動(ゲルマン民族の大移動といったら分かるかな)でここでは西洋の変動は説明省略するとして、遊牧民世界に変動が起こり(特に匈奴においてだが、自然環境に異変が発生したのかもしれない)西だけでなく東の中国にも大移動が行われたのである。
南匈奴の劉淵が西晋の内乱の時に移動を開始しこれに呼応するかのように他の民族も中国国内に大移動をしたのだった。
かくして中国は大混乱「北魏」が興るまで五胡十六国という世界を創りだしてしまった。

 劉淵などは漢民族が匈奴を奴隷扱いにしているのを恨みに思っていたし、実際かなり残虐な仕返しをしている。この状態に長江一帯に難をを逃れる漢民族をいたが、河北は斯くして騎馬民族を文化に浸ることにある。
その例としてズボンの存在であり膝まである上着等がある。かくして元々の漢民族あとから入った異民族が混じり合い民族のみならず、文化等に融合変化をもたらす。

 「隋」「唐」はこういった融合させた世界から興るのだが、彼らの素性も「北魏」の鮮卑族みたいな異民族ではなかったと疑われる要素がある。
 まず、思想的なものからいえば「仏教」が盛んになったことである。中国の歴史において仏教が隆盛を極めたのはこの時代以外ない。残りは下り坂である。 そもそも中国人にとって思想は政治と結びつくもので(儒教みたいなのが性に合っているのであり)、仏教のような個我を思索するようなことは好まない。つまりこの時代の中国人は中国人らしからぬ思考を持つ人々であった。事実漢民族が復興してきたと思われる五代のころは仏教が排斥されててくるのである。

 次に、彼らの時代の軍の構成が騎兵にかなりの比重を置いた構成になっており、このことは彼らが騎馬を好むことを教えてくれる。これまた時代を下ると騎兵は下火になり以前の歩兵中心の編成になる。むしろ、遼とか金なんかがそのままの編成を伝えている。 誠に不思議なことで、ますます、隋、唐の正体を怪しまなくてはならない。

また、「隋」「唐」いずれも朝鮮族に異常な感心を持つ。度重なる遠征に兵輸送のための運河建設など。

最後に、周辺国の関係においてだが、倭国などは中国を敬っていて冊封体制下にあったのだがこれが変化する。周辺国に独立意識が芽生えたと言われているが、というより異民族の侵入により五胡十六国状態になり正当な王朝がなくなったことに起因するのではないか。つまり倭国側からいえば、同じ異民族なんだから対等ではないかということだろう。 前回述べた倭王「あまのたりしほこ」の「日出るところの天子より」の親書もかくなる認識の上に成り立っているのではないだろうか。

以上の理由にて「隋」「唐」を漢民族の帝国と見なすべきか迷っている次第である。本質的にものすごく混じり合った状態なのだろうが。
とにもかく、異民族との長い関係は変わらないので水滸で釣りはここの部分は空白にて処理させていただく。
作品103
 
  燕順、秦明、花栄等が梁山泊にやって来たとき、入山仲介役の宋江は実家に帰ってしまって彼らは放り出された状態になっていた。(宋江てきっちり案内してから帰るべきなのにいいかげん)しかし宋江の書面を所有していたことから入山が許された。 とはいえ、いきなり仲間入りした者の実力を信じがたいのが当たり前、そのことを察した花栄は自慢の弓のを技で晁蓋等を感嘆させるのだった。


 水滸伝では弓の花栄は目立つ存在である。これはもっぱら得物の特殊さゆえであろう。 ロードオブザリングでまあ一番人気(米女性における)といったら弓を得物とするレゴラスであることは まあご察しのとおりである。もしかしたら、かぶり物の金髪のせいなのかもしれないが格好いいのである。
しかし、水滸作者は花栄を単なる弓使いとして登場させておらず。主人公である宋江に一番近い存在として登場させている。事実、108人のメンバー中宋江との交わりが長いのが花栄であり、宋江の死のさい殉死する特殊な存在なのである。 このことは水滸作者が花栄を意識していたことを示す。
どういう思想の持ち主かよく分からない宋江にいつもいる身近な存在の花栄、彼のあだ名は「小李広」。このことは彼が単に弓の名手だから李広になぞらえて単純に設定したと考えたほうがいいのだろうか。いいや、むしろ日向(管理者)は宋江に密着する花栄のあだな「李広」の存在そのものが水滸伝の意図を指し示していると解釈している。


「李広」は漢代の北方民族「匈奴」との50年に渡る戦いのなかで奮戦した英雄である。
その経歴は史記の李将軍列伝に語られている。

匈奴と漢の関係は劉邦が負けたことにより、漢が匈奴の属国扱いだったが、武帝の時代それまでの従属路線を転換、果敢に匈奴にいどみこんだのだった。武帝のいかなる犠牲もお構いなしの「打倒匈奴」の旗印はヨーロッパ百年戦争真っ青のお休みなしの50年にわたる激しいぶつかり合いをもたらしたのだった。
その代表的な将軍と言えば「衛青」と「霍去病」であるが、李広もこの中の一人である。
李家は代々弓射法を伝える家柄だったが、李広は手が長く体が大きかったのでその弓技はだれもまねできるものではなかった。(花栄と同じである)
考文帝の時代14年匈奴が侵入してきたので李広は従軍しこれを討つ。このことがもとで漢の朗官に取り立てられる。
考景帝の代、呉楚の乱のときこれを討伐し、その後毎日のように匈奴と対戦。
上郡の太守時代匈奴が侵入。李広は100騎を伴い出撃すると自身3人を射殺し、匈奴軍と対峙、はったりをかまし敵に李広軍が囮の軍であると思いこませ、10騎で突撃し敵将軍を射殺した。武帝代、「程不識」「韓安国」等とともに匈奴と戦う。匈奴王「単于」を策に陥れよとしたが見破られ、その4年後大軍で押し寄せた匈奴の軍によって李広の軍は破られ捕まったが、馬を盗むと追っ手を射殺し脱出に成功した。
数年後韓安国が破られ殺されると、右北平の太守に赴任。すると匈奴は勇猛な李広が着任したので警戒して右北平の侵入を数年しなかった。
このころ有名な石を虎と錯覚して射てしまう逸話の出来事がおこる。
李広は武帝に召されて朗中令となり、その後、後将軍として衛青とともに匈奴と戦う。2年後、張騫軍1万とは別に4千騎を率い右北平がら出撃したが運悪く匈奴軍4万とぶつかる。李広軍はたちまち包囲されるが円形陣を組むと果敢に応戦、半数を失ったとき、遅刻していた「博望侯」が到着し匈奴軍の包囲から解放される。
霍去病が匈奴遠征に出撃したとき従軍を願い出たが武帝は李広は老齢になっていたのでこれを許さなかった。しかし衛青出撃のさい従軍を許され出陣することとなる。李広は元服いらい戦いつづけた匈奴との戦いにおいて、その王「単于」との一騎打ちを夢見ていたのであったが、衛青は武帝から単于と当たらせてはならないと戒めを受けていたので、これを許さなかった。結局衛青は単于と肉薄戦を演じたが取り逃がしてしまった。 李広は不満一杯のまま自刎してはてた。

 以上が李広の略歴なのであるが、これを読んでもうおわかりであろう。 李広は鏃を岩に突き刺したから有名なのではないこと、彼は北方民族相手の戦士だったことである。水滸伝はこういう処に北方民族の香り潜ませているのだった。

 以前述べてたように、東アジアの様子は一般に我々が考えているようなものではなく長城を境に鏡のように南北に2大強国が存在していたのである。 あいにく、北側の王朝は文献を残さなかったので闇の部分が多いが南側の文明の文献からその姿が推察できる。南に農耕民族である「漢」の王朝が出来上がった頃、北でも「匈奴」という遊牧民の王朝が誕生していたのである。また北の王朝が内部分裂を始めた頃、南の王朝でも内部分裂を始めるのである。まったく鏡のようである。
従って、中国史はこの北の遊牧民族を勘定にいれて追っていかないとよく分からないのである。史記の描く匈奴は司馬遷にとって「現代」である。 彼が罪を得たのも、これら北方騎馬民族との関わりからであったので、史記を読む際にはここら辺を理解しておいたほうがいいのかもしれない。 「項羽と劉邦」でなく「項羽と劉邦と冒頓」ということで。
作品104
「祝家荘どこもかしこもとぐろ道、出ようとしても出られない。」の歌があるぐらいすごい迷路らしいのだが、なにか生活したら不便そう。もっとも近道てのは存在するだろうからその心配はないかもしれないが、それでも遠回りになりはしないだろうか。 実在したらどんな風に迷うのか体験してみたいのは管理者だけだろうか。
 さてこの祝家荘の戦いは梁山泊が攻め込まなければなんにも起きなかった戦いである。 そう言う意味で梁山泊が仕掛けた戦いである。 仮に逆に3家が梁山泊に攻め込んできたとしても、梁山泊は葦が生い茂る迷路の水郷、祝家荘以上といえる。しかも戦力的に梁山泊に劣るのは目に見えている。 もちろん用心棒を増やせば別だが。


 今回は「項羽と劉邦と冒頓」の歴史のおさらいを少々。
中国は戦国時代、燕、趙、魏、韓、宋、斉、楚、魯、周、秦と別れ覇権を争っていた。 しかし、西国の秦が力を付け、政の時代になると東方6国を滅ぼし天下を統一したのであった。一方北方でも同様の各種の氏族による覇権争いはあっていたものの統一にはいたっていなかった。南方を平定した始皇帝の次なる目標は北方であった。そのために彼は長城なる防御壁を創り北方に向かう軍事道路の整備にとりかかった。そして蒙恬将軍をもってオルドス地方の匈奴を討ち北へと敗走させた。始皇帝の本気度は太子の扶蘇を蒙恬将軍のもとに預けていたことから伺い知ることができる。ところが秦の天下も秦の宦官、趙高の謀略により失うことになるのであった。

 始皇帝崩御の後、陳勝、呉広の乱が発生。この農民反乱は鎮圧されたがこれを機縁として各地に反乱の気運が盛り上がった。そして楚から2人の武将が立ち上がった。項羽と劉邦である。項羽は武術すぐれ貴族出身、かたや劉邦は親分肌で農民出身と対照的な二人だった。(劉邦は一時期山賊家業をしていた。)両軍は秦の本拠地関中めざして進軍して行った。項羽は殺戮をもって秦軍を破っていったが、劉邦は投降した者をどんどん受け入れていったため早く関中に入ることができた。関中に早く入った者を王とするという約束があったが、要領よく関中にはいった劉邦を項羽は許せない。劉邦は間一髪鴻門の会という暗殺計画から逃れると。早々に項羽の軍門に下り漢中に退くのだった。

 さて北では秦という強力な圧力が消失し統一という変化が生じ始める。そのころ匈奴は東に東胡、西に月氏という勢力に挟まれていた。匈奴の王(単于)の頭曼がいたが、太子冒頓(ぼくとつ)を廃嫡して寵妃の子供に後を継がせようとした。そのため冒頓を月氏に人質として差し出したあとに、これを襲った。もちろん月氏に太子を殺させるためであるが。冒頓は命からがら逃れおせたのであった。これに対し太子冒頓のとった行動は父頭曼の暗殺であった。狩り場で頭曼を暗殺すると自分が単于となったのであった。匈奴王、冒頓単于の誕生である。
ここで厳しい統制のもと匈奴騎馬集団を鍛え上げていくのだが、対照的には他の部族月氏や東胡には弱々しい態度で従って見せた。東胡は匈奴より強かったので匈奴に千里馬をよこせ、女をよこで言ってきたりしており冒頓はこれに応じている。東胡は完全に冒頓をあなどり備えをしていなかった、この時冒頓単于は立ち上がり東胡を襲った。東胡は敗れ去り匈奴は民と畜産を手に入れた。そして返す勢いで西の月氏を襲い敗走させ。斯くして北は統一され匈奴はその屈強な騎兵でもって秦に奪われたオルドス地方を回復しそのエリアは中国現在の北京あたりまで拡大したのであった。

 一方南の中国はというと劉邦は韓信を大元帥とすると漢中から進軍、関中を我が手に収めた。項羽は劉邦は山間から中央にはでてこられまいと油断しきっていた。ここは東胡と同じ。いよいよ項羽との長い戦いが始まるのだった。垓下の戦い(ほとんどだまし討ち)に勝利した劉邦は項羽を破り天下を統一するのだった。しかし喜びもつかの間、北との戦いが始まるのであった。
始皇帝時代北は統一されておらず、強力な軍事集団を形成していなかった。あのまま秦の時代が続けば匈奴強大にはならなかったのである。しかし始皇帝崩御のあと南は乱れそのあと項羽と劉邦の二大勢力がぶつかり合っている間に北では統一を完成させてしまったのである。これが項羽と劉邦の天下取りの結末である。二人の争いが北の統一の時間を与えたといっていいだろう。

 劉邦と冒頓の南と北の覇者の激突が行われるのは必然の状態であった。両者が激突したのが白登山の戦いである。残念ながら劉邦+項羽 vs 冒頓であったら面白いのだが。劉邦に将才がないのが残念だ。これまで卑怯な手で勝ち続けた手は冒頓には通用しない。 冒頓は韓王信を味方にすると40万騎を率いて太原に進軍し晋陽城下にはいった。いっぽう劉邦も歩兵32万を率いて迎え撃つ。しかし簡単に劉邦は冒頓の逃走戦術にひっかかり、劉邦軍は追撃にはいり主力の歩兵を置き去りにしたまま手回りの騎兵だけで突出してしまったのである。これを冒頓は見逃すはずはないわけで、劉邦は命からがら白登山の要塞に逃げ込んだのであった。匈奴に完全包囲された万事休すの状態で劉邦がとった行動はお得意の説得戦術だった。早速冒頓の奥さんに使者を送ると「漢の地を得ても美味しくないですよ」と説得。どう判断したのか冒頓は囲みを解放。劉邦は一目散に逃げたという結末であった。以降漢と匈奴には和平が結ばれた。簡単に言うと漢は匈奴の属国になったのである。しかも縁戚関係。これにより単于(王)はもともとの「攣(革+是)」(ランテイ)の姓以外に「劉」姓をなのるようになった。南匈奴の王「劉淵」が劉姓なのもそのような理由からである。

 こういったことは中国主体の歴史では分からないことであり、北に強国が存在し歴史の主人公はむしろ北といえる。あくまでも我々が学ぶ歴史は現在の覇者を主体にした歴史なのである。

 ちなみに匈奴の姓の話で付け加えると匈奴の3氏の筆頭として「呼延」がある。多分呼延賛の先祖であろう。呼延灼が中華帰化人の子孫としてもおかしくないし。お得意なのが騎馬戦となるとぴったりではないか。もちろん水滸伝で帰化人の子孫は彼だけでない、例えば人気者でいえば史進なんかも西方からの移民(ケッシュ)の子孫であることがわかる。 ちょっと水滸伝のつまらぬところほじくりかえしたかな。 
作品105
 
  史実の宋国軍童貫戦に楽勝した後、水滸伝オリジナル十節度使を従えた高毬戦が始まった。これは以前述べたように、高毬は形骸化した宋軍のシンボルとして設定されており。彼からは始まった物語が、英雄豪傑が玉突き状態ではじき出されやがて梁山泊軍として相対する軍団として結実するのだった。こうして高毬率いる形骸化した宋軍と宋江率いる理想化した宋軍との戦いが行われることになる。簡単にいうと外国遼と戦う真の中国軍はどちらだの代表決定戦が高毬との3度の戦いである。 高毬戦で華々しい活躍を見せるのが水軍の面々、この後はほとんど陸上戦ばかりなので最大の見せ場である。


 さて、水滸伝という題材の解説なので中国のことに述べてきたが、毎回中国では飽きがくるのでちょいと気分転換をして違う話を。 現在丁度お盆の直前なのでこのことに関して、うだうだと述べておこう。

 お盆。まあ日本の国民的行事だ。全国で大移動が行われる。 あんまりこの時期に集中するので、渋滞する上、運賃は高いときて最悪である。 この原因は日本人が夏の休暇なるものが盆という口実でないとをとれないというものがある。そういう意味に置いては盆様々だが、行き先が実家という制約が与えられるのが今ひとつ惜しいところだ。
さて、盆といえば仏教の行事だが、本当にそうなの?と問いつめられると言葉に詰まってしまう。まあ伝説では釈迦の弟子が地獄に堕ちた親を千里眼で見てしまい、なんとかできないかと釈迦に相談したら、「なにか坊さんにプレゼントしたら喜ぶであろう。このときの喜びによって親の苦しみが和らげることが出来る」と教えて頂いたので早速実行したというのがある。まあ坊さんに都合のいい伝説があるんですな。 これが元々の起源らしいのだが、本当のところをいうと盆と仏教とは関係ない。 管理者に言わせると盆とは仏教の仮面を被った、土着の先祖崇拝の宗教に他ならない。

 というわけで、ここのところをはっきりさせるため、ちょいと仏教誕生時の世界を覗いてみよう。
BC400年頃のインド。
中国では春秋時代、まあ孔子がいたころといっていいだろう。インドでは都市国家が乱立していた。中国で諸国で重商政策がとられ始めたと同様、インドでも商業が発達を初め都市が発展していった。仏典でも大富豪というものが登場するので、自由な貨幣経済のもと富豪が誕生したようである。こうなってくると伝統的な世界は権威を失って好き勝手放題に主張するものが登場するようになる。中国の諸子百家みたいにインドでも都市の自由な雰囲気に様々な思想が登場してくるのである。この点は東西同じである。
仏教もこのような思想の中の一つであった。それが一大宗教になったゆえんはマウルヤ王朝のアショカにより国教となったからである。(マウルヤ王朝のアショカご存じない方は始皇帝より少し前の時代の人物で、インドを統一した人物の3代目であるとだけお教えしておこう。)

 釈迦は小国家が乱立する戦国時代に生まれた人物である。父はスッドーダナ王、母はマーヤー妃であった。と書くとたいそうな家のようだが小国家の王子である。地方武士の子供というのがイメージ的には近いかも知れない。このころ二大強国マガタ国、コーラサ国が存在して風山の灯火状態であった。事実釈迦生前のうちに彼の国は滅ぼされてしまう。
彼の思想には死というものがテーマとしてあがっている。これは彼の母親が自分を生んで7日後に亡くなったことが深く関係している。加えて自国は戦乱の中、華やかさの裏腹に死と隣り合わせだったことが、生と死について考える原因になったようだ。

 彼はヤソーダラー妃と婚姻しラーフラという子を授かる。しかし家出(いえで)して浮浪者になる。この点釈迦は妻子を捨てた無責任男なんである。
バラモンの伝統では定年後一般人が修行にはいっていったが、都市国家が発達段階になるとこの伝統も崩れ、しかし一般民衆の信仰心は衰えなかったので、戦乱で浮浪者つまり乞食坊主になったもの達を養う社会的基盤が存在した。同時代王子と言えばジャイナ教のニガンタ・ナータプッタもおり釈迦が特別だったわけではない。というわけでヒッピー生活をしていた釈迦だが。やはり2人の先生師事した。まあイエスもヨハネに師事したわけだし、ゼロから導き出すのは至難の業ですからね。

 ところがある日ひらめいた。多分スーパ安売りのさらさらの牛乳よりお腹ごろごろになるぐらいのごっつい絞り立ての牛乳をただで飲めたのがよかったのだろう。
そして五人の仲間の処に行くとおもむろに「私は悟った」と真顔で宣言したのである。 自信満々に自己宣言するずうずうしさもさることながら、それに乗っかって納得する5人もどうかしている。 というわけでここに仏教集団が誕生するのであった。

 仏教の主張を見てみると「あれ、バラモン教と根本的に変わらないのじゃないか」と思っちゃいます。まあ、彼の思考は当然インドのバラモン教がベースにあるわけだし、それから一足飛びに全然違うものを構築するなんて不可能だもんね。
他のとちょいと違ったのは「生の苦しみ」から解放されるにはどうしたらいいのか、真剣に考えたことである。
他の論は存在論的であり、この点釈迦は実存主義的嘔吐を問題としたのであった。
ある日自分は意味も分からず世界に放り出されたどうすんべーといった捉え方である。

 そこで釈迦は考えた、世界がどうなっているこうなっていると知ったところで生老病死の苦しみから解放はされないのだ。つまり苦しみの解放を主題に置いて哲学的論議はしーないのだ。
で、なんで苦しむのかそれは五感と意識の縁起によって生じた自我にとらわれるからこのようなことになるのだ。従って苦しみから解放されるには、このような自我に基づく考えかたをはなれ、正しい見方、思い方、生活の仕方(八正道)を実践する以外ないのだ。と思いついたのだ。

 実践できるかどうかは別として、つまんないこと思いつくのもだ。
と言う訳で教えを広めいったのだが、アプローチの仕方が実存主義的アプローチなので受けが悪い、そうこうするうちやはり拝んだりする方が分かりやすいので仏教はそっちの方へと変化した。まあ釈迦が死んで何百年後なんでそうなるのも無理ない。
というわけで専門用語を使用しないとこんな感じになるのだskandha,vedana,samjna,vijnana を使って説明しないと嫌だという人は自分で調べなはれ。
作品106
歴史上の宋江は多分気性が激しく残忍な人物だと思うが、水滸伝の宋江は君主的な性格の持ち主として描かれている。人々から及雨時(恵みの雨)と呼ばれていたとあるように大変慈悲深いのが特徴である。君主の条件として仁愛は絶対必須のものとして古典では描かれてており、108星の首魁としての性格もそれに従ったものである。
この「仁」こそが君主の最大の持つべき徳としてあげられ、それは思想書のみならず軍事書においてもさえも登場している。例えば軍事書「六韜三略」では文韜編にこの様に述べられている。
「聖人之徳、誘呼獨見」「聖人の徳、万人を引きつける」「仁あるところこれに帰す」「天下は一人の天下にあらず」「死を免れ、人の難を解き、人の患を救うものは徳なり、徳あるところこれに帰す」。文王曰く、「国家統治の最大のポイントをお教え下さい」太公望曰く「民を愛するのみ」「民に恩恵を施し、心安静にし、公正無私を心がけなさい」 のなどだが、慈悲深い君主を理想としているのがわかる。

 現実の皇帝がものすごくおっかなかったり、自分勝手な存在であったので、危害を加えない君主が人々の理想だったのであろう。
もっとも支配する側からいえば、人民は甘くすると思い上がって好き勝手の言い放題で収拾がつかないので恐怖で黙らせた方が得策なのだ。それにあまり施しし過ぎると、自己の財政が破綻するし、施されるのに慣らされたものは次第に当然のものと思いこむようになる。などの反対意見もあるだろう。

 現実はさておき、中国では上級の君主は慈悲深い存在ということである。しかし慈悲深いという特性は「弱さ」を印象づける。これはどうしようもないことだ。
宋江なども流石君主の性格を付与されており堂々たるもののはずなのだが、なんだか女々しい男のように見えてしまうのは、そういったところの現れである。
設定は君主の性格なので、人から親分と慕われ、情け深いが勇気もあり、公正で私心がなく武芸もできる一丁前の「漢」なのである。 彼自身が一騎打ちを演じれば英雄的で評価もあがろうというものだが、そういう場面もなく、やたらおろおろしたり、泣き崩れたりするもんだから駄目男になってしまっている。せめて三国志の劉備並に果敢に行動できたら違うのだが。ただし演義と共通なのが国家のために尽くすという点であり、劉備の場合は「漢朝」、宋江の場合は「宋朝」となり、この部分においては同列である。


 ここで宋江を理解するために、彼の立場でちょいと水滸伝の歴史をたどってみよう。

 父と弟を残して村を出て下級役人になった。事務処理や世話役に長けていたので、そこそこの収入を得ることができたが、病的に世話をするのが大好きなので散財してしまい家にはあまり蓄えはなかった。しかし自分自身も武術が出来、任侠人なのもお世話したので小役人のくせに任侠の世界においても知られることとなる。

 犯罪者晁蓋と交友関係にあったので彼らの逃亡を助け、やくざの世界に巻き込まれてゆく。 妻を殺害し逃亡。娑婆にも戻れずあてもなく彷徨い歩く。 ここいらへんは多分精神的に一番辛い次期。
恩赦により罪を軽減され刑に服するも、江州にて斬首の刑になりそうになりまたまた逃亡。 社会復帰の芽も完全に摘まれてしまい、犯罪者集団の一員となる。山賊として朽ち果てるのかとお先真っ暗といった心情だろう。

 思わぬ出来事が起こる。九天玄女の廟で彼女と会ってしまうのであった。 そこで九天玄女が衝撃の事実を伝える。
その衝撃は「あなた王子様だったのよ。」みたいな驚愕的事実。
「あなたは人ではなく、天の星(神)。そして星々の主星です。あなた方は罪を得て天から落とされましたが、国を助け民を安んじ忠義を全うすれば許されて天に還ることができます。もし全う出来ない場合は地獄に堕ち二度と戻れないでしょう。天書三巻を与えます呉用と相談なさい。」 と伝えられたのだ。

 いきなりそう言われても躊躇するばかり。 夢だと思っても証拠の巻物はあるし、ここに宋江の社会復帰兼天界復帰の活動が始まるのであった。
九天玄女は「外夷」と「内寇」の二つといっているだけで具体的目標はよく分からないが、 軍事力強化を押し進める。それは完全に山賊の域を超えるにいたる。
まあ宋江にとって秘密を知る前の社会復帰の願望が天界復帰に代わっただけでやることは一緒なのだが、天界復帰が兄弟星を引き連れてなのが重圧を与えている。 108星集合をコンプリするのが大変でステージクリアの石碑を得た時は一安心。 高毬との激闘のすえ魔星(堕天使)の軍は政府軍として取り込まれ、いよいよ本番を迎える。許されて還るのは「外夷」と「内寇」をクリアーした時のみ。

 最初のはいきなり強敵、外国だからね。 流石に魔星の軍といっても歯が立たない、結局九天玄女の助力によって達成。 宋朝が達成できなかったことを成し遂げたのは会心の出来だが、それよりも108星が一つも欠けずに生き残ったのは幸いだった。 なにせ、2つをクリアーして初めて星が帰還を許されるのだから。

 続く内寇との戦いは連戦の疲労との戦いである。特に方臘の場合はそのためか大半を病死させてしまう始末だった。 次々に兄弟星が散ってゆく、その慟哭に耐えながら(耐えていなかったっけ?)戦いを遂行。方臘平定により第二ステージはクリアされる。 これにより使命を完遂し、はれて天界復帰は確実となった。
以降社会復帰も果たし、あとは天界復帰を待つのみとなった。 多分、卒業式も終わり、入学式を待つ学生の気分で穏やかな日々がすぎていった。 しかし、天界復帰は意外な形で早く訪れた、毒殺である。 宋江としては最後まで忠義の人で人生を終わった。

このように彼の歴史をたどってみるとものすごいプレッシャーの中生きてきたのではないかと思われる。 いやー、リーダーて辛いものですなあ。
作品107
水滸伝で主人公達以外の重要な人物は高毬と宿元景である。高毬は宋軍の象徴としてあり梁山泊の敵役として存在する。いっぽう宿元景は梁山泊に味方するものとして存在する。
宿元景の役回りは重要である。梁山泊が招安を受けた際、徽宗皇帝は彼らの罪を許したうえ解散し故郷に帰るように命じたのだった。誠に温情ある沙汰であるのであるが、しかしこれでは108人は社会復帰は叶うものの天界復帰できないのである。それは天界復帰の条件が国家に尽くすということだったからである。宋江、呉用以外の頭領は内情がわからないので、「なにか金、地位よこせ」みたいに騒いだのだが、宋江にしてみれば宋朝に雇用してもらわなくてはならないので焦ったちがいない。
この時、助け船として徽宗皇帝に梁山泊による遼討伐を奏上したのが宿元景であった。梁山泊の仲介役になりいろいろお世話をするのでいい人のようにも思えるのだが、よーく考えてみると、西夏でなく遼にぶつけさせるなど以外と残酷な人物かもしれない。ともあれ、かれの奏上がなくてはすべての計画が水泡に帰したわけであり、かなり危険な綱渡りだったことがわかる。 もっとも九天玄女はこのことは最初から見越していたようで、予言の言葉にも宿元景のことが述べられている。


 さて梁山泊の敵となるキタイ(遼)ではあるが簡単に述べると外国である。
その王朝の歴史は218年に及ぶ。 北宋が147年、南宋が152年の合計299年となるが、この漢民族の代表的王朝と比べても遜色のない歴史をもつ。時代的には宋の先輩格にあたる。
農耕民族の地で王朝の興亡が繰り返されたように北方の大地でも数々の国家の興亡が繰り広げられてきた。「匈奴」亡き後にも「柔然」はたまた「突厥」など巨大な国家が登場しては消えていったのである。
南が漢民族の興亡ならば北の大地は様々な民族の興亡といったところだ。(例えばモンゴルなどは「匈奴」とも「キタイ」とも関係ないといえる。) ここでは民族が入れ替わり立ち替わり支配しているのである。

 キタイも興りは同様で、小部族的結合体から発展して大きな部族として形成されてゆく。
唐の時代はキタイも小規模な部族であり、唐に反乱などを起こしていたりして、簡単に鎮圧されたりしている。唐の下働きみたいに官僚組織(軍)に組み込まれたりして日の目をみない生活をするが、安禄山の乱以降しだいに力をつけ始める。

 モンゴリアに勢力を持ったウイグル帝国も衰退し、あたりが混乱した時代。キタイのなかからテングリ・ハーンなるものが登場し一大転機を迎える。彼が遼の創始者である。テングリ・ハーンは近隣の部族を襲いその支配地をモンゴル、チベット、ツングースと征服し満州の渤海国を滅ぼし中国の河北の一部を支配したのである。
 このように貧弱な部族が一気に力を付け支配者となるのは北の大地ではよくあることであった。事実、この遼にしても自国内部から興った金によって滅ぼされるのだから歴史は繰り返すのである。

 この遼は初代征服王朝と呼ばれるのだが、それだけうまく農耕民族を支配したということであろう。(この初代という表現の仕方はあまりにも農耕民族寄りで好きではない。かれらの興亡のエリアが単に農耕民族の地まで拡大したにすぎないのに。あまりにも排他的表現である。)彼ら以前は北と南では自然と棲み分けが行われていたが、ここいらから遊牧民族による農耕民族の支配が行われ始めたのである。簡単にいうと遼の帝国運営は巧かったということだ。

 彼ら以前の遊牧民は農耕民族の地に入ってしまうとそれと同化してしまい遊牧民の気質が失われてしまっていた。ここいらの反省があったのだろうか。そこで遼は帝国運営に付いて行政組織を部族制区分と州県制区分の2方式を採用したのである。
つまり遊牧民は其れにあった方式で支配し、農耕民族も同様に彼らの方式で支配するといった具合だ。中国では五代など分裂の時代を向かえていたが、そのころ北では遼が安定した国家運営を行っていたのである。北は平和だったのである。
その後宋が興ると多少のぶつかり合いはありはしたものの両国は平和条約を締結させ。南北とも繁栄の絶頂を向かえる。

 宋の繁栄も遼があってこそもたらされたものであり、戦いは国土を疲弊させるのである。ひいてはそれは王朝の滅亡につながる。北宋の平和が壊れるのは遼の首都中京大定府が金によって陥落してからである。(水滸伝の戦いの舞台は南京(燕京))
以外と両国は持ちつ持たれつの関係だったのかもしれない。ジャイアンみたいに。
作品108
この漫画も108回目になりました。
水滸伝の主人公を一人ずつ描いていったら丁度ここで終了となるはずですが、この漫画はさらに続きます。ここまでにおいて108人の頭領全員が全て登場しましたが、もし見落としによりまだ登場していない好漢がいてもご容赦下さい。 この漫画は200作品にむけて今後脇役の悪党がどんどん登場します。多分主人公達をどんどん押しのけて登場するので読者の期待を裏切ることになることになるでしょう。
読者は好漢の活躍を読みたいでしょうから。しかし水滸伝の魅力はこの悪役にあるといっていいので描くことにしています。もとともとその方向で描いてきたので、解説の中国思想史とからんで悪党が画面上に跋扈することになるでしょう。水滸伝は主人公も悪党ならば脇役も悪党というまったく特殊な物語である。水滸伝は世直しをしようとする単なる勧善懲悪な物語でないのです。 脇役の容姿についてはいい加減に描くことになります。主人公達は例えば「穆弘」などはお盆みたいな顔に細い目、唇薄いなどと指定してあり、大きな丸顔でのっぺりしていて小さな目鼻口があるのがわかるのですが、脇役はこうはいきません。


 さて前置きが長くなりましたが、招安については水滸伝ファンにおいても賛否両論があり、反政府的なものを好む読者には裏切り者ということになります。 しかし、その方がたは梁山泊のメンバーが体育会系、うでぷしだけがが自慢のお馬鹿な連中が集まっていることをお忘れである。これじゃー天下はとれません。
ということで最初の招安が行われたのが108人集合してまもなくのこと。 天子は太尉の陳宗善を使者として勅書と御酒を携え梁山泊に送ったのだった。 酒は阮小七が隠れて飲んでしまったり、付き人が酷かったり勅書が横柄だったりして決裂。 このことが梁山泊と官軍の総力戦に繋がってゆく。 可愛そうなのが天子に奏上した御史大夫の崔靖さん。捕らえて大理寺へ送って処罰と命じられたのでどうなったこことやら。


 さて招安が決裂したのは天子並びに子役人が彼らを侮ってのこと。権威というものにどっぷりつかって相手を見下したからである。実際の戦力は同等あるいは梁山泊が上で現実に目の当たりにしないとなかなか分からないものである。

このことは文明でも同様である。遊牧民は寄生虫みたいなもので、彼ら自身はなにも作り出すことが出来ず農耕民から搾取するだけで文明になんら寄与することもなかった。などとの露骨な評価を下すものがある。
我々の歴史観というものは西洋支配(支配とは強者の力による支配のみならず支配される側からの強者の恩恵をもとめる服従を含む)から眺めた世界観であること。さらに農耕民族側から眺めた世界観である。
この二つのフィルターがかかった歴史を我々は見ている。

 管理者によれば世界の歴史の本当の主人公は遊牧民族であり、彼らが常に農耕民族に関わり合いをもっており影響を与えてきた。また歴史の主人公はアジアであったということだ。 これらがひっくりかえるのが18世紀から20世紀にかけてのつい最近なのである。 遊牧民族はお馬鹿で草っ原をうろうろするだけと言うのであれば、遊牧民族の子孫のうち立てたムガール帝国の優美な建築物であるタージ・マハルは意味のないものとして世界遺産から抹消すべきだ。中世から近代にかけてアジアを支配していたのは半遊牧系の連中なのである。

 相手を見下すといえば史記にこのようなものがある。 匈奴の時代、漢の使者が匈奴の風習を罵ったことがあった。 「匈奴の風習では兄弟が死ぬとその妻を自分のものにしてしまう。礼服も朝廷に対する儀礼もない」 これに対し中行説が答えた。「兄弟の妻をめとるのは家が途絶えないため、法礼も簡素なのは素朴だからだ。ところが中国は親族関係が疎遠になると殺し合いをし、礼儀でも忠信もないのに礼儀を強いる。それとは裏腹に上下互いに怨恨を結んでいる。また立派な屋敷を建てようとし財力をなくくしてしまうではないか。」 まあ、俺様根性はいつの時代でもあるもんですなあ。
作品109
shiori*2  水滸伝の誕生

 洪信が魔王を誤って解放するお話は冒頭で印象深いシーンである。
この話で水滸伝が三国志みたいな歴史物というより空想小説の種類に分類されることがわかるであろう。
洪信は太尉であることをいいことに、化け物見たさの単なる好奇心から道士達を脅し魔王を解放してしまうのだからまったくとんでもない人物である。 水滸伝ではこのような権力を私欲の道具として使う高官がぞろぞろ登場するのだが、その一番手がこの洪信という男だ。

 この事件はその後一度も登場ぜす、71回までなんの関係もないので忘れ去れれるお話ではある。この間の話の途中に内緒話として村人が洪信の話をするとか入れれば良かったのではないかとおもわれる。あまりにも突然なんですよね。
しかし、梁山泊の主人公たちが後にこの魔王だったと伝えられると違和感を受けるのは何方でも同じであろう。 それまで悪徳の権威に逆らってきた好漢たちが魔物と言われると心外なことなのである。 魔王と言えば悪さをする悪党みたいなもの、水滸伝では高毬以下数々の高官がむしろこれに該当するはずなのだが。

 108人が魔星であること読み解くには、洪信登場以前の水滸伝の本当の始まりの話を読むとよく分かる。
つまり冒頭天の主神「玉帝」が宋の仁宗皇帝を補佐すべき二つの星を下界使わした 。 すなわち紫微宮の「文曲星」と「武曲星」である。両者の現世名は包拯と狄青である。 この仁宗皇帝の時代には西の国「西夏」が力を付け、西夏の「李元昊」は周辺地区をうち破り国を「大夏」号し国家をうち立てたのである。こののち精悍な騎馬軍団は中国北西部を席巻した。宋と西夏の長い戦いが始まり、宋は膨らむ軍事費に頭を悩まされることとななる。この対西夏の戦いの宋の有名な武将が「狄青」(てきせい)である。かれも李広同様対異民族の戦士なのである。

 水滸作者も実在の人物を星として登場させているわけですな。 つまり天の玉帝から使わされたりっばな神(星)は皇帝を助け大宋国を守り尽くす、そんな存在というわけなのである。
一方梁山泊の魔星はそんな国家に忠誠を尽くすという存在ではない。むしろ公然と国家に逆らい混乱をもたらしている。 故にかれらは魔星と呼ばれているのである。
魔星と正当の星との差はなにかというと、国家に対する忠誠である。 それが正しいかどうかは別として水滸伝作者の判断はここにある。

 ゆえに狄青がしたように、対異民族との戦いの戦士として梁山泊軍を創り上げ。魔星の軍団の使命として遼討伐が設定されたのである。
最終的に魔星の軍は使命を遂行し罪を許されるのだが。 これから推察するに108の星の持つ罪とは地上に秩序をもたらす天の星の使命を忘れ、好き勝手な行動をすることにあるのかもしれない。 まったく水滸伝は国粋主義的な作品ですなあ。
作品110
 ちょいと一杯のつもりで飲んで、いつの間にやら梯子酒。気がつきゃホームのベンチでごろ寝。なんて調子に花和尚魯智深は五台山でいつのまにやら坊主になつてましたとさ。 いやー。よかれと思って災難でしたなあ。 魯智深の失敗は頭を重点的に殴ったことですなあ、痛めつけるなら肉のあるところを打たないとね。殺すのか痛めつけるのか計画性のなさがこのような失敗を生んだといえる。


 魔星とはなにかということで前回述べたが、水滸伝は星についてやたら意識して作成している。
例えば主人公が星の名前を持っていたり、その後見人となるのが「宿」(二十八宿)の名をもつ宿元景だったり。これは一般的伝説の英雄が星の化身だったという設定に基づくものだ。日本で云えば死んで西郷星となったみたいなロマンチックなお話なのだ。

 水滸伝の作者の全体の考えかたは、水滸伝の冒頭に如実に現れている。
その記述は大宋国が太祖武徳皇帝(趙匡胤)にうち立てられ天下太平がやって来たことを大いに喜びたたえる話。これにより作者が中華帝国の繁栄を熱望しているかがわかる。
まあ、孔子が周王朝を讃えるのにも似たもので、あまりにも趙匡胤を美化している。 故に史実では駄目皇帝の徽宗でも物語ではまともな君主となっている。

 さらに水滸伝の物語では時代が下って、仁宗皇帝時代。このころ宋は全盛期であり、皇帝を補佐すべく天の二人の神が使わされる。
前にも述べたが天から使わされた星の化身が皇帝を助け国の安寧をもたらしたというものである。
ここの 「文曲星」包拯と「武曲星」狄青である両者の伝説は水滸伝作者の創作というより、もともとあった伝説を取り入れたものではないかと推察される。
というのも中国で英雄達を星に例える話がやたら多いからである。 こういう伝説は水滸作者は英雄物語を作成するうえで下地となっているようだ。 歴史に名を残す偉人は人ならぬ神の化身となって人々から敬われるのであろう。 包拯と狄青は文句のない英雄なんだろうが、水滸作者は巷に溢れる小英雄達を拾い集め 新たな英雄物語を誕生させた。そうダークな英雄物語なわけだ。
水滸伝の英雄は一般に評価されない任侠集団でやや悪に染まった英雄達なのである。

 物語では文曲星包拯と武曲星狄青の時代に飢饉が起きこれを鎮めるために太尉の洪信が使わされる事から始まる。 つまり武曲星と文曲星との話を受けて天魁星、天機星の話が始まるのである。
さりげなく狄青のような話をこれからしますと書いているようなもので、洪信の事件、九天玄女の登場、名簿石碑出現と回を進むごとにこのことははっきり分かってくる。 このことをよく理解するには武曲星狄青の歴経歴を追ってみると水滸伝作者の英雄についての意図がよくわかる、そこでこれからこの宋の全盛期の歴史について追ってみることにしよう。


 そのまえに、宋江と狄青は星の上では本当に近い存在であることはご存じだろうか。
宋江は(天魁星)すなわち「大熊座のドゥーベ」であり、そして狄青は(武曲星)すなわち「大熊座のミザール」である。そう両者は北斗の兄弟星なのである。
ギリシャ神話ではヘラに睨まれたゼウスの愛人親子の姿であり哀れでもあるが、中国のこの星座の地位はものすごく高い。というのも西洋では黄道12星座が重視され恒星天には無視に近い扱いをされるのだが、中国の天は世界の行政機構の役割を持っており大熊座は重要な役割をもつのだ。 中国の天は天極星を中心として行政機関が取り巻くといった世界観になっているのだ。
ここについての詳細は長くなるので省略することとして、これに関しては「天官書」や「晋書天文志」等を読まれたし。

 星にはそれぞれ仕事が割り当てられているのですなあ。例えば七夕の織り姫(織女)は果物、絹糸、宝物を管轄する。王者が巧く国を治めると織女星は輝きを増し、星が怒ると織物の値段がたかくなる。と云った具合で星と地上は深く結びついている。
ところで天魁星の一群すなわち「北斗七星」だがこの働きは重要で天官書では「天の中央を回り、四方を統一し、陰陽を区別し、四季を分離し、五行を活動させ、二十四節気を動かす。これが北斗の使命である。」と記述されている。簡単にいうと世界の運動を調整しているということ。なかなか天では重要な星なのだ。
その第一の星が天枢または正星と呼ばれ陽なる徳を管轄する。
第14回で晁蓋が夢で北斗七星が落ちてくるのを見て盗賊団を結成したが、それって勘違いで、本当は宋江のことではなかったのだろうか。 上記に書いた武曲星は「仏説北斗七星延命経」による表記で、正史では「開陽星」である。 ここでは一応水滸伝の表記に合わせた。

 ちなみに宋代の陳希夷がまとめた占いの「紫微斗数」において虚星の中に「天機星」なるものが存在する。その化身は太公望の姜尚。知恵精神を司る。呉用のイメージにぴったりといえる。
もちろん正史の北斗にも「天幾星」なるものが存在するのだがこちらは大熊座のフェクダである。108の星中二人の星は発見するも他は不明である。 まあ文曲星包拯と武曲星狄青も二人だし、天魁星宋江と天機星呉用が二人だから対等といえる。
そう言えば九天玄女が天書を宋江と呉用の二人だけに読むことを許可したもの、この星の地位と関係しているのかもしれない。 あまりのも二人の星のクラスが高いのである。
作品111
 今回は「楊志刀を売る」の有名なシーンで説明も必要ないだろう。
楊志は失業者なわけで、失業保険もない時代のこと刀を売るしかないという訳ですかな。
ところで楊志に殺された毛なしの虎「牛二」だが、平和に侵されすぎていたのか。 だいたい刀持っている相手に因縁をふっかけるとなると、相手より自分が強いか、相手が手を出さない自身がある時に限られるはずだ。 楊志は多分体格がよいはずだから、牛二は彼が手を出さないと踏んだに違いない。場所は街の真ん中、法により殺傷は出来ないと計算したのだろう。
自分は暴力で周囲の人間を怖がらせ、嫌がらせするゴロツキながら、反面法の保護の恩恵を受けていたのであろう。 腕力で自分の周囲を困らせ、好き勝手放題やる。周囲が怖いから反論しないからますますつけあがって小さな王様になった気分になっていたに違いない。
そして、妄想的に強くなった自分と其れを保護する法により、思わぬ計算違いをしてしまう。そう世の中にはそんなの通用しない人種がいることを忘れていたのである。 怖いお兄さんに因縁ふっかけて刺殺されてしまうのだから、まったく身から出た錆である。


 狄青(武曲星)は仁宗皇帝代の西夏との戦いに活躍した武将である。 水滸伝の物語はこの時代より始まる。
普通の読者は洪信の魔物解放のことばかりに注意が向きすぎて、梁山泊の星々と同等の星がこの時、地上に転生しているのを気が付かないでいる。 後にこのことを彷彿させるかのように王進がその舞台に向かって旅をするのだが どこまでも隠し味的存在である。

 さて今回はこの英雄の活躍した時代と舞台に付いて解説しよう。 もちろん舞台は中国北西部、時代は魔星が解放された時代。この時の宋の最大の敵は西夏である。
西夏とはオルドスにあった国である。もう少しわかりやすく述べると、黄河が上流でコの字に曲がったところから現在の敦厚までのエリアに存在した国である。
かれらはチベット族の一種でタングート族である。遊牧民であるが農業もやっている存在であった。唐の時代にすでに存在はしたが少数部族であった。キタン遼がモンゴルから満州までの広大な統一を成し遂げると北部一帯は安全な移動が可能になり交易が発達してくるようになった。これにより中国の西のオルドスは交易中継地点として次第に発展してきたのである。

 この部族はやや親中国の存在であったが、宋の時代遼の脅威に対抗すべくオルドス地方に官吏を派遣して支配しようとしたため、李継遷が反発し宋に反旗を翻した。かれは遼と同盟を結ぶと宋に対し戦いを挑んできたのである。まず夏州を落とすと西に向かい霊州を陥落させた。宋は李継遷の懐柔策を試みるも失敗、それで経済的圧力を与えようとして塩の輸入を禁止した。ところがこれがやぶ蛇で、それまで中立だったタングート族横山部に打撃をあたえることとなり、かれらは仕方なく李継遷に合流すると大きな戦力となり宋を苦しめることになった。そこで宋は同じチベット族の西蕃を抱き込み李を殺させた。

 ところが、その息子李徳明が後を継ぐと早々と宋と和議を申し込んだ。というのもこのころ宋は怒った遼にこてんぱんのにやられ「壇州の和議」を結ばされており遼と宋が仲良し状態なもので、自分たちが孤立するのを恐れて方針転換をしたのであった。

 時は仁宗皇帝の時代(108の魔星が解放される時代)、父徳明の宋に従順な姿に反発したのが長男「李元昊」であった。かれは文武兼ね備えた英雄であった。
即位するすると官僚制度を整備し軍制を備えた。国内の体制を整えたあと直ちに祖父の敵の西蕃を討つとその後ウイグル族の3州を占領した。かくして領土を拡大すると皇帝を名乗り、都を興慶に定め、大夏(西夏)建国を宣言したのであった。
ここに宋との対等の関係を要求したが、俺様意識がつよい中国のこと、小馬鹿にすると経済封鎖を行った。 こなると西夏もだまってはおけない訳で宋との全面戦争を開始したのである。

ところが戦いが始まってみると、精悍な戦士の西夏の軍団に対し、宋の軍団は頭数だけ多い割に平和ボケして規律も乱れ、とても対抗できるものではなかった。 宋軍は敗北の連続で陜西の北は西夏のいいように蹂躙されたのである。

 そこで宋も「韓?」、「范仲淹」を総司令として防衛にあたらせた。 かくして宋は得意の城塞戦戦法持ち込んだのである。
攻城戦なってくると流石に西夏も攻略に苦しみ戦局は膠着し始めた。宋の経済封鎖を受けて7年、流石に西夏も苦しくなった。ところが面白いことに経済封鎖を実施していた宋も兵士頭数で勝負していたので軍備が国家経済を圧迫し、あっぷあっぷの状態になっていたのである。 かくして両者さぐり合いの末、和議が結ばれたのであった。

 両者ドローの引き分けというのが西夏と宋との顛末であり、宋にとって強敵の遼と違って 国も小さい西夏はちょうど良いレベルの相手でであったのであろう。 ここまでが狄青(武曲星)が活躍したといわれる時代の様子であり、簡単ではあるが概要はつかめたことであろう。 この後、西夏は交易の中継地点のためか、大国に干渉を受けやすくあっちの国こっちの国と友好関係を乗り換え国を存続させたが、最後はジンギスカーンにより滅亡させられてしまうのであった。
作品112
 ついに武松の虎退治を描いてしまいました。メインの話ばかり描いてしまうと漫画の後半がマイナーなものばかりになるので避けてきたのでしたが誘惑に負けてしまいました。
武松の虎退治の特徴は素手で虎を退治したことだ。梁山泊のメンバーでは他には李逵、とか解珍、解宝が虎を殺しているが、こちらは得物あり。そういう点で虎を素手で殴り殺した武松はすごーい。魯智深と武松が腕相撲したらどっちが強いのだろう。
ところが「士師記」(第13章)を読んでいると、もっとすごいムキムキマンが存在した。
「サムソン」だ。 お話ではサムソンが娘さんに求婚しに行ってた途中、テムナの葡萄園で獅子と遭遇した。ここでサムソンどうしたかと言うと素手で果敢に戦いを挑み込んだのでした。そしてなんと獅子をなんと山羊を引き裂くかのように真っ二つにしてしまったのでした。 うーんすごいなあ。 ちなみに西洋では力自慢に「ヘラクレス」なるギリシャ人もいます。



前回は武曲星の生きた時代の説明だったが、今回は彼自身について述べてみよう。

 「狄青」、中国では有名な武将なんだが日本ではまったく無名の戦士である。
まあしょうがないことだが、中国では「大英雄狄青」なるアニメがあるぐらいのメジャーな存在である。中国人では常識的な狄青という武将について知ることは水滸伝を理解する上で重要なので、簡単に人物像について解説しておくこととしよう。

狄青は1008年山西省汾陽に貧農の家に生まれた。(小説では名家)喧嘩沙汰を起こし兄にかわって罪を被り、兵役の刑罰をうけ軍隊生活を始めることになった。
おりしも先に述べた西夏の「李元昊」との戦いが延安一帯において繰り広げられており彼はこの最前線に配属された。 額に入れ墨を入れられた一兵卒からのスターとなったが、以降勇猛果敢な戦いにより次第に頭角を現し始めた。 勇猛な戦いぶりで前衛となり西夏を討ち破ったのだそうだが伝えによれば兜を付けず銅のマスクを被り髪を振り乱して戦ったので西夏の兵士に恐れられたという話しだ。確かに変な人物だ。その姿を第三者で眺めるとなんか野蛮人て感じ。「なんやあいつ」というのが西夏の感想だったにちがいない。

 25回の戦いに参戦し矢を受けること8度、数多くの城を落とした。 確かに活躍しているようだ。 この頃先に述べた総司令の「范仲淹」から春秋左氏伝を読み古に学ぶことを教授され知将となってゆく。次々に功労をたてて州長官、馬軍、枢密副史(1052年6月)と出世する。
まあ、英雄話なので果敢に西夏を討ち破ったといきたいところなのだが、実際の所西夏の戦いは攻めの西夏、堅守の宋てのが実状で一進一退の攻防を繰り返していた。 彼の人気の秘密は下級兵士から高官まで上り詰めたことか。 日本では下級武士から関白まで出世した秀吉に憧れとヒーローを作りだしているが、これと同様の心理で人気があったと思われる。

 1043年に西夏との戦いも和議により終焉すると。狄青は都で枢密副史の仕事をやる。 かれは仁宗皇帝に気に入られた武将でありこの地位まで出世したのである。 しかし高官とはいえ文官がやる仕事、多分性に合わなかったにちがいない。

 そんな中だるみのころ広源州の「儂智高」(ベトナムのカオバンの地)が広南9州を攻め落とし「南天国」を建国すると広州にせまってくるという一大事が発生。
運命はかれを戦場へと導く。
これを討伐すべく何度も軍隊が派遣されたが、やはり平和ボケの軍隊ではどうしようもなく大敗を重ねた。広州も囲まれて2ヶ月、宋軍の増援部隊は連戦連敗、仁宗皇帝も極度の失望に至っていた。朝廷ではふがいない結果に頭を痛めていたが、狄青が自ら進んで名乗り出ると、彼への信任篤い仁宗皇帝はたいそう喜んだ。
皇帝は自ら送別の宴席をもうけると狄青を広州に送り出したのである。 狄青としても退屈な役所務めよりこちらの方がよかったのかもしれない。

 ところが狄青出陣の報に前線の将校(陳曙等)は手柄を奪われないだろうかと恐れ、無理矢理出撃して大敗してしまった。 前線に彼は到着すると10日間軍を休息させ、命に背いた将校を処罰(処刑)すると軍規を整えた。
宋軍が休息をとっており攻めてくる様子もないので儂智高は安心してしまい、つい警戒を緩めてしまった。信長みたいだが、狄青は酒をのんでワイワイやっていたと思ったらある日おもむろに立ち上がると軍勢を率いて一夜の強行軍を敢行。敵の要所である昆論関を突破してしまった。天険の昆論関を突破されると儂智高も一大事、狄青率いる宋軍と激戦のを繰り広げることとなった。宋軍の孫節は戦死し宋軍に動揺がおこるも建て直し、戦いは儂智高軍総崩れという結果になった。

 この時の逸話が兵士の志気を高めるため狄青は任務達成が可能かどうかコイン投げで占った。結果はコインは全て表で勝利間違いなしと卦がでたので、大いに下士官は勇気づけられたという話がある。実は狄青はコインに細工をしていて表しかないようにしていたという。この話が本当かどうかわからないが、日本でも新田義貞が鎌倉攻めの磯づたいをやったとき剣を海に投げて道が出来たというものがあるが、これに近い演出だったといえる。

 さて見事に南方を平定した狄青はその後さらに出世し、最高軍事長官である枢密使まで上り詰めた。かれは頂点を極めたのだがここからが不幸の始まりとなる。

 岳飛の件でも分かるのだがそもそも宋の建国が軍事クーデターで成立したうえ、同じ競争相手を排除して皇帝一人に軍事権を集中させ周りを文官で固めたようなものだった。このような所に軍事の実力者が登場するとクーデターを起こしはしないかと非常に警戒されるのである。狄青の場合仁宗皇帝のお気に入りだったので皇帝そのものは不安視していなかっただろうが周囲がうるさい。
王挙正、諫賈、韓?等は皇帝に狄青は危険であると箴言をし、狄青を監視させます。
狄青について数々のデマが飛び交いました。狄青の家の犬は角が生えているとか、狄青の家から夜光が出ているとか、狄青が相国寺で黄色い服(皇帝の衣)を着ていたなどといずれも謀反連想させるデマであった。これら朝廷内の根強い不安から生じた流言には名将の狄青といえども流石にこたえていった。

 皇帝の仁宗は狄青への信頼は篤つかったが、周囲の圧力はいかんともしがたく、しぶしぶ彼を罷免し(1056年)陳州へと送った。 こうして狄青は都を離れ自由の身になったかというとさにあらず。その後も朝廷は監視を怠らず毎日のように彼を探ったのであった。かくして歴戦の英雄も排斥の嵐の中で鬱々とした気分を抱き発病しその49年の生涯を終えたのであった。
作品113
 高廉は梁山泊が対戦する最初の妖術使いである。高毬の従兄弟というから驚き。 高毬といえばついこの間までうだつの上がらない人物だったが、蹴鞠が上手でとんとん拍子に出世した人物である。蹴鞠が上手でちょいと不良どもに人気があるのと妖術が使えて文武両方こなせる人物とどちらがすごいかといえば、やはり高廉のほうではないか。 最初読んだとき、なんでこいつが高毬の従兄弟なんだと思ったのは管理者だけだろうか。 全国各地から屈強の者を集めて「飛天神兵」と云う親衛隊を創設しているのだからたいしたものだ。高毬の従兄弟でなかったら、以外と樊端みたいにどこそかで山賊をしてそうなタイプの人物である。 高廉は魔法合戦で公孫勝にあっさり負けてしまうが、ここは樊端を早めに仲間にしておいて樊端対高廉の戦いで緊迫した試合のほうが面白かったのだが。 ちなみに二人が唱えている台詞が小さくなりすぎてよくわからないので解説しておくと、これはガウスの連立1次方程式解法です。



 水滸で釣りの解説はこれまで遊牧民族(北方民族)と農耕民族(漢民族)の関わり合いについてくどくどと述べて参りました。
これについては以前に述べましたように、我々の思想や行動は自分独自で確立したものであると思いこんでいるが、その時代、その風土の影響を色濃く受け継ぎ、言語を通じて形式化された思考パターンをしているだけであるということ。このパターンから離れる思考を形成する者は天才とか改革者(変わり者)となる ということでした。

 故に水滸作者の思考を探る上でその中華世界について広範囲な捉え方をすることは水滸伝を理解するうえで有効な手段であるということで中国史を覗いてまいりました。いわばここまでは水滸伝作者の外郭、外堀を攻めていたということになります。 ところで狄青の問題になると、これは水滸作者のいわば自身(内堀)に関する問題となります。 水滸伝作者の「施耐庵」はまったく謎の人物です。彼の経歴や他の著作物等が分かればその思想や背景というものが明確に分かるというものですが、匿名の人物ではなかなか理解しがたいもので曖昧模糊としたものにならざるをえません。 故に水滸で釣りも外周(環境)から内周へと彼の思考を追っかけてきたわけです。

 内周(内堀)は簡単にいうと彼の趣向についてということになります。例えばこの解説を読んだ方は日向草雲がいかなる人物であるかご存じない。しかしこの文書を読むとその特徴、語彙の選び方、論理的説明の欠如、添削を一切しない態度でその性格がよくおわかりでしょう。(一応自己紹介はしていますが)そのようにいかに施耐庵が正体を隠したとしても彼の趣向は作品を通じて分かるというものです。

 簡単に述べると施耐庵は「史書」に重きを置かず、「物語」に興味を持つ人物であるということです。
例えば、水滸伝のメンバーの軍師は三国志演義の諸葛亮孔明はとりざたされるが、もっとすごい張良や伍子胥は出てこないし、呉起、孫武もでない。宋江は孟嘗君あるいは重耳とだぶらせればいいのにそうでもないし。
このように水滸伝のヒーローのモデルに偏りがあるということです。このような書き方をするとシェクスピア複数説(会員作成説)みたいに隅っこをほじくり出すみたいですが、施耐庵は四書五経を学び科挙試験に精力を注いだというより、巷の文学を読みあさったような人物のような感じを受けます。もちろん、施耐庵が全知識を動員していない可能性もなきにしもあらずですが。

 また、施耐庵はこまごました人間ドラマは得意ですが、水滸伝がほとんどが戦闘物語なのにかかわらず戦闘シーンが今一つです。
かれは戦争についておたくでないことがよく分かります。 水滸伝を読むと、田虎、王慶編が戦略的にはしっかりしています。制圧した都市にはちゃんと強い部将に守備させている、ディフェンスがしっかりしているのです。ところが遼、方臘はざる状態。こんなのでは危ないではないですか。 施耐庵は雑曲(物語)を得意として、任侠ものが大好きであり、其れと同時に護国の英雄ものが好きといった人物のようです。 水滸伝の構築にあたって宋江ひきいる36人の荒くれ者の物語と唐、宋の英雄の物語、それに三国志、特に狄青と楊家の物語が下地になっているようです。

 そのうち管理者が一番注目するのが狄青なる人物の水滸伝形成において与えた影響についてです。もちろん「楊家将」も無視してはなりませんが。 水滸伝を簡単に表現すると「任侠ファンタジー」ということででして、施耐庵の頭の中には庶民に人気のある人物を用いて、護国の英雄物語をやりたかったということでしょう。数多くの作者を経て型作られた水滸伝は施耐庵によって一応の完成系となったというわけです。
作品114
 梁山泊の勧誘の仕方は様々だが結構強引なやり方が多い、誘い出して歓迎した後、罪をなすりつけて仲間にしてしまうというものだ。 廬俊義の場合は呉用が不安にさせて梁山泊におびき寄せたし、徐寧の場合は盗人を追っかけてしびれ薬を飲ませて連れてきた。しかもだ人殺しの罪をなすり付けられてしまうんだから酷いといえばひどい。そういえば安道全も殺人の罪をなすり付けられたし、可愛そうといえば秦明なんか賊の罪を被って家族がさらし首になってしまった。 しかしだ、徐寧が必死こいて武具を盗んだ盗賊を追っかける話はある種ユーモラスである。


 天武星「狄青」については、略歴を述べておいたのでもうおわかりと思うが「宋史」に登場する英雄なわけだ。 もっとも中国の古い物語で彼は悪役として描かれているが。
紹介程度に書くと、
彼の物語は「万花楼演義」なるものが存在し、これは狄青と包拯のお話で二人が外国の侵略と国内の事件をみごとに解決する話である。
「五虎征西」は万花楼演義の続編で狄青、張忠、劉慶、李義、石玉など五虎将が繰り広げる西夏との戦い。王女とのラブストーリー。
「五虎平南」は征西の続編であり、五虎将が再び集結、南方広州を舞台に儂智高の乱を平定する。

 作品109の解説において水滸伝の冒頭、狄青のくだりがあると紹介したが、
「万花楼演義」においても水滸伝同様「文曲星」包拯と「武曲星」狄青のいきさつについて述べてある。
天の玉帝は武曲星、文曲星に地上に転生するように命じる。武曲星は3代にわたる忠臣の家、狄家に彼は降誕する。一方文曲星も江南の3代孝行を行ってきた貧しい家に降誕する。このとき多くの凶星が許しもなく地上に降りていった。
二人が地上に転生したのは大宋国が戦争や裁判ごとが多く、そのため仁宗皇帝を補佐し、寇を退け民への公正な裁きをもって天下太平をもたらすためであった。
といった説明なので水滸伝の冒頭のくだりと比べると相応していて面白い。

 これらの小説は多分新しいものであると思うので、施耐庵などはこの原型の伝承をもって水滸伝を作成したのではないかと推察される。 水滸伝側からみればわざわざ冒頭「文曲星」包拯と「武曲星」狄青の紹介をしているし、普通に考えたらここで楊家を紹介しそうなものだがそうではないのだ。
引き続いて水滸伝側で注目すべきが王進の目指した先が延安だ。これは完璧に狄青の活躍した場所。水滸伝なら「水滸後伝」で阮小七が梁山泊に登場すると同様の強者どもが夢の後を彷彿させる憎らしい設定になっているのである。
そもそもが主人公達が星の名前を持つことに疑問をもたれたことはないだろうか、星名にあだな、それに氏名といっぱいだ。 それらのものは星の降誕という神話のモチーフが採用されているからである。

 これが施耐庵水滸伝の特徴で、その原型の姿をかいま見ることの出来る「宣和遺事」には星の名前はみうけられない。
宣和遺事は史書に近い書き方なので小説と同じに捉えるのはいけないだろうが、たかだか匪賊連中を数行にわたり紹介しているところをみると民間の伝承を無視はしていないと思われる。しかもだ、ご丁寧にこの匪賊連中36人全員の名前を記載しているのだから有難い。普通史書だったら宋江の名前だけでも出るのが奇跡なんである。しかし宣和遺事をみるかぎりあだ名、氏名は記載されているが星名はない。
このことは何を指し示すかというと、本来の匪賊英雄物語には星名は存在ししなかったこと、彼らは天から降ろされた凶星である設定ではなかったことを物語る。

 これらのものは施耐庵水滸伝が構築されるうえで付け加えられたもので、このことに作者の意図を知ることが出来る。細かいことを述べたが小さなパーツ一つみても水滸伝の思想が読みとれるというものである。
作品115

 徐寧と同様に滑稽な入山となった廬俊義を描いてみた。 この廬俊義108人集合までをみると、あまりたいしたこともない人物に見えてしまう。 それは後半に登場した人物達の不利なところで、レベル的には中位の史進なんかは前半に登場するのでやたら強そうに見えてしまうので勘違いをさせてしまう。
廬俊義の本領発揮はやはり遼以降で、この合戦シーンを読むと宋江がわざわざ指名したのもわかるような武勇を発揮する。
それは関勝も同様で前半に登場する林冲なんかと比べたら影が薄い、しかし終盤にさしかかって目立った存在になり反比例するように林冲の存在が消えている。 こういうところから水滸伝を集合段階でカットするのは管理者は反対である。


「文曲星」包拯と「武曲星」狄青のから狄青のみを長々と説明したので、読者は「それで、相棒である文曲星の包拯はどうしたの」と疑問に思われたとだろう。 実は包拯より狄青のほうが水滸伝と重なる要素が高いので長々と書いたわけである。 水滸伝は護国の戦闘的ヒーローを目指すものだが、包拯は平和な時代の統治的ヒーローなのである。分かりやすく説明すると、中国版大岡越前なんである。
彼の物語としては「三侠五義」なる物語ものが存在し、かなり有名な人物である。こういった文官が活躍するのも宋の時代は遼との講和以降平和な時代続いたというわけで、その意味においては宋の時代を象徴するようなヒーローといえる。 水滸伝では裁判といえば李逵の名裁判だがやはりのりが違うと言わざるを得ない。あえて水滸伝との共通部分といえば主人公の包拯の幼いときの名前が宋江と同じ「黒三郎」ところだけ。もちろん水滸伝同様三侠五義においても任侠な人々が大活躍するのだが読者はどちらがお好みであろうか。

ところで大岡越前で思い出したが彼の名奉行ぶりで有名なのが二人の母親が一人の子供を取り合い越前が見事に裁くというものである。越前は二人の母親に子供の腕を引かせ勝った者が母親として認めようと述べ引かせます。すると片方の親が痛がる子供を見て手を放します。これを見た越前が放した親を母親として認めたというもの。その裁きの理由が痛がる子供を見て手を放すは母親たる所以である、とした裁きなのである。 しかし、実はこれは「竜図公案」からのパクリ。実際越前が裁判したのは不倫事件の一件だけ行政長官のお奉行様は忙しいので裁判なんて部下にさせるのだ。 この竜図公案こそが包拯の行った名裁判なのである。
もっともこの包拯の裁判も彼がオリジナルなのか管理者は疑問に見ている。というのももっと古いものでソロモンの裁判なるものが存在するからである。これは二人の親が子供を引っ張り合うというのではなく。ソロモンが「だったら子供を刀で二等分して親に与えよ」と命令したところ、片方の親が驚き慌てて辞退したという裁きである。 こちらのほうが残忍でリアリティ溢れる。 この文献を中国の作家がパクッたとも考えられるのだ。
だがさらに管理者はソロモンの裁判についても王様の智慧の豊かなのを表現したかったのであろうが、ソロモン王がこんな訴訟にいちいち関わっていたのだろうかと疑問視している。たとえば詩編などはエジブトの文献をそのままコピーしているのが発覚してりしているので、以外とエジプトなどの裁判で行われた判決だった可能性も考えられる。 とまあこれは証拠がないのでどうしようもないが、大岡越前の元ネタは竜図公案であることは間違いないことだ。
水滸伝は護国のダークな英雄物語なので包拯のような清廉潔白は場違いなので彼のことはここまでとする。
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追補
読者から「なにか論文ぽい」とのお便りお頂いたが、どこにも演繹的や帰納的証明をしていないこと、出典の文献の明記をしていないことから そうではないことはお分かりと思うが。勝手に面白おかしく書いていたら真剣に読んでもらっているのに気がつきびっくり。管理者は中国は本来の土俵ではないのでご注意ください。
作品116
 
 張清の得意な武器は石ころ。負けるとみせかけ石をふん投げて負傷させるか戦意消失させる。梁山泊の武将では一番最後に登場するのだが、ほとんど勢揃いした梁山泊の屈強な武将相手に果敢に戦いてんてこ舞いさせるすごいお人。あんまり戦果をあげるので作者からは本番の遼の戦いでは早々に退場させられるが、一転田虎編ではまたまた活躍、ヒロインの恋人役を引き受け、まったくラッキーなキャラクターである。 ところで漫画に登場した像はご存じダビデ像である。絵が下手なのでわかりにくいだろうからここであえて解説。

ダビデはユダヤの二代目王なわけで、前回の解説で述べたソロモン王の父親にあたる。 彼の登場シーンではこのようなことがあった。
そのときイスラエルとペリシテは交戦状態にありエラの谷で両陣向かい合っていた。 すると、ペリシテ側から屈強な荒武者「ゴリアテ」が飛び出してくると、イスラエル軍に一対一の決闘を申し込んだのであった。これにイスラエル(サウル)軍はビビってしまった。

 おりしもエッサイの末息子ダビデは父のいいつけでサウル軍に従軍している3人の兄の安否を見届けるためパンを提げてやってきた。ダビデの兄は「羊の番は誰がやるんだ帰れと」弟を叱ったが、逆に若いダビデはゴリアテの挑発を目の当たりに憤慨した。「あの野郎ぶっ殺してやる」とばかりに大騒ぎする始末だった。これを知った大将のサウルは「面白いやつ」とばかりにダビデに戦うことを許し、武具を与えようとした。だがダビデはこれを受けず羊飼いの格好のまま、石を袋に詰めると単身出陣したのだった。

 出てきたダビデを見てゴリアテは変な若僧の羊飼いが登場だと嘲笑し「おまえを鳥の餌食にしてやろうと」進み出た。 この時ダビデは全速力で疾走すると袋から石を取り出しゴリアテに投げた。 石は額に見事突き刺さり、ゴリアテは地面に崩れ落ちる。 そのまま走り寄ったダビデはゴリアテから刀を奪うと馬乗りになり首を切り落としたのであった。 かくして大将がいなくなるとペリシテ軍は戦意喪失退却していったのであった。

 さて張清とダビデの投石の技だが、威力はどちらが上かといえば、水滸伝ファンには悪いがダビデの方に軍配があがる。張清は馬にまたがり不安定な状態で石を投げる。これが全速疾走する馬から前方に投げるならまだしも、逃げるふりして投げるから馬の速度が生かせない。事実張清に石を当てられた武将の傷の程度は以外と浅い。

 これに対しダビデの場合は同じ石を投げるといっても投石器を使用するのである。といってもたいしたものではないが石を包み込む袋の部分に長い紐の付いたものである。どういう風に使用するかといえば石を込めたら紐の端をつかんでぶんぶん振り回し、ころあいを見計らって紐を放すのである。
この投石器は遠心力を最大限使って投げるのでその威力はすごい。腕のスナップで生じる加速とは違うのである。ダビデの攻撃を受けたゴリアテだが完全に石が額に突き刺さって倒れたことをみてもわかるように、たぶん一撃で頭骸骨を粉砕されているはずである。

 もちろん張清の攻撃も敵を倒すという意味では別の利点の要素がある。 それは相手が馬から落馬することである。疾走する馬から落馬すると重傷を負う可能性はある。 ともかく張清以上に飛礫技ではダビデが有名だからこの漫画では登場頂いたが気にくわない方は許されよ。
作品117

 索超はきわめて初期に登場するにもかかわらず、再度登場するのが梁山泊が北京大名府を攻略したときで、軍人クラスがどんどん入山する時期にあたりほとんど記憶から忘れさられやすい。
その差は楊志と林冲が梁山泊の近くで決闘するのはきわめて印象的なのに対し、楊志と索超との御前試合での一騎打ちはそれほどでもない。これは前者の物語が林冲から楊志に主体が移行しているので両者の印象が深く刻み込まれるのだが、後者の物語は楊志から索超に物語が移らないため、索超は楊志の単なる引き立て役で終わっているためである。
しかも可哀想なことに索超の特徴である急先鋒はその後登場する五虎将の秦明が長いこと戦いにおいて一番槍を発揮するので、彼が終盤に登場する時は陰が薄くなってしまうのである。
彼は秦明同様カッとなる性格だったらしいが、果たして両者どちらが短気だったのか謎である。索超の最後はこの性格が災いして石宝の誘いの手にひっかかり流星鎚の一撃を顔面に受けて杭州にて戦死するのだった。
漫画の最後に登場した人物の名前がおわかりでない方がおられると思うので解説すると、彼らは南総里見八犬伝に登場する武人である。五人全部は枠にはいらないのでとりあえす3人描いた。


 梁山泊、官軍も近寄りがたいほどの天然の要塞。ほとんどの読者が主人公が山賊であるとして黄山のような峻厳な山々を連想したことであろう。しかし実際は梁山は湖のに浮かぶ低い丘であることがわかると拍子抜けをしなかったろうか。確かに葦など生い茂ってた水湖は迷路になるとは思うが強どもが要塞となるとなにか力足らずのような気がする。 しかも、他の山賊の籠もっていた山が山東の山々なもんでちょっとがっかり。
しかし、フロリダみたいに広大で湿地帯が広がっていたらそれはそれで山がなくても迷路化してだれも近づけないのは確かだが。

 こんな失望感を味わっていたところ、研究者の文献にて水滸伝の変遷を発見。もうご存じの方はいるであろうが、ちょいと解説。 簡単に述べると水滸伝の原典の舞台は山東ではなく山西であったということである。
その論拠となっているのが魯智深の迷走ぶりと梁山泊の華州攻めなどである。 ご存知魯智深は初期の段階でかなり移動を繰り返すが分けのわからないコースをとる。また史進を救助するために梁山泊からはるばる西に大遠征を決行する。また江州から都に向かったはずの戴宗が途中でもないのに梁山泊に立ち寄るなど不可解な行動が多い。 しかし話の矛盾を山東から山西に転換すると解消されるというわけである。 さらにとどめが「宣和遺事」にはっきり太行山と明記されているということである。

 このことは「水滸で釣り」の作品17番のネタであり、遅くなったがここで解説をしておこう。 「宣和遺事」は皇帝の近辺の出来事を描いたものであるが、その中に水滸伝の原型の物語を取り込んでおり、この中で強者どもが集合するのが太行山なのである。 つまり古くは太行山梁山泊ということなのである。 太行山は山西にある、と言ってもよく分からないかたもおれれるだろう。黄河が作り出した平野部を西に向かうと山にぶつかる。黄河はこの山を切り裂いて平野部に飛び出すのだが、河の北岸を南北に連なって存在するのが太行山山脈である。 1500m級の山がつらなる山脈で平野部からいきなりそそり立つ山脈なのでかなり目立つ存在である。「愚公山を移す」をご存じだろうか。老人が平野にそそり立つ山が邪魔なのでこつこつ運んでいたら神様が感心して山を移してくれたという話だが、この愚公の取り除こうとした山こそ太行山だったのである。

 この峻厳な山は山賊さんにぴったりではないか、ちょいと北には五台山も存在し祝家荘ならぬ石家荘も存在する。関係ないかな。 ともかく史進のいる華山にも軍事行動可能な地域なのである。 この太行山山脈は山賊が籠もっていた舞台としてけっこう取り上げられるようで、例えば「北宋志伝」などでは、呼延賛が北宋に仕える前に山賊になっていたのがこの太行山。この時太行山での山賊仲間は、馬坤、馬華、馬栄、張吉、羅清、李建忠、柳雄玉、耿忠なのであるが、この様に物語の舞台として利用されるぐらいの土地なのである。 面白いことに金以前は「山東」はこの山の東面を言っていたそうだ。そういう意味では山東梁山泊かな。しかし気になるのはこの山脈の西隣に呂梁山山脈が存在することだ、以外とこちらの設定だったりして。

 このような、物語の舞台が山西の山間部から山東の平野部に移動している現象も分からないものではない。というのも日本の城なんかの場合も防衛という意味より統治という観点から山から平野に下りてきたように、物事は時代に合わせて変化するものだからだ。
「水滸で釣り」の作品76番と77番の解説で述べたが、中国の都市が政治的都市から商業的都市へと変化したことを解説した。これは水運の発達により都市のあり方が変わったということだが必然的に中国の中心が水運の発達した平野部に移行したことを表す。 政治都市だった場合は長安をみてもおわかりの様にかなり山間部だったのである。 この頃であれば山西は都の目と鼻の先、かなり目立った存在となる。もちろん洛陽でも同様だが。

 山賊物語は都の近くでこそ生きるもの、なぜなら山賊というカオスは都市というコスモスの破壊者として意味をなすからだ。これがモンゴルあたりのカオスのまっただ中で、山賊のカオスを発現してもなんの意味もない。山賊英雄物語は都市というコスモスに依存するのである。ロビンフッドをみても分かるように近くのシャーウッドの森だから意味をなすのである。

 さて時代が移り中国の中心が平野部に移行すると当然、コスモスに依存するアウトローたちも近辺に移動しなくてはならなくなった。その後平野部の中心は南北に移り変わるが、その最初のシンボル的存在が開封である。ご存じのように梁山泊はこのすぐ近くに居を構えたのである。かくして水滸伝は昔の中国の都市の中心であった山間部の面影を内に内蔵し、現行社会間近の平野部のアウトローとしてお色直しをしたのである。
これを我々日本人がわかりやすくとらえられるとすれば、源氏物語など京都を中心のお話が多かったが、八犬伝のように江戸を舞台に物語りが描かれるようになり、現在東京は普通になってしまった。とこんな感じだろう。 時代に主軸によりその舞台は変遷するものなのである。

作品118
 
 秦明は林冲同様五虎将として初期に登場してかなり活躍する。キャラの特徴としてはものすごい怒りん坊さんとして描かれている。最初仲間になったときは山賊を追っかけていったのはいいがモグラたたきゲームをやっているかのようにむきになって追っかけ最後は落とし穴にはまっちゃうのだから短気はいけませんな。
しかし彼の性格がよく分からないのは宋江たちにはめられて妻子を殺されることになったのに仕方ないと観念してしまうことだ。小説では1,礼をもって迎えられたこと2,全員相手に勝てる自信がなかった。2.星の巡り会いのため。などと理由が述べられているが3番の理由は深層心理だが1と2番は冷静な判断力をもつと言わざるをえない。彼は単なる猪武者ではないのだろう。
ところで彼の出身地だが「山後」とある。この山とは実は太行山を指す。 太行山の向こう側ということになるが、前回解説したように水滸伝の原型が山西だとすれば以外と近い存在である。確か記憶では楊家将の楊継業も山後であったような。・・・


 さて、夏にお盆なので仏教に関して話してので今回はクリスマスということでキリスト教といこう。もちろんイスラム教も無視している訳ではないが、こちらは変なことを書くと命がいくらあっても足りなくなりそうなのでパス。とはいっても管理者は一般的日本人なのでよーく分からないというのが本当のところだ。
筆者の認識ではイエスをユダヤの地域宗教の単なる改革者。十二使徒は罪を死んだユダに押しつけた連中。パウロはイエスについて知らないのに馬から落ちて変になったおかげで地方宗教から世界宗教への道を切り開いた教祖さま。という感じだ。従って真に受けない方がいい。

 さてキリスト教と言えば「原罪」だが。これってさっぱりわからない。ちなみに平凡社の哲学事典によるとoriginal sin。「宿罪説」。人祖アダムの犯した罪で人間は生まれながら罪の負い目をもつ。なんのこっちゃ。これでは面白くないので勝手に述べるとしよう。
キリスト教といってもその発想の源泉はユダヤ教だが、それだけではなく他にも古代宗教の名残を含んでいる。例えばクリスマスもそうだし、イシス信仰などの地母神信仰もマリア信仰にお色直しをして生き続けているのである。そんなごちゃ混ぜ状態なのであるが。この宗教もある種の思惟のパターンに含まれる。それはアーリア系というかインドからエジプトにいたる地域に分布する思考といえる。簡単にいうと物質と精神という捉え方をする思惟パターンである。あるいは梵我一如というような世界と我の関係など共通の思惟をもつ。この点は中国の思想と比べれば著しく違いがある。これは言語の構造そのものが発想の相違を作りだしているといえる。中国人には文字=数の発想はできないことであろう。 この物質と精神の二分化の捉え方は近代など哲学的な自我の問題においてその流れをうけて論議される。ラッセルなどはこれを神話と呼んでいる。

 宗教においては哲学的な部分を密教として公表しないことが古代からあるが、インドからエジプトに行われた秘密の教えというのは、簡単に述べると「流出論」である。 なんのことはないのである。例えば後期アカデメイアの学長であるブロティノスの師匠アンモニオスの親はキリスト教信徒であり、彼のイデア「一者論」は宗教の思惟を哲学に持ち込んだものと推察する事ができる。というよりもこのアーリア系?思考パターンの中に宗教の哲学的部分が存在すると言っていいだろう。

 前置きが長くなったが原罪についてユダヤ密教系の考え方でちょっと解説してみよう。 古代では哲学的問題は神話としてイメージ化して伝承される。例えばエジプトではオシリスの神話、ギリシャではヘラクレスの神話など、知識のない者が呼んだらたわいのない話である。これは絵画の象徴主義みたいのものでそのコードが分からないものにはひもとくことができない仕組みになっているのである。 当然ユダヤにもこの仕組みの伝承を行っているのである。その前に精神と物質と二つに分離する思惟パターンがあると述べたが、詳細はもっと複雑でアツッルト、ベリアー、イエツッラー、アッシャーなどと言ってやかましいので物質と精神と理解していただきたい。

 まず、創世記だがこれは注意しなくてはならない、どういう点かというと2度のジェネシスが行われていること。すなわち人間の根本精神たるアダムと生命の樹が登場する第一番の創造これは精神世界のこと。二度目がこれを元にその似姿から引き写したエバと知恵の樹すなわち物質界の創造が行われる。エバは物質界に誕生した人を表す。この園から四つの河が流れ出る。つまり四元の力である。

 精神と物質は互いに関係しながらバランスを保っているわけだが、錬金術では上昇と下降の滞りない流通が大切とされる。さてところが生きていくうちにエバの知恵の実(物質界)が主体になっていき、そのバランスは崩壊。根元たるアダム(精神)も犯され。人は肉体の牢獄につながれることになったのである。かくして人は楽園から追放されることになるのであった。仏教風に述べると「業」と言うものかもしれない。わかちゃいるけどやめられないというものであうる。かくして人間は「原罪」を負い救済を待つことになったのである。ここら辺はグノーシス系のほうが分かりやすいかもしれない。

 この原罪の救済としてメシアが登場するのであるが。ここら辺が他の宗教とちょっとちがってくる。アダムとイブの話を読むと最初は何で先祖の犯した罪を償うのさ、という気持ちになるがこう解釈するとなるほどねと変に納得したりしてしまう。
ところでどうやって救済されるかよくわからんが魂の浄化としてイグナチオ・デ・ロヨラは「霊操」なるものを提唱している。かれ曰く「体操」があるんだから「霊操」があっていいじゃないか。確かにだね。読んでみるとあまりやりたくない。
というわけでアダムとイブの出来事わかりましたか。 時間に追われぶっとばして書いたから意味不明だったかな。

作品119
 
 今回は画風をちょいと変えてみたが、結構書き込まなくてはならなかったので以外と時間をとってしまった。別に意味はないが単にギャグ風の絵に少々飽きたので気分転換に描いただけである。内容は原作そのまんま。
もうみなさんご存じのように遼とは宋に匹敵する大帝国で、恐るべき軍隊を持つ国家である。水滸伝では地方の小国家や反乱国家と同格に描かれているが(遼>宋)というのが実体で勝つはずなどないのである。水滸伝で完勝で終わるので、多くの読者が梁山泊軍が成し得たことがいかにすごいことであるか分からないで終わっている。
ここで念を押して述べると。梁山泊は薄氷を踏む思いで巨大国家に果敢に戦いを挑み勝利したのである。 日本で言えば日露戦争でロシアに勝った感じなのだ。 これが分かるためには、これまで解説した中国世界の北との長い戦いの歴史を知らないとわからないのであるが、もうみなさんはおわかりのことだろう。
この遼との戦いのため梁山泊は作者により構成され性格づけられたのである。 もし梁山泊が南を志向していたとすれば、登場人物の特技や性格は別のものとなっていたであろう。
断じて、公孫勝のはなむけとして遼の戦いが設立したなどということはないのである。もしそうなら梁山泊のメンバー構成は公孫勝のためにあるということになってしまうのであり、いわば指輪物語でガンダルフがメインの主人公だと言っているようなものになるのである。公孫勝は単なるパーツにしかすぎないのであり、金代の道教の聖地を彷彿させ、ひいてはそれが遼を指し示すだけなのである。



 さて、山西が梁山泊の原型の舞台であったことを述べてきたが実は遼とのとの戦いも梁山泊軍が山西より出発したとすれば合点がいくのである。
遼との戦いでは以前解説でで述べたように空挺部隊であるかのように、突然「燕京」の背後の拠点である檀州を攻略している。これは常識的に考えて敵の守備ラインを越えていきなり背後に出現することは不可能なのである。簡単に言うとワープしたということになる。 兵站の術がないこの部隊は存在したとしても必然的に消滅の運命をもつ。
このことから施耐庵は地理的に全く無知であるとの評価されるのであるが、ここにロバチェフスキ幾何学の第五公準否定命題なみの発想で梁山泊の所在地を山東から山西に振り替えてみると、あら不思議この矛盾は解消されるのである。
山西つまり大同から梁山泊軍が出撃し燕京を襲ったとする。実はこのコースこそ史実で流賊の「李自成」(作品96、74の解説参照)が明王朝を滅亡させたときたどったコースなのである。 そのあまりの進軍スピードに明主力が間に合わなかったコースなのである。
このコースの恐ろしいところは北京(燕京)の北、目と鼻の先にぬけることである。

 さて梁山泊の作戦行動を見てみることにしよう。 梁山泊軍は李自成と同様のコースにて燕京の北に出現、まず燕京の北「檀州」を攻略した。 その後東の「薊州」を陥落させ、南の「覇州」をおさえ最後に敵の本拠地燕京にむかったのである。
この軍事行動はなにを意味するかというと敵の退路、援軍を阻止しようと時計回りに包囲していったということである。
実は水滸伝では燕京が舞台であるが、これは遼としては南の都であり、本国の中都は北にある。史実で宋軍は敵主力の南下によ大敗退を喫してしまったのである。ゆえに燕京がストレートに襲われると、敵は北に逃走するか、北からの援軍を待つことになる。この行動を梁山泊軍は阻止するために直接燕京を襲うのでなく包囲していったのである。ただし、この軍事行動は北の出現ポイントを遼に押さえられると、兵站が遮断されることになるので大変危険だが、南の覇州まで達したときに梁山泊軍の退路、兵站線を確保したのでその後は大丈夫である。

 このように発想の転換をしてみるとはるほど遼との戦いは考えられたものであるというのがわかる。ただし、この説も問題がある。というもの出発点とした大同だが実は遼の西の都なのである。したがってこのコースをたどるためには遼の都を一つ陥落させなくてはならないという条件があるのである。もちろん施耐庵が当時大同が遼の西の都市であったということを知らなかった可能性は大だが。

梁山泊軍はどこを出発したのか謎は深まるばかりである。  

作品120
 
 水滸伝では徽宗皇帝は良い人として描かれている。実際の彼は風流天子で政治的人間ではない。 もし皇帝にならなかったら人畜無害の人物で、そういう意味では確かに「良い人」といえる。 しかし、政治というものは利害を調整し人々の生活を安定させ、外部から民を守らなくてはならないものである。この重責にその政治的素質をともわないものが就くということは、本人の性格がいかに良かろうが「悪」である。
政治には「非情」さ「優しさ」「責任感」、「統率力」「決断力」を伴うものだからだ。 徽宗は金が攻めてきたとき皇帝の座を放り出してしまうなど、皇帝がなんなのであるかさっぱり分かっていない。八代皇帝にもなるとこんなのが普通なのであろうか。 もっとも彼は最後は金に拉致されて北で果てるのだが、それまでの優雅さとは打って代わってあわれな末路である。

 水滸伝では国家のために忠義を尽くすという思想のもと構築されているので、国家のシンボルたる皇帝は良き人でなくてはならないのである。 ゆえに水滸伝の皇帝はあくまでも良き人で、事実を知らないだけという設定である。
さて今回の漫画は梁山泊が社会復帰のために皇帝に直談判するシーンなのであるが。水滸伝は日本の水滸物語のように鯱張って堅っ苦しいところがなく、遊郭で交渉成立というユーモアたっぷりのところがある。皇帝を尊重しはしているもののある種茶化している面があるのである。 実際の徽宗皇帝もこっそりお忍びで変装して町にでていたそうである。暴れん坊将軍みたいだが、むしろ豪商の若旦那風といえばイメージ近い。お気に入りは李師師と趙元奴。 危険承知でほっつき歩くとは大胆といえば大胆。訳が分からない。後宮で満足しろよな。



 水滸伝は北宋の防衛物語についての思い入れが強い、たとえば梁山泊の入り口の「金沙灘」であるが、「なんでこんな地名つけるのさ」あるいは「悪趣味」と思われたことであろう。
日本でいえば楠木正成の「湊川」、または平家の「壇ノ浦」みたいな悲劇の地名である。
大同の南に「金沙灘」はある。(思い浮かばなかったら山西の北面、あるいは中国の北の方、山東ではないと理解していただきたい) 金沙灘は楊一族が全滅したところである。
楊一族は誰?と思われるだろうから、分かりやすく水滸伝で述べると楊志の先祖のことである。

 時は北宋の始め、宋は大軍勢で遼を攻めたが大敗。蹴散らされてしまった。 この時、遼の軍勢を必死にくい止めた一族がいた。これが家長「楊継業」を中心とした楊一家だったのである。激戦地は「金沙灘」。ここの戦いで楊一族は長男、次男、三男と戦死させ、四朗は行方不明。父親の継業は遼に捕まり捕虜のまま餓死。生き残ったのは六郎だけという惨憺たる結果となったのである。

 彼ら一族の活躍は「楊家将」として語り継がれ親しまれている。 水滸伝作者の施耐庵もこの伝記にかなり影響を受けていると思われる。 水滸全体の設定からも国粋的な感じはあるが、梁山泊の表玄関の地名にこの地名を採用するなど、このパーツをみても明らかに楊一族の話に大きな影響を与えられていることが推察できるのである。

 この「水滸で釣り」は梁山泊は外国遼と戦うために施耐庵により編成されたものであるという主張は少しおわかりになられたことだろうか。 面白いことにこの大同の金沙灘から梁山泊軍が出撃すると、前作作品119で解説したような無理のない遼との戦いとなる。  

作品121
 今回は楊志の最後の漫画だったが、主人公たちが死ぬシーンは描いていてつらいところがある。もっともこういう戦争物は主人公たちが死んでいくところこそ見せ場なのであろうが、遼の話より方臘の話がいきいきとしているのはそのためであろう。 北方謙三のように現代の洗練された手法で話を盛り上げるというのも手ではあるが、明代の作品としては、これで上場のできなのではないだろうか。 作者施耐庵は方臘編を梁山泊解体の戦いとしている。まあ本来の目的の遼は完勝に終わって主人公たちの一掃整理の場としているのである。 その死に方も戦って死ぬだけでなくバラエティである。今回の漫画で登場した林冲は脳卒中で死亡、楊雄は背中の腫瘍による病死、時遷は腸チフスで亡くなっている。楊志は何の病気だか不明だが亡くなっている。 「僕らのヒーローになにするんだよ」と読者は思われることだろうが、しょせん梁山泊は寄せ集めの集団。解体する以外の運命はないのだ。 もっとも施耐庵以前の水滸のように方臘倒してみんな万々歳で幸せに暮らしましたというのがあるのであるが。これが最良かと問われると、哀れな最後のほうが幾分面白く思えるのは管理者だけだろうか。



 施耐庵が楊家将の影響を受けているということを述べてきたので、水滸伝ファンとして一応楊一族のことを知っておく必要があるのでここでちょいと解説しておこう。 もちろん北方謙三が小説にしているのでそちらを読んだほうがいいかもしれない。 もっとも管理者は彼の作品は読んだことがない。 ここでは中国の2作品から楊継業が死亡するまでを述べよう。以降は六郎の話がながーく続くのでパス。


「北宋志伝」より

 宋の太祖は天下統一を望み、北に「北漢」を残すのみとなっていた。北漢の文武に乱れが生じていると聞きつけた太祖はみこしをあげると、潘仁美をもって監軍となし、高懐徳をもって先鋒とし、十万の精兵を率いて北漢に攻め込んだのだった。 もちろん北漢もだまっているわけではない君主劉鈞は迎え撃つ体制を整えた。趙遂を行軍都部署に任じ、劉雄・黄俊がそれぞれ正副の先鋒となった。五万の兵を揃え、宋の軍を防がんとしたのであった。しかし趙遂は大敗し、沢州に逃げ込んでしまった。劉鈞これを救援させようと白羽の矢を立てたのが山後の楊継業(楊令公)であった。楊業はその要請を受け入れ、長子の楊淵平に応州を守らせ、自らは兵を率い、晋陽に赴いたのであった。宋の太祖は周の世宗の部下だった時代楊令公の軍と戦い、やむなく兵を返したことがあった。 ゆえに彼の知謀を警戒していた。両軍ぶつかってみると宋の懐徳は破れ、楊令公により2将軍を失っでしまったのである。勢いに押された宋軍はここで楊令公に講和を申し込んだ。勝手な言い分だったが楊令公はこれを受け入れ宋軍は退却したのであった。

 宋の太祖は都に帰還後病を発病し北漢をとるべし、楊一族は手に入れるべし、との遺言を残し崩御した。次に即位したのが弟の太宗皇帝であった。 先の戦いの疲れもいえたころ宋の太宗皇帝は曹彬の「今が攻め時」の言を聞き、出陣の命を下したのであった。潘仁美を北路都招討使とし、高懐徳を正先鋒とし、呼延賛を副先鋒とし、八王を監軍に任じた。そして十万の精兵を率い、太宗みずから兵を率い、親征することとした。宋の兵は沢州を攻め下して後、進軍して接天関に至り、これも陥落させた。 北漢の劉鈞もこれに指をくわえて待っていたわけではない。使者を派遣して書面にて大遼に救援の兵を求め、同時に守りを固めさせたのであった。 遼の太后は北漢の求めに応じ、兵二万を率いて河東の救援に向かわせた。 しかし宋はこの遼の援軍をうち破ってしまう。 慌てたのが北漢、この急場を救ってくれる人物として嵩山に隠居している馬風に要請をかけます。しかし馬風は老人であるから断り、楊令公を使うべきと進言したのであった。 実は楊令公は先の講和を結んだことにより宋と結んでいるのではないかとの疑いの目が向けられており君主から避けられていた。しかしこの急場においてはそうも言っていられられないので詔書を送ったのであった。忠義の一族である彼らはこれに応じ楊令公は六人の子を連れ精兵三万を率いて、河東の救援に向かうこととした。 戦況は宋軍優勢の状況であったが楊令公軍が登場すると一変。宋軍は攻めあぐねることになってしまった。 宋の太宗は鬱々とした気分に浸っていたが八王はここは知略で攻めるしかないこと、反間の計をもちうべしと進言した。趙遂は北漢の劉主に寵愛されており彼に賄賂を送ることにより楊令公を除こうとしたのである。はたして趙遂は楊令公がこの地を私のものとせんと企んでいるとの流言を流し始めた。これを信じた劉鈞は厳しく問いただし楊令公を処断しようとした。あとは死しかない。行き場のなくなったとき宋側から誘いの使者がやってきた。宋につくかどうか悩んだ楊令公は家族に相談してみるとみな宋への帰順を支持した。宋は楊一族を厚遇をもって迎え入れ、かくして北漢は滅亡したのであった。

 さて、北漢との戦いは終わったものの、この河東の地は幽州を控え、遼が憂いとなっているため戦いの勢いをもったまま遠征しようという楊光美の意見と太原の論功行賞が行われずここは一旦都に帰還すべきだとの八王の意見がぶつかり協議のうえ北伐決行と決まった。太宗皇帝は「太原を離れ、遼の征伐に向かう」と宣言し、軍は幽州に向かって出発した。易州に着き軍は陣を構えた、易州を守備する者は、遼の刺史劉宇であった。彼はあっつさり投降。次に?州に軍を進めた?州を守る者は、遼の判官劉厚徳であったがこれも投降 宋はあっというまに2州を手に納めたのである。2州陥落に遼もてをこまねいてはいなかった蕭太后はすぐに耶律休哥を監軍とし、耶律奚底と耶律沙を正副の先鋒とし、五万の精兵を率いて迎え撃つように命令した。そして幽州の城下に陣が並んだ。宋軍は北を向き、遼軍は南を向く。両軍は激突したがお互いに猛将の戦いで勝敗は決しなかった。宋は全軍あげて再び攻撃を開始。激しいぶつかり合ののち遼の耶律休哥は、宋軍の動静を見きわめると、一隊の精兵を出して、宋軍の中心部を衝かせた。本陣を突かれた宋は崩壊し四散する。宋の皇帝太宗は単騎逃げていく。これを見た耶律休哥の部将である兀環奴・兀裡奚は、二騎でもって勢いに乗じて追いかけた。皇帝万事休すと思いきや楊家の楊延昭と楊七郎が奮戦し皇帝を守り抜いた。宋軍は八万から九万の兵を失い大惨敗、失った兵器や輜重は数知れなかった。易州や?州などこれまで宋に帰順した州は再び遼に服属した。ようするに遼の耶律休哥が宋を追い返したのである。宋軍は手痛い反撃をうけてすごすごと都に帰還した。

 時はたち遼では宋を撃つべしの声が挙がり蕭太后太后は命を下した。すなわち韓匡嗣を監軍とし、耶律休哥を救応とし、耶律沙を先鋒とし、精兵十万を率いて宋を討伐することにしたのである。さて遼兵は遂城に至り、城の西北に陣を構えた。遂城を守る者は、宋将の劉廷翰であった。宋は計略をもって遼を退けたが遂城は幽燕の要害の地であるあるため死守しなくてはならない。この援軍に出撃したのが楊一族であった。楊令公率いる宋軍と耶律休哥率いる両軍は激突。一騎打ちや計略といろいろいろあるので省略してとにかく宋が勝利する。遼の蕭太后は自軍が大敗したことにおおいに驚き敵将の名を訊ね『楊無敵』との称号を知る。この戦いからまた時がたち蕭太后は臣たちが遠征を望むことから、決意し命を下した。すなわち耶律休哥を監軍、耶律沙を先鋒とし出撃させたのである。 遼精兵十万は朔州・雲州などの諸州を経て征進した。 もちろん宋もこれをだまって放置するほど馬鹿ではない太宗は曹彬を幽州道行営前馬歩軍水陸都部署に任じ、招討使潘仁美・呼延賛・高懐徳らをその補佐とし、兵十五万を率い、遼国を征伐するととにした。またまた宋、遼の大群の二度目の激突となったのである。 宋と遼の戦いは長いので省略して宋は食料に困窮し軍は崩れ敗退してゆく。ようするにめちゃ負け。遼では耶律休哥は宋軍に大勝しこのむねを蕭太后に伝え南下して宋を攻略を望んだが。蕭太后は許さなかった。

 ところで宋の皇帝太宗は五台山の法要を行いたいと言い始め、臣下は遼に近いことから反対したが決行された。その護衛として代州刺史楊業の長子、楊淵平が指名されたのである。 五台山で法要を済ませた太宗は風景を観望する。五台山の風景は絶景であった。この時太宗は彼方に見える幽州の地に行くことを望んだ。八王は虜になることを恐れ諫めたががんと太宗は受けつけなかった。案の定、太宗のいる城は遼の兵で囲まれまさしく風前の灯火。 皇帝の危機に楊令公父子八人は、代州を離れて進軍し、?陽を望むところまで至った。 遼は計をもってあえて陣を退き楊軍を城内におびき入れこれを虜にしようとした。 遼の囲みからた皇帝を脱出させるべき手段は長子淵平を皇帝に変装させ弟二郎延定・三郎延輝・四郎延朗・五郎延徳ともども詐りの投降をし、その隙に楊令公と六郎延昭、七郎が守り皇帝を囲みの外に出すというものだった。 無事皇帝を脱出させたあと楊一族は果敢に遼と戦い全滅してしまう。 以上簡単に述べたがこれでも冒頭の部分である。



 この他「楊家府世代忠勇通俗演義志伝」というものを対比して紹介しようと思ったが長くなったので省略致します。内容は「北宋志伝」と微妙に違います。例えば楊令公が北漢に警戒されて軍を要請されなかったところなどは、通俗演義の場合は病気だったからと理由がなされている。どちらが好みかが読者次第でしょう。 本当は六朗の物語を紹介すべきなのであろうが、これで楊一族がどの様なものであるか輪郭はつかめたことであろう。
作品122
お詫び。
長い間800*600pixelの画面に漫画のサイズを合わせてきましたが、今回広いところに引っ越したさい表示を拡大いたしました。画面がずいぶん汚いのですがセリフが見やすくなったのでこれでまいります。この原稿は600dpiで原稿を作成し、データを軽くするため100dpiまで劣化させているためところどころ線が消えています。これに関しては今回ケント紙からスキャナで取り込む方式から直接タブレットでパソコン内に描き込む方式に変えたので、ベクター式の描画に変更すると改善されるでしょう。現在は慣れないのでラスター式の入力で描いているため線がぶれたり太さがまちまちですが、綺麗な線が描けるよう努力いたしますのでご容赦のほどを。


呼延灼将軍の鞭これは昔、横山光輝がロープ状に鞭を描いていたので長い間誤解していたが初めて図で確認したときはなるほどと思っちゃいました。連想したのが工事現場の鉄筋。 確かにこれでぶん殴られたら痛い。
ところでふと思ったのがこれで戦場で相手を殺すことができるのかという疑問。関勝の武器とか秦明の武器なんか切れなくても重さ勝負で鎧ごと簡単に相手の骨を砕いてしまうだろうが、呼延灼の武器は鞭ですからな。 そこである広告をおもいだした。それはゴムみたいな米国製だったか柔らかい棒。それによると柔らかいほうが人体がダメージを受けやすいとのことで、これを読んだ管理者は本当なのかと怪しんだ。
しかし中国武術の場合パンチを打ち込むさいべちょーと撃つので、以外とねちょーとした方が人体には悪いのかも。そういう意味で鎧の上からねちょーと鞭を打ち込む呼延灼の武器は効果あるのかもしれない。
ところでもう一つの誤解で管理者は魯智深は歩兵に分類されるので、馬に乗れないのかと思いこんでいたら、よく読んでみると馬に乗れたのです。気がつかなかったー。



さて水滸伝の作者は楊家将に影響を受けているということで紹介したが、今回は呼延灼について解説していこう。
呼延灼は呼延贊の子孫ということになっている。実はこの呼延贊も楊継業と同様、対遼の戦士なのである。
またまた対遼の戦士がご登場で水滸伝は彼らの子孫を登場させているといわけである。両者を比べると呼延贊の方が楊の場合より狂信的対遼の戦士といえるのかもしれない。
性格は情理がなく、奇怪な性格であったようだ。鎧に妙な装飾をしており皇帝がこれを嫌ったといわれている。全身に「真心をこめてキッタン人(遼)をぶっ殺す」(あるいは赤心殺賊)と入れ墨しており、家族にも顔にいれることを強要。皆が伏して願って女性には腕で勘弁したといわれる。モットーは「門を出れば国のため家を忘れ、陣に臨んでは主君のため死を忘れる」である。まあよく言えば報国の士である。本当変な人。

彼の先祖はもともとは北方民族の匈奴である。呼延贊は山西の太原の出身で軍人一家に生まれた北宋の軍事将校である。父は呼延?。後周の指揮使だった。 呼延贊も最初は低い地位だったが太祖に驍雄軍使に抜擢されると964年四川の後蜀をたたくため王全斌に従って従軍する。剣門にて彼は先鋒として活躍し、鉄騎軍指揮使となる。
979年北漢を平定するため宋軍遠征するも、敵は頑強に抵抗し太原は陥落しなかった。このとき呼延贊は果敢に敵陣に攻撃をしかけ、敵城に四度登り宋軍の志気ををあげた。かくして北漢は滅亡した。宋の太宗は北にある災いの遼を打倒すべく遠征を試みるも高梁河で大敗。 呼延贊は大将の崔翰戍とともに遼の防御として定州の防御を命じられる。
986年再び宋は遼打倒に軍を起こしたがまたまた大敗。流石に遼も怒ったのか今度は宋に進軍した。深、徳、その他次々の落とされる。この時呼延贊等は果敢に戦い遼兵を殺し雪辱をはらした。後、富州とか保州の長官を務めたりしている。 3代目真宗の時代、軍官抜擢のさい、みな自分の実績を並べ立てたが呼延贊は「国のため尽くしていない」とこれを求めず。1000年, 呼延贊は世を去った。
彼には4人の息子がおり、興、改、求、湿(さんずい除く)である。呼延灼がどの流れかは不明。 とまぁ。呼延贊について解説したが。「お国のために」てのが彼のスローガンで水滸伝の忠義の趣旨とぴったり合致しているのである。この呼延贊の歴史をみても施耐庵の趣向が分かるというものです。
史実の呼延贊はちょっと国粋馬鹿みたいな感じなので面白くないので、物語としての彼を次回紹介しよう。
作品123
 今回は解珍、解宝のご登場。
水滸伝では武松を筆頭に李逵、そして解珍、解宝が虎と戦うわけだが、やはり大陸は猛獣なんていて物騒なところだ。その点日本はオオカミ程度なので住みやすい所かもしれない。
住みやすいで連想するのは儒家の話。孔子だったか孟子だったか忘れたが、孔子が弟子を連れて旅をしたいたころ、彼らは虎が出没する危険な土地を通りかかった。ところがなんとそんなぶっそうな山奥に女性の人が一人住んでいたのであった。不思議に思った孔子は女性にその理由を尋ねると、昔は町に暮らしていたが、悪政にに苦しんでここに逃れてきたということだった。これを聴いた孔子は弟子に教え諭したのだった。悪政は虎よりも恐ろしいのだと。まあ、人は猛獣以上に悪質ということか。
解珍解宝の話でも虎を猫糞するのは毛親子、猫ばばとは猫が糞をしたあとに砂をかけ隠して素知らぬ振りをする様子から横領とか隠し事をして知らぬふりをすることに用いられるようになったが、毛親子の場合この猫ばばのモデルの猫(虎)を隠して知らぬふりをし、罪を解珍解宝になすりつけるから猫科以上に悪質である。 水滸伝ではこの話は祝荘に戦いの間に挿入されているので、物語が中断してしまい「あれ?」という感じがする。



 楊継業そして呼延贊など宋建国時代の英雄について解説してきた。 ここで施耐庵が楊家将の影響を受けており、その繋がりとして呼延贊の子孫を登場させていると述べたいことだが実はそう単純に結論づけるとこはできない。
というのも水滸伝の成立以前の水滸「宋江三十六人賛」の中にすでに呼延灼は存在するからである。ということは施耐庵個人が呼延贊を選択したというわけではないことになる。 宋江三十六人賛との比較からは林冲、公孫勝の新メンバー加入が施耐庵の発想ということになる。しかし水滸伝のメンバーの好みが宋開国時の遼との戦いの英雄を特別視していることから、施耐庵のみならず歴代の作者たちが同じような国粋的な思想をもっていた可能性もある。施耐庵はそれを継続させたということかもしれない。

 呼延灼は元36人の水滸メンバーにすでにいることから、遼を意識して選抜であり施耐庵の単に趣向であったと結論づけるとこは難しい。そこで逆説的に同等以上の武将で外された武将を見ていきたい。 注目すべきなのが孫立。奇妙なことに36人から外されているのである。(もちろん他に杜遷や晁蓋も外されているが。)
何故呼延灼が残り孫立が何故36人のメンバーから外されたのか。 普通に考えたら不思議なのだ。

 何故かというと歴史からいって宋の呼延贊なんかより唐の尉遅敬徳がすごいはずなのだが。 しかもだ呼延贊の場合残るだけでなく五虎将の一人になっているのである。 中国では呼延贊のほうが尉遅敬徳より人気があると考えていいのだろうか。 これは完全に施耐庵の趣向の問題と考えられる。例えば五虎将にいれてもおかしくない項羽などはかなり序列が低い。 そこでなんでこうなのかちょいと考えてみた。

1,水滸伝は対遼を意識したもであるため、武将が作者の遼討伐の目的から離れていること。
その点が呼延灼との序列差となっている。これは呼延灼が対遼の戦士だからである。かたや尉遅敬徳は能力もあり有名だが、目的に合致しない武将であること。 そうでなかったら管理者が作成するとするなら呼延灼よりの唐の尉遅敬徳や秦叔宝を五虎将の中にいれているはずである。ついでに項羽もくわえてよりゴージャスなメンバーとなるはずである。 しかし、元水滸では単なる普通の柴進が施耐庵の水滸伝では周の柴栄の子孫に格上げしていることから分かるように施耐庵が遼を意識しているので呼延贊が上になり36人に残り、尉遅敬徳は外されたということだろう。

2,これは多分あり得ないが、施耐庵が隋、唐が純粋な中国王朝で無かったことを理解していたということ。
これについては作品102の解説に述べたのでそちらを参照いただくとして。もし施耐庵がこれを知っていたら36人から外すのは当たり前。尉遅敬徳や秦叔宝がどんなにすごい武将だったとしても、唐の武将は外国人つまり中国人でないため必然的にこうなる。むしろむしろ彼らは打倒する敵である遼に近いのである。 かくして108人から完全抹消させてもいい存在だが、元水滸では36人の中に入るため兄弟共々残したということになるのかもしれない。

ちょいと書くつもりが長くなったので物語り呼延贊は次回に繰り越し。
作品124
 武松の話、ここは一人の話としてはずいぶん長い。そのためか横山光輝の漫画ではカットされ、その後追加されたりなんかしている。北方謙三作水滸伝ではなんと武松が潘金蓮を好きになってしまう。管理者としてはなんてことしやがるんだこの野郎といったところだ。 そんなわけでこの漫画では思う存分、悪女ぶりを発揮させたもらった。
水滸伝ではそのほか閻婆惜、白秀英、潘功雲、劉婦人、李瑞蘭など悪女が登場するが、自分の亭主を殺っちまうことなどから、水滸悪女NO1の称号を与えちゃいます。 一応解説までにこの漫画では潘金蓮が「これであの人と一緒になれるわ」と呟きますが、あの人とは不倫相手の「西門慶」のことである。しかしこの一緒になれるというセリフは皮肉なセリフであって一緒の運命だったのは潘功雲とであった。潘金蓮も潘功雲も最後はらわたを掻き出され無惨な最後をとげるのであった。(潘功雲については作品43を参照。)というわけで落ちのあのひとは潘功雲ということになる。


 水滸伝を楽しんで読むには関連した英雄の物語を知るのが一番でしょう。例えば遼遠征でラスボスの息子「兀顔延寿」を呼延灼が生け捕るシーンなどは、おっ!先祖呼延贊の得意技でなないかと拍手喝采となっちゃうわけです。ちなみに呼延贊ですが彼は名乗りでこの様に言っています「それがし相国の子で、姓は複姓で呼延、名を贊と申します。」こうい風に切って読みましょう。それでは呼延贊の物語といっちゃいます。 もちろんこれは物語で史実でありません。ねんのため。



 北漢国の主・劉鈞は宋国が強大になりつつあるのでこれにどう対応すべきか協議を重ねていた。呼延廷は進み出て戦力差は明らかなれば無益な戦いはやめ降伏することを提案すると、文官の欧陽?が徹底抗戦を主張し呼延廷を斬首すべきと唱えた。 会議は欧陽?ぼ提案が採用されはしたものの呼延廷は斬首を許され、そのかわり官職を剥奪し、庶人として郷里に帰るよう命じられたのである。 しかし、欧陽?は呼延廷をこれで許したわけではなかった。側近の張青と李得を呼びつけて数百名を連れ呼延廷を殺害するように命したのであった。

 家財道具一式荷馬車につめ一族は一行は夕暮れに石山駅に到着した。 そこに突然盗賊の群、一家を襲う。 実はこの盗賊は張青と李得であり、二人は呼延廷の一族老若男女を皆殺しにしてしまったのである。この阿鼻叫喚の中ただ一人助かったのは呼延廷の側室であった劉氏であった。 劉氏はこの強盗が欧陽?の部下の者たちであると知ることになるが、運命は皮肉なもの本物の盗賊がこの後登場し身を救われることになるのだった。 盗賊の名は馬忠。幼子を連れた劉氏を不憫に思った彼は別荘に住むことを許し、自らは山寨に戻っていった。劉氏は何時の日か主人の仇に報いるべく、子供を養い育てた。

 月が立ちその幼子は成長し文武を修め唐の尉遅敬徳のような容貌の若者に成長した。 山賊の馬忠はたいそう気に入り、若者に馬贊と名乗らせた。 馬贊は山賊の馬忠を父親だと思いこんでいたが、ある日のこと欧陽?を讃える石碑を見ることになる。石碑に憤慨する父を不思議に思った馬贊はその理由を尋ねると、昔、呼延廷の一族を皆殺しにした事件があった。それを命じたのがこの男である。詳しくは母親に尋ねよと言った。 家に帰ると馬贊は母親の劉氏に問いただすと、実は馬忠は父親でなく育ての親であり、真の父親は呼延廷であり欧陽?によって皆殺しになったと答えたのである。 愕然とする呼延贊(馬贊)。しかしこれで復讐の念が燃え上がる。

 復讐の手だてはないものか思案中、馬忠の義兄弟の耿忠が奪った名馬「烏龍馬」を連れてやった来た。そこでこの名馬を献上という名目で欧陽?に近づき復讐を果たすという作戦を立案したのであった。作戦は半ば成功し名馬もさることながら呼延贊の風貌に気に入った欧陽?は身近に仕えること許したのである。
ある日復讐の日はやってきたかのように見えた、欧陽?は書斎で酔いつぶれていた。 今こそと忍び寄る呼延贊。しかし人が来て断念することとなる。 しかし運命の皮肉か北漢では欧陽?の罪を弾劾する事件が起こった。北漢主劉鈞は、欧陽?より丞相の職を剥奪し低い地位にしようとしたが欧陽?は上書して辞職し、郷里に帰らんことを願った。かくして呼延廷同様一族を引き連れ郷里に帰省したのであった。もちろんこの中に呼延贊の姿もあったのである。
時節到来、呼延贊は欧陽?の喉をカッ切るとその一族40名を皆殺しにした。 そして血で四句の文字を玄関に書き記したのであった。

 我が家に帰り着くと仇を報じたことに母親の劉氏は大喜び、しかし育ての親の馬忠は玄関に記した文字により北漢主が怒り一族に危険が及ぶことを危惧し、呼延贊に二人の叔父、耿忠・耿亮の賀蘭山に逃れるよう命じたのである。 このまま呼延贊は山寨の第三位の位に就くことになり山賊家業へ突入。
呼延贊は武勇に優れ官舎を襲撃するに際しては無敵であった。 ある日呼延贊は絳州を兵3千にて襲うことを提案した。耿忠は張公瑾が守っているので止めたが呼延贊が自信満々なので許し兵を貸し与えた。
呼延贊と張公瑾は一騎打ちを演じたが猛虎が相打つに似て、勝敗がつかなかった。 結局、張公瑾の誘いの手にひっかかって呼延贊大半の兵を失い、単身逃れることとなった。 ところがこの逃れる途中、運悪く待ち伏せしていた山賊に捕まってしまうのである。

 山賊は太行山の馬坤であった。彼は呼延賛を絳州に送り、官府から褒美をもらおうと部下に護送させた。ところが脱走してきた第八寨の主である李建忠がたまたまそこ出くわし、呼延贊を助けると自分の山寨に招いた。李建忠が留守の間柳雄玉が第八寨を治めていたが第六寨主の羅清に毎年上納金をせびられるしまつになっていた。 果たして、また羅清がやってきたが、救われた恩義を返すべく呼延贊はこれを蹴散らしてしまった。続いて第五寨主の張吉が攻めてくるがこれも突き殺してしまう。

 これに太行山の馬坤は驚き兵を差し向けた。馬華が攻めるも呼延贊に生け捕られ、続いて馬栄は金鞭で打ち据えられ、馬坤の娘金頭馬氏もどうすることもできなかった。 馬坤が攻めあぐねていると、そこにやってきたのは第一寨主の馬忠であった。
馬坤と馬忠は義兄弟の関係であった。そこで馬忠は呼延贊を説得させるとこになったのである。突然、養父と母親が現れたのには呼延贊も吃驚。かくして馬坤との間も円満に解決した。

 ここで馬坤の娘である武芸で優れた金頭娘との縁組みがきまる。例によって花嫁の武芸による品定めの試合がある。 ところが事態は急変、馬坤は自分の息子を連れて本国に帰ってしまう。呼延贊は李建忠ともども太行山の山寨をまかされることになったのである。


 さて、宋の太祖が北漢に遠征し楊継業の活躍により平定することができず帰還していたところその行く手を阻む一団が現れた。 このものこそ太行山の呼延贊であった。宋の潘昭亮は激怒し呼延贊と戦ったが、剛鞭で撃ち殺されてしまった。続く宋の将楊延漢は手取りにされてしまう。
この時潘昭亮の父、「潘仁美」は息子を殺されたことを恨み、以降呼延贊に恨みを抱きことにつけ仇をなすことになるのであった。こうなると宋も党進がい出て戦うもまたしても手取られてしまう。この様な所にこの様な強者が何故いるのだと最後は高懐徳が呼延贊と戦うも勝負がつかなかった。この様に宋の太祖は陣前に兵を引き連れやってきて戦いをやめさせると呼延贊に問う。 呼延贊は鎧甲に弓を頂戴したいだけ、再び北漢を攻められるときはお手伝いいたしましょう。と答えたのだった。 これに太祖は同意し武具一式を与えると都に帰還したのだった。

 この後、太祖は崩御し太宗皇帝が即位した。太祖は先帝は崩御するにあたって、太行山の李建忠・呼延贊の両名について召し抱えるように遺言をしていたので使者を使わして招くことにした。しかし、太行山は河東の目と鼻の先、ここを手薄にしては後々憂いとなるので李建忠は太行山を守り、呼延贊のみが都に上ることになった。
呼延贊は大歓迎を受けるのだがここには息子を殺された潘仁美がおり、画策をしてゆく。 呼延贊の配属になったところは傾きかけぼろぼろで草ぼうぼうの庁舎、さらに兵は廃残老弱の兵のばかりであった。さらに元盗賊であったものが将となった場合、棒たたきによって戒めとする掟があると称し呼延贊を打ち据えたのであった。
棒たたきの刑で瀕死の状態であった呼延贊は薬を得て命を取りとめるも、このままここにいると潘仁美の奸計により殺されかねないと夫婦ともども太行山に帰っていったのであった。

 耿忠おりしも訪れてきてこのことを知ると怒り、えん罪をはらすため懐州の城を包囲することを提案した。耿忠と呼延贊は懐州府に軍を進め、その城郭を包囲しえん罪をはらすことをもとめた。これは都の太宗皇帝の耳にもとどき、勝手な刑罰をしたのかときつく潘仁美を叱り、呼延贊を許し招き呼ぶこととした。
かくして再び呼延贊は妻を伴いて都へと赴いたのであった。さてここで太宗は呼延贊の武芸のほどを見たく、武芸を演じさせようとした。これに潘仁美は演武を理由に密かに呼延贊殺害をもくろんだ。しかしこれに八王が気が付きこれは阻止された。 やがて演武が始まると呼延贊は金鞭にて鮮やかに相手をうち倒したのであった。

 ある日のこと太宗は太廟に詣でることにした。このとき諸臣は起居碑を立てることとなっていたが事情のわからぬ呼延贊はそれをしない。これは無礼なことであったので、早速 潘仁美は呼延贊を処刑しようとした。ところがこれを見た八王が帝に奏上し放免を許された。呼延贊が家に帰ってみると妻は夫が処刑されたと思いこみ太行山に帰っていってしまったいた。

 ついに宋の太宗は北漢を倒すべく軍出立させた。呼延贊は副先鋒であったが、潘仁美の嫌がらせで老弱の兵があてがわれた。しかし高懐徳がこれでは先鋒が務まるはずないと潘仁美にくってかかると、やもうえず精悍な兵をわりあたえた。 宋軍がそのまま進軍するとやがて行く手を阻む一団があらわれた。太行山の面々であった。
呼延贊が処刑さてたと思いこんでいた妻の馬氏は太行山に帰ると、このことを仲間に伝え 太行山の面々が復讐に燃え宋軍の到着を待ちかまえていたというわけである。 呼延贊が姿を現すと全員拍子抜け、ともども宋軍の北漢遠征に加わることになった。 ここに太行山の山賊野郎の面々は宋軍として大活躍。

話が長くなったので太行山が合流したところでこの解説は終了。 このあと、北漢討伐、遼遠征と呼延贊話は続くがこれまで。
作品125
 魯智深と楊志は同じ「関西」生まれ。大阪弁に吹き替えみると以外と面白いかも。もっとも本当は中国の関西なのが残念。二人は意気投合して二竜山を乗っ取るのだが、?竜が魯智深の入山を拒んだのも分からぬことではない。なんたって強すぎるだよなあ。 楊志についても、どういう人なんだというのがあって、金もないのに飯屋で無銭飲食を平気でやり文句あるのか?というような態度をとっている。 曹正は以外や以外林冲の弟子で二竜山強奪作戦にて棒を振り回している。
水滸伝の最初のほうを描くとどうしても魯智深や楊志を描くことが多くなるのは困ったことだ。もっと108人を均等に登場させてあげたいものだが、なかなか難しいかぎりである。かといって「宣和遺事」のように楊志がめぼしい軍人集団をつれて山に籠もってしまうのも強力な軍事集団が早々と集まりすぎて面白くないので小集団が形成されたほうがお話としては面白い。
それにしたも梁山泊より二竜山が早く強奪されたのにも関わらず、その後大きく発展しなかつたのは、立地条件の問題であろうか、そんなに湿地帯が有利とは思えないのだが。


 さて水滸伝が北宋の英雄を下地に作成されてきたことはだいたいお分かりになられたことだろう。まあ、大抵の作者は他の人の作品に影響されて、自分もこんな風な作品を作成してみたいという動機で描き始めるということは多いはずだろう。 同様に水滸伝の作者も様々な話の英雄豪傑を集めて遼遠征の物語を作成したかったということである。
水滸伝の場合はその選定した登場人物がダークな人たちであったというのが、他の作品とちがっているところである。だからといって水滸伝が常識から逸脱しているというわけでなく、反社会的な人々を喝采して迎える態度は今日でも同様なものである。それは漫画や映画においてやくざや不良という人物がたびたび登場するとこでお分かりであろう。 読者はそのような者たちがとんでもない人物だとわかっていながら、魅力的に感じるのである。

 施耐庵の影響を受けたのは北宋の英雄がベースになっているが、もう一つ影響を受けているのが三国志である。108人中では関羽の関勝、朱仝、張飛の林冲、諸葛亮の呉用、呂布の呂方、関索の楊雄などがそのイメージするところである。
たとえば呉用の道号は加亮となっており、智恵のほどを示すたとえとして謀略は諸葛亮を欺くとしてしている。正直なところ諸葛亮がどこがすごいのさという感じで、彼がやったことですごいのは呉から土地を租借しておきながら、なんだかんだと理由をつけては占拠していたことか。三国志ファンならば諸葛亮を引き合いにだした譬えは呉用の智恵の高さを示すバロメータになろうが、これも施耐庵が三国志のファンであるからこその表現である。

 次に108人の軍人の序列に1位関勝(関羽)2位林冲(張飛)と据えたことである。 この二人は梁山泊の十八番、九宮八卦の陣の右翼と左翼を任されている。 実力関係も三国志に合わせているのか、関勝>林冲の関係に描いてある。(例;関勝VS林冲+秦明) 林冲については施耐庵の全くの創作で、もともとの「宋江三十六人賛」には存在しない。風貌も豹の様な頭、目はぎょろっとしていて、顎はえらがはっており、虎の鬚をしている。 簡単にいうと張飛顔。
関勝はもともといた存在であったので施耐庵は三国志の要素を強めるため、林冲を創作し武将での2位の地位を与え双璧としたのではないだろうか。このことでもしかしたら杜遷が36人から外された可能性もある。 その追加挿入された林冲があたかも主人公であるかのように成長してしまったのは作者の予想外のことであったのだろう。

 ともかく水滸伝主力の双璧として二人がいることは施耐庵三国志ファンであることの現れである。 ところで、普段であればここで三国志なるのもを解説するところであるが、あまりにも有名なので省略いたします。 簡単にいうとお馬鹿な漢民族が内乱を繰り返し、国土を疲弊させ、異民族の支配を受ける土壌を作った物語である。
作品126
 初期の段階の梁山泊の大遠征といえば宋江救出の江州遠征である。 史進を救出するために黄河を遡り華州に進軍したときも大変だが、江州もこれに引けを取らないほど大遠征といえる。
なんたって黄河の下流から上流にいくのとは違ってずーっと南の揚子江中流域なので、まるで水滸伝の本来の舞台からかなり離れている。 途中大都市南京(揚子江の南京でない)を突っ切らなくてはならないのでおっかなびっくり。もっともこの時期の梁山泊は数千人の人員だったので、実際に遠征したのはさらに少人数だったに違いなく、このことゆえに官兵に見つかることなく変装して江州に到達できたものと思われる。
この遠征での大収穫は水軍のほとんどの頭領を増やすことができたことである。以降、梁山泊軍は軍人あがりの騎兵を中心として編成していくので水軍は彼らで終わりとなる。管理者の希望としては水軍の軍人さんもお仲間にいれてほしかったな。
もっとも、騎馬の戦いが中心の遼遠征では水軍の活躍の場面がないのでこれで打ち止めなのはしかたがないことである。 この江州事件で宋江は娑婆への復帰の道を絶たれ、自己の使命というか運命に従い梁山泊を牽引していくことになるのであった。。




 今回は人食いの話になってしまったが、多分古今東西の水滸漫画で人食いを漫画化してしまったのは「水滸で釣り」が初めてなのでないかと自負している。 実は横山光輝が水滸伝を描いた際不道徳な部分はカットしたと述べていたので、誰か描いてくれないかと望んでいたのだった。結局自分で描く羽目になってしまったが、実はこのために漫画をギャグにしていたという理由があったのである。 ついに描いてしまったわけだが、孫二娘の肉団子や李逵のおやつもあることだし今後も登場します。
水滸伝の魅力はこの不道徳さ。中国の生々しい姿がそのまま描かれていることにある。 まさしく異文化。これを野蛮といってはいけない。 その非難は犬を食する韓国の人に対する評価と同じようなものである。(日本人も古代犬を食用の家畜にしていたが)

 ところで銀河英雄伝説の田中芳樹さんが「中国で人食いというものがあるが、これは戦乱とか飢饉になってしょうがなく食べていたもので、普通に食していたわけでない」と申されていた。まあ文学の大家はさすが管理者の思いもよらぬ結論を導き出されている。 管理者は大家のように知識はないが一応これについて解説しよう。 もちろん発言の趣旨は大家とまるで反対になってしまうが。


 元代末、陶宗儀という人物が松江で晴耕雨読の生活をしていたとき「南村輟耕録(てつこうろく)」という書物を書き上げている。他に彼の著作として「書史会要」「四書備遺」などがある。この輟耕録に当時の世相のことを書き記している。例えば纏足についても、彼は五代以降はやったもので、変な習慣になったしまったと述べている。
もちろん今回の題材の「人食い」も記載している。元代末、戦乱が起きて淮水の上流(梁山泊の南)では兵士が好んで人を食っており、小児を上等の肉、ついで婦人、下等なのが男子の肉だそうで、大鍋で煮るか切り裂いて刺身をひたすなどしていた。男は両足だけを切り取り、女は乳房を切り分けていたそうである。陶宗儀は乱戦非常の際は人食いありえることかもしれないが平和なとき食が満たされているにもかかわらず日常的に人食いが行われているのは人性をもたぬことのであり、けしからんことであると述べている。

張サクの「朝野瞼載」では唐代、杭州臨安の尉、薛震は好んで人を食い奴隷なんかがくると殺して煮た。最後は妻に手をだし、妻が訴えたので勅令により処刑された。

段成式の「西陽雑爼」では李カクが知事を務めていたとき、人を食っていた7人の盗賊を捕まえた。

「廬氏雑説」では張茂昭は節度使となると、さかんに人肉を食らった。彼曰く「人肉は生臭くしこしこしている」

「五代史」では萇従カンは肉屋の出身で上将軍まで出世した。節度使だったとき好んで人を食い、密かに民間人の小児をさらって食べていた。張思カンは人の肝を好んで食っていた。

「三国志」では呉の将軍の高レイは人を殺して血を飲むのを好んだ。吸血鬼じゃん。 しかも日暮れになると通行人を襲っては食った。

宋季裕の「ケイ肋編」では金が中国に侵入したとき、兵士のみならず平民も人を食った。

趙与時の「賓退録」では王継勲は召使いが気にくわないと殺して食っていた。最後は処刑される。知事の林千之は人食いであったので島流しになった。

 とまあ中国のものを読むとたびたび人食いは登場する。 あの思想書の荘子の中ですら人食いの人物が登場してにぎやかだ。十八史略の中では城攻めで持ちこたえられなくなったとき后みずからシチューになったので、兵士の気力が増し持ちこたえたという美談?があるように人食いは中国文化のそのものと理解したほうが良いのかもしれない。
作品127
 九紋竜史進は108人の一番最初に登場し、林冲や魯智深とともになじみの深いキャラクターである。
最初に登場するので印象深いが以外とその最後は知らないことが多いのではないだろうか。この漫画にあるようにホウ万春に射殺されてしまうのであった。まったくあっけない最後だが、ショックなのがここで一度に小華山のメンバーが朱武を残して全員射殺されてしまうことである。
方臘との戦いも終盤戦にさしかかりここで主要なメンバーを殺してしまわないと後は病気で処理してしまわなくてはならないので、作者は一気に殺してしまったのであろう。石秀なんかももっとその名の通り無鉄砲なことをして亡くなってほしかったのは管理者だけだろうか。
今回の漫画で登場人物が話題にしているのは孫立の馬術のこと。 これは彼があだ名が病尉遅にあるように尉遅敬徳のように馬術に優れた武将であるということである。
 彼の馬術のほどが良く表されるのが遼との戦いにおいて敵将寇鎮遠をうち倒したところであろう。水滸で釣りでは作品37に描いている。 敵将寇鎮遠も孫立が背後から狙った矢を音で察知しこれを素手でとらえるなどすごい男だが、孫立も寇鎮遠の放った矢を身を振ってかわし、やられたふりをして敵を油断させるなど馬術のうでは相当なものだ。この場面で孫立の尉遅敬徳と称されるのもわかるようである。
ところで史進だが武芸十八般の称するが矢をよける能力はなさそうだ。確かに王進の短期武芸講座では全てを完璧に修得するのは無理というものだろう。


 さて水滸伝を楽しむ上で、主人公のモデルとなった歴史上の人物を知るということは必要なことである。これまで呼延贊と楊継業について解説してきたがこれで呼延灼と楊志の立ち位置がお分かりのことだろう。
孫立についても尉遅敬徳について知ると、技などが彼をモデルにしているのが分かる。 尉遅敬徳はもうご存じであろうが知らない方のために、彼はおそらく中国最強の戦士である。唐の時代の武将で門神(仁王みたいに門に立つ魔を払う像)として祀られている。

 彼のことを述べるまえに彼の生きた時代「唐」代についておさらいしておこう。
以前に述べたが「唐」とは漢民族国家ではない。唐王室の前身は鮮卑拓跋部である。(鮮卑は遼河の平原から北にかけていたひとたち)北魏、隋、唐は拓跋による連続した国家なのである。(通常の史観では北魏のみを異民族とする)
世界帝国はモンゴルが有名だが唐の誕生以前ユーラシアのど真ん中にテュルク帝国(突厥)が存在した。東はマンチェリア、西はビザンチンの北、南はヒンズークシュの広大な領土をもっていた。(このころ北斉と北周は属国であった)しかし突厥は東西に分裂することとなる。ローマ帝国みたいなものか。
最大勢力のテュルク帝国が分裂騒ぎで混乱のなか拓跋部は次第に勢力を拡大してゆく。中国を統一したのは隋、しかしこれも突厥の騎馬軍団に支えられた唐によって滅ぼされる。
唐も突厥の属国であったが、突厥配下が独立運動を始めると唐は彼らを懐柔し自らをカガン(遊牧民の王)と呼ばせた。何故に中国の皇帝である李世民にそんまねができたかというと系譜において鮮卑拓跋部であり遊牧の皇帝でもおかしくなかったのである。 現代でいえばアメリカ大統領オバマみたいなものか。黒人の大統領ということで黒人からも支持を得ているかもしれないが、純粋かといえばそうでもないのである。
 というわけで唐の王朝も遊牧国家といえるし農耕国家ともいえる不思議な存在に出来上がったわけである。 まあこんな具合に唐は勢力を拡大していくのであるが、作品解説36?(唐代の詳細な軍構成について解説しそこなっているかも)で述べたがこの時代は軍編成において騎馬の比率が異常に高かったのはこの様な理由による。
さて西突厥はどうなっていたかというと、こちらも大分裂。この機に乗じて唐は混成軍を率いて遠征し版図を拡大する。おりしもイスラム勢力が拡大し、ササン朝は滅亡していた。ササン朝の彼らが各地、中国などに亡命し移住した。唐が西方の異文化の香りがするのはこの様な理由からである。唐の版図の拡大の陰にはテュルク帝国の混乱と滅亡があったことを知るべきである。
尉遅敬徳はこんな時代の人物なのである。従って彼が漢民族であってくれと期待してはいけない。唐の時代は西方からの移民やあって民族色豊かなんである。だいいいち楊貴妃の時に登場する安録山なんて中国人じゃないんですから。

 尉遅敬徳。姓は尉遅で、名は恭。 最初は隋に属していたが、反乱ののち唐につく。以降唐の李世民の重臣となる。 様々な戦いがあるがここは長くなるので省略するとして、突厥の進入に少人数でうち破り高麗との戦いに反対したが従軍し、引退後は仙道修行に打ち込んだといわれている。

 ここでは彼の武芸のほどを紹介しよう。
尉遅敬徳の戦いぶりは単身敵に突入するというもの。槍を巧みにかわすもので、だれも彼に傷を負わせることができなかったと言われる。その技は巧みに敵の槍を奪い取り、その武器をもって相手を刺し殺したりできるすごいものであった。
李元吉との試合にては、王は刃付きの武器、尉遅は刃を除いたものであったが、李元吉は最後まで当てることはできなかった。 しかもあっという間に李元吉は槍を奪われ、三本の槍を失ったと言われる。
弓についても、敵斥候と遭遇したときであったが尉遅敬徳は追跡の騎兵がくるとこれを射た。百発百中、来るたびに敵が倒される。かくして十人以上殺し。これを恐れて追跡する者はいなかったそうな。
突撃でいうと 敬徳は三騎で敵陣に向かい、敵将を捕らえ、その馬を奪って帰ったが、敵に対抗できるものはなかった。 とまあこんな感じの武将である。
呼延贊の物語にも夢で登場し彼に敵を素手で捕らえる技を伝授する。
作品128
 108人の仲間が勢揃いしたある日、宋江はおもむろに「私は山東の田舎者で都に行ったことがない。そこで東京の燈籠見物をしたい」と言い出した。 まあ、現代でも「東京ディズニーランドに行きたいよ」とのがあるので、分からないでもない。でも良く大丈夫だったものだ。 皇帝のお忍びと遭遇する機会もあったが、結局李逵の大暴れで破綻してしまう。


 東京はtokyoと字が同じなので変な感じがするが「とうけい」と読みます。別な表現では開封あるいはベン京である。北宋の時代、丁度水滸伝の時代隆盛を極めた首都なのだが、不夜城といわれるぐらい活気にみちていたそうな。
以前解説したように、都市のあり方は唐以前の「政治としての首都」から五代以降の「経済の中心としての首都」としての変化があり、このベン梁に定められた首都はその典型的なものであった。つまり隋、唐を通じての運河の構築などにより水運が発達し、運河周辺が発展してくると内陸部に首都を定めるより交通の要所に首都を持ってきた方がいいと気が付くようになり平野部に都が定められるようになった。それまでは内陸部まで大変な労力を使って輸送していたが、水運の交差点に中心を定めると物資が大量に早く輸送できる都合の良さがあったのである。 東西南北の水運の交差点であるベン梁の地に都があれば当然賑やかになるのは当然。どんどんと都市は誇大化し城塞がどんどん拡張していった。ただしいいことずくめではなくて交通の便と引き替えに都市の防衛能力は低下することとなる。 しかしだ宋の時代は遼との講和条約により西夏は残っていたものの平和な時代が続き、あまり問題とはいえない。 と言うわけでこの頃の城塞は都市の発展し従って随時拡張したもので整然とした形をしていない。 水滸伝はこの運河周辺の平野部を舞台にした物語で彼らが山賊でなく「草寇」であることなどからしても水運による活発な経済活動をしていたところが舞台であることがよくわかる。


 ところでこの宋の華やかだった東京の姿を作者施耐庵は想像で書き上げたのだろうか。 彼の時代は明の時代このころはすでにかつての華やかだった面影はなくなっているだろうし、彼自身その地にいったこともない可能性も大なのである。 では彼の記述は完全に空想の産物かというとそうともい言えないところがあるのである。 世の中は良くしたものでこの宋の都に関する書があったのである。
「東京夢華録」なるものがそれである。著者は孟元老なる人物が水滸伝の時代だった東京の様子を事細かに書き記しているのである。著者はどういう人物か分かっていない、文体が下手なことと宮中のことが曖昧なのであまり身分の高い人物ではないと推察されている。 この書がかかれた由縁は 宋は金に攻め込まれ華やかだった東京を捨て遙か南の地に人々が移り住むしかなかった。そして臨安の都を定め人々は移り住んだのである。昔を懐かしむ思いが臨安という東京のコピーを作り出したのである。 東京の面影を知る者は北の都を懐かしみ、思いでとしてこのような書の中に復活させたのである。東京夢華録は東京についてこと細かく記載されているので、これを読むと宋の時代の都が華やかだったことを想像できる。
たとえば 東の通りの北は潘楼酒店でその下では午後四時から市が立ち衣類、書画などを売買した。 都には正酒店が72戸あり、そのほかは脚店とよばれるものが無数にあった。 店の中を巡り回り注文をもらい間違うことは許されない。東京の荷車は太平と呼び数トンの荷を積載できた。飲食物を売る者の食器は綺麗に整われいい加減でなかった。乞食でさえ決まったみなりをしていた。人情篤くよそ者が虐められるとみんなでかばった。 など多種多様である。
こんな風に細かく記述したあるので施耐庵もこの書を参考に水滸伝の東京を思い描いたにちがいないと思われる。

 ここでは東京夢華録の季節の行事より水滸伝に関係ある箇所を紹介しておこう。 東京夢華録では正月から記載されているが、水滸伝で宋江等一行が東京に燈籠見物にいったのは正月15日の「元宵節」でありここの様子を語るのがこの解説としては一番マッチしているだろう。(ただし、長くなるので省略して書きます)
元宵節には開封府が正門の向かいに屋台を組み立てると、見物人がぞくぞく集まってくる。 奇術師、歌舞、雑伎がひしめき合い音楽は十里も鳴り響く。 綱渡り、高い竿に上る者、鉄剣を飲むもの、八卦見、猿芝居、刃渡り、雑劇、などなど珍しいものであふれる。 7日には朝廷に新年の祝賀に訪れた諸国の使者が帰るとき五色の絹がかけられ豪華絢爛だが、町の薬売りや八卦見たちも色絹を並べ立てるのであった。宣徳門までの大通りには百丈の茨盆があり中で楽隊が演奏している。またこの中に数丈の高さの竿に色布が巻き付けてある。これに張り子で作られた像が繋がれており、これが風に揺られてさながら空を飛ぶようである。宣徳門の左右にある楼には丸い大燈籠が提げられている。 楼の下は欄干に色絹を巻いており、華をさした冠を被った近衛兵が立つ。 こんな中を宋江一行は町を散策したのだ。李逵がなんだかんだと付いていきたかったもの分かるような気がする。


 おまけとして3月上旬の「清明節」について書いちゃおう。 この日、粉で団子を作り柳の枝に串刺しにして門に刺す。十五歳に成った少女たちはこの日成人式をとりおこなう。新仏のある家は墓参りに郊外に出かけて行く。 郊外ではこれを目当てに紙に描かれた神像を売る者があり、市場のようになる。 そしてあちらこちらで酒盛りをやり踊り子も歌い踊る。 この節句の間には城内では糖汁や乳製品を売る。 また禁軍が隊列を組んで馬に乗って軍楽を演奏しながら四方に向かうので見物である。 東京夢華録はこんな調子で描いてあるので当時の風俗や町の様子をよく分かるので、水滸伝と一緒にすると結構面白い。
作品129
 張横、張順兄弟を比べるとどうしても弟のほうが目立つのは、物語の主人公度にによるものであろう。宋江が背中に出来物ができて名医の安道全を連れてくるまでのお話は張順中心である。ここで彼は船で不覚にも追い剥ぎに遭い、紐でくくられたまま河に投げ込まれるのであった。普通はここで溺れ死ぬところなんだろうが、張順は水練に秀でていたのでそのまま泳いで難を逃れ難を逃れるのであった。
ここを読んだだけでも目立つのだが、一番はじめの登場場面では李逵との格闘をやりはでな立ち回りをやってもおり、度々物語で主要メンバーとなるので印象に残りやすい。

 水滸伝が北方騎馬民族退治を前提とした物語でなかったら、かれは水軍の「軍人」として登場しそうなものだが、梁山泊の軍編成が陸軍中心なので水軍は予備部隊になってしまうのは仕方がないことだろう。
管理者の希望としては揚子江に水軍の軍船を率いたメンバーが敵船団と水上戦をやってほしいと願っている。もちろん水滸伝でも高キュウの大船団に水軍のゲリラ戦法で船を沈めているが、これでは作戦としてはOKだが面白くない。そもそもゲリラ戦は火力、兵力に劣るほうが地の利を最大に活用して対抗する戦法なのでこれで勝利しても愉快ではないのである。戦艦と戦艦がぶつかりあって絵になると言うものではないか。
水滸伝ではこの二つを描くチャンスがあった。一つは高キュウ戦、今ひとつは方臘戦である。しかし梁山泊は水軍の人材不足によりこれは果たされていない。

 今回の漫画では張順が追い剥ぎに遭うのだが、張順可哀想とは単純に思えないのである。 というのも張横も宋江を追い剥ぎしようとしたし、張順も昔は兄と共に共謀していたのである。いわば今回は人にしていたことを自分にされたようなものである。
張順の物語で読んでいてよく分からないのが、張順は殺人の罪を安道全になすりつけるところである。これは民族の感覚の違いというものなのであるのか管理者には意味不明だった。
だいたい、殺したのは安道全だと書き記したとしても、それが犯人イコール安道全であるとは断定しないのが普通なのではないろうか。 もちろん自己顕示欲が多い民族で自分が殺ったことを宣言する習慣があるとするなら、安道全が疑われても仕方ないことだが。 安道全のほうもこれにうろたえて張順に仕方なくついてゆくという全くその感覚がさっぱりわからないことである。



 さて、歴史上の英雄としての張順はいかがであったかというと、これまた北方民族モンゴルとの戦いでの戦士だったということである。
しかし名前が同じというだけで彼が水滸伝の張順の原型であったと断定するには、少々証拠不足も否めないがここは紹介しておこう。 それは歴史上の方臘との戦いにおいて宋江成る人物が存在すると同様の希薄さである。
中国の軍事史において彼の名前が登場するのは南宋の時代である。 彼は水滸伝の時代以前の歴史上の人物であったら、張順の子孫として登場することも可能であったのだろが、以降ともなるとそうもいかない。


 金を制圧したモンゴルの次の標的は南宋であった。1268年元は湖北の「襄陽」攻略にとりかかった。この地はいわば南宋の防波堤。ここを突破されると一気に長江を下って都に攻め上られてしまうのである。軍事の要所といったらいいだろう。
読者に分かりやすく三国志で説明すると、モンゴルを魏、南宋を呉と置き換えて見ていただくとよく分かるであろう。劉備のいた新野城は襄陽の近くであるし、その南の荊州とともに南下にあたりまず攻略しなくてはならない土地である。三国志では魏が南下し荊州をを落とし船団をもって呉に襲いかかろうというところで赤壁の戦いにて敗戦して退却したとなっている。(実際は疫病が流行ったので退却したと言われている。三国志の赤壁の戦いのモデルは元末期の長江の戦いである)つまり呉に勝利するパターンの魏がモンゴルであるということなのである。
この長江を下っていく起点となるのが「襄陽」なのである。もちろん南宋もここがマジノ線(国防の第一線)であることはよく分かっていて、さんざん抵抗をして5年の長きにわたりモンゴルの攻撃を跳ね返してきたのである。

 1271年4月南宋の軍事長官京湖制は防衛のために「李庭芝」を郢州に進駐させた。この時襄陽は5年にわたりモンゴル軍に包囲されきわめて不利な状況にあった。
襄陽の城内は武器も食料も尽きかけていて、何度も救助を求めたが宰相の賈似道が脚をひっぱっていることもあって叶わなかった。
そこで李庭芝は襄陽を救援する民兵3000人を募集し「張順」と張貴(?)にこれを率いて援護することを命じたのであった。 彼らはモンゴルとの長期戦で戦闘の経験豊かなものたちであったが、分厚いモンゴルの包囲網押し開き襄陽に到達するということは不可能に近く、死を覚悟しての戦いであることは確かなのであった。しかし、襄陽にはかれらの救援を待ちこがれており勇気を振り絞って敵陣を突破しなくてはならないのである。
今回の作戦の目的が敵を殲滅することでなく、困窮した襄陽に物資を輸送するためであったので張順は機動性に優れた軽量型の船を選び、長距離で攻撃するための大型弓など長距離の武器を装備したのだった。

 1271年5月張順は100艘からなる艦隊を集結させ、食料、薬品、塩、食料、衣類を積み込むと、方形陣形にて張貴を前衛、張順を後衛にしてモンゴル軍の包囲網の中に突進していくのであった。 湖面にはモンゴルの巨大な軍船で埋め尽くされている。長距離ロケット式の点火武器を放ってモンゴルの軍船を焼き、張順の軍船はモンゴルの分厚い包囲網をかいくぐり5月25日襄陽に到達したのであった。
 襄陽は歓喜の声があがったが激戦をかいくぐってきた艦艇には張順の姿はなかった。何日かのち襄陽の人々は河で張順の遺体を発見するのであった。 一方の張貴はモンゴルに捕まり投降を断り殺害されたのであった。
張順の史実は命を懸けて強敵に挑み散っていった英雄の伝記であった。
作品130
 王慶戦終了のあとに、田虎戦で新しくメンバーになった者たちが去ってゆく。 田虎、王慶ともあとから挿入された物語ということもありこれは仕方ないことである。 肝心の梁山泊の108人もここを境としてどんどん解体してゆく。
水滸伝の大きな目的である遼遠征が終了した時点で終わっても良いはずなのだが、そうではなく主人公たちをどんどん処分しちゃうのには呆気にとられてしまう。しかし、かれらは社会的適合性のない人々ばかりなので、英雄のまま死んでいただくのが最良というものかもしれない。 ダークな英雄は終わり方が難しいものですなあ。
燕青が雁を何匹も射抜いてしまうのも、作者による強者どもの物語の終わりを暗示させるエピソードといえる。雁みたいにどんどんこれから「死んでいきまっせー」といった感じの予告なのだ。 宋江が燕青にくどくどと雁を殺していけない理由についてのべるが、本当に雁の生態てそんななんだろうか、怪しいかぎりである。



 燕青のお話になったのでちょいと。 水滸伝はいろんなお話が寄せ集められて次第に形成されてきたということは以前述べたが、それらのお話の主人公の性格、状況の設定はまちまちである。
水滸伝中心のこれらの物をよむと「なにか違うな」という感じを受けるのだが、水滸完成以前の姿を見られるので新鮮の感じられる。
それらを知らない方のために「燕青博魚」を紹介しておこう。
燕青が魚を賭ける話なんだけど。
まず燕青は大男になっている。続いて梁山泊の序列も15位と、董平あたりの順位となっている。オールマイティーの若者のイメージとはちょっと違う。 宋江も水滸の軟弱な男みたいでなく山賊のボスぽい。



 九月九日の重陽のお祭りに宋江は兄弟の下山を許したが、燕青だけが期限の30日も経っても戻ってこない。梁山泊の怖い掟では一日遅れで鞭40、二日で杖80、三日遅れたら斬罪となっていた。はたして燕青が帰ってきたのは十日後であった。 厳しく問いただす宋江、あわや蔡京、蔡福のお世話になりそうなところを呉用が取りなし命を救われることとなった。 しかし、杖80回を受け梁山泊から放逐されようとしたところ、仕置きが原因で失明してしまう。これを哀れに思ったのか、宋江は治療して目が治ったら再び入山を許すこととした。 こうして燕青は山を降りていったのである。

 ここに二人の兄弟がいた。兄は燕和、弟は燕順(卷毛虎)。弟は兄に義姉の王臘梅が不倫をしていることを告げるが兄は妻の密通を信じようとしない。結局燕順は怒って家を出て行ってしまう。夫婦は三月三日清明節(128作品の解説参照)に同楽院へお酒を飲みに行くことにした。ところが妻は楊衙内(高衙内じゃないよ)と不倫関係にあり夫に隠れて密かに清明節に密会することにしたのだった。

 一方、盲目になった燕青は家賃滞納で追い出され乞食生活をしていた。ある日喪門神の楊衙内の馬に当たりしこたま打ち据えられる。 それを助けたのが燕順であった。燕順は針の心得があったので燕青の目を針で治療してしまう。目が見えるようになった燕青は感激し自分が梁山泊ものであることをあかし、二人は義兄弟の契りをむすぶ。かくして燕順は一人梁山泊を向かうのだった。

 三月三日清明節の日、燕順の兄、燕和は魚売りと出会う。この魚売りこそ燕青なのだがここで二人は魚を賭ける。勝負は燕和の勝ちであった。しかし燕和は許し燕青に魚を貸し与えることととした。そのあと燕青は横柄な男に道を開けないことを咎められ商売装具をむちゃくちゃにされる。ところがこの男こそ前に自分を殴った楊衙内であることを燕青は知ることとなり、こいつとばかり楊衙内を打ち据えた。あまりの手並みのすごさに燕和は怪しみ、燕青に正体を訪ねると梁山泊の者とあかした。二人は義兄弟の契りを結び、燕和は燕青を妻に紹介する。 痛い目のいあった楊衙内は懲りずに王臘梅と密通した。

 半年が経った。 ある日燕青は王臘梅と楊衙内が密通しているところを目撃、早速燕和にことの次第を告げ間男を捕まえようとしたが取り逃がしてしまう。残った妻に問い質していると楊衙内が人を連れて戻ってきて逆に二人は捕らえられてしまう。 邪魔者がいなくなった楊衙内と王臘梅は大喜び二人が処刑されるのを期待した。

 しかし燕和と燕青は脱獄、楊衙内は追ってを放す。 逃げる二人の前に現れいでたのは燕順であった。かれは梁山泊の頭目になり、この度燕和と燕青が捕らえられたとの報をうけとり救援にやってきたというわけである。
追っかけてきた楊衙内は逆に捕まってしまい、不倫相手の王臘梅ともども梁山泊に連れて行かれてしまうのであった。 戴宗の報告で一部始終を知っていた宋江は淫婦と間男を始末したうえで山に帰還するようにと燕青に命じた。 かくして燕青は帰山し歓迎の宴がもうけられた。


とまあ、こんな内容なのだが水滸伝ぽいですよね。 もちろんこの物語は水滸伝には収録されていません。
作品131
 方臘編の漫画を描くとどうしても主人公たちの死に様になってしまうので、落ちがなかなか難しい。もっともギャグとしては下手な作品だったので他の作品と大差のない息の抜けたオチなのでそのような心配はしなくていいのかもしれない。
今回は石宝が登場。この人物主人公一掃セールに登場したのでかなり殺してくれる。 強さは関勝と互角みたいだが、最後まで戦っていないので実力のほどがよく分からない。 最後に追いつめられて関勝にであうと砦に引き返し自刎して果てるので不満がのこる結末だ。ところで石宝の武器の劈風刀だがどんな武器なのかよく分からなかった。
鎧ごと断ち切るとあるので蔡陽刀とか雲頭大刀みたいな柄のついた武器とおもったが、石宝が最後に劈風刀で自刎するので意外と短いのではないかと推察した。 鬼頭刀、破風刀、柳葉刀、朴刀などの部類にはいるのではないかと思う。それでこの漫画では朴刀のような感じに描いてみた。もしかしたら大間違いしているかもしれない。 もう一つの流星鎚だがまあ一般的な紐の両端におもりをつけた流星というぶん投げる武器であろう。青龍偃月刀だがちょいと小振りに描いてしまった。修正困難なのでそのままにしている。



 前回水滸伝の原始の姿を伺い知る文献として「燕青博魚」を紹介したが、これらの作品の構成はきわめて単純で、梁山泊の好漢が山を下る、悪い連中がいて事件発生、悪党をやっつけて、梁山泊に帰還する。といったもので、水滸伝よりおもしろさが落ちる。
水滸伝の場合は英雄豪傑が集まってくる面白さがあり、話の構図はより複雑になっている。 すなわち、官軍の象徴たる高毬より始まり、高毬により蹴り出された玉が次から次に連鎖し次第に巨大な勢力に育ち官軍を凌駕する軍団に成長し、真の宋軍となり遼と戦うといった基本的流れがあるのである。そしてその基本的フレームの中に従来の物語の形式、悪漢を懲らしめるというパターンをとりいれて何回も物語を繰り返しているのである。
従って原始の姿は素朴のものだが、「燕青博魚」などは水滸伝という大きな構成の小パーツとしての物語の原型として見るとなかなか面白いのである。 さて今回は関勝が登場したので、この水滸の原始の物語として「争報恩」を紹介しよう。 れいによって好漢の序列は水滸伝とは違う。


 ある日、宋江は気をもんでいた。というのも東平府の偵察に「関勝」を送り込んだものの1ヶ月しても帰ってこない。不安になったので「徐寧」に関勝捜索に送り出したがこれもさらに1ヶ月しても帰ってこなかった。そこで宋江は「花栄」を呼んで二人を捜し出すよう命じたのであった。

 丁度そのころ「趙士謙」なるものが済州に赴任してきた。 彼の家族は正妻の「李千嬌」、第二夫人の「王臘梅」、正妻の子供たちであった。 趙士謙は梁山の近くは物騒なので家族を権家店に留めおき、まず自ら任地に赴き後で家族を迎えることとしたのであった。その間の家族の面倒を「丁都管」に任せたのであった。 ところが王臘梅と丁都管はいい仲であったのである。 ある日二人は隠れて仲良くお茶を飲んでいたところ、大きな男が肉を売りに来た。 隠れてつき合っている最中に変な男が割り込んで来たためか口論になり丁都管は大男に殴り倒されてしまったのであった。この大男こそ関勝であった。

 じつは関勝は偵察にでたものの病にかかってしまい動けなくなってしまっていたのである。ようやく回復したものの山へ帰るだけの路銀がない。そこで犬を捕まえると捌いて売っていたというわけである。ところが口論になりカーッとなり一発ぶちかますと相手は死んでしまい。大いに驚いたというわけである。 家は大騒ぎ。すると正妻の李千嬌がやってきて、事情を尋ねる。 関勝は自分は梁山泊の11番目の頭領であり、夫人と従者が仲良く座っているのはおかしいと口論になり、一発撃ったら死んでしまったことを述べた。夫人は笑うと丁都管は死んだ真似が得意で今回もそれでしょうと言った。はたして夫人が述べるように丁都管は死んではいなかったのである。関勝は夫人の恩を感じ兄弟の契りを結ぶのであった。

 さて、関勝捜索をしていた徐寧だが、実はこちらも病気にかかってしまいやっと治ったかと思いきや路銀を使い果たしてしまい宿から追い出され、乞食生活をしたいた。 ある宿の一角で夜を過ごそうとしたところ、梁山泊の合図の声がしてきたので、山から迎えがきたのだと思い行ってみると王臘梅と丁都管の逢引きの合図の声だったのである。 徐寧は泥棒ということで捕らえられたが、そこに正妻の李千嬌がやって来て理由を尋ねると、徐寧は自分は梁山泊12番目の頭領であり盗みに入ったのではないと言ったのであった。李千嬌はそれを信じ徐寧を逃がしてあげるのだった。徐寧は恩を感じ義兄弟の契りを結ぶのだった。

 さて花栄はというと二人の行方を捜していたが済州府城で官兵に正体を見破られ追いかけられて、とある屋敷に逃げ込んだ。 屋敷の庭先に隠れていると、夫人がやってきて香を焚き、天下太平、家内安全、好漢が捕まらないようにと祈っているのであった。 花栄は不思議に思い近づいてみると、夫人は主人が帰ってきたものと勘違いし花栄とはち合わせになったのであった。 この夫人こそ関勝、徐寧を救った李千嬌であった。
関勝、徐寧の事件後、この一家は宿を発ち済州府にたどりついていたのであった。 花栄は自分は梁山泊13番目の頭領であることを明かすと、二人は義兄弟の契りを結んだ。 李千嬌が花栄に言うのには王臘梅と丁都管が自分を陥れようとしているので、もしもの時は自分を救ってくれるように頼むのであった。 はたして、二人が話してくると人がやってくるのだった。 現れいでたるは主人の趙士謙と王臘梅、丁都管であった。二人は正妻に間男がいるということで主人を騙し連れてきたのだった。 趙士謙は怒り花栄に向かってきたので、花栄は斬りつけ逃走したのだった。

 腹の納まらない主人の趙士謙は不倫を済州知事に訴えて裁いてもらうことにした。 知事は最初は家の恥にもなるし自分で処理するように述べていたが強い趙士謙の希望もあり裁判を執り行うことになったのであった。 裁判の詮議は厳しいものであった。 王臘梅、丁都管は嘘の証言をし、状況は不利であった。 李千嬌は自白させようとむち打たれこれに耐えた。しかし我が子が鞭打たれるにおよび虚偽の自白をするに至った。 ここに刑は確定し。処刑と決まったのであった。

 ここに3人の男がいた。 関勝、徐寧、花栄であった。 3人はこれまでのいきさつを飯屋で説明し、自分たちが李千嬌と義兄弟の関係にあること、しかも今回の処刑については花栄に責任に一旦があることから李千嬌を救出することにした。そして3人は飛び出していったのである。もちろん無銭飲食で。

李千嬌は処刑されようとしていた、首切り役人は刀を構えると刑場破りも者たちが登場した。関勝、徐寧、花栄であった。

 義姉を救出した3人は王臘梅、丁都管を捕まえ、主人趙士謙と夫人李千嬌の間を修復させると今回の事件について宋江に裁いてもらおうと梁山泊に上った。
宋江の裁きは王臘梅は多くの射手の矢でもって射殺す。丁都管は梟首。趙通判と子供たちは故郷に帰し夫婦仲良くすることであった。 めでたし、めでたし。
被害者、無銭飲食された飯屋の小僧。もちろん踏み倒されたままであったとさ。 豪傑はそんな小さいことにこだわらない。
作品132
 索超に続き劉唐の最後になったが門の下敷きになって果てるとは可哀想。しかもご丁寧に兵が伏せてあったので避けたとしても殺される運命にあったと解説付き。 星辰綱事件で登場するので劉唐をご存じの方も多いが、最後はぐしゃぐしゃ状態になったのでした。
ギャグ漫画だったらぺらぺらになって生き返るところだが、残念ながら水滸伝はそうもいかないようです。
彼ら星辰綱の7人はどうなったかというと、まず矢で射抜かれて死亡。辱めを避けて自刎、門の下敷き。斬り殺される。首吊り自殺。 こうやって並べてみると多種多様である。

 この漫画では劉唐がゲームののりで攻め込みますが果ててしまいます。
人生がゲームのようにいけばよいのですがそうもいきません。ゲームと現実はなにが違うかというと不確定要素の多さでしょう。
現実世界はゲームの様に単純化したモデルではないことです。たとえば経済理論は論理により単純化されて経済構造が分かり安いのですが、実経済をそれで制御しようとしてもなかなかうまくいきません。説明や制御において有効ではあるものの完全とはいかないのです。 現象を説明したり制御したりするには複数の理論が必要となるわけです。
また、心情面からいうと予測可能な未来は味気ないものといえます。 結末が分からない映画だからこそ未来は楽しいのでしょう。


 水滸伝の原始の姿を伺い知る文献として「燕青博魚」「争報恩」を紹介したが、 3回目となる今回は「環牢末」といこう。もちろんまたまた不倫のおはなしです。
これら話の構成は山を降りる、事件発生、悪い奴らを懲らしめ、山へ帰る。といった感じであるとこは前回述べた。
同じことの繰り返しでというと水戸黄門というものがある。このお話では正体を隠して弱者に遭遇、事件に巻き込まれ、国家権力を利用し悪漢を退治すると言った具合なので「燕青博魚」「争報恩」なんかと比べるとだいぶ形式が違う。
もちろん水滸伝ともこれらの話はぱたーんが違っている。

 水滸伝の場合お話のショートパーツはだいたい2パターンがある。
一つ目、は悪い奴らにはめられる、仇を返し山へと上る。
二つ目、は山賊退治が逆に負けるか説得され山に上る。
といったもの。完全に2パターンにしてしまったのは少々乱暴だったが、だいたい水滸伝の話はこれの繰り返しである。 水滸伝の場合下地に仲間の集合、遼との戦いというベースの構成があり。この上にショートパーツの2パターンが繰り返されている。これら二重構造という言う上に星辰綱事件などのブロックが存在し複雑な構成をしている。
というわけで、水滸伝の複雑な話の原型の単純モデルをまた追ってみるとしよう。



 東平府に「劉唐」と「史進」なるものがおり、梁山泊に上がりたがっていることを聞きつけた宋江は二人を迎えようと李逵を使者に送った。 ところが李逵は東平府で老人を痛めつけている若者を見かけると怒って殴りつけてしまった。運が悪いことになんと若者は李逵の一撃で死んでしまったのである。

「李栄祖」なる役人がいた。 彼は李逵が老人を助けようと誤って殺人を犯してしまったと知り、なんとか李逵を助けようとした。 知事「尹亨」の前に引き出された李逵だったが李栄祖の弁護もあり杖80回と流刑により死刑を免れたのである。 これに李逵は深く恩を感じたのであった。 李栄祖の義弟こそ史進であり同じ役所に務めていた。

 その後劉唐が1月遅れで帰ってきて知事に責められた。劉唐はなんだかんだと言い訳をして責めを逃れようとしたが李栄祖が厳しく意見したので、杖40回に刑罰を受けるとととなった。このととで劉唐は深く李栄祖を恨むこととなったのである。

 命を救われた李逵は李栄祖の屋敷にいくと礼を述べた。二人は義兄弟の交わりを結んだが その後、李逵が梁山泊の者と知って李栄祖は吃驚したが許した。 李逵は命を救われた礼として金環一対を渡そうとしたが李栄祖は受け取らなかった。 そこで李逵は密かに片方だけをわざと落とし立ち去ったのであった。 小僧がこれを発見し李栄祖は李逵の気持ちを察し、妾の「蕭娥」に保管させた。 この蕭娥は元は妓女だったが妾にしたもので屋敷にきて数日しかたっていなかった。もともと役人の「趙令史」といい仲であって現在も密かに交際している。 迂闊にも李栄祖は一部始終を蕭娥に知られた上、金環を渡してしまったのである。 蕭娥は早速趙令史の所にいくとこれらのことを伝え、趙令史は知事に李栄祖が梁山泊の李逵と結びついていると訴えでたのであった。

 李栄祖の正妻の銭氏は病に伏して明日をもしれぬ命であった。 夫李栄祖は妻を気遣っていたがそんなところに役所から捕り手がやってきた。 一人は史進でありもう一人は劉唐であった。史進は困惑気味だったが劉唐はこの前の恨みをはらさんと意気揚々としていた。 李栄祖は知事の前に引き出され裁判を受けるととなった。はたしてそこには妾の蕭娥の姿があった。これにより李栄祖と趙令史の仲を知るのであった。 李栄祖は劉唐に鞭打たれ偽りの自白を強要されたのであった。 判決は死罪であった。

 正妻は亡くなり、家屋敷財産は没収され李栄祖は自分の亡き後の子供のことを涙を隠して妾の蕭娥に頼むのであった。 牢屋では劉唐が李栄祖を痛めつけていた。劉唐が去り史進が留守を守っていると李栄祖の二人の子供が父の為飯を運んできたのであった。見れば子供たちは蕭娥に殴られ傷だらけだった。劉唐は牢に帰ってくると蕭娥が訪ねてきた。そこで劉唐は李栄祖を盆吊にて殺すように依頼されたのであった。 劉唐は李栄祖を依頼通りに盆吊で殺すと遺体を死人抗に捨てた。 子供たちがやってきて父の遺体を探し出すと、なんと李栄祖は息を吹き返し親子は抱き合うのだった。

 蕭娥は劉唐が首尾良く殺害したものか確認しにくると李栄祖が生きていたので吃驚。 主の前で嘘泣きし子供たちをかわいがるそぶりを見せた。その後劉唐に李栄祖が生きていることを告げ、殺害の報償ちらつかせた。 再び劉唐は李栄祖を引きずり出し牢に入れた。

 さて李逵の帰りが遅いので、梁山泊から「阮小五」が劉唐、史進を仲間に迎えるべくやってきた。 史進と劉唐はお互いに梁山泊入りを望んでいたことを知り苦笑する、李栄祖を牢から出すと梁山泊へ向かった。
ところが一行の前に立ちはだかったのは李逵であった。 李逵は恩人の李栄祖が捕らえられたと聴き救助にやってきたのであった。 だが仲間だと分かると拍子抜けしてしまう。 そこで李逵はことのいきさつを李栄祖に訪ねると、全ては妾の蕭娥の悪巧みであるとこを語った。

 そのころ蕭娥と趙令史は子供たちが邪魔だと首を絞めて殺してしまいどこかに去ってしまていた。李逵たちが着いたときその子供たちの遺体を発見することとなる。 一同は二人を発見し、これを捕らえ梁山泊に上った。
梁山泊では劉唐、史進の入山の祝いが執り行われ、宋江により蕭娥と趙令史の裁きが下された。李逵曰く「兄貴、間男、淫婦をとっ捕まえましたぜ。こいつ等二人の腹を裂き、胸を抉って、酒の肴にしましょうぜ。」
作品133
 董平と張清の最後。 華々しく戦って最後かと思いきや、あっけない最後であった。 なんといっても両者とも徒歩で敵陣に乗り込んでいる。 だいたい彼らは騎兵なので馬で戦いに赴くのが本来の姿である。 特に張清などは逃げると見せかけ飛礫を放し相手を怪我をさせるのが得意なので、徒歩では不利である。しかも最後は敵を仕留めようとした槍が木に刺さって抜けなくなり、そこを刺し殺されたわけで、何一つ得意技を発揮出来ずに終わっている。 木に刺さった槍になんでこだわりすぎたのかよく分からないが、以外とあり得ることかもしれない。というものそこが人間の不思議なことろである。

 工場の安全衛生において人間の特性について面白い例が紹介されている。 それによると、器械による手の挟み込みの事例については手を放ばなんでもないことがとっさの時に判断を誤らせるというものだった。 つまり布などが器械のローラに挟まってどんどん巻き取られていくとき、人は器械の引っ張る力に逆らって引き戻そうとするというのである。もちろん手を放せば布だけ巻き取られるだけなのだが、布をしっかりつかんでいるため手までローラに挟んでしまうというものであった。このように人間の判断はとっさには思考停止にいたってしまうのである。
 指差呼称、換喚応答による労働災害を防ぐ手段なども、目で見、指さしてさらに確認させ、声を出して状態を認識させるためのものである。外部からみると非常に滑稽な姿だが、このようなことをやらなければ人間の認識というのはいい加減ということである。
つまり飛んでくるものに注意は出来ても止まっている出っ張りに以外と気がつかないものである。事実女性の方で思いっきり建設中の鉄骨に頭をぶつけるのにお目にかかったことがある。ここら辺はまだ理解の範囲だが、人間の行動ではその他の例で紹介されているものではこんなものがある。プレス器械で手を伸ばした位離れている左右のボタンを手で押さないとプレスが動かないのに手を挟んでしまう事例。これは安全設計を通り越して想定外の行動をして事故にいたったものである。
猿が壺に入った米を取ろうとして、腕が抜けなくなって捕まってしまうものがあるが人間は偉そうにしているが実は心理は似たような程度のものなのである。 人間の心理はこんなものなので張清が槍にこだわったのも分からないことはない。

 ところで董平の最後だが。 これまた砲で腕をやられて万全でない状態。本来は二本の槍で縦横無尽に刺しまくるといったところだがそれも出来ないでいる。 しかも最後は後ろからやられている。董平の武器は両端に穂先がついているのは前後、遠近に対応するためだ。しかも董平はそれを二本も使うので背後の敵にも素早く対応できる。 普通だったら背後からバッサリなんてことはないのである。 しかし左腕を負傷していたことと張清に気を取られたことが命取りになった。

二人ともらしくない死に方をしたのは残念なことである。
特に張清の飛礫攻撃が石宝に効果があるのか見たいところであった。
作品134
 梁山泊山岳部隊の登場。但し、悲惨な最期だが。 描いた後に鋼叉を持たせるのを忘れたことに気がつきました。これでは単なる山登り。 もっとも衣装についても適当で本当は虎の皮に胴着をつけている。


 元曲による水滸伝の原始の姿を散策する今回が4作目。 読者にはだいたいの様子がお分かりになられたことだろう。
これまで紹介した作品は水滸伝では全く見かけない話でした。水滸伝に慣れし親しんでいるものにはちょいと違和感というものがあります。微妙にちがうんですね。 例えば宋江の経歴を覗いてい見ると、ウン城県で役人をしていたが、酒に酔い遊び女の閻婆惜を殺し、官庁を焼いたために江州に流罪にされることとなった。運良く梁山泊の近くを通過したので晁蓋によって救われ。その後祝家荘との三度の戦いで晁蓋が亡くなり宋江が首領の座に就いた。とまあこんな具合である。 登場人物のキャラクターも違うし、比較するとなかなか面白い。
これまで原型としての物語があることをご理解いただくということで水滸伝では採用されなかった物語を紹介してきたが、今回は水滸伝に取り入れられた物語を覗いてみるとしよう。

 それは「李逵負荊」という作品だ。水滸伝では第73回に取り入れられた作品である。 全体の骨格は似ているがやはり微妙に違う。宋江は怒らせたら本当に怖いという感じがする。 なにか本当に李逵ぶっ殺しそうなんである。 それでは「水滸伝73回」と「李逵負荊」の違いを分かりやすくするために平行して記述していこう。


1,{李逵負荊}
 杏花村に居酒屋を営んでいる「王林」なる者がいた。三人家族であったが妻は早くに亡くなり残るは18才になる「満堂嬌」なる娘が現在いるのみであった。 この居酒屋は梁山泊の近くであり頭目たちがよく酒を買いに来ていたのだった。 ある日のこと、宋江と魯智深と名乗るものたちが店に酒をもとめてやったきた。王林は娘にお相手をするようし命じ、お客にサービスを心がけていた。ところが宋江と名乗る男が娘を嫁に欲しいから2,3日貸してくれと無理矢理娘を連れていってしまったのである。 梁山泊の頭領では逆らえない王林は悲嘆にくれるのだった。 「おお、桃の花びらだ。拾ってみよう。見事に紅い花だなあ。」やってきたのは風流が分かる華を愛でる李逵だった。かれは3日の休みを得て王林の店で酒を一杯ひっかけようとやったきたのだった。李逵が酒を楽しんでいると王林は悲しそうな様子。気になった李逵はその訳を尋ねると王林は宋江娘をさらっていったことを述べたのだった。 李逵はこれに怒り宋江と魯智深を連れてくることを約束し山に行ったのだった。

1,{水滸伝73回}
 東京からの帰り道、燕青と李逵は荊門鎮ということろにやってきた。日も暮れたので金持ちの劉太公の屋敷に一夜の宿を借りたのだった。ところが夜、太公夫婦のしくしく泣く声が聞こえる。気になった李逵が訳を尋ねると、梁山泊の宋江と若い男がやって来て18才になる娘をさらって行ったと語るのだった。これに怒った李逵は取り返すことを約束し梁山に向かったのだった。

2,{李逵負荊}
 宋江に向かって「大親友。おめでとう。奥方はいづこに。」魯智深に向かって 「兄貴は花嫁を娶り、この禿めは仲立をせり。」 横柄な態度で李逵がやってきたので宋江等は吃驚。しかも旗まで斧で斬りつけようとしたので怒った宋江は李逵に厳しく問うた。 すると李逵は王林のことを追求し宋江はこれを否定した。そしてどちらが本当か首を賭けることにしたのだった。李逵ははげ茶瓶をまっぷたつにしたあと宋江を脚で踏んづけ首を斧でバッサリとやるつもりでいた。 宋江と魯智深を連れて李逵は王林のところにやってくると、なんと王林はこの二人ではないと証言したのであった。

2,{水滸伝73回}
 山寨に帰り着いた李逵は旗を切り刻んだ後、宋江を襲ったのだった。あわてて五虎将がさえぎり李逵の大斧を奪った。李逵は劉太公の娘をさらったことを問いただすが宋江は否定。 そこで宋江は劉太公に顔合わせをしてもらい、自分が負けたら首を差し出し李逵が負けたら首をもらうこととしたのだった。 李逵は若い男というのが柴進だからと彼も連れて劉太公の屋敷に向かったのだった。 燕青と李逵が屋敷に再び訪れて劉太公に宋江と柴進の顔を検分してもらったところは別人であった。

3,{李逵負荊}
 勝負に勝った宋江は山寨に引き返し李逵の首を待った。李逵はとぼとぼ梁山に帰るのだった。宋江たちが山寨で李逵の首を切らんと待っていると、李逵がやってきた。その姿は裸で荊杖を一束背負っており、恐る恐る許しを願い出た。しかし冷酷に宋江の要求はあくまでも首であった。仕方なく李逵はせめて首斬人の手でなく自分の手で宋江の刀を使って首を渡したいと願い出た。宋江はこれを許した。李逵の命や危うし。

3,{水滸伝73回}
 えらいことに成ってしまったとうろたえる李逵。燕青が「着物を脱いで体を縄で縛り荊杖を一束しょって忠義堂の前で平伏すれば兄貴も許してくれるに違いない」と提案した。 李逵がその姿で現れると宋江は高笑いし、犯人を捕まえ劉太公の娘を取り返したら許すこととした。

4,{李逵負荊}
 自分の娘のために李逵が首を賭けていたことを知った王林はえらいことになってしまったとうろたえたいたところ、偽宋江たちが店にやって来て約束の3日を過ぎたので娘を帰したのだった。王林はこの男たちを酔いつぶれさせ、梁山に知らせに赴けば李逵を助けることが出来るに違いないと二人をもてなした。そして夜になって急ぎこのことを告げに梁山に向かったのだった。
すると丁度処刑が始まろうとしており、慌ててことを伝えると、 呉用がとりなし処刑は中止された。宋江は二人の偽物を引っ捕らえてきたら罪を許すこととし、魯智深を伴い王林の家に向かうように命令したのだった。 確かに王林の家には二人の男がおり、李逵と魯智深は二人を捕らえると梁山に連れて行った。かくして李逵の罪は許され、偽物の二人は花標樹に縛りつけられ、心と肝とを抉り取られ、酒のつまみにされた。大団円。

4,{水滸伝73回}
 李逵と燕青は梁山泊を発ったものの犯人の宛があるわけでなかった。そこで追い剥ぎを捕まえると人さらいをやりそうな人物をはかせた。すると牛頭山に王江と董海なるものがねぐらにしており彼らであろうと情報を得ることができた。そこで二人はそこに乗り込みばっさばっさと斬りころすとはたしてそこには娘がいた。こうして李逵と燕青は娘を劉太公に届けると二つの首を携えて梁山泊へと帰還したのであった。 大団円。



 この様に並べて表記してみると元曲が水滸伝でいかに料理されたがよくわかる。 管理者個人の意見としては水滸伝のお話のほうが少しだけ面白くなっていると思える。 水滸伝はこのようは話の集合体であり、話の整合性。キャラクターの統一性から改変され統合されていったのであろう。この辺の整理作業について原作者の施耐庵は大変苦労されたことであると推察できる。
作品135
  王英と扈三娘の最後です。
夫婦ふたり仲良く死ぬシーンを描こうとしたら1ページではギャグにしにくく、扈三娘のほうは残酷なだけで終わってしまいました。


 ここまで読むとはっきりと、元曲と水滸伝の違いが少しお分かりになったことだろう。
ほかに高文秀の李逵ものがいっぱい、紅字李二の武松ものに楊雄もの李文尉の燕青もの、作者不舞の張順もの、花栄もの、一丈青もの、宋江ものなどの作品があるので文献を探してみるともっと面白い発見があるかもしれない。

 水滸伝はどの様にして形成していったかについては残存する資料が少なく形成までの間の課程を結論づけることがなかなか難しい。
これは人間の進化の過程に似ていて途中の変化の様子がさっぱり分からないのである。人類がDNAより過去の過程を割り出す様に水滸伝でも完成後のものより推論するしかない。しかし推測するといっても過去にさまざまな人の思惟を経ているのでその実体はよくわからない。
最終的結論として施耐庵が存在するわけだが、彼自体も謎の人物なので彼が描きたかったことを明確に論証することは不可能に近い。 ただ一つはっきりするのは、それは何らかの思想や目的をもって編集されたということである。何故このように述べるかというと、多くの者が作成し多種多様のものはある種の思惟をもって編集しないとまとまらないからだ。


 似たような状況の例として適当かどうが疑問だが、新約聖書の形成について述べていこう。
なぜこの様な宗教臭いものを取り上げたかというと、こちらもバラバラだったものを選定したからだ。バイブルを知らないという人もいるであろうから、新世紀エヴァンゲリヲンの名称の元ネタであるカノンとでも言っておこう。カノンの中にはマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネのエヴァンゲリオン(喜ばしい報せ)が収められている。

 カノン成立の状況を説明しよう。イエスが死んだ後の半世紀後から文献が書かれ始める。 これは仏教においても同様の現象がみられ。口頭で伝えられたものが文章で記録されるようになるのである。それも当然で口頭での伝承は内容の劣化を免れないからだ。
ここらが問題なのだが、やはり半世紀も経ってしまうと内容に食い違いがでてくる。そもそもが先生から教わった教えというものは生徒の解釈が加わって、同じ言葉を聞いた筈なのに微妙に変化してしまうのである。これが伝承の回数を重ねるに従ってどんどんかけ離れたものになってしまい、多種多様な伝承が出来上がるというわけである。

 この様な状況からカノン成立までに300年の時を要した。 それは2世紀にマルキオンなる人物が独自の聖典を編纂したのがきっかけだった。これに対抗すべく聖典編纂が活発化し325年ニケーア会議において統一の乗りだしアナスタシオが27文書を選択して、397年のカルタゴ会議において現在のカノンが決定された。

 一般的にバイブルとはカノンのことを指す。しかし実はこの選定にもれた文献が多く存在するすなわちそれはカノンに対し「アポクリファ(Apokrypha)」と喚ばれるものである。または外典とされる。
アポクリファは「隠された書物」という意味で秘儀的なもの、外部者には秘密にするものという意味があったが次第に異端であり排除されるものという意味合いに変化していった。
ルターなどは「有益であるがカノンと同等に扱うべきでない」と述べ、英国教会においても教義の根拠としてはならない」としている。


 アポクリファの文献を列挙してみると
「ピルケ・アボート」「アダムとエバの生涯」「アブラハムの遺訓」「アブラハムの黙示録」「アリステアスの手紙」「アンデレ行伝」「アセルの遺訓」「ガドの遺訓」「十二族長の遺訓」「イッサカルの遺訓」「イサクの遺訓」「イザヤの殉教」「シメオンの遺訓」「ゼブルンの遺訓」「ダンの遺訓」「ナフタリの遺訓」「ベニアミンの遺訓」「ユダの遺訓」「ヨセフの遺訓」「ルベンの遺訓」「レビの遺訓」「エジャトンパピルス2」エジプト人福音書」「エステル記への付加」「エズラ書 1」「エズラ書 4」「エズラ書 5」「エズラ書 6」「エチオピア語エノク書」「エピオン派福音書」「エイア書」「エリアの黙示録」「エレミアの手紙」「エレミア余録」「セネカとパウロの往復書簡」「オクシリンコス・パピルス 1,654,655,840,1224」「カイロパピルス10735」「偽テトスへの手紙」「ギリシャ語バルク黙示録」「コリント人への第三の手紙」「アザリアの祈りと三人の若者の歌」「シュビラの託宣」「シャデラク黙示録」「イザヤの殉教と昇天」「シリア語バルク黙示録」「スタラスブール・パピルス」「スラブ語エノク書」「ゼパニアの黙示録」「ソロモンの遺訓」「ソロモンの詩編」「ソロモンの頌歌」「ソロモンの智恵」「ダニエル書への付加」「トビト書」「トマス行伝」「ナザレ人福音書」「ナハシュ派の詩編」「ニコデモ福音書」「パウロ行伝」「パウロの黙示録」「パウロとコリント人の往復書簡」「バルク書」「ファイユーム断片」「ペテロ行伝」「ペテロの宣教」「ペテロ福音書」「ペテロの黙示録」「ヘブル人福音書」「ベン・シラの智恵」「マカベア書第一、第二、第三、第四」「マセナの祈り」「モーセの遺訓」「「モーセの昇天」「モーセの黙示録」「ヤコブ原福音書」「ユディト書」「トマスによるイエスの幼少期物語」「ヨハネ行伝」「ヨブの遺訓」「ヨベル書」「ラオデキア人への手紙」
などがある。


 かなりの数の文書があるが実際は異端として葬り去られた文書がもっとあるに違いない。 クムランの洞窟で派発見された死海文書とグノーシスの思想が濃いナグ・ハマディ写本は有名なものである。

 さて様々な思想彩られる文献からいかにカノンを形成していったかその選択の基準は多分この様なものであった。まず太陽神信仰であったコンタンスティヌス帝が帝国の安定統治のためキリスト教を国教とし諸宗教を取り入れ教会はこれに妥協してゆく、さらに皇帝が司会者となり諸派を集め採択し「父なる神と子なる神イエスを同一本質」としこれにより正当性を定めた。かくして教会の教義は定まり文献の取捨選択が行われるといったことである。ものすごく政治的理由といえば理由だ。
もっとソフトタッチに述べると。預言にあるようにイエスは我々の罪の為に死んだのであり、葬られ、聖書にあるように3日後に甦った。ケパに表れ十二人に表れ、そののち500人以上の兄弟に表れたのである。こんな風な発想のものである。

 このようにして現在われわれが見かけるバイブルというもは形作られており、それ以前は多種多様なものがあったのである。そしてある選定基準によって規格外の文献は外されたということをご理解いただきたい。

 水滸伝は文学であるが、それ以前があり多種多様な物語が存在したとするなら、施耐庵が何らかの基準に従って改編、編纂し物語を完成したと考えた方が正しいといえるのではないだろうか。
それがどんな基準なのかは各自の判断すべきところである。
管理者は一つの発想を述べるだけである。
作品136
 今回特別出演頂いたのは「蕩寇志」なる作品よりその主要人物である。
彼らはすねに傷を持たない高潔の士であり武芸知性においてずば抜けている人物たちである。ここでは快く道化役を引き受けていただいた。
彼らのアジトの「猿臂寨」は生計を流民の定着や陶器の製造販売をもとに成り立っているらしい。梁山泊は後期になると10万人に兵数がふくれあがり北京大名府を陥落させたのにすぐ食料不足に陥り2府を攻めるということになった。梁山泊は匪賊集団なのでご近所の強請たかりで生計が成り立つのだが、潔癖主義の猿臂寨がこれでどうして組織を維持できたのが全く不思議である。



 水滸伝の原始の姿は宋の時代宋江なる人物が草寇として暴れまわった事実を原点とする。
この歴史上の事実については「東都事略」「徽宗記」「侯蒙伝」「張叔夜伝」に記載されている。こういった匪賊というものは沢山あり何故、宋江が支持されるようになったかは全く不明だ。ただ宋江の匪賊の伝説に各種英雄、豪傑のばらばらだった伝承が組み合わされ、まあ惑星が出来るに似たようなかんじで形を成していったのではないだろうか。
それが一つのストーリーを持ち合わせていたのか不明だが、権力者や搾取者に無法の制裁を与えるといった筋書きであったに違いない。 水滸伝初期の姿がどの様なものであるか資料がないので全く分からないが画家の李嵩が遼梁山泊のメンバーのイラストを描いている。 これに刺激され龍(+下に共)聖与なるものが人物画にコメントを記した。
これは「発辛雑識」によるものであるが、彼は李嵩の絵が若いとき大好きで、宋江の歴史的事実にふれ書き記したそうである。現代でいえばカルタについた短い文章と思われて頂きたい。水滸伝初期の姿がこれしかないというのは情けないものだが、メンバーが分かるだけでもありがたい限りだ。

 宋江三十六人賛
宋江、呉用、廬俊義、関勝、阮小七、劉唐、張清、燕青、孫立、張順、
張横、阮小二、魯智深、武松、呼延綽、李俊、史進、花栄、秦明、李逵、
柴進、雷横、戴宗、索超、阮小五、楊志、楊雄、董平、解珍、朱仝、
穆弘、石秀、解宝、晁蓋、徐寧、李応
これがが梁山泊のメンバーである。

 林冲、公孫勝以外全部登場しているのが分かる。 しかもそれぞれのメンバーの解説というか賞賛文は現在のかれらのイメージそのままである。このことはなにを示すかというと施耐庵は水滸伝作成において元々のキャラクターのイメージを尊重し編纂したということだ。
解珍、解宝などは地サツ星でいいようなものだが上位にいるのも原点からいるキャラクターであるためであろう。

 しかし、良く読むと若干改変された人物もいないではない。例えば柴進だが文章から察するに水滸伝の鮑旭のような存在ではなかったのではないかと思われる。現在小旋風のあだ名は残ったが原点では黒旋風と小旋風で荒し回っていたおっかない存在に違いない。水滸伝では後周の嫡流という設定となり北方民族遼との戦いに赴いた皇帝柴栄を想起させる者に改変されている。
董平なども少し違うようだ。水滸伝では風流人のようだが、原点では文中に鴻門の会や樊カイがあるので、以外と樊?をイメージしたものだったのかもしれない。

 ともかく初期の水滸伝の物語がどの様なものであったか分からないが、キャラクターに関してはそのままであったと理解した方がいいであろう。 逆に言えば施耐庵水滸伝のキャラクターの特徴は地サツ星のほうにあるのかもしれない。
作品137
 丁得孫は蛇に咬まれて死ぬとは影が薄いとはこのことか。丁得孫、キョウ旺、張清は登場したときも一緒で、みんな投げるものが得意だ。それぞれ飛叉、投げ槍、石である。終わり方も敵と遭遇しどんどん武器を投げていたらなんにもなくなって斬り殺されたてすれば少しは印象に残ったかもしれないがどうだろう。
単廷珪と魏定国は仲良く穴に落ちての最後であったが、仲良しペアで死ぬパターンだ。 ちょっと単調なので単廷珪が水攻めをしようとして誤って流されて死亡。魏定国は火攻めの為に火を放ったが風向きが変わって火に飲まれて焼死してしまったてのはどうだろうか。




 水滸伝は「任侠もの」であることはみなさんご存じの通りである。しかしただの任侠ものと思いきや「ファンタジー任侠」なんである。清水の次郎長一家に用心棒として妖術使いがいるようなものだと思われてもいいだろう。あるいは革命小説に魔法使いの参謀が登場するようなものである。 はっきり言ってしまうと水滸伝に魔法使いは似合わない。任侠ものから戦記ものへの変化だけで十分なのである。 魔法使いの公孫勝があとから追加されたことをみても本来水滸伝は魔法使いが登場するものではなく、ただ36人の任侠な人々がいるだけだったのである。

 この魔法使い追加の現象はなにを示すかというと、喩えるなら萌え系キャラが流行るとこれに合わせてメンバーのなかにそのキャラを登場させるといったものに近い。差詰め現代ならメイド系のキャラが登場するアニメ水滸だったり、実写版では主婦層ねらいのイケメン俳優大集合の水滸伝ということであろう。 魔法使いの公孫勝ファンなどは過大に彼の存在を評価する傾向がある。確かに公孫勝は方術は優れているが俗世間を捨てかかっておりメンバーから脱落しやすい欠点をもつ。(事実、目的を達成するととっとと去ってしまった。) そのため序列4位を与え参謀に加えて離脱を防いでいるものの参謀としてアイデアがまったく無く完全に失格だ。

 何故この様な人物が水滸伝に紛れ込んできたのか、それは中国の物語の歴史によるところがある。インドの神話、あるいはギリシャ神話などと比べて中国のそれはお粗末。中国では史実が重視される傾向にある。記録文みたいなものである。(もっとも「列仙伝」とかあるじゃないか言われると身も蓋もないが。)唐の時代になると科挙の受験生が合格目当てに小説を執筆するようになり有名な「枕中記」などの伝奇が登場する。 だがしかし宋の時代になるとこういったものは無くなり。歴史上の人物の伝記を語る「講史」が登場してくる。この流れから水滸伝などがのちに成立していくのである。 下って明の中期に小説が大発生。神話的な作品が執筆される。「西遊記」「封神伝」「三宝太監西洋記」がそれである。この中で水滸伝に似ているといえば史実をベースとした三宝太監西洋記であろうか、大船団を率いて大航海を成し遂げた「鄭和」が登場し方術により敵を下すのだろうから。

 宋の時代も道教が盛んであったがこの明代において迷信がさかんになり儒教、道教、仏教が入り乱れ「みんな一緒」ということで混じり合いその影響が小説に表れるようになった。すなわち神話性の強い小説というものである。 明代には道教などでは「太上感応編」「呂祖功過格」などの道教書籍が大流行。当然そんな考え方がが多くなると文学作品も影響を受けて神魔思想のものが溢れてくるということになったのである。「平妖伝」の方術に関しては当時人々に信じられたものであったのであろう。その神話大系の混乱は西遊記に見受けられ神様入り乱れぐちゃぐちゃな様相を呈している。

 西遊記はもともとは玄奘の旅の記録である「大唐西城記」という紀行物が唐、宋、元と時代を下るに従って神話的なものに変化し明代になって丘長春あるいは呉承恩により「西遊記」として集大成されたものである。あの神話性100%の西遊記でも史実を源としている。(もっとも西遊記の場合は宋の時代の「大唐三蔵取經詩」に猿の行者が登場するので明代の神話化は関係ないかもしれない。明代には多数の西遊記が書かれたらしく空想物が増えたことの現象のほうが時代を表しているのかもしれない。)

 かくして神話性ぐちゃぐちゃの明代で水滸伝が完成し、超能力者が混じり込み、なんとも不思議な任侠ファンタジーが登場したのである。
作品138
 秦明にとどめを刺したのは方臘の甥にあたる「方杰」(ほうけつ)であった。
秦明と互角の戦いをし勝負がつかない強さの持ち主。「杜微」が飛刀を投げたので秦明がそちらに気を取られたとき一撃で刺し殺すことが出来たとはいえ、なかなかのものである。
方臘編では敵将として石宝が索超、?飛、馬麟等を殺しているで目立つが、方杰のほうが大物食いである。また一時的ではあるが関勝、花栄を一度に相手をできる隠れた実力者。 柴進のだまし討ちで殺されてしまうが、そうでなかったら以外と手強い敵だったかもしれない。



 以前、水滸伝初期の段階の説明として「発辛雑識」より36人のメンバーを紹介した。 初期の主人公は36人で108人ではないとことは既にお分かりのことだろう。 水滸伝の設立過程の資料が全くないので、断定的に説明することが出来ないのが心苦しいのだが、ある種の偏見をもって説明しておこう。 さて今回紹介するのは水滸伝設立の過程を知る手がかりとなる最大の資料である。
「大宋宣和遺事」がそれである。

 これがいつ頃記述されたのかが全く不明だ。ここでは「発辛雑識」を元初頭、「大宋宣和遺事」を明初頭としておこう。というわけで「大宋宣和遺事」は「発辛雑識」より時代がだいぶ下った中間点としてご記憶頂きたい。

「大宋宣和遺事」とは何かというと、歴史上の人物の伝記を語る「講史」の部類になる。 徽宗皇帝を中心として宋朝の歴史が語られている文書である。読むと面白くない。
この歴史書?のなかに方臘の反乱と平定があり続いて梁山泊のことが述べれれているのである。ファンタジー豊かな水滸伝がなんでこんな歴史書に登場するのかというと、元々水滸伝は歴史上の人物を核として発展してきたわけで、嘘が膨らんで物語が史実と見なされるようになったのである。現代のように歴史学者もいるわけでないし検証する方法もなかったのではないだろうか。

「大宋宣和遺事」における梁山泊の物語は短いものでいわば概略文みたいなものである。 物語の大筋を紹介してあるある程度でキャラクターの性格まではさっぱり分からないのである。その証拠として記述された文中に36人のうち武松、李逵、戴宗、公孫勝、林冲の物語が欠落しており。どの時点で彼らが仲間に加わったのかさっぱり分からないのである。

 従って当時流布された水滸伝の物語と大宋宣和遺事の間には語られていない部分があることを記憶にとどめておく必要がある。 しかし「発辛雑識」が単なる名簿録みたいなものにたいし「大宋宣和遺事」は当時の物語を伝承させているので、施耐庵以前の物語の様子探る最大の資料である。
ここで「大宋宣和遺事」における主人公36人のメンバーについて確認をしてみよう。

 宋江、呉用(呉加亮)、廬俊義(李進義)、楊志、李俊(李海)、史進、公孫勝、張順、秦明、阮小七、阮小五、阮小二(阮進)、関勝(関必勝)、林冲、李逵、柴進、徐寧、李応、劉唐、董平、雷横、朱仝(朱同)、戴宗、楊雄(王雄)、孫立、花栄、張清、燕青、武松、呼延灼(呼延綽)、索超、石秀、張横(張岑)、杜遷(杜千)、晁蓋
以上である。

「発辛雑識」からの違いは解珍、解宝が除外、晁蓋も死亡でメンバーから外れ、新たに公孫勝、林冲、杜遷の三人が36人に加えられた。 新しい3人が何処で登場するのか全く不明である。ただわかることは公孫勝が晁蓋、呉用の生辰綱強奪事件に関与していないのは確かであるということだ。

 そもそもこの公孫勝は魔法使いなのであろうか。管理者は大宋宣和遺事に記載されるような文献にファンタジーはあり得ないと考えているので、現在の公孫勝とはかけ離れたものではないかと推測する。少し譲るとしたら道士崩れ。
彼のあだ名の「入雲龍」もどこから来たのか分からない。何らかの特徴であることは確かなので方術で雲に上る様のようでもあるが、水滸伝で公孫勝が飛行術をしたところをおめにかかったことがない。そこでちょいと既成概念を取っ払って思いを巡らすと、この「入雲龍」てのは「九紋龍」の同系列で刺青の龍ではなかったかと発案した。
なんの根拠もないが雲間をぬって泳ぐ龍の刺青なんてかっこよくないか。

 林冲にしても現在の水滸伝とは違った存在である可能性もある。
新参もののうち2人は水滸伝でメインのキャラに成っていくのもこの時期他の古参のメンバーと違って性格が確立していなかったため、自由に変更させ安かったこともあるのかもしれない。

ここら辺は推測だけで申し訳ないが事実の断定は不可能である。 断定して言えるのは中期の水滸伝においても主人公は36人であったということだけである。
作品139
 武松の腕ジョッキンを描いたが、彼のファンにはショッキングなことだろう。 包道乙の魔法の剣は驚く精度で飛んでいくものだ。武松が鄭彪ばかりを見ずに周囲を見ていたらあるいはよけることも可能だったかもしれない。 ところで武松のその後は気が抜けたようになっているが、これは単に腕を無くしたことだけによるものであろか。片腕でも漫画は描けるように、人生まだまだやれる筈なのだが。 武芸についても得意技から考えるとK1のような離れた位置からの足技打撃を得意とするみたいだから大丈夫のはずなんだが。
李逵は先の戦いでほ鮑旭を亡くしこの戦いでは項充と李袞を失った。 まさしく歩兵主力解体といったところか。



「大宋宣和遺事」に挿入された水滸伝、当時彼らは歴史上の人物として捉えられたいたと推察される。物語なのに何故ということだが、始末がわるいことに水滸伝の源は宋江という匪賊が大暴れしており、最後は退治されたという史実なのである。 この史実に枝葉がついてとんでもない物語に進化していったのである。

 管理者が不思議に思うのはなんで宋江なのかであるということだ。 舞台が任侠な人々が多い土地柄であったからというのも一つの理由として挙げることができるであろうが今ひとつ分からない。
歴史の記述をみても匪賊宋江は大したことがない。匪賊としてスケールが小さいのだ。 明代に物語りにする条件を考慮にいれるとして黄巣なんて規模も大きく丁度良いし、もし宋代限定なら方臘や王則の反乱なんて原型の題材としてもっといいはずなのであるが。
しかしこういった本物の反乱軍は政府にとって許されるものではないから、そういったものを賛美する物語が残ることは出来なかったのであろう。 そうするとやはりもっと規模が小さい社会的影響力が少ない、なおかつ最終的に政府に帰順する匪賊が容認されるということなのか。

「施耐庵水滸伝」をみても「大宋宣和遺事の水滸伝」をみても両者は政府に帰順している。 このことを見ても水滸伝が一般に信じられているような政府に反旗をかかげ梁山泊に籠もり終わってしまうという姿は本来の姿ではないと言うのが分かる。
これこそが逆に後世の人物のねつ造改変といえる。 つまり原型からして社会的足場を無くし山に逃れ集合し反旗を掲げるもの政府に帰順し功績をもって恩賞に与るといったハッピーエンドな物語なのである。 ワルだけど天下安寧に協力しお宝たんまりもらいましたとさ、みたいなノリの読み方が水滸伝の本来のあり方なのである。
第一、匪賊のまま終わるとなると彼らの存在はどう考えても悪である。 しかし大宋宣和遺事の梁山泊の面々は帰順することによって社会的に救われているのである。しかも彼らが反政府的な社会派とはとても思いにくく、失敗により社会的位置を奪われただけの連中のように思えるのである。

 任侠は弱きを助け強きを挫くというのがモットーで多分伝承されたキャラクター個々人の物語はそのような方向性であろう。政府や体制への不満が無法者によって解消されるといった庶民も憂さ晴らしである。しかし宋江を中心とした水滸伝の物語はそういったものではなく落草、反乱、帰順、恩賞といった別の流れを持つものなのである。

 つまり全然違う方向性をもった物語同士ということである。 ここに読者の大混乱が始まるのである。
とにもかくにも宋江という実在の人物は物語のなかにその存在をとどめた。


「大宋宣和遺事」に記された水滸伝は単純な物語である。もちろんあらすじみたいなもので物語そのものでないので断定はできないが、それでも全体を見渡してみると、現在の水滸伝とは比べようもないくらい単純で簡素なものである。

物語のパーツを並べてみると

1,楊志の花石綱事件
2、晁蓋の生辰綱事件
3,宋江の閻婆惜事件
4,討伐軍呼延灼
5、招安

 であり、20回分(水滸伝は120回)も元はあったのだろうかと思うほどの内容である。
特に楊志の事件で一気に12人も仲間が集まってしまい、晁蓋でこれまた8人と半分以上 集合してしまうのである。36人しか全部でいないので現在の水滸伝と違って一人一人をしっかり描けそうなのにこの扱いなのである。
というわけでこの大宋宣和遺事に描かれた頃の水滸伝は内容的には主人公については簡単に描いてあったと思われる。但しキャラクターのイメージは他の物語に依存していたに違いない。
作品140
 曹正、王定六、鄭天寿が死ぬシーンは宋江への報告として述べられ簡単なものだがこうやって絵にしてみると悲惨な死だ。とくに鄭天寿だが磨扇というひき臼みたいなもので殺されているので可哀想。二人は毒矢というので史進たちより苦しんで死んだかも。 最初林冲は描くつもりはなかったが師弟最後の瞬間ということで加えてしまいました。 王定六は足の速さが戴宗に隠れてしまって発揮できなかったのでここで思いっきり走らせてみました。




 水滸伝を大げさに農民の反乱、革命などと捉えることがあった。封建社会を批判し農民という労働者階級の闘争であるとマルクスモデルで考え、挙げ句の果てに招安を受けた梁山泊に支配体制にこびいった裏切り者のレッテルを貼ってしまったのである。 変なイデオロギーでみると水滸伝もそんな風に思って見えるから不思議だ。

 しかしだ、いつ宋江や晁蓋が打倒宋朝と言ったのだろうか。 彼らの敵対者は悪い高官や役人であってけして宋朝ではないのである。 宋江にいたっては匪賊の仲間入りを散々避け、武松には宋朝での出世を説いたのである。 思想的にははっきり言って親宋朝と断言して良い。
宋江のねらいは宋朝においての名誉、名声、忠節なのである。 それを農民反乱の物語とする方がどうかしている。

 農民の階級闘争ということからいえば方臘そのものがそれに該当するといっていい。 そののりでやった水滸伝といえば「北方水滸伝」がそうである。 がちがちの革命指向でみんなくそ真面目だ。
だが水滸伝はそんなではない。方向性がばらならなんである。あえて彼らのメンバーのなかで本気で革命起こす意気込みとプライドをもった面々は芒トウ山の連中である。
梁山泊がやったことは本来宋朝の軍が果たすべき外敵からの国防、国内の乱の平定による治安の安定なのであり、それを国軍たる禁軍でなく無法者集団がやってのけたということなのである。



 水滸伝形成過程の中期といえる「大宋宣和遺事」において招安されるといったあらすじがあるのも、そもそも水滸伝そのものが漢人王朝における栄達を最良のものと見なしているからである。
ワルだったけど最後は社会に貢献し認められてハッピーエンドなのだってのが本来ののりなのである。 水滸伝の骨格つまり落草、反乱、帰順、恩賞の骨組みに肉付けされたのが個々人の反社会的行為である。 前者は時間軸にそって流れているが後者は時間のある一瞬である。

 一般に水滸伝で人々から好まれているのは後者の反社会的行為である。 個人の言論や行為が抑圧された社会において権力者の理不尽な行動というものは耐え難い苦痛を人々に与えるものである。 この様なとき無法者や反社会的人物は一般生活に大変悪影響を与える存在であるが、敵対的権力者や搾取者に自分たちと同様に被害をあたえるので奇妙なことに支持を受ける。
読者も冷静に考えれば李逵や魯智深の様な性格のものが近くにいたらはた迷惑な存在だとはつきりわかるであろう。しかし彼らの権力にお構いなしの無法ぶりは手出しを出来ない権力者を裁くことができて非常に快くとらえはしないだろうか。 社会の不満の代弁者。それは彼ら好漢なのである。

 しかしこの目は非常に嫌らしいと言えば嫌らしい。 というのも普段は厚顔な奴と馬鹿にしておきながら無法ぶりで悪漢を懲らしめると拍手喝采し、そのものが追われる身になっても自分に被害はないのである。 もちろんそのものが貧しいものに幾ばくかの施しをすると義賊という評価を与えはするが。


 無法者が何故こんなに讃えられるかといえば日本の弱きを助け強気を挫く正義のヒーローと比べてみればよく分かる。
ご存じ「水戸黄門」。正体を隠し庶民の弱者の味方になり、最後は悪い役人を国家権力のもとに退治するといったものである。「大岡越前」や「金さん」「桃太郎侍」「暴れん坊将軍」なんかも同様の形式である
これは日本人の国家権力に対する「信頼」てものがあるからであろう。 
悪いのは中間管理職といったものでである。上司の目の届かないところでこ平社員を虐めていて、最後は正義の上司が中間管理職に一喝を加えて平社員は救われるといったものである。悪く言えば一番悪いのは管理不足のあんただよ。とつっこみを入れたくなるような世界なんである。

 中国の場合は国家権力に対する信頼は「ゼロ」。国家の軍隊はあてにならない。そのために自衛のための軍事組織を自前で作らなくてはならないようなことになる。(祝家荘、曾頭市なんかそれ) 官僚機構自体には賄賂は横行し、悪行名高い高官のみならず好漢と言われる連中も多用している。 そんな国家権力に対する信頼ない世界の制裁者といえば「無法者」しかないのである。
これは毒をもって毒を制するという発想なんであろう。 悪い高官と好漢の悪さ程度に差がないのも、実は両者は同じような存在だからである。 官職のない高キュウと張青のどちらが真っ当な人間であろうかお答えできるかな。

 そもそも、梁山泊が国家に替わって外夷内寇と戦い平安をもたらしたことが「国家権力は当てにならない」感覚の延長といえる。
つまり水滸伝は中国独特の国家権力なんてアテにならないの思想のもと。
1,悪い高官などは無法の行為で解決。2,異民族の金などに禁軍はあてにならないので夷狄も彼ら無法者に解決してもらいましよう。
なんて発想なんである。
招安前も後も水滸伝の思想は一貫していて、社会を乱す連中は怖ーいお兄さんに片づけていただきましょうということなのである。
作品141
 韓滔、彭キの両名は騎兵では一番最初に戦死するものたちだ。 騎兵同士の乱戦で命を落とすのだが、水滸伝では仲良し仲間を一気に処分するという傾向がある。二人とも連環馬の装備で出撃したらもしかしたら生きていたかもしれない。 しかし、変な死に方よりまともな武人としての死に方だったともいえる。 漫画を作成した後、二人が連環馬をしてどじる内容のほうがよかったかと反省した。



 「大宋宣和遺事」の大きな特徴としては楊志の取り扱い方にある。
ご存知楊志は「施耐庵水滸伝」では序列は17位で五虎将にもなれていない。いわば上の下将扱いである。この楊志が大宋宣和遺事では宋江が九天玄女からもらった巻物には3番目に記載してある。
ものすごく序列高い。何かの間違いではないかと疑いたくなるような位置だ。ただしこれが序列そのままかは疑問なところもあるが、水滸伝でもそうなので多分この序列に違いないと思われる。 宋江を含めると4番目となる。
この上位の名簿にあるのも大宋宣和遺事における楊志の役割がきわだっていることによるものだろう。 なんといっても軍人グループのほとんどが彼とともに太行山に登ってしまうのだから、彼の重要性は推し量ることが出来る。 この時山に登ったのが楊志、廬俊義、林冲、楊雄、花栄、柴進、張清、李応、穆弘、関勝、孫立でありなかなかの陣容である。

 現在水滸伝ではミスター梁山泊と言えば林冲ということであるらしい。 確かに林冲は物語の初期に登場し梁山泊の最初の段階からメンバーにいるのでこうなってしまうのは仕方がないことである。読者としてはなじみひいきというのは自然の成り行きなのである。
しかし水滸伝の設立過程を覗いてみると軍人集団が太行山に登るとき林冲もすでに名前をつらねているにも関わらずメインになっていない。また楊志を中心として物語りが展開してゆくし、初期の段階から山賊になっているなどから本来のミスター梁山泊は楊志であったといえる。 つまり武人のトップは楊志だったということである。

 水滸伝では過去の事件として小さく語られる花石綱事件は大宋宣和遺事において現在進行形で大きく取り扱われている。 大宋宣和遺事水滸伝から施耐庵水滸伝に変化するさい軍人メンバーは解体し個々のメンバーの物語となりその面影は東京で楊志が刀を売るシーンと二龍山に早い段階で山賊家業にはいってしまうところに残ったのである。 ずいぶんとこぢんまりとなったものである。


 ところで、こうした大宋宣和遺事水滸伝に重要な役所として描かれている「楊志」なる人物は史実ではいかような人物だったのであろうか。 ほとんど名も亡き人物ながら記録にとどめおかれているようだ。
「靖康小雅」において疲れ切って食糧不足に陥っている官軍に巨寇の「楊志」が強力な軍勢を引き連れて投降を勧める場面がある。交渉決裂?その後官軍はめっためったにやられたみたいである。
時は下った多分楊志招安後、のこと金軍来襲。
「三朝北盟会編」
宣和4年6月童貫は雄州に広く東西に軍を展開した。この東軍の先鋒として楊志が登場する。
「金虜節要」
金軍が攻め込んで来て官軍がぼろぼろに負ける。当然楊志も孟県で敗退している。 相も変わらず中国軍弱えー。
楊志は敗退でかっこ悪いが、同じ金との戦いにおける関勝の最後は哀れとしかいいようがない。
てな感じに楊志が歴史では登場する。実際のところどんな人物かよくわからない。

 この歴史と大宋宣和遺事水滸伝の関係は全く不明で、史実をベースとして発展したのか たんなる思いつきでメインキャラになったか全く不明である。 とにかくはっきりしていることは水滸伝における楊志の存在は元はえらくでっかかったということである。
作品142
 侯康、段景住とが溺れ死ぬ場面であったが、そもそもなんてこの二人は水軍といっしょに同行したんだろうか。また張横にしても阮小七にしても海の経験はないはず。 無茶といえば無茶。しかも船は現地調達で強風で壊れる代物ときた。梁山泊には造船技術者が2人もいるので船を補強しておけばこの様なことにならなかったはずなのだが。



 「大宋宣和遺事」の特徴として楊志の取り扱いについて述べたが、もう一つの注目すべきところは九天玄女が登場することである。
九天玄女の物語は施耐庵の創作と思いきやなんとそれ以前から存在するのである。 この中期の作品においても九天玄女の存在は重要な位置を占め、宋江がボスとして君臨する論拠となっている。
大宋宣和遺事では宋江が役人の捕り手から逃れ九天玄女の社に隠れ、そこで巻物を発見する。その巻物に書かれていたのは仲間の名簿と彼ら行うべきことであった。 つまり宋江は予言を受けるのである。
水滸伝では同様に捕り手から逃れた宋江が環道村にて九天玄女に直接対面し自分の正体について教えられ3巻のの天書を授けられるといったものになっている。 全員の名簿については後に石碑の登場まで待たなくてはならないが大筋ではうり二つの設定である。
両者においての九天玄女の存在は守護神として彼らを導く者であることがはっきり分かる。

 水滸伝では九天玄女は小さなエピソードであるので、その話は英雄豪傑の物語に埋没してしまい印象に残ることはないのであるが、大宋宣和遺事の場合短い文章に中に登場するのでその重要性がよくわかる。
九天玄女の内容も水滸伝と比べれば簡素なものであるが、36人がいかなる存在であるかの証明となっているのである。 英雄豪傑が縁に結ばれ九天玄女によって導かれるという形式は水滸伝でも引き継がれ、さらにもっと複雑に改変され施耐庵の意図が込められたものとなっている。 ただし多くの読者は無視をしているみたいだが。


 九天玄女の物語で注目すべきところは36人に使命について予言されていることにある。 大宋宣和遺事において天書36人の猛将の名簿のあとに「宋江を大将とし忠義を行い姦邪を滅ぼす」とある。 このことは水滸伝形成の中期の段階で彼らが招安を受け国のため戦うという存在であったということがはっきり明記されているということが分かる。
そもそも山賊に戦神が登場する事自体から全体の流れが政府側に展開していくことであることは推測出来そうなのであるが。 70回をもとに信じられているような反乱軍だけの側面だけをもつ存在では彼らはなかったのである。 それは水滸伝が大宋宣和遺事の頃から下って施耐庵に至るまで招安を受ける物語として形成されてきたということを物語っている。

 大宋宣和遺事以前は分からないが、少なくともこれ以降は主人公たちの招安は大前提であったと理解すべきである。 大宋宣和遺事における彼らの役目は方臘を討伐することであるようで、ここに水滸伝との違いはあるものの政府軍になるのは共通事項である。
つまり水滸の作者たちは主人公にハッピーエンドを用意しているのが本来の物語であり、彼らが捕まり処刑されるパターンは規格外ともいえる。 但し施耐庵水滸伝の場合伝統と踏襲するものの、幸福なのか不幸なのか分からないような運命を彼らに与えているのでかなり複雑なものとなっている。 ここに読者の評価が分かれ招安否定の一つの原因に成っているしまっているのは否定出来ない。


 以上の思索は大宋宣和遺事の文献を読む限りにおいてなのであるが、別の資料が発見され別系統の物語が展開されているとするのなら完全に否定されることとなるであろう。 また別の視点から考察すると違った結論に達するかもしれない。 しかしながら大宋宣和遺事の短い物語は水滸伝の物語の流れに似ていることもあり、この九天玄女が何らかの関わり合いをもつ系統から現在の水滸伝は進化したと判断していいであろう。
作品143
 水滸伝最強の敵(?)石宝と関勝等四将ははち合わせ、ところが石宝は関勝をみると戦意を挫かれ山へ退却。な、なんて戦わないんだ!。というわけでせっかくの決闘シーンがふいに成ってしまっているのが残念。味方の宋軍が山の西側から攻め上って来たのに気がついた関勝は東側から攻め上った。山上は大混線。呂方と郭盛は馬で登ったせいか転落、関勝等は徒歩で攻め込むと石宝は自刎していた。あーあ、という顛末。



 一説によると水滸伝は「遼」と「方臘」の100回本に「田虎」と「王慶」が追加され120回の物語となったとある。 管理者はこの立場を採用している。(これは常識なのかもしれないけど) というのも論説では田虎の投降の将が王慶戦で戦死したり、方臘戦以前で全員いなくなってしまうことがその一つに理由として掲げられており、まったくその通りであると納得しているからである。
しかしかといって「田虎」と「王慶」を本来の水滸伝に無かったものとして抹消するには惜しく、水滸で釣りは田虎と王慶を含めたも120回ものを「水滸伝」と称している。 但し、本来の施耐庵の意図を読み解くという事では田虎と王慶を含めては全体像が分からなくなってしまうので、解説においては遼、方臘の100回本をベースに水滸伝を解説している。

 さて、「九天玄女に導かれ帰順し功成り名を遂げる路線」が中期の大宋宣和遺事においても存在することが確認できた。 中期の段階では招安以降は後日談のようであるので、遼、方臘のような戦いの物語は存在しなかったと推察できる。もちろん大宋宣和遺事の著者がカットしてとも考えられないこともないが。

 問題なのがこの「功」の部分である。 大宋宣和遺事では功績物語は後日談程度のものであり一方水滸伝では遼、方臘の長い物語が存在する。この間の形成過程をいかに判断するかということだ。 この空白の部分を埋める何らかの資料があれば変化が分かるのだが存在しない様なので、ここでは大宋宣和遺事と水滸伝からダイレクトに判断するするしかない。(もしかしたらこの間の文献が存在するのかもしれないが管理者は学識浅く、この知識を持っていない)

 大宋宣和遺事では方臘の名称が登場することから考えて、方臘戦がまず形成されていったとしていいだろう。しかもこの形成過程の方臘の物語は主人公36人全員無事に帰還する物語である可能性大である。
大宋宣和遺事と水滸伝の直線上に見られるその痕跡は水滸伝の方臘編の最後にみうけられる。すなわち第109回の都に凱旋する員数である。

[ 梁山泊凱旋将 ]

宋江、盧俊義、呉用、関勝、林冲、呼延灼、花栄、柴進、李応、朱仝、魯智深、武松、戴宗、李逵、楊雄、李俊、阮小七、燕青
朱武、黄信、孫立、樊瑞、凌振、裴宣、蒋敬、杜興、宋清、鄒潤、蔡京、楊林、穆春、童威、童猛、時遷、孫新、顧大嫂

 これを見て何か気がつかないだろうか。そう36人であることである。
施耐庵という人物は九天玄女の物語とか36人の性格性などもともとのものを尊重し改編する傾向がある。
北方謙三のように登場人物の性格や物語まで根本的に改編するといった思い切ったことをやらないのである。ゆえに原型は比較的読みとりやすい。
水滸伝の方臘編の凱旋において大宋宣和遺事の36人(あるいは天こう星)ときっちり一致するのは、意識してこの員数にしているからである。なにもこの数字でなく20でも50でも良いはずなのだが作者は凱旋者の数を意識して定めている。

 施耐庵はなにを意識したのか?それは大宋宣和遺事から伝承してきた存在したであろうところの「36人の好漢たちが功成り名を遂げる物語」についてである。この路線を引き継いで、その痕跡を水滸伝の凱旋部分の残将名簿にて員数として残したのである。
但し水滸伝では主人公が108人も膨れ上がりずいぶん削り落とすこと成りはしたものの36人は凱旋し誉れをえるという路線は維持をしたといえる。

 つまり方臘編という108人に増員されていない状態の36人の主人公が全員無事帰還するような物語が存在した可能性を推し量ることができるのである。 この様に水滸伝の中にも設立過程の様子を読む説くことができる。
作品144
 雷横はあだ名が「翼の生えた虎」と喚ばれ脚力抜群、谷なんかひとっ飛びらしい。 ところが残念ながら物語では強靱な脚力を発揮している場面にお目にかかったことがない。そこで漫画で描こうとしたら、なんと最後の場面では馬に乗っているじゃないですか。
あんた歩兵ではなかったのかよ。とうなってしまった。仕方がないので馬の上でジャンプ。 どこからそんなに馬が登場するんだ。の突っ込みは無視。 「八艘飛び」とは源義経が船の上でやったと伝承される曲芸?鎧着ているので命がけ。
キョウ旺が演じているのは三国志より劉備元徳が水鏡先生に逢うちょいと手前で、命を狙われ逃げるシーン。凶馬と言われる馬に乗って平気で逃れるといったもの。



「36人の好漢たちが功成り名を遂げる物語」すなわち宋江率いる26人の好漢が方臘との戦いにて功績を挙げ全員帰還する話しの痕跡を水滸伝の中に追い求めたわけだが、そうとも解釈できるレベルなのがちょっと残念である。
しかし資料の少ない条件では断定的な論証は不可能で、ここでは無理を承知で仮説の上に仮説を立てる方式でどんどん解説を進めていこう。 人文系の論議は曖昧模糊としたところが残るのはしかたないことである。 その前に「36人の好漢たちが功成り名を遂げる物語」ではあまりにも長いので、今後「招安路線」と述べることにしよう。

 大宋宣和遺事と水滸伝の違いはなにか、それは「遼」の存在である。 すなわち中期の大宋宣和遺事においては方臘について後日談として記述されているが、遼についてはまったく記載されていないのである。
これはなにを意味するかというと、初期、中期、方臘戦追加の時代まで招安路線には遼という存在が考慮に入れられていなかったことを示す。

 招安路線は匪賊の好漢が国家を騒がすが帰順して内乱の平定に尽くすといったものである。いわば内輪の話みたいなものであり、後に追加される田虎や王慶と同種の存在である。だが、「遼」登場となると全く意味が違ったものとなる。
歴史を少しでも囓っているものは両者の違いは一目瞭然である。 匪賊の連中が同種の反乱者を相手にしているのと違って、国家そのものが全く太刀打ちできなかった外国という存在に戦いを挑んでいるのである。
これは国家と国家の戦いなのである。スケールが違いすぎる。

「遼」登場によって、それまで英雄豪傑が国内で安寧の為に人力を尽くし賞賛される程度のものから、外敵から国家を防衛する物語に変化が生じたのである。 これにより水滸伝は匪賊の出世物語のようなものにナショナリズム的要素が注入されて現在のように忠義一徹の物語を形成していったと思われる。

 多分36人の好漢が繰り広げる物語の時代は「方臘単体」であったころであり、108人と好漢が増えた時代が「遼追加」の頃であり、この時期に大きく変化したのであろう。
施耐庵は従来の水滸伝をどう改良したか、それは遼追加による招安路線の大幅変更である。 よりナショナリスムを前面に押し出し各種変更を加えた。 もっとも、物語としては遼は盛り上がらなかったので読者に気がついてもらえない失敗を施耐庵は演じてしまったが。
作品145
 ホウ万春と欧鵬は武芸は後者のほうが上のようである。もちろんホウ万春は弓矢の方が上手なので矢を放って欧鵬を倒している。これなんかを見るとホウ万春と花栄が一対一の勝負をしたら多分花栄が勝のではないかと思われる。
ところで欧鵬だがホウ万春の矢を素手でキャッチできるのでなかなかの武芸者だ。 矢なんてすごい速度で飛んでくるので掴むなんて可能なのだろうか。
この場合ホウ万春が五合ばかり欧鵬とぶつかりあって、かなわないとみたホウ万春が逃げて、それを欧鵬が追っかけるというもの。両者に距離はないはず。 ボールただったら真正面で受けることができるのだが、矢となると体を避けた上でキャッチしなくてはならない。かなり難しい。
黒沢映画の「蜘蛛の巣城」で三船敏郎(鷲津武時役)が矢が飛んできて死ぬかと思ったとの感想があったが、飛んできた矢を素手でキャッチしたら奇跡的なことではないだろうか。 もっとも奇跡的なので二本目の矢で射抜かれ欧鵬は死んでしまうが。




 九天玄女の役割は水滸伝において非常に重要である。 主要人物の宋江の態度も彼女と逢ったあたりを境に変化している。
それ以前は江州に護送されて行くときなどは梁山泊の者が救出に来ないように間道を選んで行くように提案したりして匪賊集団に入るのを拒んでいる。この後江州で処刑されるところを梁山泊に助けられ宋江は梁山泊入山を決意することになる。行くところが無く匪賊集団に入ることを決心したというわけだ。
ところがその直後あたかもこれを待っていたかのように九天玄女に逢うのである。以前梁山泊の組織の拡大を解説していったごとく、梁山泊は以降どんどん組織が大きくなり軍事集団化してゆく。宋江の名を慕って人材が集まってくるのである。
水滸伝の物語には九天玄女の登場の箇所に一つの節目があると考えて良いだろう。 故にこの漫画では物語順では九天玄女の箇所で区切りを入れていたのをお気づきであっただろうか。

 ところで九天玄女の役割とはなにか。
第一に好漢たちの繋がりを神として立証する者である。
第二に宋江を中心とした支配体制の保証者。
第三に宋江ら好漢の使命を伝え導くもの。
第四に使命達成の為の必勝法を授ける者。
とまあ有り難い守護神である。
彼女無くして梁山泊は進むべき道を定める事が出来ない。


遼追加以前つまり大宋宣和遺事と遼追加後の水滸伝両者における彼女の違いを比較してみみよう。

「大宋宣和遺事」において九天玄女は明確な実体として登場せず、彼女の祠で宋江が捕り手から逃れそこで予言の書を得ることのみの参加である。 だから巻物のタイトルを見て宋江が自分のことと勝手に判断している。 天書を得た宋江は自分には36人の仲間がおり、目的をもったものであると知る。 これを持って梁山泊に赴き呉用等に伝え晁蓋亡き後のボスの座に就くことになる。 ここで宋江は天書に従って名簿の仲間を積極的に集め36人とした。 この様に九天玄女の天書は梁山泊のメンバーに天による認定を与え彼らの存在の礎となっている。九天玄女なくして強者どもの連合はないのである。 かくして天認定の強者集団は国家秩序の維持のため方臘との戦いに赴くのであった。


「水滸伝」では九天玄女の箇所はどの様に改編されたのであろうか。 はっきり分かるのが九天玄女が梁山泊に直接的に関与しているということだ。 まず、宋江が捕り手から逃れて祠に逃れるのは同様なのだが一番違いは宋江が九天玄女に逢うことだ。以前が宋江が勝手に判断しているのに対しここでははっきりと実体化し会話をもって教えている。水滸伝ではさらなる改良が加えられ彼らの正体についても解き明かされ、何故この世に彼等が存在し、いかなる事を成すべきかについて解説している。ここに内容の深化を見ることが出来るのである。

 本来巻物に記載されているメンバー表も明らかにされず、物語ではここで108人のメンバーの名前はふせたままである。全員そろったところではではでな演出によって石碑を登場させバラバラだったものが仲間であったことが分かるといったものとなる。もう一つの物語の可能性だった宋江が名簿を参照しながら仲間を集めるのと現在の伏せたまま進行する形式のうちどちらが物語として面白いかは難しいところである。

 九天玄女は明確に彼等の使命について述べている。それは天言の「外夷」と「内寇」である。つまり「遼」と「方臘」を討てということなのである。 ここに大宋宣和遺事では方臘のみであったのに遼と方臘の二つに増えたのが分かる。

 しかし両者の戦いには大きな差がある。それは九天玄女の関与が違うということだ。 「あなた達、使命を成功させなくては地獄行き決定ですから」と脅し、遼の戦いの時は一所懸命梁山泊軍に必勝法を伝授するなどして一人の死者も出さず完勝させているが、方臘戦いの場合は全く関与していない、むしろ見殺しにしているのではないかみたいな差だ。彼等が死んでいくのは予定通りだったのか?
この梁山泊の守護神たる九天玄女の関与具合をみても彼等の使命の大半は遼との戦いで終了しているのではないかと思われる。 つまり遼と方臘を討伐すべしと言ってはいるものの、本筋は「遼打倒」なのではないかということだ。
作品146
 今回は一気に8人を殺してしまったが、原作がそうなっているのでしょうがない。こう人数が多いと殺された場面を詳細に画くことは不可能で1コマに紹介絵になってしまうのはしょうがないことだ。例えば阮小五などはバッサリ切られる部分を画いてもよかったが上半分が死ぬシーン下半分をギャグネタとしていたので、どうしても倒れて死んでいる姿になったしまった。
ところでこの征方臘の終了間際の青渓県の戦いでは戦死者が鰻登り、こりゃ作者慌てて殺していますよね。好漢の死亡者数も話が進むに従ってこんな感じに増加している。
潤州(3人)、常州(2人)宣州(3人)常塾(1人)こん山(1人)蘇州(1人)杭州(3人)独松関(3人)徳清県(2人)再び杭州(4人)銭塘江(2人)烏竜嶺(3人)睦州(4人)再び烏竜嶺(4人)イク嶺関(6人)歙州(7人)青渓県(9人)
これを見ると分かるように最初は3人ぐらいだったが終盤に大量に殺している。 止めが方臘制圧後、杭州で9人も病死させている。(楊志は丹徒県で病死) この漫画に殺されていない好漢も残り9人、次回は誰が死ぬのかお楽しみに。




 143の解説において120回本と100回本について述べたが、よーく考えたら水滸伝を知らない人が読んだらなんのことだか分からないのでここのところを少しだけ詳しく紹介しよう。
その前に「回」というのは小節みたいなもので、何話みたいに解釈していただきたい。 例えば100回本といったら全体で100話の話がある本と理解するといいだろう。

 水滸伝はこの回数が70回、100回、110回、115回、120回、124回本とある。大別すると70回本、100回本、120回本となる。 つまり水滸伝は一つではないということだ。 それに文簡本と文繁本に分けられ、さらに複雑な様相を呈している。 (文繁本とは詩なんかが記載され、描写が豊かな文体のこと)
このうち70回本ははっきりしていて「金聖嘆」なる人物が独断と偏見で改作し水滸伝を70回で終了させたものである。彼としては独自の理屈で水滸伝本来の姿に戻したということらしいが、とんでもないことだ。
さらに問題なのがこれ以降300年にわたり中国では水滸伝はこの70回本が占めていたということである。 これは中国におけるクレヨンしんちゃん騒動と似ているようなもので、偽物が商標登録され本物が閉め出されるようなわけのわからない事である。 という訳で、この「水滸で釣り」では金聖嘆本は全く無視をしている。
この様な回の途中でぶった切るというのも出版事情によるもので、例えば文簡本と文繁本があるのも装飾に満ちた文繁本を手直しして簡素な文簡本のほうが営利目的に都合はいいからである。


 さて100回本とは遼、方臘の戦いが描かれた物語であり、120回本とは遼、田虎、王慶、方臘の戦いが画かれたものである。
両者の違いは田虎、王慶があるかないかの違いである。 こちらは120回本が切り落とされたというのではなく、100回本という完成した水滸伝があり、梁山泊の活躍を増やそうとしてか田虎、王慶の戦いを挿入したというわけだ。

研究者たちの挿入されたと結論付ける理由として挙げているのは
1,明刊行本に田虎、王慶挿入と書いてあること。
2,文簡本でまた文簡本なのが田虎、王慶。他は文簡本であり文繁本。
3,時間の問題。宣和4年3月招安、宣和4年冬征遼より凱旋、宣和5年9月征方臘より凱旋となる。つまり翌年なので遼の戦いからすぐ方臘の戦いに赴かないと時間の余裕がない。田虎、王慶の戦いは時間的に無理なのである。
4,田虎の投降将が王慶戦いで戦死し残った者は方臘戦いには登場しない。これは挿入された物語のため田虎、王慶の話と方臘の話に繋がりがないからである。
5,上記と同様の理由で108人もメンバーが一人も戦死しない。
6,百回本が存在する。
7、楊定見と袁無涯という人物が挿入した。
ということだ。

 つまり整理すると水滸伝は完成された100回本があり、これに田虎、王慶の話を追加して120回本となった。さらにその後出版社の都合により70回本が作成されたという歴史をもつ。


 さてここまでは様々な回数をもつ水滸伝のお話があることを紹介した。 田虎、王慶の話は追加された物語としては比較的理解しやすいものだが、研究の分野では完成した100回本においても考察がなされている。
というのも一般的に遼の戦いはそっけなく面白みにかけており、梁山泊の戦死者が一人もでないこともあり、もしや遼も田虎、王慶と同様に後から追加された物語ではないかという疑惑をもたれたのである。このことから起こったのが遼挿入論議であり、遼は田虎、王慶と同様に本来水滸伝にあるものではなく後に挿入されたものであるとの考え方だ。突端は本のコメントで「田虎、王慶を除いて遼を追加して」という文面が存在したことに起因する。

 100回本については「遼挿入説」と「征遼征方臘セット説」がありなかなか難しいところだ。
この「水滸で釣り」では後者を採用しているが、若干の違いがある。 それは大宋宣和遺事の頃の物語をさらに深化した「36人の方臘戦を含んだ物語」があり、さらにこれを洗練させ「遼、方臘を含んだ水滸伝」という現在の物語が完成したという図式を画いているからである。

こんな感じ
「大宋宣和遺事」=>「36人の集結と征方臘物語(ハッピーエンド)」=>「現在の108人による遼、方臘を備えた水滸伝」

 というのも大宋宣和遺事の頃の幼稚な物語から現在の水滸伝に一気にジャンプしたとは思えないからである。
これは一件遼挿入説の様に2段階成立みたいだが、水滸伝でないふにゃふにゃな物語を踏み台に一気に遼、方臘を含んだ物語が完成したと考えているので、完成した方臘戦を含んだ水滸伝が存在したと仮定する「遼挿入説」とは違う。
遼と方臘が一度に完成したということで「征遼征方臘セット説」ということになる。
このふにゃふにゃな物語は100回に近いのもでなく50回以下のレベルのものだったかのしれない。これはなんの根拠もないがその方が自然なような気がするので以降もこの路線で紹介していこう。
作品147
 水滸伝の方臘戦における好漢の戦死についてはあっさりと書かれている。 今回の馬麟と燕順の戦死についても物見の兵が宋江に報告して物語られており、やはり簡潔な説明である。もっとも死亡シーンをいちいち水滸伝初期のような様子で画いていたらそれこそ300回を超えてしまいかねないので、こういう文章になるのは仕方ないことなのかもしれない。それにしても石宝は梁山泊の好漢を五人も殺しており、関勝が「よくも兄弟を殺したな」とムキになるのも分からないではない。 馬麟と燕順程度では楽勝だったのかもしれない。




「征遼征方臘セット説」の中にはははなはだ疑問と思われる説がある。 これは「征遼征は公孫勝の花道の為に作成された」という説である。 まあ中国専門の学者さんが述べられている説なのだが、一般人にはなかなか理解しがたく さすが象牙の塔のご住人である。
管理者の頭では、何回読んでも単に「私は公孫勝ファンなんだよ」と宣言しているとしか読みとれない。 もっともこの説が書かれている本自体、難解な箇所は一つもなく気楽に書いているのがわかるので思わず筆を滑らせてしまったということかもしれない。 まあ、宋江の落書きみたいなものか。 この水滸で釣りも漫画のおまけとして始まり、管理者も酒を飲みのみ気楽にへらへらと書いているので、同様に無責任きわまりないのだが。 一応この説について紹介しておこう。

 この方は始め遼挿入説であったがその後征遼征方臘セット説を唱えられたそうな。だから試行錯誤してこういう結論になったようだ。
それによると
1、征遼において一番活躍したのは公孫勝である。故に遼では公孫勝が中心。(具体例として賀重宝戦と兀顔延寿戦)
2,1の事例により方臘戦では公孫勝がいれば死者は出なかったはずである。
3,方臘では多くの戦死者を出さなくてはならない。
4、2に理由により公孫勝がいては邪魔なので退場いただく。
5,公孫勝が義理を欠いて退場してはならないから、その功績にために遼の戦いをこしらえた。
6、故に方臘と遼は不可分の関係にある。
とまあ、「征遼征方臘セット説」を唱えがたいため、論理の根拠として公孫勝の花道説をうち立て、征遼の物語が方臘の物語が同時に完成したということにしたのである。


では同じ「征遼征方臘セット説」を採用する管理者がこの問題をちょいと考えてみる。 4ビットのおつむなのでかなり大変だが。

1,については賀重宝戦と兀顔延寿戦を見る限るそれは遼の戦いにおけるパーツにすぎず 遼の物語は全体を見渡す限り実体は総力戦であったといっていい。誰が飛び抜けて活躍したというのはない。 もし公孫勝が中心であったというのであればラスボス兀顔光のと大決戦におおいに活躍しても良いはずである。兀顔光の展開した太乙混天象の陣つまり天陣(魔法陣みたいなもの)に梁山泊は手も足も出せずにいたし、九天玄女の作戦においては彼の役割は戦車隊を敵陣まで到達させる為の目くらまし程度のものであり、用いられ方としては砲筒の凌振と変わらないのである。

2,方臘に戦死者が出なかったハズであるはあくまでも予想。作者の手にかかれば殺すことなど簡単。例えば方臘戦では軍を宋江と廬俊義の二手に分けており、戦闘の舞台が違うので公孫勝がいる側はいいいが、そうでない側は殺し放題である。 これは安道全にも言えることであり、かれが杭州で退場したとき既に仲間は13人死亡しており全能とは言えないのである。かれらはあくまで保険みたいな存在で、彼等がいるだけで完全となると考えてはいけないのである。 方臘の公孫勝が仮に従軍したとしたら、それまでの水滸伝での活躍のパターンからいうと包道乙戦に限定される可能性は大きい。かれの存在は対魔法使いがだいたい前提なのである。

3,これは魯智深円寂の意味合いとの関係において正しい。

4,5、公孫勝の義理を果たさせるというなら、そのまま従軍させればいい。 包道乙戦に参戦してあとの戦いでは傍観すればいいのだ。 これまでの戦いでは恒例である。(例えば呼延灼の連環馬にも無関心)ほとんどが武芸者同士の戦いに関与していない。 でなければ用心棒の公孫勝先生が表に登場するまえに、好漢を殺しちゃえばいいのである。 公孫勝の義理を無視するなら、方臘戦い序盤で相手に強大な魔法使いを登場させ公孫勝と相打ちさせればいいのだ。 とまあ、公孫勝をあえて料理しようとするなら、なにも征遼の物語をこしらえる必要性はないのである。

 公孫勝はあくまでもおまけであり解説137で述べたように時代に合わせて挿入されたキャラクターにすぎない。その為魔法使いの活躍も抑えめにしてあるのである。 だから魔法使いだからといって特別視してはならないのであって、そもそも水滸伝は肉体派の野郎どもの生き様なんである。


 ここまで公孫勝を引きずり降ろすと少々可哀想なのでちょいと彼を擁護しよう。
征遼は水滸伝108人の最大の目的であり、その為に彼等は編成された。
公孫勝の退場はこのことの証明の為に存在する。
と書くと????だろうが。解説。

54回において羅真人は公孫勝の正体が天間星であることを述べている。 つまり公孫勝が魔星であり目的をもって地上に降ろされたことを知っているのである。 それゆえ、本来ならば公孫勝は世俗との関わり合いを捨てなければならないのだが、俗世に降りて宋江等を助けることを許すのである。
42回において九天玄女は彼等の使命を語ります。臣下となり国を助け民を安んじ邪を去って正に帰すると。つまり遼と方臘を討てと。
85回ではここで羅真人は宋江の未来について語る。そして宋江に約束をさせるのである。
それは弟子の公孫勝に宋江のお供をさせ、宋江の「大功」を助けさせ「都に凱旋」した曉には返してもらうということであった。ここで羅真人は弟子の公孫勝はみなと同じ星なので仲間に加わらなくてはならなかったと述べている。

 このことを総合すると羅真人は彼等の正体と目的を熟知しているために愛弟子を差し出したということである。
そうしなくては弟子は冥府に落ちることになり、どうしても宋江に成功してもらわなくてはならないのである。そういう意味で目的の達成した曉には公孫勝は地獄に落ちる心配もなく修行の道に進むことが出来るようになるのである。

 つまり宋江が「目的」を「完遂」したとき公孫勝は「解放」されるのである。
では公孫勝は何処で帰郷が許されたか?
それは征遼凱旋後である。
よって108人の最大の目的は「征遼」であったということになる。
公孫勝の退場は彼らが目的をは果たしたことの証明なのである。
以降公孫勝のみならず多くの仲間が去ってゆく。 祭りは終了したのである。
作品148
 水軍対水軍の戦いかっこいいですなあ。できれば長江ではでにやってくれたらもっと面白かったのだが。現実の方臘の支配地域はそこまでいっていなかったので、水滸伝ではある程度支配地域を拡大したがちょいと無理があるのかもしれない。
烏竜嶺の戦いは水軍の連中の活躍の場であるがここは悲劇に終わった。 梁山泊水軍はゲリラ戦とか食料積んだだまし討ちなんか得意だが真っ正面からの水上戦いは下手のようだ。
ところで阮小二と阮小五をはつきり区別できる読者はどのくらいいるものだろうか、正直言って管理者も違いが今ひとつ掴めていない。




「征遼公孫勝花道説」を前回否定したので遼挿入説が優勢になったのでこれについても再び述べておこう。
「遼挿入説」は田虎、王慶の成立の分析の過程から必然的遼についても考察されたものなのである。 これは作品146の解説に説明したが一部ピックアップすると

4,田虎の投降将が王慶戦いで戦死し残った者は方臘戦いには登場しない。これは挿入された物語のため田虎、王慶の話と方臘の話に繋がりがないからである。
5,上記と同様の理由で108人もメンバーが一人も戦死しない。

というものだった。
 遼についても、この5,の部分が当てはまるので挿入されたのではないかということになったわけである。
考察の流れとしては自然と言えば自然だが本当にこれで良いのだろうか。
征遼物語の不自然な理由として

1,遼では全員無事であること。戦死したら方臘の話の時登場人物の整合性がなくなってしまうからからこの様になってしまった。
2,遼、方臘とセットであるならば双方について戦死者が出てもいいはずである。異様に片方は安泰で片方は悲劇である。

とあげられるがたしかにごもっともである。
 しかし管理者は作品144解説に述べたように「招安路線説」をとっているのでこれについては別の意見がある。 その指向は全く異質で、はたして水滸伝を知らない方に説明すべきものであるか迷うところであるが無学のものの戯言とご理解いただきたい。 正式には他の水滸伝解説書を読まれたし。

 さて「招安路線説」の場合は水滸伝は本来ハッピーに終わるのが本当であるという考え方に立脚する。これは水滸伝は本来無頼漢が集まって最後は国家に尽くし名誉と地位を頂きましたののりの作品であったとする仮説である。
日本でいえば「桃太郎」を連想していただければぴったりである。人ならぬ桃太郎に猿雉犬が集まって悪い鬼を退治に行きお宝ごっそり頂きましたみたいなものである。 間違っても鬼は倒したが雉は煮られ猿は脳味噌を食われ、お宝も鬼ヶ島から持ち出したはいいが嵐にあって海中に沈めてしまったみたいなのりではないのである。

 水滸伝の常識をひっくり返すようなことを述べて恐縮だが「招安路線説」では 征遼の全員無事帰るという話こそ水滸伝本来の筋であるということだ。
征方臘のように戦死者がどんどん出る話こそが異常であると解釈する。
そもそも挿入説は「物語で戦死者が出る」ことを絶対条件としているが逆にここの部分が改編されたと思わないのか。 「大宋宣和遺事」のハッピーな世界は征遼と征方臘どちらに読者は見いだされることだろう。いけいけどんどんの遼の物語のほうが明らかに明るく原型を残しているのではないだろうか。物語の作りでは征遼、征方臘もハッピーエンドで終わるという手段も考えることもできるはずだ。
つまり征遼の物語が水滸伝を真に継承する物語であることである。そして全体の物語はここを頂点として作成されているのである。(失敗しているけどね)
水滸伝では自己の思想を反映すべく方臘の部分に死を演出した。すなわち五台山から始まり円寂で終わるものである。

 管理者の考えでは挿入説は「問いの仕方」が間違っていると思われる。
つまり「何故一人も死なず全員無事だったのか?」ではなく「何故彼等は死ななくてはならなかったか?」と提起すべきなのである。 そうでなかったら水滸伝の深淵には進めないような気がするのだが。
作品149
 読者の中には好漢が死亡する漫画が連続なので碧碧している方もいらっしゃるでしょうがしばしの我慢を。というのも後数回で死亡漫画は終了するのでそれ以降は普通に戻りますので。
巷には月の蛇なる梁山泊の好漢を抹殺する漫画があるようなので、対抗して本当の梁山泊の好漢の死に様をお見せしたかった次第でした。 もっともギャグ漫画なので実際の様子と違っていますが。例えば今回の李雲の場合、敵将の退路の道をふさぎ堂々と戦いを挑んでいくが馬に踏みつぶされて死亡している。
管理者は彼の最後に武勇のほどを見せて死なせてあげたかったが、石勇が後に死亡するので勇士の姿を画くことが困難になりこんな漫画になりました。 しかし李雲は李逵と同じくらい強いはずなのに馬に踏み殺されるとは残念なことだ。



 一般に水滸伝は反政府の革命的な指向を持ったものであると捉えられている。
それは好漢が悪漢を退治するところから最後は悪い政府に反旗を挙げるのが自然の流れだからである。その為招安に応じることは読者に対する裏切りであり、彼等が堕落したものであると捉える向きがある。
このため金聖嘆などは集合段階でぶった切る暴挙に出てしまい、宋江を悪党に仕立てたのである。現在の流布する水滸伝の傾向はこのようなものであり、反政府集団として戦う彼等に喝采を浴びせるのである。
しかしながらこの様な捉え方は水滸伝を狭くとらえたものの見方であり、読者としてはもっと注意深く物語りを見る必要性がある。 そこで招安後の戦い「征遼」がなんなのか説明してみるとしよう。

水滸伝には一つのパターンが存在する。
それは
「無頼漢Aが弱者(被害者)Bを助け、抑圧者(加害者)Cを懲らしめる。」
というものである。
これを「好漢救済形式」と喚んでおこう。

 例として魯智深を題材にしてみよう。 まず正義感が強く腕っ節の強い魯智深なる好漢がいた。 親戚を頼って渭州にやって来た金翠蓮がものがいて、彼女に待ち受けてのは鎮関西の三千貫の空証文と妾の強要だった。ここで魯智深は激しく怒り鎮関西なる肉屋の鄭を懲らしめに行き、誤って殺害してしまう。
好漢救済形式ではAが魯智深、Bが金翠蓮、Cが鎮関西となる。
この形式は物語では変形してAとBが一緒になるケースも存在するが基本はこれである。 柔らかに言うと好漢が虐げられている弱者のために、抑圧者あるいは搾取者を退治するお話である。

 さて水滸伝世界のHierarchie(階層制)はどの様になっているかというとこの様なものである。厳密な実際の階層を書くと分からなくなるので物語に準じてソフトに書くと。

 民 < ちんぴら < 金持ち < 役人 < 高官 < 中国皇帝 < 遼
(大きい方が上という表記)である。

 上記の「好漢救済形式」の式にこれを代入すると物語が出来るのである。 この場合好漢は個人から集団へとCの階層が高いのに対して変化する。
たとえば
例1:a、好漢個人 b、民 c、ちんぴら
この場合は東京で楊志が刀を売るなどがこれに該当する。
例2:a、好漢個人 b民 c金持ち
aとbが一緒になるが解珍解宝と虎を猫ばばした毛太公の話など。 cは農家としては祝家荘、商家としては曾家荘などもこのて。
例3:a好漢 b民 c、高官
星辰綱の晁蓋一味、北京大名府の梁中書とか李逵の殷天錫殺害事件など。
こんな感じだ。
多少きちっと収まらない面もあるがだいたいこの形式が繰り返される。

 水滸伝では搾取され虐待される人々が画かれ好漢がこれを助けるのだが、上記の階層制をみられてなにかお気づきであろうか。 そう一番最後の頂点に「遼」がいるということである。
搾取する者とされる者、平民から始まって頂点まで達する。 つまり「搾取」「恐喝」という「食物連鎖の頂点として遼がいる」のである。
一般の読者は宋の高官までで搾取者の追跡を終わるのだが、じつは水滸伝の搾取者、虐待者の頂点は「遼」なのである。つまり宋の民が金持ちや役人、高官によって吸い取られた財産は宋の国庫に納まりそこから最終搾取者「遼」によって吸い取られるのである。 宋は遼に恐喝されて財を貢いでいるのである。
財貨は皇帝で終焉はしないのである。もっと上があることを読者は忘れてはならない。

 これを「好漢救済形式」に当てはめるとa梁山泊軍 b宋国 c、遼となる。
このように述べると「征遼」が好漢救済形式そのままの話であることが分かるであろう。 つまり食物連鎖の最終搾取者を倒しに梁山泊は出撃したのである。
これは魯智深が鎮関西を殴り殺したこととなんら変わりがないのである。 梁山泊は魯智深であり。大宋国は金翠蓮。遼は鎮関西となるのである。
違いは単に規模が違うだけで、征遼物語はおまけで挿入どころか数々の搾取者を懲らしめてきた好漢たちの最後、最大の仕上げなのである。


 さて実は好漢救済形式に当てはまらない物語が水滸伝に存在する。
そう「征方臘」である。
搾取者の頂点遼を退治した梁山泊にとって方臘はこれまでとは違っている。 遼を倒したことにより彼等は搾取者側に転じることになってしまう。 a、梁山泊軍、b民 c、梁山泊軍 である。 その結果彼等には「死」が待ち受けていることになるのである。 自分で自分を退治しちゃった。みたいな。
とにもかくにも、征遼の物語が水滸伝からかけ離れているとは思わないで頂きたい。 むしろ水滸伝の核心の戦いなのであるから。
作品150
 またまた溺死者登場。下手でも泳ぎは必修科目ですなあ。 ところで水軍はメンバーが少ないので他から手を借りている特徴がある。
李俊の場合は費保、上青、倪雲、狄成など優秀な人材を集めることが出来なかなかラッキーな人である。一方梁山湖の兄弟は泳げないと分かっていたのに仲間内でまかなったので5人の溺死者を出した。この兄弟と共に従軍するときは注意ですなあ。
とにもかくにもこれは人災です。




 遼の重要性について物語の形式を使って前回説明したが、これを解説したのは物語の形を把握しておくことは理解の助けになりやすいからである。
ここではウラジミール・プロップの様な高尚なNarratology(物語論)を展開させてはいないのでおおざっぱなものと理解いただきたい。 水滸伝は「好漢救済形式」によって構成されており、それが時間軸に従って個人的なものから国家的なものへと段階を踏んで拡大していることはお分かりになられたことであろう。この間には農業や商業の富裕層あるいは大名府長官との戦いがあり、おおいに好漢を大暴れさせている。
大半の読者の期待するものは好漢が政府を打倒するというものであろう。 実は水滸伝では三度の高キュウ戦でこれを実現されているのである。 高キュウ戦において梁山泊は軍事力で宋国を超えてしまい、ここで憎き敵である高キュウも道化となり小者に戻ってしまう。
好漢救済形式では宋政府の立ち位置がcの加害者からbの被害者に転換する瞬間である。 こうなると梁山泊がその気があれば東京陥落も空想でない。 普通に考えても遼の大軍勢を相手にうち破る力がある軍団が目と鼻の先の都市一つ制圧出来ないはずもないではないか。 史実では東京は水攻めにより酷い目にあってりして結構守りにくいのである。


 さてこの驚異の戦闘集団梁山泊が総力を挙げてうち破った遼の物語であるが、征遼を読まれて読者はこれまでの戦闘とどこか違うことに気がつかれなかっただろうか。 そうやたら「陣立て」が登場するのである。
これは物語全体を通じて「梁山泊お披露目童貫戦」と「征遼」以外見られない特徴であり、征遼での陣立ての戦いは国と国の戦いを意識したものになっているからである。 それまでの戦闘の場面では好漢の出撃メンバーが公表され一騎打ちのシーンと続くが、征遼では集団として組織だった戦闘がわざわざ描写される。
この陣立ての戦いを水滸伝では当初から予定していたことがメンバーから読みとることが出来る。ここの部分の解説は後に譲るとして征遼がどの様な形で構築されたか追って行くとしよう。

 征遼の物語については研究者によれば楊家将の影響を読みとれるという意見がある。 研究者は楊家将の形成時期について論じており、この影響を受けて現在の水滸伝の征遼が構想されたと述べている。
確かに楊家将の生き残り六郎の対遼戦と似ていると言えば似ており、そうでないと言えばそうでないし、肯定も否定出来るものであるのでなかなか難しいところである。 しかしどちらも陣形戦が中心であり案外この説は正しいのではないかと思われる。
ここで紹介程度に楊家将の六郎の部分について書き記しておこう。


 作品121の解説にて楊家将の物語、主に楊継業と彼の一族の遼との戦いについてあらすじを紹介した。 今回はその続き、楊継業の息子六郎「楊景」「延昭?」の物語。 楊家将を見渡すと六郎の話が全体のほとんどを占めることからこの人物こそが主人公といえる。 楊家の兄弟は遼との戦いでどうなったか作品121のおさらいだが、長子淵平、次男延定、延輝が戦死。四男延朗は捕虜。五男五郎延徳は落ち延びて出家。七男七朗延嗣は仁美に殺された。六郎だけが残り父と弟の無罪を訴えるべく都に向かい、えん罪は晴らされ潘仁美は誅殺される。

 さて皇帝が崩御、新皇帝は真宗となる。 すると遼からこれを探るべく武将による腕比べを宋に挑戦してきた。 宋の将として登場したのは楊家の長女七娘、みごと敵将招吉を捕らえ慶吉の首を切り落とした。 六郎は高州節度使に任命され向かうことになったが、与えられたのは老兵ばかりであった。
落胆する六郎であったが、しかしここで顔が黄色かったので病兵と間違われた花刀の「岳勝」を部下にすることが出来るのであった。佳山寨に到着すると可楽洞に盗賊の首領「孟良」がおり、ならずもの数百人をあつめ略奪を生業にしているとの話を聞き及ぶ。
六郎と岳勝は可楽洞に赴き手下を殺すと、孟良は怒り六郎に戦いを挑んできた。 三度六郎が孟良を破りこれを許したので孟良は恩に感じ部下のなったのであった。 かくして六朗は猛将孟良を手にいれさらに孟良は手下の頭目16人を引き連れてきたので戦力は増しつつあった。
また芭蕉山に「焦賛」なる盗賊がいると聞き及ぶと六郎は仲間に加えるべく行動したが孟良は彼は人を食う性行なのでやめた方がいいと忠告した。
そう聴いても六郎は仲間に迎えるべく訪ねて行ったのだった。 焦賛は仲間になるを渋ったので六郎たちは山寨を焼き払うと焦賛を討ち取り仲間にしてしまった。かなり強引。
この焦賛はトラブルメーカーで李逵みたいな性格でありこの後六郎を困った状況に追い込む吾人である。仲間にしなかった方がよかったのかも かくして三関の守りとして正式に朝廷から六郎楊景には鎮撫三関都指揮使。孟良、焦賛、岳勝は指揮副使、劉越ら16人は都総部頭が任命された。 ここに六郎を中心とした楊家の軍団が完成したのである。

 宴にて六郎が父継業の遺骨を敵地に残したままであるとの嘆きを聴いた孟良は単身遼に潜入するのであった。大冒険は省略して見事孟良は遺骨を持ち帰り六郎と合流したのだった。

 だがしかしこれを追ってきたのは遼の名将「天右」であった。 かれは不死身の将であった。遼軍に対し六郎軍も応戦したが孟将の孟良が天右を斧で切り裂いても死なないし、六郎が槍で突き刺しても同様なのである。焦賛を含めた主力三人ががりでも倒せず六郎軍はやむなく谷に逃れた。

 六郎たち谷に封じ込められ囲みを突破できない、ここで孟良は楊家五男の五郎に援軍を要請すべく五台山へと向かったのであった。 五台山に到着した孟良は五郎に逢い援軍を要請したが、五郎は出家の身でもあり断るのであった。援軍の条件として出されたのは八大王の名馬をかりてくることだった。 だが八王が貸してくるはずもなく孟良は盗んでしまった。 孟良は五郎のもとを訪ね馬を差し出すと五台山より出立させ楊家の長女九妹と合流し六郎の救援に向かったのであった。 ここでちょいと九妹の遼での冒険談あり。

 いよいよ五郎と天右の一騎打ち。 五郎が刀で天右を切り裂くが天右は無傷。ここでこの男の正体を悟った五郎は呪文を唱えると天がにわかにかき曇り砂石飛び乱れ天空より降魔杵一条を執った神人が光臨してきた。 神人一喝の声に天右が馬から転がり落ち、五郎が大斧で切り裂くと一条の光となって消えてしまった。 かくして六郎は遼の囲いから逃れ五郎は再び五台山に戻ったのであった。

 さて朝廷内には六郎の活躍を快く思わぬ王欽なるものがおり六郎の殺害を狙っていた。 松の廊下みたいな感じで罠にはめられた六郎だった。 六郎は三関より密かに都に戻ってきていたが勝手についてきた焦賛が仇を成していた謝金悟を殺害してしまい、このことにより二人は刑に服し流刑となる。
六郎は汝州に流されたが王欽はさらに酒造密売のでっち上げで彼を殺害しようとした。 しかし救う神ありで八王と寇準はえん罪を察すると汝州の太守とともに六郎に似た罪人を殺害し彼を救い、後日の国難の助けとなるようにしたのであった。 佳山寨にいた岳勝等は六郎が誅殺さてたと知り、慟哭し山寨を破壊すると解散したのであった。

 これを喜んだのは先の戦いで敗北した遼であった。 邪魔者の楊景がいなければしめたもの、早速考えたのが王欽を利用し勝景天下一の噂を流し宋皇帝真宗をその地に誘き出し虜にする作戦だった。 お馬鹿な皇帝はまんまと罠に落ち遼の軍に城を囲まれてしまう始末となったのである。 この時皇帝は六郎を誅殺したことを悔やんだが八王は命に背き彼を生かしていることを告げると帝は大変喜び赦免状を使者に持たせ探させることにした。

 六郎は使者の要請を受けるとまずは焦賛のもとを訪ね、ちりじりになった二十一指揮使の仲間を集めると皇帝に救援に向かったのであった。 六郎の軍は遼を蹴散らし皇帝は無事都へと帰還したのであった。 戦いに敗れた遼では宋が攻めこんでくるのを心配した。 そこで有能の士を求めるべく求人広告をだしたのであった。 そしてこのことが大戦争とつながるのだった。
長くなったので次回へ続く。
作品151
 水滸伝では仲間が集まってしまうとそれぞれの好漢の個性というものが表現不可能となり 名前だけの存在となってしまっているが、よく読むと大集団の中での好漢の心情というもを伺い知るとこができる. たとえば水軍などは王慶平定後呉用に相談し朝廷信用ならずのの気持ちをうち明けている。歩兵軍の気持ちは鮑旭戦死の前夜歩兵仲間同士語り合って、騎兵が優遇されるので不満を持っていたことを語る。結果は石宝を驚かさせるほどの突進力をみせるが李逵はここで相棒を失ってしまう。



 さて楊家将の物語を紹介していたが長く成りすぎたので前回中断したままになっていた。遼が求人広告を出したところからの続きといこう。 果たして誰が応募してきたのであろうか。 ここからトロイ戦争のきっかけみたいで神話じみているが、簡単にいうと魔法陣を破る話となる。
八仙人をご存じであろうか、中国の仙人の代表格的存在で日本で言えば七福神みたいなものである。ジャッキーチエンの酔拳をご存じの方は主人公が一生懸命覚えようとした型の名前が八仙人である。 彼等はスーパー仙人だからお話の性格としては水滸伝の魔法使いというよりもっとハイレベルな西遊記の仙人と理解するといいだろう。 このうち漢鐘離(かんしょうり)呂洞賓(りょどうひん)が楊家将では登場する。

 二人は蓬莱山で碁を打っていたのだが、漢鐘離が下界の宋と遼のを眺め宋が勝と予言した。 日頃師匠格の漢鐘離に酒のことなのでたしなめられていた呂洞賓はいたずら心が起き遼に加勢し漢鐘離が驚く様をみてやろうと椿木の精霊(椿岩)を下界に降ろした。 精霊は遼に仕官し、その後呂洞賓自身も下界に降り「呂客」と名乗り遼の軍師になったのである。

 早速彼は諸国(鮮卑国、黒水国、森羅、西夏、流沙国)より軍勢を集めるととんでもない魔法陣をつくり始めたのであった。 呂洞賓が作り上げたのは「七十二座天門陣」だった。 九竜谷の平らな地に七十二の将台を置き五壇に七十二の通路を造った。 鮮卑国は本道に鉄門金鎖陣。黒水国は左に青龍陣。流沙国は右に白虎陣。森羅国は中央将台に配置し装束をしさんばら髪で立たせた。 西夏国は旗の右に配置、宝剣を執り、交戦するときは裸で出撃し髑髏を携え奇声を発する。 兵5千に五色の袈裟、僧侶五百を混ぜ迷魂鬼とする。 七人の妊婦を逆さにして生き埋め敵精神を萎縮させる。 さらに各種僧侶を配置した。 かくして完成した天陣は変化し測りがたく、昼には冷たい風雨あり、夜は鬼神は叫ぶといったありさまだった。 ここで遼は宋に挑戦状を叩きつけたのだった。

 宋側もこの陣を偵察にいったが見るも初めての異様な陣に驚き早速都に報告したのであった。 報告を受けた都でもこの陣について知る者は誰もいなかった。 そこで白羽の矢が当たったのが六郎である。 六郎は報告のみでは分からないので直接この陣を確かめて見ることにした。 六郎が実際みてみるとその陣は自分が知っている陣のどれにも当てはまらない摩訶不思議な陣であった。宋は皇帝自ら大軍を率いてこの陣に臨むこととなり、 いよいよ遼と宋の全軍を挙げての大戦争が始まるのだった。 六郎は六甲天書の三巻の下巻を学ぼうとしたとき父が亡くなったので、下巻について学びそこねていた。もしや下巻に書かれていたものの中にこの陣について記されたものがあるかもしれず。それは母が知っているかもしれぬと皇帝に報告した。 早速皇帝は六郎の母を都より招くこととした。

 六郎の息子「楊宗保」は祖母があわただしく旅支度をしている見かけ、こっそりその後を追っかけた。 しかし途中道にはぐれてしまい、奥まった場所に入り込んでしまう。 あたりは真っ暗。すると有り難いことに人家の灯の光があるのを発見した。 そこには麗しい従者とともに一人の婦人がいた。 楊宗保は事情を説明すると、婦人は笑いながら「あなたの祖母は無駄足でしょう。仙人のする事は人は知り得ません」。 婦人は「この地に四百年いるのに初めて人とあったのも何かの縁。」と兵書を教えたのであった。 仙丹と知らずにごちそうを食べていた楊宗保は明敏となっており婦人の教えを全て記憶してしまったのであった。 夜が明けて別れを告げて出発すると従者たちは消えてしまった。 不思議がって深い林を抜けたところで住人に尋ねたところ、あここには昔撃天聖母の祠があったが今は礎石があるだけとのことであった。 ここで楊宗保は婦人が神であることを悟ったのであった。

 真宗皇帝が六郎の母に陣について問い彼女がなにも知らないのことを聴くと一同落胆した。とそこに楊宗保が到着した。六郎は息子が勝手にやって来たことを咎めたが、楊宗保が遼の陣が「七十二座天門陣」であることを知り、尋常ならざるものではあるが不備な面もあことを解き明かすとすぐに皇帝に攻撃を奏上した。 ところが遼に通じていた王欽(さきに六郎殺害を狙っていた)は陣が完全でないことを密かに遼に報告したのであった。 この内通に遼では驚き軍師の呂客に問うと彼はが誰も知るまいと侮っていたことを告白し、不備な箇所を補強することとした。 さて攻撃を仕掛けようとした宋であったが、楊宗保は将台に登って愕然とする。 この前まであった不備の箇所が全くないのである。 このことを聴き六郎は病に倒れるのだった。

 仙界の漢鐘離は呂洞賓の様子がおかしいので雲霧をかき分けのぞき込むと遼に手助けしているのが分かった。 「あの者は昔、腹を立てて黄竜を切り、今回は小言で腹立てを立てている。このままでは天の法を犯すことになる。」 漢鐘離は下界に降り立つと、宋陣では丁度軍医の求人があったので「鐘漢」と名乗り宋陣に入ることが出来た。皇帝は六郎の病気を鐘漢に診させたところ二つの薬によって治るとの事であった。一つは宋皇帝の鬚、もう一つは遼の簫后の髪であった。 このあと孟良と焦賛の遼での冒険談あり。 二人の働きで髪も手に入れ鐘漢が薬を六郎に与えると彼は元通り元気になった。 皇帝は喜び鐘漢に官職に封じるようとしたが彼はこれを辞退し、六郎の補佐を願い出た。 かくして宋には漢鐘離が軍師として就くことになったのであった。

 軍師となった鐘漢は太行山より金頭馬、汾州よりから王貴、無佞府より八娘、九妹、柴太軍、五台山から五郎を呼び寄せた。 ここでまた孟良迎えに行くと五郎は自分が先に天右は殺したが、人ならぬ将天左は生きているので自分が戦わなくてはならないだろうとして、戦いに加わる条件として木閣寨の降龍木で斧を作らせてくれたらの条件をだしたのである。 木桂英という女将との物語があるがここは省略。 宋のいよいよ総攻撃が始まろうとした、ここで鐘漢は楊宗保を元帥とするべく進言し、皇帝は任命した。 攻撃の前に孟良に敵陣を偵察させた。鉄門陣は硬く守られており、青龍陣は道が入り組んでおり銅鑼が鳴り響く、白虎陣を過ぎ太陰陣は裸の女が立ち陰風漂い黒霧で満ち頭を眩暈させた。孟良は恐れ陣に戻った。

 軍師の鐘漢が言うには「太陰陣」が一番厄介であり髑髏をとり奇声を発すると敵将は気を失って馬から落ちてしまうらしく、これを破るには女を虜ししてこなくてはならないとのことだった。太陰陣の攻略の将は金頭馬が指名された。 太陰陣は刀や槍に満ち殺気に満ちていたが、丁度敵の女将が実は六郎の許嫁だったので説得して宋軍に引きいれてしまった。つまり口八丁といったところか。 かくして太陰陣は裏切りにより崩壊した。 面倒な太陰陣を取り除くと「鉄門金鎖陣」へと攻撃の手は伸びてゆく。 鉄門金鎖陣へ向かったのは木桂英と身重の柴郡主だった。 柴太郡は「青龍陣」を攻撃し激戦を繰り広げ、一方柴郡主は産気付き子供を産んだのだった。 かくして二つの陣は破られたのである。 三つの陣を破られた遼は敵に知謀の士がいることを警戒した。

 続いて「白虎陣」の攻略には六郎が向かった。 しかしこの白虎陣は変幻自在六郎は進路も退路もわからぬ状態になり取り囲まれてしまうこととなる。この事態に宋側は焦賛に命じ陣の虎の目を攻撃させた。 白虎陣は六郎に破られ宋は計四つの陣を撃破した。 続く攻略は「通明殿」。 出撃したのは六郎の母(令婆)八娘、九妹と王貴だった。 通明殿は制圧したものの王貴を失ってしまった。 「太陽陣」は孟良が向かった。一騎打ちにより敵将を破ると五朗に合流した。

「迷魂陣」、遼が自信を持つ陣でありここには人ならぬ天左がいる。 向かったのは僧兵を率いた五郎であった。 両雄ぶつかり合い、天左は負けたふりをして僧兵をおびき寄せると辺りに陰気に満ち 霧が立ちこめ妖鬼が現れい出て来た。僧兵は眩暈し脚は萎え進むことが出来なくなった。 これに対し宋は子供たち49人を集めると軍装させ柳の枝を持たせすすみ行かせた。妖鬼は散んじ、五郎は紅旗台に到達し逆さに埋められた妊婦を掘り出すと妖鬼は消えた。 いよいよ天左と五郎の一騎打ち。五合ばかり打ち合ったときこの人ならぬものは降竜棒で打たなくては倒せないと五郎は判断し、棒で天左を顔めがけて振り下ろすとそれは肩に当たり天左が正体を現した。すかざず斧でまっぷたつに切り裂くと竜は二つに分かれ飛び去った。

 呼延賛は「玉皇殿」を攻撃し、孟良、焦賛、岳勝は「北天門」を攻撃した。 しかし攻め込むと急にあたりが真っ暗になり方向がわからなくなってしまったのである。 これに対し宋は玉皇殿の真珠白涼傘を切り落とし術を破ると玉皇陣を撃破したのである。 引き続き孟良は「朱雀陣」を破り、焦賛は「玄武陣」を破った。

「呂軍師の陣」では「七十二座天門陣」が破られつつあるのに呂客は怒り椿岩を送り出した。椿岩は呪文を唱え大地を暗くし石や砂を飛ばし宋軍を攻撃した。 これを見ていた宋の軍師鐘漢こと八仙人の漢鐘離は宋軍に最大の危険が迫ったことを悟り陣の前に進み出ると腕を一振りすると風は去り日は明るくなった。 驚いたのは椿岩、あわてて遼の軍師呂客こと呂洞賓に鐘仙長がやって来たことを告げ逃げていってしまった。漢鐘離は呂洞賓のもとにやってくるといたずらを叱りとばし彼を連れて仙界へと昇っていった。

「簫后の陣」は7つの仙姑陣と四つの天王陣があり宋はこれらを撃破した。 かくして完全に「七十二座天門陣」は破られ宋の大勝利となった。遼の死者四十万を数え、遼の簫后は幽州に逃れた。 六郎は軍師の鐘漢に姿が見えないので心配していたが、部下の者が敵将を連れて天に昇っていったとの報告を聴き漢鐘離であったことを悟ったのであった。

 この後も長く続くのだが水滸伝と関係が薄くなるのでちょっとだけ。 楊家将はこのあと都への凱旋後、敵役の王欽が遼逃れ簫后に奸計を奏上するのだった。 その奸計は九州の地図で宋の重臣を九竜谷に虜にする作戦だったが大失敗に終わる。 遼の簫后は追いつめられて自殺。遼との戦いはここに終演した。 六郎の夢に楊継業が現れて遼の地にある自分の遺骨を宋に持ち帰って欲しいと出てきた。 孟良が遼に出発したが、こっそり焦賛がついてきた。敵地で暗闇のため孟良は焦賛を敵と勘違いし誤って殺してしまい、そのため遺骨を無事届けると悔いて自殺した。 六郎は父の遺骨を受け取ったものの二人が死んだことを知ると鬱々と楽しまずやがて病を得て無くなってしまう。



楊家将の陣がメインのお話は以上のようなものなのだが、水滸伝に登場する「太乙混天象の陣」と比べてやたら魔法がかっているのはお分かりになられたことであろう。 このことでも水滸伝では極力魔法使いの活躍を押さえ気味にしている事が分かる。 筋肉野郎が水滸伝ではメインであり魔法使いは脇役なんである。
作品152
宣賛は梁山泊一のブ男である。 あまりにも醜かったので奥さんが自殺したほどなのだが、逆にどんな顔なのか知りたくなるのは管理者だけだろうか。



 楊家将の六郎の遼との戦いについて紹介したが、研究者によれば楊家将を水滸伝以前の作品とし、廬俊義が青石峪に陥るのも白勝が山越えするのも、六郎が谷に封じ込められた話や孟良は山越えする話を下敷きに作成したものであるとしている。 さらに遼の陣形、楊家将の「七十二座天門陣」と水滸伝の「太乙混天象の陣」の類似点を言及し、両者共通として神に力を借りてうち倒していることを挙げている。
簡単に言うと水滸伝は楊家将を参考に作成されているということなのである。 さらにこの説の補強し、陣形戦が古い論拠として雑劇「謝金吾」のなかで天陣について語られていることを言及している。つまり元の時代に天門陣の話は既に存在ており楊家将は水滸伝以前であり、水滸作者が十分これを参考にすることが可能であることを証明している。

 この方はその道の専門だから、管理者の論じる水滸伝論よりはるかに優れたものであるとはいえその説の可能性は高いとしか述べられず断定的に紹介できないにが残念である。
この研究者の主張のように両者の陣には「太陽陣」「太陰陣」があり共通であるものの、この名称は陣名では特殊な名称なのだろうか。しかも楊家将の陣は魔法化している。 もちろん初期楊家将は普通の陣で明代に神話化した可能性もあるが。 また両者神に助けられるが楊家将では漢鐘離と撃天聖母と2柱で助けているが、水滸伝では九天玄女1柱で助けている。その助け方も差違が大きいように見える。 水滸伝の九天玄女のイメージは神農黄帝の戦いをイメージしてるとと思えるのだが。
どこか釈然としないところがあるが「水滸で釣り」が論点にしているのは楊家将が水滸伝に与えた影響ではないので、ここのところは深く言及することは止めよう。しかしなんらかの繋がりがあることとご理解いただきたい。

 ここまで国対国の戦いの場面では陣と陣の戦いが繰り広げられていることを述べるために長々と紹介した。これは作品153の説明の前にこのことを理解してもらいたいために述べているのだが、楊家将との遼との大決戦においても陣と陣のものすごい戦いの物語が繰り広げられていることはご理解頂きたい。


 楊家将でも陣攻略の戦い、水滸伝でも陣攻略の戦いがメインに画かれていることは分かった。国と国の戦い陣形戦、他の国内の内乱系は一騎打ち戦というわけだ。 ところでこの陣なるものは水滸伝では征遼の部分にて初めて登場したかというとそうではない、まだ招安する前の童貫戦において九宮八卦の陣は登場するのである。
そこで異常なほどの細部の軍団の描写がなされている。 水滸作者の力の入れほどが分かるというものである。 それまでと打って変わって正規軍のような出で立ちなのである。 ここの部分に管理者は水滸作者の力の入れようと、物語の方向性を感じることができるのだが。

 さて一般に考えられているように水滸伝が招安から直ぐ征方臘に向かうものであるとすると第78回の童貫戦は挿入されたか、大幅に改編されたと判断しなくてはならないだろう。 (こう考えるとなんて長ったらしい挿入なんだろうか) というのもここで梁山泊側の九宮八卦陣についてやたら詳細に描写してあるからである。 つまり招安以前の段階でもう遼との決戦モードになっているのである。 では童貫戦から征遼が始まっているというのか。 これは征遼は始まっていなくて政府主力との戦いがあっているということだけなのである。 征遼を前提とした前段階が行われていると考えた方がいい。

 以前にも述べたように九宮八卦陣は兵力を八方に分散し兵力を均等に分配している。 これは平原で宿営するときなどに見られる形態である。 この陣形そのものが騎兵による包囲を警戒し兵力を八方に展開した結果であることは分かる。普通だったら前方に厚く展開しないだろうか。 九宮八卦陣は北方民族の騎馬を意識して作成されたものになっているのだ。
こんな陣形を長ったらしく紹介するのはこの段階で梁山泊が宋国軍たりえること、あるいは真の宋軍であることのアピールをしたかったと読みとれる。水滸伝においては陣対陣の戦いは征遼以外ないので、この童貫戦の陣形および出で立ちは征遼を意識したものと解釈できる。

 つまり征遼は唐突に入り込んだというのでなく、初めから108人の集合、軍団の完成、征遼と一連の流れになっているのである。 遼の話の特徴は陣戦である。挿入されたと言われる遼を除外するとするなら78回の華やかな出陣は削るのが筋というものである。
作品153
 カク思文の最後は可哀想である。果敢に戦って最後でなく捕獲され切り刻まれ、最後は頭を竿に取り付けられさらし者になるのだから。関勝の副官で武芸十八般なのに水滸作者も容赦ない。徐寧は張清同様首を弓で射られたが、運が悪いことに毒矢ときた。安道全がいたら助かったかもしれないのが残念。 これで征方臘での戦死者の漫画は書き上げたつもりだが、北方謙三水滸伝の好漢の死しか知らない方には参考になったことであろう。




 水滸伝の遼の物語の部分は楊家将からのアイデアを頂戴したものであるという研究者の主張を紹介した。ここのところ征遼はあくまでもオマケの物語の認識で述べられているのかもしれないが、水滸で釣りではもう一歩踏み込んで征遼の物語は水滸伝の中心的物語であると主張する。読者はこんな面白くもない話が重要な部分であると認めたくないであろうが招安路線説ではそうなるのである。 さて、楊家将という別の物語で国と国との戦いにおいて陣形戦が行われているということを見てきた。これにならって水滸伝でも外国との戦いには陣形戦がおおいに登場する。


 水滸伝における征遼の存在位置を今一つ検証してみよう。 以前述べたように水滸伝は長い時間を経て長編物語として完成したものであった。 その初期段階ではバラバラの英雄豪傑のお話が、史実の宋江に収斂され36人の好漢が出出来上がっていったことはもうお分かりのいことだろう。 この初期段階と現在の完成した水滸伝の差違を検証することは作者の意図を読みとる手段となるのである。

 水滸伝108人のメンバーに注目して頂きたい。このうち天コウ星36人は初期段階で既に確定され、イメージも今日まで変化はない。むろん多少の変化はあることにはあるのだが無視していいだろう。 ここの36人については特徴にあまり変化がないことから水滸伝作者も流石に自由に改編出来なかったと読みとれる。 作者は先人の作品に敬意を表していたのであろう。

 では水滸伝作者が自己の思想の基、自由に作成できる箇所は何処にあるのであろうか。 そう、それは36人以外、「地?星」の部分に自由な空間があるのである。 地?星は72人という数は定められていたであろうがその中身は白紙の状態であったと推察される。これらの星は一般に天コウ星より人数も多いし能力も劣るので無視される存在であるが、この構成を考察することは重要である。 つまり地?星には作者の意図が隠されているのである。

 さて地?星の筆頭地魁星について考えてみよう。 地魁星の朱武はどの様なキャラクターであろうか。かれのあだ名が神機軍師となっていることで分かるように参謀である。 軍師なら呉用なる人物がおり、さらには副軍師として公孫勝がいる。あえてここで軍師を必要とするのかと思われないだろうか。 謀略は呉用はが一手に引き受けていることから、彼の役目は集団戦における陣戦の参謀として存在する。 もちろん彼も梁山泊に合流後、曾頭市、北京大名府戦、東平府戦での活躍の場が存在するはずなのだが、まったく出番がない。これはどうしたことなのであろうか。

 不思議なことに彼が活躍するのは征遼においてのみであり、陣形についてのお宅度を発揮するのである。 地?星の筆頭である朱武が征遼以外出番がないとはどういうことか? それは多分彼の存在が外国遼との陣形戦の為に作者によって設けられたキャラクターだからである。
つまり地?星のキャラクターの誕生は征遼物語の登場と一体であるということである。 梁山泊にメンバーが集合し征遼に向かう物語の方向性に従って地?星のキャラが定められたということである。 もし一般に考えられているように招安から方臘向かう筋の話だったとすると朱武の存在はゼロである。そのような存在を水滸伝作者は新規に追加し地?星の首魁として、しかも軍師の地位を与え、神機軍師の特徴まで与えるであろうか。

 明らかに彼の存在は陣形戦におけるヒーローとしての存在が前提であるといっていいだろう。朱武と征遼は切っても切り離せないのである。 楊家将では陣形戦のエキスパートの楊宗保がおり、いわば水滸伝ではこの役回りが朱武だといえる。 外国遼とは陣形戦がついてまわり、この話に合わせて陣形専門の軍師が考案されたのである。
というわけで征遼の物語は現水滸伝作成の段階で既にあり、後で挿入されたのではないのである。
作品154
 安道全がいたらと思うのはこの病人を多数だして死亡に至らしめたところである。 戦いの場面では多分安道全がいようがいまいが戦死者は出ただろうが、張横等が病に伏したときは治る可能性が大だからである。 それにしたも大量に病死させたものだ。
別の作品では林冲や楊雄、時遷、楊志の病死を画いたが水滸作者の魔の手は豪傑といえど 容赦なく忍び寄るようだ。廬俊義毒殺、関勝落馬死、林冲脳卒中死亡。 強い連中がろくな死に方をしていない。
水滸伝では強い連中はあっけない最後となっている、石宝は自刎、史文恭は幽霊につきまとわれてアウツ。 これは作者のブラックユーモアてやつなのか。



 前回は作者が自由にキャラクターを設定できるところの地サツ星の特徴によって、水滸伝作者の意図を読み解こうとした。 その例として朱武を選定し論じたわけだが、これにより地サツ星作成段階と征遼作成の段階が同時である可能性が高いことを説明した。 今回も同様に地サツ星の特徴により遼との関係を紐解こう。

 以前にも説明したように水滸伝のメンバーで不思議に思うのが水軍の少なさである。 これを天コウ星と地サツ星で比べるとさらにその事情はよく分かる。
天コウ星の水軍は李俊、張横、張順、阮小二、阮小五、阮小七の6人となり。 天コウ星36員のうち6人なので構成員の16.66%が水軍の比率となる。つまり1/6しか水軍がいないということだ。 水滸伝が運河一帯を中心として伝承されてきたとするならもう少し増えても良いようなきもする。 しかしよく考えてみれば長江流域などのは水に関係したものが多いだろうが、山東ではこんなものだろう。

 とろで地サツ星の場合はもっと深刻である。 その増加された水軍は童威、童猛の二人だけ。す、少ない。 地サツ星の総数は72座なので、わずか2.77%しかないのである。つまり1/36ということになる。 地サツ星は作者が自由に増減可能な箇所なのに水軍がこの扱い、いったいどうした訳なのか。もし天コウ星と同比率で増員したとするならば約12人の増員となり、天コウ地サツ合わせて18人の集団になっていたはずなのであるが。

 このことは水滸伝作者が水軍の増員が必要としないという判断があったと解釈できる。 そのかわり違ったところで地サツ星の色合いをだしている。その特徴は技術者集団を大幅に増やしたことである。ここに重点を置いたため、たとえば本来武芸者であったろう筈の李雲なのはいきなり技術者要員になってしまったのである。 つまり地サツ星で施設要員を増やしたといっていいだろう。


 そんな特徴があるので水軍やむなしの判断をおもわずしてしまいそうだが、はたと気が付いた。地サツ星の騎兵の補強がしっかり成されているということだ。 もちろん歩兵部隊も。 天コウ星の副官として地サツ星がしっかり補強され、あの李逵でさえサポート集団をもつのである。 この差はなんなのだ。もちろん水軍にも同様に補強はされているもののそれは李俊のみであり寂しい限りだ。

作者があえて水軍に冷遇するように彼等の活躍場所とは存在しないものだろうか?
そこで征方臘にて検証してみる。

水軍の場面はこの様になる。
1,潤州戦にて呂師嚢への献上品を積んだ船を装い上陸、後潤州攻略。
2,蘇州戦にて方臘の船を乗っ取り蘇州城内に潜入させ呼応して陥落させる。
3,常熟、崑山攻略戦
4,杭州戦にて敵の糧船を手に入れると紛争させ城内に忍び込ませ呼応して占拠した。
5,銭トウ江
6,烏竜嶺戦で火船にやられる。
7,清渓県の戦、60隻の船で投降するふりをして城内に潜入し横行して陥落す。
こんな調子なのだが水軍の戦いはかなり多い。

 もし一般に説かれるように招安から直ぐに征方臘に向かったとするお話だったとするならば、これだけ水軍の活躍する戦いがあるのに地サツ星の増員が2名に限定されるのはおかしすぎる。ここは騎兵や歩兵を減らしてでも水軍の数を増やすというのが作者としての自然な姿勢なのではないだろうか。

 そこで「招安路線説」に立ち返り考えてみると。 これは自然なことなのである。
というのも江南の水運が発達したところを主題とした話なら水軍の増員はあってしかるべきものなのであるが、対遼との戦いを前提とした場合水軍は活躍の場がなく邪魔なのである。

征遼における戦闘は以下のものである。
1、壇州
2,玉田県、平峪谷
3,薊州
4,覇州
5、青石峪
6,幽州
7、燕京
このうち水軍が関係する戦いは壇州の攻城戦のみである。
そのほかの戦いでは歩兵扱いになったと思われる。

 これは他の施設要員も同様である部分は歩兵と一体になり、ある部分は諜報員となったりしている。 この様に征遼を前提とした部隊編成の場合は水軍はあまり必要としないのである。
逆に梁山泊軍崩壊を前提とした征方臘の場合は死亡者を多く輩出させなくてなならないので、水に得意な連中を征方臘で増やすわけにはいかないのだ。 彼等は死んでもらわなくてはならないから、水軍を増やして優位にする必要性がなかったというわけだ。

 朱武が陣形戦い専門の軍師であること、水軍がまったく補強されたいないことなどから 108員の構成が北方民族を想定したものであると考えることが出来る。
そして征遼の物語は方臘の後に追加されたものでなく、現水滸伝の設立当初から存在したのである。
作品155
 今回は廬俊義の最後です。 どんなに強くても毒殺には勝ちませんなあ。 漫画は不思議の国のアリスをネタにしちゃいました。単に廬俊義とThe Mad Hatter をひっかけただけなんですがね。 アリスのキャラクターの衣装にすると四姦もおちゃめに見えるのは不思議。



 梁山泊108人の特徴から物語り作成段階の様子を推論してきたが今回はもっと気楽に 考えてみよう。 作品109から115の解説において、水滸伝初期、中期の作品と違って現水滸伝には大きな変化が加えられたことを述べた。
それは今まで伝承された「あだ名」と「姓名」に加えて新たに「星の名」が追加されたことだった。 この解説は本来なら現在の段階で説明したほうが話の流れからよかったかもしれないが 思いつきで頭から引き出しているので順序がばらならなのはいたしかなない。 要するに星名が追加されたのは作者が「宋代の英雄」になぞらえて水滸伝を「ダークな英雄物語」にしたかったということなのである。 この簡単な説明の意味がお分かりでない方は再度以前の解説を読まれたし。

 ここでは星の名前から登場人物が設定される段階の様子をまた追っかけてみよう。 その前に天コウ星36人は伝承されてものであるし、作者はそのメンバーを尊重して大きな改編はしなかったことは先に述べた。 (但し、その序列には大きく変化を加えている。例えば林冲などの新参者を上位にもってきたり楊志のような大物を張清や徐寧あたりまで格下げしている。) それに対し地サツ星の場合はやり放題、まさしく作者の意のままといえる。 同様に新たに追加された星の名についても作者が自由に設定できるのである。

 さてこれらの星の名前だがその名称は中国の天体図から見いだせないので、多分作者の自由な創作であろう。 昔からあった36人を天コウ星とし追加された72人を地サツ星とした。 両者の星は呼応しているようである。
天、地について同星名をもつリストはこの様になる。
魁星(宋江、朱武)、勇星(関勝、孫立)、雄星(林冲、カク思文)、猛星(秦明、魏定国)、
威星(呼延灼、韓韜)、英星(花栄、彭キ)、満星(朱仝、孟康)、孤星(魯智深、湯隆)、
捷星(張清、キョウ旺)、暗星(楊志、楊林)、祐星(徐寧、郭盛)、空星(索超、周通)、
速星(戴宗、丁得孫)、異星(劉唐、鄭天寿)。微星(史進、王英)、退星(雷横、童猛)、
平星(張横、蔡福)、損星(張順、蔡慶)、暴星(解珍、鮑旭)、巧星(燕青、金大堅)
以上20星である。

 何故20星が天コウと地サツに関連付けられたのか考える必要があるがそれはさておき。
地サツは作成段階で天コウのコピーであるといっていい。 その配列パターンは天コウ星に似ている。
作者は伝承された36人を改編し現在の序列にしたさい五虎将の設定に思いを込めたよく分かる。

 天コウ地サツの対応する星の密集するのは序列5〜9位と16位〜21位である。 のうち5〜9位は地サツの39〜45位に密集するのに対し16位から21位は地サツではかなり分散してしまうのである。
そのパターンはまず首魁の星と参謀等の次にメインの武将が設定され、その次に文人の代表、そしてまた武将となる。
天コウ星では宋江、呉用の後に五虎将、次に柴進、李応ときて朱仝、魯智深となる。 地サツ星では朱武のあとに孫立とか魏定国となり、続いて簫譲、裴宣となりまた武将の欧鵬となる。
水滸伝作者はこの文人武人のを交互に入れて序列を作成している。 改編が限定される天コウ星と違って地サツ星では間を開けて安道全皇甫端、などと非戦闘員が組み込まれている。

 39、41,42,43,45位(孫立から魏定国)とこの部分に集中的に相関の関係があるのは水滸伝作者が天コウ星の姿そのまま展開しようとしたからと思われる。ところが51位に楊林以降それは3ないし5の間隔でとびとびになり対応の順序もバラバラとなる。
これらの現象は天コウ星がほとんどが戦闘員だったのに対し地サツ星は技術者なのの非戦闘員だったためにそのまま展開できなかったためと思われる。
不思議なことに69位以降に相関関係の星が2星続きで登場する。 (69,70)(78,79)(87,88)(94,95)位となる。
これは何故なのか。
水滸の魔法陣は難しいものだ。
作品156
 梁山泊の生還者たちもバラバラに去っていってしまいます。 それぞれに生きていたものたちが、縁によって集まり事を成しまた去って行く。 もの悲しくもあるが、梁山泊の集団はそもそもがバラバラの人間たちが集まって出来た集団なので当然と言えば当然といえます。
指輪物語でも最後は主人公は廃人になり、船に乗り東の海に消えて行き、また旅の仲間は ホビット村へと戻っていきました。
万物流転す。
集まったものは去らなくてはならない。始まったものは終わらなくてはならない。 物語も同様なのでしょう。



 征遼物語の重要性を説いてきたが、その重要さに相反し面白さに欠けるのは事実である。 ましてその後に田虎、王慶討伐の物語が挿入されるとますます陰が薄い存在となってしまった。 梁山泊側を戦死させないという前提が危機感を呼び起こさないし、描写がぼんやりしている。これに対し征方臘の物語では戦死者が続出ではらはらドキドキものであるし、戦いの場が具体的である。

 何故このような両者の差が発生したかというと、単純なことで
水滸伝作者が「杭州地方の人物」だからである。

 この説は管理者の説というより受け売りである。
研究者たちによれば征方臘による地形描写の正確さ。また漁民の生活の情景、水運の様子など細かく描写させていることから作者は杭州あたりの人物ではないかと主張している。 また、あだ名の病**などは杭州訛で「勝り」の意味合いがあるとも証言している。
この説は管理者も本当かどうか確認できないでいるが、例えば「病尉遅」は「尉遅恭勝り」となるらしい。あるいは「病大虫」なら「虎勝り」となる。 この説は多分正論であろう。

 征遼がおおざっぱで地理はむちゃくちゃなのも作者の知らない北の土地のためであろう。 そのため詳細な描写できる地元の征方臘との間に格差が生じたのでる。
いわばイギリス人がオランダの地を舞台に子供と犬ののたれ死にを画くように適当な設定といった感じなのかもしれない。オランダ人なら大いに不満が残るもののはずだ。 征遼がおおざっぱな表現になるのはいたしかたないといえる。

 地元を画くといえば南総里見八犬伝の舞台の関東。物語の時代は江戸幕府誕生以前の草ぼうぼうの時代だが読者が江戸市民となればそこはちゃんとした舞台となる。 この時代なら京都で暴れまくったほうが華やかではないかと思われるが、江戸市民にとって時代は違えど地元を舞台としたほうがわくわくの物語になるのである。
というわけで作者は征方臘で杭州の地元をもとに華々しい豪傑たちの死を画いたのでり、その描写や地理の正確さが文章に現れたは当然といえば当然である。


 杭州という都市は北方民族の存在がなければ単なる南の食糧集積の地方都市にしかすぎないはずである。しかし宋朝が金、蒙古と北からの圧迫により命からがら南に逃れ帝都としたため大きな変貌をとげる。北方民族の侵攻がなかったらここまで中華に中心が南まで南下することはなかったであろう。新旧のどの時代をとってもこのような周辺部に帝都があるのは異常といえる。中華の王朝としてはぎりぎりまで追いつめられたのである。

 彼等は故郷への帰還を夢見、迫りくる異民族との戦いを繰り広げていった。 杭州はいわば最後の砦といったものなのであるが、歴史では蒙古にさらに侵攻され平家のように落ち延びて滅亡してしまうのだった。丁度この地で梁山泊軍が完全に解体してしまうのは史実の中華の王朝宋がこの地で息絶えたのとあいまってもの悲しくもある。

 単純に作者が両者を結びつけて表現したと述べることは出来ないが、好漢たちの最後の様に史実でも北方民族との死闘が繰り広げられたことであろう。 もしかしたらこの都の住民の意識は明あたりまで反北方民族の意識を持っていたかもしれない。
杭州はその優美さに反し、万里の長城同様北方民族が脅威であったことを物語る遺産といえる。
この杭州地方で水滸伝が産声を上げたことは、水滸伝の核心と相俟って面白い。


作品157


 呉用と花栄の自殺だがなんでこんな死に方なんだと正直なところ思う。 文人の呉用はよく分かるのだが、武官の花栄が首吊り自殺とは以外である。 もっともこの方法があまり見栄えのしないものととらえている管理者のほうが 誤っているのかもしれないが。
その自殺の理由は花栄が述べており「名誉の保全」ということらしい。 水滸で釣りではちょっとひねくれてプライドという側面で画いてみた。
つまり呉用は首魁の近くの参謀の位置を守ろうとし、花栄は首魁の最も身近な武人という位置を保とうとして宋江の後を追っかけたという解釈なんだが。 まあ、本当はそうではない。 しかしだ花栄と呉用が仲良しであったとは思いにくく、一緒に首を吊ったことに違和感があるのでこう解釈したい。



 水滸伝の設立過程を追っかけて杭州まで来てしまった。 水滸伝が完成したのは明代なので北方民族を追い返し漢民族の栄光が再び甦ったころである。 杭州(臨安)は再び帝都から地方都市に戻ってしまうが、人々の記憶から追いつめられこの地に至った出来事はしっかり心に刻み込まれていたことであろう。 これらの感情を現代のしかも日本人が理解することは難しいが、伝承された歴史をたどってみるとその心情を伺い知ることができるというものである。

 水滸伝はみんなが嫌いな「忠義」が前面に現れており、皇帝陛下のために「頑張ります」というのりである。 反社会的な連中で忠義をやろうとするから読者は大混乱。 梁山泊は政府に寝返った裏切り者となるわけなんだが、そこで読者自身を南宋の北方民族に追い込まれた状況にご着席いただき腐った高官を眺めてもらうと、あら不思議身そんなものより、裸足でズカズカと部屋に進入してくる侵入者が気になってしまうではないですか。

 そんな水滸伝ののりを理解するのはこの方がぴったり。
「文天祥」さんである。
今回は彼について紹介しておこう。
 有名なのであちらこちらに紹介されて新鮮ではないが、忠義でしかも蒙古といったらこの方。日本の戦前の教科書では忠義てんで掲載されていたらしい。 彼の歴史をみると正直言って変な御仁です。

 若くして科挙にトップで合格、こりゃーずごい奴になると期待されるも宰相に疎まれ辞職。 蒙古の怒濤の攻撃が開始され、これを救うべく2万の兵をつれて文天祥が駆けつけるも 南宋朝は降伏に傾きつつあり、追い出され蘇州へ配属。 ところが指揮官張全が逃亡し全滅ときた。
 いよいよ蒙古軍が帝都臨安に迫ったとき、朝廷は密かに南に逃れ文天祥を臨時右丞相、枢密使したのだった。 朝廷としては蒙古との和約交渉のための使い捨ての駒のつもりだったのだろうが、文天祥はたいそう感激。元(蒙古)の左宰相バヤンにでっかい態度で臨み拘留されてしまう。 本当に賢いのだろうかこの人。

 そのまま元の首都「大都」に送られるが、途中大脱走。 南と逃れ真州にたどり着くも追い出され揚州へ着くもまた追い出される。 こんな調子で皇族が朝廷を構えた福州に至り役職を得るもののらちが明かないことに気が付きそこを出てゲリラ戦を展開した。 多少の効果はあったものの元の反撃により南に逃れる。 このころ南宋の朝廷は海に逃れていた。文天祥は元に抵抗を試みるが捕らわれてしまう。 この後、宋朝は追いつめられて滅亡した。 水滸伝の舞台の宋という王朝はこれで亡くなり梁山泊と似たような運命といえる。

 文天祥は元の大都に送られた。多くの者が降伏を勧めフビライハーンはたいそう彼を気に入り説得したが、これに応じず宋の忠臣であることを望んだ。 ここら辺、宋江と遼の話を連想させるが。
斯くして文天祥は宋朝の為に戦い最後まで忠義を貫き処刑されたのであった。 後かれは亡宋の三傑と称された。
 かれは正気の歌で「国の滅亡に遭いそれを救う実力がなかった。しかし捕虜になろうとも私は南宋の家臣である」と詠んでいる。 かれの忠義ぶりがわかるというものである。 柔軟性のない頭というか故に忠臣たりえたのかもしれない。


 水滸伝もこんな風に民族主義にはまり込んで読むと忠義も何ら不思議でもない。 祖国の防衛、祖国愛てのがあるからである。 日本人が述べるのもなんだが「中華万歳!」といった感じか。 中華王朝が杭州まで追いつめられた歴史を辿ればこういった心情も分からぬでもない。

 対称的には奸臣として有名な「秦檜」がいる。 この方は平和主義者のお方。こういう人物が戦中の日本にいたら良かったのにと言う人物。首都は陥落、皇帝は拉致という最悪の状況で抗戦派をおさえ金との和議をむすび国家の建て直し邁進した。しかし抗戦派の軍閥岳飛を殺してしまうのでかなり人気が悪い。 杭州には現在も彼のひざまずく像があり、唾を吐きかけられているようである。 これって杭州だからなのか?

作品158


shiori*3  五台より天台へ、論語から伝習録へ

shiori*1  水滸伝の悪について

 ここら辺で読者から「管理者さんの水滸伝の二本の柱のうち1本は北方民族との関わりであるとの主張は分かった。それではもう一本の柱というのはなんなのだ。いいかげん説明してもらえないだろうか」というお叱りをそろそろ受けそうな感じである。 これまで長々と北方民族との戦いの歴史を説明してきたので読者には飽き飽きされたことであろう。

 確かに作品56の解説にて水滸伝が二本の柱で出来ており一本が北方民族との関わり合いということと、さらにもう一本あることを述べた。 管理者の思い描く水滸伝の姿をこれまでの説明で丁度半分公開してしまったのであるが、これ以上抱いた妄想をさらけだしていいものかなかなか悩ましいかぎりである。
 これまで説明したことは漫画において既に画いているものであり、それは初期10作品のなかに織り込まれているのである。 当然二本目の柱についても漫画に画いているのであるが理解は難しいだろうか。 実はもう一つ柱と称するものは非常に抽象的で、読んでもちっとも面白くないのだ。 鰻を読者に捕まえさせるような論議なので、管理者も少々自信がない。 はたして読者のみなさんがそんな話題を好まれるのか悩ましい。 とはいえ、ここで放り出したら漫画の解説としては半分しかやっていないことになるので、気が重いが思い切って解説していこう。
といっても大した事ではなく聡明な読者の方々はうすうすお気づきのことであろう。

 水滸伝もう一本の柱というのは簡単に述べると中国永遠の課題「中国人最大の敵は中国人」ということである。
「????」
意味不明で申し訳ない。
出来るだけ飽きないように努力いたしますのでおつき合い下さい。
 とはいえ読者から最近の解説は個々作品自体の解説が少ないという指摘がある。確かに言われてみれば全体の解説ばかりしたのでそれぞれの漫画についての説明にはほど遠くなってしまった。 作品の作成順に読んでいる場合だったら何を語っているのか理解できるのだが、物語順や人物順に読まれている方は訳の分からぬものになってしまっている。 また水滸伝を知らない読者を全く無視をした解説になっていた。 ここの点を改善を試みなくては成らないようだ。



 それでは唐突だが「水滸伝の悪」について考察していこう。 水滸伝を読み解く上でここの部分は押さえておく必要があるからだ。
管理者が水滸伝の特徴を述べよと質問されたとするなら、「悪の世界」と答えるであろう。
勧善懲悪でなく、「主人公」も「脇役」もみんな悪人であるのが水滸伝最大の特徴だ。 読者も主人公たちの悪党ぶりには驚かされたことであろう。 彼等がやっている事は犯罪であり、とてもじゃないがほめられたものでない。 いったい好漢に退治される悪党たちと主人公はとちらがいい人かさっぱり分からないのである。

 それにしてもこの様な悪党たちが主人公として成り立つとはどういうことなのか?
今回の漫画を見てみよう。 登場するのは柴進、李逵、殷天錫である。 柴進は柴皇城としてもいいかもしれない。 物語は柴皇城の屋敷を欲しがった殷天錫が強引に略奪しようとし、怒った李逵が殺害するというものである。 これは魯智深が金翠蓮を助けようとして三千貫の空証文と妾の強要をした鎮関西を殺害してしまうと同様のパターンである。 解説149の「好漢救済形式」の例としては見本のような両者の話といえる。

 殷天錫は姉の夫「高廉」が高キュウの従弟であることをいいことに権威を笠に着て我が者顔であちらこちらに悪さをし、二三十人の不良を引き連れ柴皇城に恐喝暴行をくわえたのである。読者はこういった権威をもって不法なやりかたをする人物に嫌悪をもたれることであろう。
ここで柴進は「法」によって解決することを望むが、李逵がこれを完全否定する。
その主張は「法が頼りになるのならば、この様ないざこざは生じない」との主張であった。この部分は水滸伝の思想をかいま見る事が出来る箇所であるがそれはさておき。

 李逵はストレートに殺害によって解決してしまう。 殷天錫は弱い者虐めをしてきたがそれは国家権力を悪用したためであり、自身の実力でなかった。故に権力に関係のない無法者には通用しなかったということである。 法に従って虐げられる者たちそして法を悪用して支配する者かれらは「法」という中に生活している。しかし好漢はこの法の外に存在する。 故に無法者と呼ばれるのであろうが。
 人間社会の営みにはルールが必要である。 個人の生命を守り安定させるには集団であったほうがいい。しかし集団の場合はなんらかのルールを設けなくては混乱をきたす。そこで個人はルールに縛られることになるのであるがそれは安全との引き替えである。(ルソーなどの契約説を述べていません) 無法者はルールから半ば外れたもののを差し、反面彼等は生命の安全を国家より保証されない。

 物語では李逵の短慮な行動により柴進が災難を受けることになる。
この様な事件の最大の原因は法が厳密でなくしかも守られておらず、人の思惟によって勝手に解釈することにある。「法治主義」でなく「人治主義」の由縁である。
 水滸伝の世界では法は人を拘束するものであっても守ってくれるものではないのである。 そして権力者がいかようにもできるものである。 現代ならば殷天錫は恐喝に暴行殺人で裁かれ、李逵も殺人で裁かれるであろう。 しかし、無法の鉄槌が降ろされるまで殷天錫は不法行為も権勢でねじ曲げることができるとふんでいたわけである。 ある意味殷天錫は法の中に生きていた、ゆえに誰も手出しが出来ないと思いこんでいたのである。

 この様な無法者の法以外の裁きが喝采を受けるのも、中国の人々の法に対する不信、あるいは国家への不信が根底に存在するからなであろう。 人々の現実社会への不満、不信があり為政者への反発として現れてきたのである。
このような下地に水滸伝の様なダークな英雄たちの物語は成り立つのである。


作品159


 水滸伝を読み進めると小華山、桃花山、清風山、二竜山と山賊さんたちがどんどん紹介されあちらこちら危険地帯であることが分かってくる。 これらは以前どこかの回の解説にて紹介したが、これら匪賊は中国は広いので行政府の目が届かない区割りの境目に発生する傾向にある。 もちろん捕り手たてから逃れられるようなエリア間に彼等は身を潜めるのだが、反面人間社会から孤立はしていない。 水滸伝ではこれらの山賊さんが沢山でてくるがそれとはちょいと違った庶民の中の悪党たちも登場する。 居酒屋の主なんてその一つなのだが。

 物語では何の変哲もない居酒屋があり、そこで主人公たちが食事を摂ると毒を盛られ殺されそうになるといったものである。 代表的なのが張青と李立であるが、両者とも旅人を殺し捌いて食材している。 一方は人肉饅頭になるらしいがもう一方はどんな料理に使用するのか不明だ。 水滸伝の魅力はこういった不道徳な人々がどんどん登場することにあり、非常に刺激的だ。

 人肉料理店の刺激的な理由として
第一に人が人を食するというという行為自体が一般的なものでなく忌み嫌われる行為であること。
第二に料理の食材を市場で仕入れるのでなく旅人など店に訪れるものを捕獲して原材料としていること。生け簀から魚を捕る感覚である。 あるいは家の回りの野草を食材に摘むといったものに近い。 こういった発想はなかなか出来ない。
第三に人肉を混ぜられた料理をそうとは知らない旅人が食するということである。 もちろんこの場合、食事した旅人が同じ食材に転じてしまう危険性を孕んだ刺激もある。
 この可能性はそのとき人肉の在庫が無くなっているとか、旅人の肉付きが良いといった条件により運命は分かれてしまうことになる。 たとえば武松の衣装だがこれは張青により餌食になった僧の遺品なのだが、彼は体格が良かったための犠牲者である。
宋江の場合もあちらこちらで災難に遭うところをみると金を持っていそうとか、美味い物を食していそうで人肉として良質と判断されたのかもしれない。 こういった非道的な行為はとてもじゃないが褒められたもんじゃないが非常にエクセントリンクで面白い。 不謹慎だがある意味合理的ともいえる。

 合理的と言えば現代の中国における臓器移植なども基本的人権を無視はするものの合理的である。 死刑になる囚人をドナーとしての臓器を病気の患者さんのために提供するというものである。日本人などもずいぶんお世話になったようだが。 中国には人間など掃いて捨てるほどいて、大事に犯罪者は保護しない。死刑直行という訳だ。
 どうせ死ぬのであるとするなら臓器を役立ててもらえればこれにこしたことはないという論理だ。中国の歴史をみると大虐殺は日常茶飯なので犯罪者の粛正などまだ大人しい方だ。 もっともこの犯罪者てのは政治犯も含んでおり。政治犯とは政府に批判的な者や地下で宗教を信仰する人たちも含まれるので、国家的による粛正といえなくもない。
 これはなにも中国を非難しているのでなく日本においても戦前、政治犯を炭坑に放り込んで死ぬまで働かせたようだから似たようなものである。 人権尊重の思想がなければこの様な考え方になるのが自然ともいえる。 中国におけるドナーてのは囚人だけだったのかという疑問を少し残るがそれはさておき、人体を物として捉える視座は張青や李立と似ているのではないだろうか。

 さて李立の行為は第一に殺人という点で非難されるが、もう一点異物混入という点でも非難される。
よーく考えれば中国の段ボール混入肉まん事件とにていると言えば似ている。この事件は豚に伝染病が蔓延し豚肉の原価が高騰したので肉まんの業者が饅頭に段ボールを混入し販売した事件である。まったく中国の食い物は信用できないと思われるのだろうが、どっこいそこまで悪質とはいえないが日本の業者もどんな肉混ぜているの分かったものでないので同質といえる。
このまぜまぜ事件の本質は儲けのため、ばれない限りどんな不正も良しとする商道徳の欠如に由来する。



作品160


 李立の店で危うく命を失いそうなりながらやって来たところは掲陽鎮。ここでも命を狙われ舟に飛び乗ったらまたまた命を奪われそうになり宋江はまったくつきがない。 李俊がいなかったらどうなっていたことやら。
 李俊、穆弘、張横等が一帯を棲み分け支配しているところをみると、彼等は一般人と山賊の中間とも言えなくもない。おおぴらに峻厳な山に居を構えるのでなく、社会ににとけ込み闇商売をしているので他の清風山、二竜山、小華山とは異質の者たちである。 穆弘や穆春などは掲陽鎮の親分なので組事務所を構えるやくざに近いといえる。
 この町も水運の発達に従って興った町なのであろう。 水運沿いにおける物資の強奪は以外と美味い商売かもしれない。 しかし水滸伝では追い剥ぎが画かれていものの本当の美味しい商売は塩などの闇流通なのである。とくに彼等は一般人でもあるのでこの可能性はある。 李俊や張横の特長は水運を利用したこれら闇商売といったところか。同じ水軍として阮三兄弟がいるがこちらはねっからの漁師なので彼等とは一寸違う。


 水滸伝で画かれた張横の様な山賊(この場合江賊あるいは海賊)行為は悪いのを認識してやるのでなく、当たり前に行われているのが現実である。 行為者そのものにはなんら悪事をしているという意識はないのである。 これは山賊が道で追い剥ぎを行うと同じようなことで単に水辺でやっているという地理的な違いがあるだけである。 この追い剥ぎ、あるいは略奪行為は人類普遍的な行為なのであろうか。 江賊というとあまりイメージが湧かないので同様のもので海賊と述べるとなじみがある言葉であろう。

 水滸伝は中世の世界であるが、古代においても中世においても近代においても海賊行為は継承されており現代にても存在する。
困った事にこれら海賊は普通の村人であることだ。
マラッカ海峡やフィリピンはたまたソマリア沖の海賊事件は最近のことであり商船を襲う彼等の論理はどうなっているのかなかなか気になるところである。 地理的に遠くを見なくても日本の郷土史においても以外と身近なところで「あの島には昔海賊がいた」などとの伝説も存在して、こういった行為者は古今東西数限りなく存在している。

 一般常識から離れて海賊行為を冷静に眺めてみると略奪行為は本来自然な発想なのかもしれない。生産行為、流通行為に関わるのでなく直接的に財貨を得るといった行為。 ある意味海で魚を捕獲するにも似たような行為と言えなくもない。 泳いでいたから捕まえた。違いは人間相手ということである。 その命の駆け引きから割り出した収支はどうなるか不明だが、無くなることがないところを考えると以外と効率的なのかもしれない。

 歴史を紐解けば、
どこからどこまでが一般人でどこまでが海賊か分からないのが8世紀ヨーロッパの海賊ヴァイキング。商いのついでに略奪と言った具合で海賊兼商人が彼等の姿。国を挙げての略奪遠征いっちゃう人々。ブリテンとかフランスの都市を略奪したスケールでっかい海賊さんなんである。
 古代ローマではポンペイウスの海賊退治のやられ役だろうか。当時地中海に海賊がはびこっていてローマが海賊退治に乗り出し、ポンペイウスが3カ月で退治したというもの。 この海賊は政争に破れた者たちも加わる大々的なものであり、ローマの穀物輸送網を襲った。カエサルも捕らえられ身代金を要求されるような物騒な連中である。
 中世ではイギリスとスペインの抗争に関係して海賊行為が盛んになり、相手国船を襲っていた。
これらは17世紀になるとご存じカリブを舞台に大暴れ。パーレツオブカリビアンはこの時代のお話となるわけだ。ワンピースもそうなのかは不明だが。 現実ではHモーガン、ボニー、キャプテンキッドなどがあげられる。
またイスラム圏や中国にも当然海賊団は存在した。
とまあ、世界各地、古い時代から現代まで海賊行為は終焉を迎えることがないわけで、人間の営みのひとつの形態と言えなくもない。


 ところで張横たちは海賊というより江賊である。 水滸伝の問題はこの様な追い剥ぎをやるような人物が主人公であることだ。彼等を賞賛して良いのかなかなか悩ましい。 しかもだ相手が有名人と分かると手のひらを返したように態度を変える連中なのである。 どう考えてもろくな人物でない。
逆説的に言えば不道徳だからこその主人公たちといえるのかもしれない。 悪の魅力というやつか。



作品161


 災難に遭遇しながらも命を救われ、好漢との知遇を得て宋江は江州に到着した。 それにしても宋江は賢くもなく腕っ節が強くないので武松みたいに難を避けることが出来ないので情けない。武松であったら店のしびれ薬に気が付くだろうし、穆弘、穆春に追っかけられたり、張横の餌食になりそうになることも無いはずなのだが。
 しかしだ、もし宋江が人徳があって、武術も108人の中で最強、智恵も呉用をはるかに凌駕し、しかも神仙の道に通じ容姿端麗だったとするならばどうだろう。 他の仲間が色あせてしまうので、これではまずいのではないだろうか。 108人もいることであるし得意は一本に絞らせたほうがいいのである。
 水滸伝の魅力は個々人の長所もさることながら欠点も色とりどりなところにある。 水滸伝作者が宋江に与え属性は人徳というやつだが、容姿については色黒で背が低いとさえない。 しかし人徳では梁山泊随一で、なんだか理由はさっぱり分からないのだが人に好かれて尊敬されてしまうんですな。
一見弱弱しい能力で自分一人ではなんにも出来ない能力だ。 でも宋江の人徳というものは仲間にしちゃうので、この能力はある意味最強かもしれない。


 宋江の好かれる理由というのが「好漢と交わりを好み、よく面倒をみる、人の難儀を救い世話をやき財を惜しまない」ということらしい。 ノンキャリ役人のくせにちょっとお金を恵んだくらいで大宋国に鳴り響くのだろうかと疑うのは道理だが任侠な人たちのお世話をしたことがその世界で名前を売ることになったのかもしれない。任侠な人々にとって旅先でおまんまが食える各地のポイントを押さえておくのは必修であろうから名前を知られていても当然か。

 かれが人情に溢れていることをを証明するように、彼の転落人生の始まりは晁蓋等を危険を承知で逃がしたことによるものである。これは我が身を顧みず義を重んじることの現れであり、普通こんな危ない橋は渡りません。 我を考えず救いの手をさしのべる、そんな人物にリーダーたるものを水滸作者は求めているのかもしれない。 現実の場合は山賊さんならプラス恐怖を与えないと組織の統制はとれないのだが。

 ちなみに二代目梁山泊寨主晁蓋は劉唐が強奪話を持ちかけたほどの人気者。 これも「義を重んじ金銭に淡泊」である。好漢との交わりを好みお世話していた。 一代目王倫は対称的に保身第一の男であったからリーダー失格と見なされたようである。 つまり水滸伝で求めるリーダー像は「義に篤く、財に淡泊、色も疎んじ好漢を好む」という性格でなければならないようだ。

 ところで財を惜しまずだれかれに金を都合するする姿勢はよくわかるのだが、江州到着後の彼に行動には疑問符が付く。 というのも、彼は江州の牢城では金をばらまいているのである。 これは彼についての説明書きにあるように宿がない人や旅の路銀に困った人、あるいは貧しい人にお金を融通する仁心による行為とは完全に事情が違う。 つまりずばり賄賂なのである。
 義に篤い好漢が堂々と賄賂をやりまくる姿はなんなのだ。 これは作者そのものが賄賂について当然の行為であり好漢としても当たり前のことであると理解しているとしか思えない。 宋江は賄賂のおかげもあり牢入りのさいの棒百を免れ厚遇をうけることとなる。 さらに財貨をたっぷり持っていたので牢城で大判振舞いだれからも好かれることとなったらしい。彼の仁心もなんか非常に疑わしい。

 しかし賄賂が非常に効果的なのは事実である。 管理者の経験で恐縮だが外国で困った状態になったとき、役人に金を融通したところ簡単に許可が出たことがあった。これは規則(法律)違反なのだが非常に助かった。 この時カルチャーショックも少しあって。賄賂てのは世界の常識なのかと考えさせられることとなった。役務特権で財貨を稼ぐてのが本来の自然の姿なのか。 またピンはねも常識的なものなのかもしれないなんて自分の常識に自信がなくなってしまう。
 とにもかくにも宋江は金をばら撒いたおかげで、牢城内でも人気者になってしまったのだ。 金にみみっちくない、飲めや食えやで振る舞ってくれるそんな親分が水滸伝の理想だが賄賂については常識として容認している。 ところがこの事に関し注意するべき事がある。作者は賄賂を渡す側の行為は非難しないが、賄賂を要求する側については手厳しく非難している。

 それは牢役人の戴宗が宋江にたいして行った金の要求に対して完全に拒否している事で分かる。読者はあれだけ大判振る舞いしていた宋江がいきなり戴宗にたいして金を払わない暴挙に出たのか不思議に思われなかったであろうか。 もちろん梁山泊との関係があったので自信があって大きい態度にでたというのも考えられるが、お決まり通りお金をあげて事情を説明したらごたごたもないと思うのだが。
 しかし宋江は頑強にお金を渡す事を拒む。 それは正義であるかのように、それまで散々お金をばら撒いたにもかかわらずだ。 このことから水滸伝では権威や特権を持った者がその権限を利用し強制的に庶民に強いることに強く反発しているにがわかる。 つまりご機嫌をとったり便利をはかってもらうためにお金を貢ぐことは当然のことでありそれは賢い事である。宋江はみみちくなくお金を惜しむなく使いみんなをハッピーな気持ちにさせた丈夫である。 しかし戴宗は地位を利用して金を要求したけしからん奴である。 この様な人物にへつらいお金を渡すことは必要ない。 こういった解釈であろう。

しかし管理者からの目では戴宗と他の牢城の役人の違いは単に賄賂を要求したかしなかったの違いだけである。 受領者が賄賂と分かって受け取ることは同罪である。 水滸伝の悪と我々の悪は少々違うようだ。


作品162


 青面獣楊志、本来の物語では前半前は彼を中心として軍人クラスの強者が集まって後半宋江に中心が移行するほどの重要な人物である。 本来のミスター梁山泊と言って良い人物なのである。
 水滸伝ではここのところを改編し新参者の林冲を大変活躍させたたために彼はお株を奪われランク下げになってしまった。 物語でも花石綱(石の運搬業務)で失敗しとんずら。赦免がでたのので都に帰る途中で林冲の追い剥ぎに遭い、東京では職場復帰にならず。金がなくなったのがきっかけで牛二を殺すはめになり殺人罪により北京大名府へ送られる。梁中書に気に入られ星辰綱(誕生お祝い品)の護送に抜擢されるも任務失敗。全ての罪をなすり付けられ二竜山へと流れ着く。
といった具合に運が悪い。 物語の形成過程とだぶって憑きがない人物はこの人にことであろう。


 彼が物語で登場するのは林冲追い剥ぎの箇所である。
水滸伝では主人公が複数なので物語がそれぞれの主人公を切り替え展開してゆくという形式をとっており、楊志登場は林冲の物語を受けて楊志の物語に転じている。 梁山泊の初代主「王倫」は林冲を警戒し彼の入山を拒むため投名状を要求した。 このため林冲が旅人を狙っていたのだが、そこに現れたのが楊志と言う訳だ。
 王倫は楊志を仲間にし林冲と競わせるつもりであったが説得に失敗、楊志は都に向かったのであった。王倫理の心配は適中していたわけで後日彼は林冲に殺害されることとなる。 朱武のように林冲を主として自ら退いたらこのような最後にはならなかっただろうが、主の坐に固執したのも王倫の性格なのであろう。


 前回、宋江はだれかれと差別無く人々に恵みを与え慈悲深いということを紹介した。しかし江州における彼の行動を見る限りそんな純粋なものでなく賄賂行為をやっているのではないかということを述べた。
役人けしからんという物語指向を持つくせに賄賂をがんがんやりまくるとはどうした神経なのだと疑ってしまった訳である。 これは宋江にかぎってこのような表現なのかと思いきや、実はそうではないのだ。

 というのも別の主人公楊志についても同様の行為があるのである。 楊志の場合花石綱の運搬業務失敗し逃れ、赦免がでたので職場復帰を願っていた頃にやったことがこれに該当する。 彼は金銀財貨を枢密院の役人にばらまいたのである。 効果は現れ楊志は上申書を得ることが出来たのだっだが、最後に高キュウに否定され復職は叶わなかった。 賄賂の効果は万全ではなかったがもう少しのところまで行ったのである。
この様に宋江に限らず賄賂をばらまく行為が他の好漢においても行われているのである。

 このことから水滸伝では何かの行為を成すには袖の下は必須条件といえるのかもしれない。賄賂がまかり通り、当然のこととして主人公が堂々とやるのが水滸伝の世界なんである。 つまり裏口入学のお金とか、交通違反のもみ消しの金、公共工事受注の為の金などは当然の行為であり、役人などはその為に懐を開いているのであり利用しない奴が馬鹿であり世間知らずなだけなのだ。といった理屈であろう。 もちろん水滸伝はダークな主人公だらけなので悪事行為をやって当然だからこの様な不正行為をやっているのであるという反論もあるであろう。

 しかしこの考えは的を射ていない。 というのも、中国の文化として賄賂社会というものがあるからである。
実例を列挙してもいいが、現代中国批判となって水滸伝の解説の趣旨とは外れてしまうのでここは省略し、中国社会には法を守らない賄賂横行の世界であることを記憶に留めいただきたい。 古より賄賂社会なのでその精神は国民性に刻み込まれていて、抜け出すことは不可能なのである。
 ゆえに水滸伝は中国の中で誕生した物語なので賄賂行為についても寛容なのである。水滸伝の主人公が成す行為については、賢い振る舞いであり大いに学ぶべきことであり、世の中を上手に渡って行くには役人に袖の下はなくてはならないのだ。


 この様な買収行為は実は自然といえば自然なのである。
ここにA氏とB氏がいて、A氏からは何かを常日頃いただき、B氏からはなにもなかったとすると。心情的にA氏優位なりやすくなりはならないだろうか。 人間、物には弱いのである。
 人間は集団性を求めるもので他者との関係で交換と好感を求めたがるので賄賂に近い状態になりやすい。 明らかな買収行為だった時、社会的にこういった行為は禁じられているものであるといった規範がある場合は受領側に規制が働くが、社会全体が原則禁止で見えないところでやってよろしいみたいな規範がある場合は抵抗無く受け取ることができるであろう。
中国の場合はこの自然な買収の行為と無法性さらにこれを増長させているのが熾烈な生存競争なのである。



作品163


 楊志は運良く梁中書に気に入られ社会復帰と思いきや晁蓋によって星辰綱を奪われて大転落。 このまま山賊になってしまうのだが、彼はまったく仕事できない。
星辰綱も人数を掛けずに秘密裏に運搬しようという作戦であったが、確かにそれは行商にみせて敵を欺くという巧妙な作戦であったが、肝心の情報管理が行き届かなかったのが最大の致命傷であった。なんで劉唐みたいな者に情報を捕まれたのか。それだけではない公孫勝も知っていたのでほとんどざる状態であった。かつて日本軍が奇襲作戦をやったが情報がアメリカ軍に探知されており茶番劇になったと同様のお粗末さである。
 これだったら普通に人数かけて運んだ方がよかったのではないか。 前の失敗である花石綱の場合は本当に風だけのせいで船が運悪く転覆したのであろうか、人的な原因もあり得たのでなかろうか。怪しい限りである。

 花石綱と星辰綱の任務失敗はどちらも死罪にあたるのだが、一番の違いは楊志が強奪の共犯の罪を負ったことであろうか。
物語では星辰綱の護衛を命じられた楊志が盗賊の襲撃を警戒して、強行な早旅をしたことが運搬者の反感を買うことになった。 晁蓋等が現れしびれ薬を飲まされ荷を奪われると、運搬者等は楊志がないことをいいことに責任を彼に全部押しつけてしまったのである。

 水滸伝ではこのような主役外の人物もしっかり悪事を働いている。 楊志を陥れる人物も謝都管とか虞侯など役職名で名前もわからぬ人物が犯罪を犯しているのである。 流石悪党をしっかり画いてくれる物語である。
 謝都管も虞侯も処罰されることを恐れた、そして全ての責任を楊志になすり付けた。 我が身可愛さである。そもそもの責任は楊志が止めるのも聴かずに忠告を無視して休みたいとか涼むたいとか生理的欲求を満たすことに走ったことによるものである。 そのために晁蓋等の計略に掛かることとなったのである。 そのことを忘れ楊志に全ての罪を負わせることは自己保身以外のなにものでもない。
名も無き脇役ではあるが彼等もちゃんとした悪党といえる。

 もちろん彼等の言い分もわからぬでもない、このまま任務失敗で北京大名府に帰っても死罪になってしまうし、それだったらどうせ死罪になるであろう楊志に代表して死んで頂いたらいいではないかという論法である。 楊志の同意がないのが最大の問題だが。
 もう一つが楊志が姿をくらましたのは賊を追いかけるためでなく逃亡したのだと皆が見なし罪を彼に負わせたというもの。 この場合は責任を擦り付け合うといった同罪である。 結果的には楊志は賊の発見にいたらず北京に報告に戻ることもなくそのまま山賊になってしまうので逃亡したとみなされてもしょうがない。

 楊志は死罪という重い罪が原因であるのであるが、任務を失敗すると身の保身から逃亡する。このことが悪いという訳ではないが何か無責任という感がする。
 とはいっても中国の有名な劉邦も労役者たちに護送中に逃亡され、秦の法により死罪になるのを恐れ山賊家業へと転身したことがあった。 中国の偉い有名人がそうなので、出世しそうな話にはどんどん首をつっこみ、危なくなると思いっきりとんずらするというのが賢い中国での生き方と言えるのかもしれない。 そうそう楊志は誕生日祝いの品護送は辞退したので出しゃばったわけでないので念のため。

 個人主体である場合、なにを好んで国家とか権力者に忠誠や義務を果たす必要があるであろうか。そういうことは洗脳された人物がやることである。中国人は本能に基づいた素直さが基本であり。自己防衛、貧欲こそが人間の素直な姿なんである。自己の保身や栄達のためには他人を押しのけても競争にうち勝つことがまず大事なのである。忠誠心や誠実さは他人が自分に果たすもので、決して自分が他人に果たす筋合いのものではないのである。忠誠とか義務、道徳は国家が都合がいいように人を動かす為の妄想にすぎない。 とまあこんな感じになるのかな。

 あえて社会通念に反することを書いたが、これらの方が水滸伝の登場人物を理解するには分かり安いのではないだろうか。 それにしても、水滸伝は保身ばりばりの人物をしっかり画いてくれるものだ。



作品164


 花和尚魯智深の物語から林冲に話が転換するとやはり転落人生の始まりの物語となっていった。水滸伝が社会からの落ちこぼれの話だからこうなることは必然なのだが、史進から始まり魯智深となり林冲まで居所がなくなると可哀想でもある。 林冲は禁軍の槍の先生なのでその腕は大したものであろう。しかし大将としての器があるか不明である。
 気になる林冲の風貌は小説でもしっかり描写され、豹の様な頭(タイガーマスクみたいなあるいはグインみたいな頭てこと。うーん以外とかっこいい)燕の頷(エラの張ったアゴ。というとアゴの骨がでかいぞ)つぶらな眼(まん丸な大きい目。ぎょろっとしていて、にらまれたら怖いかも)虎の鬚(くちの回り尖った鬚だらけということか。ますます虎ぽいな) となっている。
 というわけでこの漫画では原作者の意向に沿って虎を意識した顔にしている。 といっても絵が下手なのでうまく描けていないが。 グインに蛇矛を持たせ中国の武人の服を着せたらいいのかもしれない。


 さて事件の始まりは「高衙内」が林冲の奥さんを情欲を抱いたことによる。彼は女たらしの疫病神と呼ばれており、権力者高キュウに養子になったのをいいことにやりたい放題をやっていたのである。 水滸伝ではこの様に梁山泊のような連中の不道徳な行為とともに、権力者たちの不道徳さがしっかり描き出されている。 国民の安全や法を遵守すべき立場のものでありながら、権力を悪用し私利私欲にあけくれる者たちである。 物語は一見被害者の好漢と加害者の権力者たちといった構造の様に見えるがよく覗いてみるとどちらも悪事を働いており水滸伝がそんな単純な思想の基に画いていないことが分かる。

 高衙内は情欲に溺れているわけで、ある意味本能に従順であるといえる。自己防衛本能、性欲本能は生命の基本的部分であるが、普通この上に通常自己実現なんて高度な欲求が乗っかかるので基本本能は相殺されて姿が見えなくなるのだが高衙内は素直な人間なのでもろそれが表に現れていると言うわけである。
 どんな人物も優秀で高学歴を持とうが性欲というものは制御し難いものであり失敗するものである。
地位と道徳心は正比例しなしのである。故に地位が高いからといって情欲に溺れないということはないのである。

 高衙内のバックに権力者がいるのが最大の問題であるが、権力を持つとこの分け前にあずかろうとする人物が登場する。 太鼓持ちの「富安」である。あだ名がしなびたチンコというからまあ面白い。原作者のユーモアを感じる。この富安が入知恵するものだから林冲の悲劇となってゆく。
 芥川龍之介の「杜子春」のように富や権力があるとすり寄るものが出てくるのは世の常である。富安もこの手の人物であろう。 この様な人物は権力者にはおおいにへつらうが、非権力者には威張り散らしているのに相違ない。それは権力の効用性について熟知するがゆえにこの様な二面的態度が露骨に出るのである。

 問題なのが虞侯の陸謙である。彼は林冲の友達でありながら平気で裏切るのである。 この男に誠など存在しない。出世欲に捕らわれた人物である。 とはいえ人間出世を夢見るのは常である。 出世は自己実現の一つの方法であり、社会的にも認められ、収入も安定することから羨望の的なのである。 事実管理者の身近でも「良い会社に入社して立派な人物である」という他人を評価する発言も拝聴したこともある。管理者はそんなのでそう評価するものかねと思ったが。

 しかし、少ない情報から他人を評価するにあたり学歴や地位、資産をもって評価するのは しかたないことである。他人の心の内など誰も知り得ないのだから。 事実地位を持った者は強い。
 他人が地位によってその人の価値を判断するするとなるとやはり是が非でもこれは欲しいものである。しかしこれはその効用性が故に誰でもが欲しがるものである。 サバイバル世界において出世できると分かったらなんでもしなくてはその見込みはない。 だから最大限この機会を利用しようと陸謙は考えたのであろう。 その為には友人であろうがなんであろうが利用するという訳なのである。

 ここで林冲可哀想と単純に考えてはいけない。 では林冲はなんでこんな人物と交友していたのか、こういう出世欲に凝り固まり手段を選ばない人物など普段からつき合っていれば分かるものである。 ということは林冲はこういう性格の人物を好んだと推察できる。 悲運の眼はその人自体の中にも原因があるのである。 友は選べということだ。


 こういう友なのに裏切る話では有名なのが史記の列伝、第五孫子呉起列伝に登場する 孫ピンとホウ涓のお話である。
二人は学友なのであるが将軍職に就いたホウ涓は孫ピンの才能を恐れ、彼を無実に陥れたのである。孫ピンは罪を得て脚を切り落とされ一生歩けない体になってしまう。ホウ涓は孫ピンが罪人になり入れ墨までされたのでこれで彼が世間に出ることはないと安心した。
ところが孫ピンは魏から斉に逃れ田忌将軍の下で軍師に就任したのだった。 その後の孫ピンはその能力を発揮し魏に攻め込まれた趙を救うた趙に合流ぜず魏を攻め、あわてて本国に帰還し疲れた魏をうち破るといった功績を残した。
 その十三年後この今度は魏と趙は斉に攻め込んだ。敵将軍はホウ涓であった。 ここで孫ピンは魏趙が斉の兵士を臆病者と侮っている心理を利用し、わざと撤退し竈の数を減らしていき兵が逃亡しているとみせかけた。孫ピンの作戦は敵から勝ち意識を誘い出し急速に追わせる。性急に進軍させると兵を整える暇もなく全軍の半分しか到達できない。そこを叩くというものであった。
事実ホウ涓は追っかけた先に「ホウ涓はこの樹に下で死ぬであろう」という孫ピンの書き記しを発見し命を落としてしまう。 孫ピンに復讐はこてにて終わるのであった。


 中国の歴史書はいろんな人間模様が画かれており人はこんなものなのかと考えさせられてしまうが、水滸伝の陸謙のような人物が物語だけでないことを知ることが出来る。
 水滸伝の不道徳と欺瞞の人々は現実を物語に映しだしているのかもしれない。
かれらは自分の血を待ち伏せし、自分の命を伏して狙うのである。全て利をむさぼる者の道はこの様なものである。これはその持ち主の命を取り去るものだから。


作品165


 江州での平和な日々。
宋江が刑に服するところやこの平和な様子をみると、なんて自分勝手なやつなんだと思ってしまいます。 奥さんを殺し逃亡したのが発端で友の花栄をやくざな世界に巻き込んでしまい。また秦明も同様に家族を奪われるなどとんだことになったのにその責任をとるでもなく梁山泊を目の前に「みなさんごきげんよう」と自分一人娑婆に戻ろうとした。 他人に迷惑をかけ、自分一人救われようとするなんてなんて身勝手な奴なのか。
 しかしそんな宋江に物語は安寧の日々を与えてはくれない。 彼の再度の転落はすぐにやって来るのであった。暇になったある日のこと、彼は酔いにまかせて壁にとんでもない落書きをしたのである。
まあこんなかんじ「共産党の一党支配を打破し自由で平等な国家を樹立するぞ。コキントウブッコロス恨み天安門。宋江」
 こんな文章を堂々と繁華街に張り出したら無事で済むか現代でもよく分からないが、多分宋江はこれと同様のことをしたのであろう。 これに目を付けたのが黄文炳。この落書きを早速蔡得章知府にご忠心。 これにより宋江は死罪となった。
黄文炳が宋江の詩を読む件は文章表現として、黄文炳の思惟の部分が分かってなかなかよろしい。


 さて黄文炳だが。水滸伝では彼はとんでもない悪党としていきなり紹介されている。
心がねじ曲がっていて口さきだけでご機嫌取りが上手の奴。おべつか使いで心が狭く、才能ある者を妬み、自分より能力があれば陥れ、劣ったものは卑下にし郷里のものを苦しめたとある。 なんかすごい紹介である。
 前回紹介した陸謙と同様に地位に執着しその為には手段を選ばないのである。 この二人がけしからんと評価するのも、人を陥れて上司に気に入られようとするからであろう。 それにしても黄文炳の評価は悪すぎる。そこで管理者が少し彼を擁護してみよう。


 さて、みなさんの評価はごもっとものことであります。
黄文炳が上司に好かれようとあの手この手で取り入っているのはみっともなく浅ましいかぎりです。 しかしながらこの様な権力者に取り入るということは実は人間の自然な行為でありまして、その原因はみなさんが権力について恐れと羨望さらに高価値の目をもって見つめるからにほかなりません。
 ゆえに彼がその権力になんとかして近づきたいと思うのは自然なことです。 むしろあなた方は内心権力に近づきたい、それを同様に得たいと思われることでしょう。
しかし、自己の欲求をそのまま行動に起こしては他人とぶつかり争いになるので、その欲求は深く心に沈められているのです。ところが彼の様に欲求のままに自由奔放に行動されるとあなたの心の中には「悔しさ」という感情がわき起こり、形を変えて正義の御旗を掲げて彼を非難するのであります。
黄文炳を見る人の中にも黄文炳ありでしょうか。
 童話ぽく表現いたしますと。
葡萄を食べられなかったオオカミが「あれはすっぱいや」と言って立ち去ろうとしたところ象が樹をへし曲げて食した。 これを見たオオカミは「浅ましや象は森のルールを知らない」と嘲け笑った。
 こんな風に彼を擁護してみましたがどんなもんでしょう。


 では黄文炳のご機嫌取りだがこれも彼単体によって成り立たない。
陸謙の裏切りの原因は林冲そのものの中に存在したということを述べたが、今回も同様に知府の「蔡得章」が大きく関係している。
 蔡得章は蔡京の九番目の子である。呉用の偽手紙に簡単にひっかかるので凡庸な人物であろう。その地位や家柄から権威を誇示しなくてはならないだろうが、自信がないのが本音である。こういったとき自分を褒めてくれる部下てのは本当に有り難い。
なぜだか自信が湧いてくる。 部下のよいしょもお世辞と分かっていても嬉しいものである。 「ナイスショット」と声をかけられただけでうきうきである。
 黄文炳は見下した態度をとる部下でもなく、むしろ知恵を授けてくれる。 呉用の偽手紙を看破したのは彼だ。
そういうわけで蔡得章自体も黄文炳を求めているのである。


作品166


 九紋竜史進は梁山泊のメンバーで一番最初に登場するので知名度はかなり高い。 史家荘の富農の息子だが農業嫌いの武術好き。 まあ家業を潰すタイプなのかな。
 こりゃどうしようもないと思ったのか母親は心配の為に病死。 息子が息子なら父親も父親でそんな息子に玩具を、じゃなくて武術の習い事をさせ、果ては上等な刺青師に竜の刺青を入れさせるような親バカである。
そんなに武術好きだから天才的に強いのかと思いきや、李忠に教わる程度。 その後、禁軍に勤務していた王進に教授うけ上達するも梁山泊では中くらいのポストだった。
 武術の腕は中程だということでそれは良しとして問題はおつむの方である。 朱武の泣き落とし作戦にかかるし、地元では王義を救い出したあと賀太守を殺そうとして捕まり、忘トウ山では項充の飛刀に殺られそうになり、東平府では李瑞蘭に簡単に騙され、最後はあっけなく?嶺関に多くの仲間と共に死んでしまう。 かなり軽率な人物である。まあ18,19才の若者であろうからしょうがないだろうが。 だがこのなーんにも考えずに若さで突っ走るてのが史進らしい特徴といえる。


 さて史進と小華山の朱武等とが緊密になったころ史進は彼等をパーティーにご招待した。 王四は賢いのでその使いに出されたのだが、小華山の山賊さんの歓迎に合い帰りに酔いつぶれてしまった。 そこに猟師の李吉が通りかかり史進への手紙を手に入れると、「届け出れば金になる」と役所に向かったのだった。 目が覚めて王四は吃驚。手紙が何者かによって盗まれたことに気が付き、主人を恐れた。 そこで彼は帰りつくと史進に嘘をついたのである。 その後朱武等が史進の屋敷出向いていたところ捕り手の役人が訪れ乱闘になり王四と李吉は殺害され、史進は落草するのであった。
 王四は言い訳上手なのか、史進が愚かなのかよく分からないが、その後の史進の行動をみるとやたら人を信じすぎというところがあるようだ。 疑って人を見ない限り熾烈な競争世界では生きていくことは出来ない。 みんなが成り上がろうと執念を燃やして、チャンスを窺っているのだからのほほんとお坊ちゃんしていては地位は危ういのである。
 物語でも転落の人生の始まりのなってしまった。 中国世界に信というものはないのであり、そういうものを掲げると騙されて終わりである。 王四は嘘がばれて殺されてしまうが、「王進先生の消息を知っています」などと史進の心理をくすぐる言い訳を思いつかなったので案外たいしたことないのかもしれない。


 ところで中国人は自分に非があるにもかかわらず屁理屈をこねて絶対に謝らないとの話を聞くのでなんて傲慢な人々であろうかと思われるが、実はこれがものすごく本能からストレートに出た反応なのである。
 つまりこういう人物は心理的に本当は弱い人物で自尊心が傷つき安く自己防衛として攻撃型の反応をしているのである。 論理が破綻しようがどうしようが一方的にまくしたて相手に付き伏せられないようにし、それが不可能だと分かると論議の場そのものを否定する行為をするのである。
こうなるのは外部的要因として社会環境がストレートに優越を付けたがるという傾向あり、侃々諤々と言い争いの場となっていることがあげられる。 ある意味行動が素直てことで、底が浅い。

 それをもう少し分かりやすく対称的なものとして日本人をもって説明しよう。
一番屈折しているのが日本人のこの様な場合の対応である。 日本人は責められる前に謝って相手の不満を軽減しよう、そしてこのことはうやむやにして煙に巻いてしまおうと画策する。それで直ぐ「すみません」と謝りはするが、ちっとも反省していないことが多い。
つまり自己防衛なのであるが論議を避け自己も守りながら相手も納得させるという手段を講じる。
 というのも日本は不思議な国で自身を卑下することが、自己に対する評価を向上させることができるという妙ちきりんな習慣があるからである。 これを中国人相手にそんなことをしようものなら見下されれ終わりのはずなのだが。
つまり「謝る」。すると相手が「この人物は礼儀を知った立派な人物である」と評価し、かたがた言ったらみっともないし人目もあるしこれまでにしようと思う。またこれにより謝った者は自分は争わず大人で立派な対応をしたと自尊心を高めてゆく。
まあもっともこれを外交でやるお馬鹿さんでもあるが。


作品167


 宋江が親兄弟と再会し、公孫勝が老母を見舞いに故郷に旅立つと李逵が羨ましがり自分の故郷の母をひきとろうと考えた。しかし旅の途中でなんと自分の偽物と出会うのであった。
にしても李逵の故郷の沂州と刑場あらしをした江州とではかなり距離があるというのに偽物が現れるとは李逵ってこの時点でかなり有名人になっていたようだ。 やはり見境無く殺していったことが衝撃のニュースとして全国に伝わったに相違ない。


 水滸伝の宋江というキャラを見ているとこの人物は他の人物と合わせて丁度いい人物になるというのを感じる。たとえば山賊の親分としたら宋江の人望力に李逵の残酷さが加わるとぴったりである。山賊などの無法者を統率するものとしてはご機嫌をとるだけでは不十分でやはり恐怖が必要だからだ。実際はボスの坐を狙っている手下がいるのが一般的であり、また子分同士の喧嘩は絶えないので恐怖にて全体をまとめるしかないのだ。 丁度宋江と李逵は同じくろんぼでもあるし、李逵は宋江の残酷面を抜き出したキャラなのかもしれない。

 梁山泊山賊時代が李逵なら、梁山泊官軍時代が廬俊義といえるのかもしれない。 廬俊義は武術のうではぴかいちで、あだ名も玉麒麟とかっこよ護国の英雄に見てくれはぴったりなのだが、いかんせん人望がまったくない。 晁蓋の遺言があったにもかかわらずボスの坐に就けなかった。 ゆえに外見と武術力を持った廬俊義に宋江の人望というか統率力を加えると理想的な英雄が出来上がり丁度いいのではないだろうか。 宋江の統率力は半端なものでなく、梁山泊の大半が招安に消極的、官軍として戦う事に関しても疑問を持ちながらそれでも追従してきたほどのものである。 強引な方向転換、普通なら見捨てて去ってしまいそうだが。
 この脅威の統率力に廬俊義の武力(林冲、関勝レベル)がミックスされると立派な英雄像が出来上がりというわけである。 もっともこの様な組み合わせを考えてしまうのも、水滸伝のキャラが欠落した人格をもっているからなのだが。 宋江などはこの代表でこんな弱々しいキャラでリーダーを演じさせているのは何故だろうと勘ぐってしまう。普通なら元気もりもりで正義感が強く武術は冴え仲間にも人気者の人物が仲間を率いて戦うところだろうが。

 李逵のことを書くつもりでつい宋江のことを述べてしまったが、今回の漫画が李逵なので話を戻すとしよう。
李逵といえば斧。ぶんぶんぶん回して虐殺するだけのようだが、以外や以外、拳法や棒術ができるんですな。 斧のイメージ強すぎてなにか変。でもこの故郷に帰るときは斧はもっていないし。李雲と戦った時も斧でなかった。
しかし李逵と言えば斧です。その証拠として偽物を演じた李鬼は斧を持って登場したのでま違いない。李逵=斧=殺人鬼というイメージが定着したということですかね。 李逵は偽物が出るくらいブランド化したといえる。 中国は過去現在において「山寨文化」(贋作文化)が花盛りな土地で、ブランド化した李逵の偽物が登場してもなんら不思議でない。

 ズズキはSUSIKI、SONYはSQNY、PIZAHATはPIZZHUT、アディダスはDaiads、プーマはPUMA、ミッキーもどき、iphoneもどき、windowsの入ったipadすなわちipedなどなどなかなか愉快になる。 最近のでは万国博覧会のテーマソングのぱくりが話題になった。
民間一体で偽タバコ、偽洋酒、偽DVD作成にいそしみ、挙げ句の果てが偽札を自国市場に流通させているもんだから救いがない。 国家戦略としての偽物作りというより、懲りない性分の国民性。
もちろん民間の偽物作成者も国営のものはコピーしないというから、本当にやばいものには手を出さないので完全に無秩序というわけではなさそうだ。 これらのものは国家の圧力によって従わせない限り無くなることはないであろう。

 この山寨文化はなんの本だったか忘れてしまったが、ある本の中で阿片戦争以前の西洋人文献において偽物が登場してくると述べられている。中国に偽物が多いのは急速な経済発展に伴い起こった現象ではなく過去から続いてきた文化なのであることが紹介されている。

 でも素直に考えてみれば贋作自体は自然なことかもしれない。競争世界でなんとか金儲けしたいとするならば手段を選ばないのが本当だ。しなければ他の誰かがやってしまう。
しかも、社会全体に贋作良しという風潮があり、いや贋作自体を自分が作っているという意識がなかったらこれは止むことはない。
 これを止めさせようとするなら、一流国は偽物がないという国際常識があると中国を洗脳し、中国政府に面子にかけて取り締まらせるしかない。 しかしこれも効果は限定的で政府機関の偽物作りまでは抑制がきかないであろう。
また偽物作りを止めさせてなんの得になるのだという為政者側の論理もあるので難しい。まあ善悪の論理でなく損得勘定の世界なので納得させるのも大変だ。


作品168


 水滸伝では代表的な悪女が浮気者である。 亭主に気づかれないように浮気をし最後は悲惨な報いを受けるのがほとんどのパターンである。でも逆のパターンの亭主が浮気するのはどこにもない。 多分これって犯罪でないんだよね。
 この頃の女性の立場というのは家畜扱いなのであろうから、好き勝手に出来ないのが常識といえる。結婚相手も選べないし、まして浮気は重罪なんであろう。 閻婆惜や潘金蓮などは選択の自由があったら起こらなかった事件と考えられるのだが。

 潘金蓮は夫の武大を毒殺した犯罪者で恋の為ならなんでもするので強烈な印象を与えてくれるが、楊雄の妻の「潘巧雲」は坊さんと通じるので何故か色情が強く見えるから不思議。 潘巧雲の経歴は最初の夫は王(押司)、夫の死亡1年後楊雄と再婚。さらに1年後裴如海相手に浮気となり最後は殺害される。
 潘金蓮は嫌いだから亭主を殺すといった直接的なものであるが、潘巧雲の場合はもっと色情が強いのかみんな好きなんだけど浮気したいという行動をとっている。 ちゃんと好きな夫の楊雄がいるのに僧侶である裴如海を好きになってしまう。しかも浮気の原因が前夫の法要とくるもんだから、これは前夫の前で不倫をしているみたいなものだ。つまり潘巧雲は前夫、今夫のダブル浮気をしているのである。

 しかもその相手が僧侶なのでますます禁じられた恋となるわけである。 仏典で釈迦曰く「女の心は乱れやすく間違った行いをしやすいものである。欲が深いから惜しむ心、妬む心が強い。男に比べ障りが多く道に進むことが困難であるのである。若く美しき容姿のものはなおさらで、金と色の誘惑にうち勝たなくてはならないのだ」 うーんなんか手厳しい。
 他にも、ある種の女性は怒りやすく、気まぐれで、他人の幸福を見ては嫉み、施しを知らない。とある。 これを釈迦が女性蔑視をしていたと捉えては間違いですので念のため。 というわけで惚れっぽい潘巧雲は釈迦の期待通りのバカ女を演じるのだった。

 ところで生物的にはどうなのだろう。 例えば男の場合自分の遺伝子を残そうと浮気性になる傾向にある、女性の場合は自分自身が数多くの生産が不可能なので選択して相手を選ぶのである。 しかも相手を限定するのは一定期間行動不能になることや出産した子が成長するのに助力を必要とするためである。
 潘金蓮の場合は貧弱な夫の武大よりもっと生命力満ちた男を選ぼうとしたのは当然といえば当然である。だから最初は義弟の武松にアプローチをしたきた。 では潘巧雲の場合はこの反対にあって複数の相手を望んだ。これは種の多様性を選択したということなのか。


 まあ、潘巧雲を長く書きすぎたのでこれくらいにして、水滸作者の目は僧侶の裴如海に手厳しい非難を浴びせている。 水滸伝ではいかに僧侶がスケベなものであるかということを滔々と述べている。
 おおざっぱに引用すると「およそ人の中で最も色情激しいのは和尚なのである。 俗人であれ出家であれ同じ人から生まれてきたはずなのに色情が特に激しいのは三度三度ご馳走を食べ、立派な伽藍に住み、俗事に惑わされることもないので色事のみを考えるようになるからである。これが金持ちだったら昼は儲け話夜は財産のことが気になって色どころでない、また貧乏だと今日の米櫃の中が気になって色情を抱いている場合ではない。 そういうわけで和尚たちはのんびりして煩いがないので色事に夢中になるのである。」この後蘇東坡の詩を登場させている。
うーん批判に力がこもっていますなあ。

 水滸作者は権力者の批判を各所に画いている。 例えば、行政能力でなく蹴鞠で権力の座にのぼりつめるもの、親、義理の親の力によって高官の地位にある者、欲深な地主などがこれに挙げられる。
 同様に宗教についても腐敗を画き出している。それがこの裴如海である。 色男で、高僧のくせにものすごくスケベに仕立て上げられている。。 まあ、僧侶の堕落を水滸伝で取り上げているのであるが、政治の世界が俗物が権力闘争をしているので下々のものを苦しめているのは分からないでもないが、およそ欲を取り除くことを主題にしている僧侶が色欲に取り憑かれるのは一番始末が悪い。

 ちなみに僧侶には「止持戒」の禁止事項、「作持戒」という生活規範がある。
パーリ律parajikaにおいては極重罪として婬、盗、殺人、大妄語の四種がありこれを犯せば破門となる。裴如海の場合はこの破門(死刑相当)に該当する。


作品169


 水滸伝の征方臘はかなり面白い。 一般に水滸伝では108人集合で終わってしまうので方臘で登場する強敵を知る人はほとんどいないであろう。今回ご登場頂いた「搆ウ覚」は魯智深と同様の僧侶。あだ名が宝光如来というから魯智深より僧侶ぽいのかもしれない。 獲物は魯智深と同じ禅丈。
両者は直接戦ったが勝敗は決せず引き分けに終わった。かなり強い。 作者はこういうところで好敵手を準備している。 しかし残念なことに?元覚は最後は花栄の弓矢にてあっけなく死んでしまう。 まあ、禅丈といえど飛び道具には勝たないだよね。 そういえば魯智深なんかも張清との戦いにおいて、しこたま飛礫を食らってので両者同様の弱点を持っていたと言える。

 ところでこの漫画では両者の戦いの5コマ目における擬音がシャーと書かれていたので変だと思われたことであろう。 普通ここはガキーン、ガキッ、ガッなどの擬音を出すべきなのだが、両者が高度な戦いをしていることを画きたくてこんな擬音になってしまいました。 ようするに禅丈と禅丈がこすれ合っている音なのですな。 両者は螺旋力(テンシ)を使用し巻き込んだり流したりして禅丈と禅丈がへばりついた状態で攻防を繰り返しているのでこんな音になっているというわけです。 もっとも絵自体は直線的攻防になってしまってそんな感じではないのが残念ですが。
1ページ漫画にアクションと落ちをつけるのは困難なのでどっちもつかずといった所でしょうか。本来ならば禅丈自体の回転、巻き込む中くらいの回転、全体を動かす大きな回転を画いてきたいものですが。 4コマにて両者の回転は相反して回転しています。 これは魯智深の動きに搆ウ覚が同期化したということです。独楽と独楽が接触した状態で。 この後両者は反対回転をします。

 ところで気になるのが搆ウ覚の経歴。謎ですなあ。 なんで僧侶なのに方臘に加わっているのか分からん。 やはり破戒坊主ということなのでしょうか。 武術が得意なので元々は武人か少林系の僧侶だったのか(少林寺の建立年代忘れた)。 全ては謎のままである。 やはり寺では迷惑男だったのか。

 魯智深の五台山時代、東京時代を眺めると本当に困った人物である。 僧侶のくせに酒に酔って喧嘩はふっかけるし、拳法の型の後の亭の柱にて靠法の練習して破壊してしまうのではた迷惑だ。(ただその気持ちも分からぬでもない。管理者も軽く運動した後、つい電柱相手に体当たりをかましたくなるので)。 まあここいらは元気良すぎとしても酔って金剛像相手に喧嘩をふっかけるなんで単なるバカとしか思えない。 悪党ではないがはた迷惑な人物それが魯智深である。 この様な人物は親分肌で人情味があって、仲間思い強い。頼れる親分といったところだ。 それは本当に仲間にとって最高のいい人なのである。 クールな悪党の様なまねは出来ない、親しみやすいおじさんといったものか。 実際、大相国寺の菜園番人時代はごろつきに慕われる存在となっている。 これはその人柄ゆえである。

 ではなんでこんな人思いの慕われる人物が僧侶等から煙たがれれたかというと、一つは平気でルール破りをしていることがあげられる。これは禁止事項が無視されて不平等になったことによる僧侶に必然的に起こる心理、「不平等感」が魯智深を排除したということだ。
もう一つは魯智深の人情や規範が狭い仲間内だけに限定され、そのエリアを外れたものは無視してしまうという特性があげられる。 簡単にいうと公共性がないということなんですな。 平気で公共の物を破壊する人物がこれに該当する。 あるいはポイ捨てする人もこの類。

 人は集団を求め集団の中に自己を見いだす。 集団の構成員たることを欲するゆえに他者の評価が気になるのである。 魯智深も例外なく集団性を求めているがそれは狭い範囲の集団である。 小集団に限定されるためもっと大きな集団とのルールは理解できないのである。  彼の集団の作り方は梁山泊入山後も現れていて、李逵たちのグループは多種多様のグループの集合体なのに対し魯智深は二竜山時代の武松とのコンビとなっている。
 作品91で画いたのはこのようなことであり、魯智深は柳の木を引っこ抜くということで ちんぴら連中に喝采を受けその仲間内では評価を上げたことであろう。 しかし、その柳は大相国寺のものであり、もしかしたら誰かの思い入れがこもったものだったかもしれないのだ。 そういう幅広い集団における思索が魯智深には欠けているのだ。 もちろん魯智深は人情味深いことは否定はしない。

  もっとも魯智深に限らず中国において公共性を求めるのはちょいと難しいのかもしれない。 日本の様に狭い国土であれば犯罪を犯せば立ちどころに分かってしまうので全体で抑制されて知らない内に「公」というものが実現しやすいが、中国のように国土が広く、まして流民気質を持つ人々ではこれは難しい。
逃げ放題だし、早い者勝ちで、信じられるものは自分、血縁、小グループとなると「公」なんて育つはずもないのである。 「公」が実現しにくいので権力によって脅して従わせるしかないのである。 この場合の公とは権力者の言い分であり血の制裁を伴ったものである。
この水滸伝は「忠義」を一生懸命主張しているが、中国人に一番似合わないにが忠義であり、そして「公」というものも同様にそぐわないものである。




作品170


 中国のテレビ番組ではこの高Qの栄達のお話が延々とあり、いったいいつ王進先生登場やらとあきれちゃうがみなさんいかがだろうか。 この高Qの成り上がりに社会の歪みを表現しようという試みなのであろう。
確かに、科挙試験に合格したものでもない者が、行政府の長官となっていくのは問題である。有能だけど人材登用システムにそぐわなくて取りこぼしをしているという人物ならいざ知らす、もともとがごろつきであって品格もへったくれもない人物に地位を与えるのはとんでもないことである。 役職を得た理由というのが蹴鞠が上手ということであり無茶苦茶もいいところである。

 この様なものを採用する皇帝が一番の「悪」なのであるが、水滸伝では皇帝はいい人であり宋江が忠義を尽くす相手なものだから善人でなければならない。 とするならば水滸伝では善人の皇帝を良いように誑かす佞臣たちが悪者となるのである。
まあ、政治の世界では最高権力者も道具に過ぎないという発想があり、そもそも皇帝を選ぶ上で担ぎやすい人物を選ぶという政治的画策がある。この場合これということであろう。 史実の宋史においても風流人の皇帝に道楽に耽らさせたのは蔡京なので主導は臣下にあるいといえるのかもしれない。

 水滸伝の冒頭、仁宋皇帝の御代天下は安泰であり二人の賢臣が天子を助けたとある。 以前述べた天武星「狄青」文曲星の「包拯」ことであるが、二人の忠臣によって大宋国は国家安寧をもたらされたというもの。すなわち「天に替わって道を行う」というものである。天の秩序を写し鏡のように地上に現すということを賢臣の力をもって行うことだが、 物語はこれを最高の国家モデルとする。
しかし徽宗皇帝の御代佞臣がはびこり国は乱れその象徴として高Qのような人物が皇帝の臣下になってしまうような事態になったのである。 ここにおいて真の忠臣の登場が待たれるのであった。

 水滸作者は理想を掲げているのだが、物語自体は現実を反映させているのか佞臣が生き残ってしまう。ほとんどの読者はここで不愉快になるのであるが因果応報でないのが現実的である。理想は現実に食いつぶされるのが宿命といえる。 というも理想は人間の本来の性分から流離しているからである。
臣下が天下国家を思わず、純粋に自己の本能に従い我が身の栄達を願うのは実は自然なことなのである。つまり高Qの態度は人間の性質上正しいといえる。 特に環境が厳しい土地においては身の保身は第一であり、その為には他人を押しのけるあるいは従わせる政治的な力が必要なのである。 また異常な理想に向かう者は他者の賞賛、名声を欲するとかの自己に帰するものが根本でである。

 全てのものがそれを願いそれを手に入れようと抗争しており、達成したら強権で押さえつけ自己の地位を保全するのである。 中国人はやたら政治に熱心である。 それは権力の恐ろしさと有効性についてよく分かっているからである。
中国人は現実主義者で効力が高いものに向かい、抽象概念に弱いという特徴がある。 それは思想面で顕著に現れているのであるが、日本人がやたら修道的な道を好むのに対し現実的な政道を目指す。 個々人が独立心旺盛でチャンスと見れば冒険するような人生の博打打ちである。
このような人々が「公」を前面に掲げ身を捨てて国家安寧に尽くす姿は不自然なのである。


 中国の国家政策をみると強権的なものである。 人をばっさばっさと粛正し血なまぐさい。 巨大な中国大陸の運営は強権政策でいかなければ治まらないのだろうか。 これは中国人の性格から考えて一番あった政治手法なのかもしれない。
日本は明治政府の時代富国強兵により積極的軍事行動による海外政策を推し進めてきたが、それ以外は本当はちまちました鎖国のこもり型の国家であった。国民も非政治的であり文化指向をもった国民である。 戦闘自体も関ヶ原で20万人規模で大したこともなく、ましてや異民族の襲来もないのである。
日本は島国なので自然の国境があり安全度が高く、本当は雑種ながら単一民族なので共通要素が多い。それでわざわざ全体の理念の統一が必要ないのである。

 これに対し中国は大陸で陸続き。自然の国境がなく多様な民族が移動する世界なので個々人がバラバラなのである。これをひとまとめにするには何らかの強固な理念、思想で人為的に統一するしかないのであり、ここに中国人のバラバラのでありなおかつ政治的関心が高い特性が誕生するのである。
つまり甲殻類みたいなもので硬い理念によって柔らかい中身を覆っているといったらいいだろう。 従って強制的に結びつけている理念が崩壊すると個々人はバラバラになってしまう。

 ゆえに中華思想なり共産思想なりによってがんじがらめにして単一政府によって支配させたほうが安定するのである。
梁山泊を覗いてみると、その構成は軍人、山賊、江賊、農民、市民と多種多様でまとまりがない。その多様な意見を強制的にまとめているのが「替天行道」とか「忠義双全」というスローガンである。108人は宋江という一点で結びついているが、ちょっと叩けば鉄の結束も砕けてばらばらになりそうである。 梁山泊の中だけでも中華の縮小版といえなくもない。




作品171


 水滸伝ではいろんな悪女が登場するがほとんどが浮気など男と絡んだ事件がほとんどである。婦人の貞節第一なのでこんな調子になってしまうのだが、これらは閻婆惜、潘金蓮、潘巧雲、賈氏(廬俊義の妻)などがそれに該当する。
 しかし「白秀英」は不倫系統の悪女ではない。 それは権力者を色でつり、権力を行使させるという悪女である。 これらの部類の悪女は清風寨の文官劉高の「妻」がこれに該当する。 実は不倫する悪女よりこちらがもっと問題な悪女なのであるが、権力を私的に乱用する佞臣はいても、それを裏で操る悪女てのは水滸伝では登場しない。
 まあこれをやってしまったら、封神演義みたいになってしまうので任侠物語にはふさわしくないのかもしれない。 女は君主を惑わし国を傾けさせるものという女の恐ろしさについてのお約束ごとがありはするが、「女なんて出しゃばるじゃねえ、男の世界に割り込むな!」の世界では不倫がせいぜいなのかもしれない。 また水滸伝では賢母や才女も登場しない特徴もある。
というわけで白秀英は権力者を自由に操るという悪女の部類にはいるのである。


 今回の漫画において時文彬の後ろに?マークを付けておいたのだが、これは雷横の事件があったときウン城県の知県が誰であるか分からなかった為である。 晁蓋の事件の時は彼が知県であることは確かなのであるが。。。 と解説を書いていて再度小説を読み直してみたら「新任の知県」という記述発見。 とすると時文彬は罷免されていたのか。
漫画を訂正する暇もないのでこの解説文に修正します。 知県の名前分かりません。

 ところで漫画のオチがハッキリしないものとなったので解説。 作品162の解説にて中国社会は賄賂社会であること紹介した。 作者もこの世界にどっぷり浸っているので水滸伝でも賄賂は当然の行為として認識されており犯罪となっていない。
 今回の漫画もこれに関連したオチであり、梁山泊十二位の好漢であろうとまずやることは買収行為なんである。 いきなり雷横を逃亡させるのでなく金で穏便にかたづけようとしたのである。 ここのところが面白いのでギャグにしてみた。 しかしながら物語では朱仝の買収工作は実らず女の色香は強かったようですなあ。


 雷横の殺人事件を眺めてみると、その原因はほんの些細なことであることに驚かされる。 報復が報復を産んで殺人事件へと発展しているのである。 それはこんな事件であった。
 東京からの旅回りの女芸人「白秀英」がウン城県で芝居小屋を開いていた。ある日雷横はこの芝居を見学に来たのであるがうっかり財布を忘れてしまった。 タダ見されたことに怒った白秀英親子は雷横を罵った。雷横は忘れてしまったことを説明し次回支払うことをのべたが信用してもらえず、あまりの言葉による辱めに耐えきれず白秀英の父親「白玉喬」を思わず殴ってしまう。
 これに腹を立てた白秀英は色香で知県を惑わし雷横を捕らえ拷問にかけ首かせをはめさせ芝居小屋の前でさらしものにさせたのである。 女の監視が厳しく雷横の同僚もどうすることもできないでいると、雷横の母親が近寄ってくると縄をほどいたのである。 すると白秀英はこれに怒りだし老婆をめった打ちにした。 親孝行に雷横のこと自分の親が打たれるのを見ると耐えきれず白秀英を枷で打ち殺してしまった。 朱仝は雷横を逃がし、この罪により滄州へ流罪になるのであった。

 これが白秀英殺人事件の全てであるが、朱仝がひどいとばっちりを受けているのが分かる。公平に裁定してみると物理攻撃を行った雷横が悪いのではないだろうか。 しかし相手を許さず罵る白秀英もみっともない女である。
 そもそも芝居小屋への入場のさいなんで料金を徴収しないのか。お客さんの要望で芸を見ないで役者にトンずらされては困るのでクライマックスの寸前まで徴収しない仕来りなのなら、支払わないお客さんには芝居小屋から出ていただければいいだけのこと。最後の場面を見たければお金を払ってもらえばいいのである。また最後まで見ていただいて評価されたお金をもらうのであれば終わってから徴収すればいい。
 なんでこんな徴収方法になったといえば観客も役者もお互いも財の交換について疑心暗鬼の結果だといえる。
小説では雷横が親孝行なので白秀英を殺害してしまったとあるが、そういう意味であるとするなら白秀英が自分の父親を殴られて復讐したのは親孝行故といえる。 どちらも同様の親孝行なのである。

 白秀英親子が雷横を信じられないのは「詐」の世界故である。人を欺くことは非常に効率的でお手軽な手段である。自分の都合に合わせて他人を操作できるとなると使わない手はない。まして常に希少価値を奪い合う世界であるなら、いかに競争相手を出し抜くかが最大の問題なのである。というわけでみんなが自分が優位にあるように欺き合っているといえる。
「騙したり騙されたりの世界」なので、ここでは偽物、偽証を見抜く眼力を必要とされている。

 この様な環境では雷横が如何に正直に事実を語っても信じられようもない。 雷横以外の人物でただ見をしている不届き者が沢山いるかもしれないのだ。 こういった者を警戒して白秀英は過剰な反応をしたといえる。
もちろん親子が真偽を見分ける能力があったらこんなことにはならなかったのであろうが、嘘つきが多いので雷横が嘘をついていると判断したのであろう。

 中華世界は「不信の世界」故に「信義」とか「誠実」とかは実らない地である。 五常の「仁義礼智信」はそぐわないから説かれている教えなのである。
「信」が成り立つためには、やはり嘘つきがいては成り立たないのである。他人を欺くのは出し抜くため。みんなで止めようとしたとしても抜け駆けする者は現れ、別の者がさらに追従し結局みんで出し抜き合いをすることになり「信」の世界などは空理論となる。 信じられないから常に騙されないように警戒している。
 みんな嘘つきでなく信じ合える世界であったなら、雷横の件についても「お客さん、今日は特別ですよ。次おいでのさいは3倍返しお願いしますよ。ふふふ」と言って終わったような話なのだ。
まあ物語としては主人公が苦難に遭遇しないと面白くないのでこれでいいのだが。




作品172


 童謡の「森の熊さん」。ほんわかした愉快な歌詞でみんな仲良しみたいな世界観なのだが、この熊さんが「お嬢さんお逃げなさい」と言ったのか不思議に思われたことはないだろうか。最初この童謡を聴いたとき一番不思議に思ったのがこの箇所なのだが、童謡なものでそれっきり忘れてしまっていた。今回漫画を画くに際し歌詞を再確認したところやっぱり変でした。
普通少女が怖がっていたら「なにもしないですよ」とか言って安心させるか、自分のほうから去ってしまわないだろうか。  英語版のように「何で逃げないんだよ。おめー銃もってないじゃねえか」と言ってくれるとその態度はハッキリするのだが。原作では明らかに襲うつもりでの発言なのでその言葉の趣旨は「食い殺す」ということなんですがね。


 さて水滸伝で「お逃げなさい」とやったのは宋江。
彼が清風山に逗留していたころ、王英が劉高夫人を誘拐してきた。目的は身代金でなく女が欲しかったからである。宋江はその女性が花栄の同僚の奥さんだと気が付くと燕順に頼み込んで逃がしてあげた。女は宋江に礼を述べると大急ぎで山を降りていったのだった。
その後宋江は花栄の屋敷に到着するとこのことを彼に話すと、花栄は「助けるべきでなかった」と語りその夫婦がいかに悪党かを説明した。  このことに驚くばかりの宋江であったがこのことはやがて身をもって知ることとなる。
元宵節(正月15日)の頃、灯籠を眺めに宋江は夜の町に出ていった。お祭りなので人がいっぱいなのだが、運悪く劉高夫婦に発見されてしまう。夫人は宋江が山賊の親玉だとし夫をけしかけて宋江を捕らえてしまう。  この後拷問に遭い、それを救援する花栄を落草させてしまう結果になり散々である。 まったくよかれと思ったことが逆に恨まれどうしようもないですなあ。
恩を仇で返されたということになるのだが、この女性確かに高慢であり感謝なんてしたことがあるのだろうか。

 花栄の言葉によると夫の劉高は文官のくせに学問がない人物で、金持ちを誑かし、法を乱し悪事の仕放題であること。
その妻は亭主をせっつかして悪事をそそのかし、民を虐げ、賄賂を貪るという女であることであった。 とまあ、相当な悪党夫婦らしい。 通常無法者の山賊は悪事をやる忌み嫌われる存在であり、民を守るのは政府行政官なのであるが、水滸伝の場合はこれが逆転している。
  この文章を見る限り行政官は山賊同様の悪党である。
法を犯す、金持ちへの恐喝、市民虐待、賄賂を要求だなんてどっちが山賊なんだ。 高Qの場合彼一人が悪党なのであるが、ここの特徴は悪党の夫を影でけしかけている邪な妻があるということだ。善良な皇帝が不良な后にそそのかされ国政を誤っていくというものではなく、悪い奴をさらに悪くする女がいるということである。
 不倫の悪女が多くそちらが目立ってしまうが、実はこういう行政に関与する悪女が最悪なのである。同様なものとして李鬼夫婦がいるがこちらは平民なのでその影響力は小さい。 同レベルでは張青夫婦がこれに該当する。
つまり権力はこの様な夫婦に与えてはいけないということですな。高Qをみても権力がなかったら只のちんぴらにすぎないのである。 特に女性の場合感情判断に傾く傾向があるので、これで悪女に好き勝手されたら市民はたまったものでない。


 ところで為政者の高慢さについてだが、物語等で権力者はやたら高慢であり我が物顔でする舞う。 現代行政は「国民の下僕」として謙虚さが要求されている。こらから判断すれば高慢な態度はけしからんということになる。 (実際はスローガンとして「下僕」といっているだけで、高慢な人もいる)
しかし中国における為政者の高慢さを単純に糾すべきものであるとは言い難い。 確かに為政者や権限者が心優しく公平であるのがベストなのであるが、本当にこれで統制がとれるものであろうか。 命令したことを素直に遵守する国民性であったら、優しい態度ででもOKなのだが。 そうでなかったらベストとは言い難いのではないだろうか。

 これを会社組織で言ったらよく分かるであろうから。
とある会社がある。ここの従業員の特性は 従業員一人一人が会社に対する帰属意識も低く、早く仕事を覚えて一旗揚げて社長になることを夢見ている。独立心旺盛で仕事についても俺様流があり、指示に忠実に従わず自己裁量で動いてしまう。自分の意見をハッキリと表明し、労働条件等に不満があれば徒党を組んで抗議する。
 この様な従業員には普通に指示を出しても従うことはない。ガツンと一発「クビ」をぶちかまし脅すかないのである。 また従業員の要望に従ってやっていると、要求はエスカレートして大混乱になってしまうのである。
こういう場合は恐怖によって支配するしかないのである。 怖い雇い主であればこれに従うこととなる。
帰属性が高く従順な従業員であればこの様な空威張りも必要としないだろうが、威張りくさった態度こそ組織を円滑に運営する手段となるのである。

 というわけで中国の王朝は徹底的に国民を弾圧して逆らわないようにし、帝国に安泰をもたらすのである。当然その高官も威張りくさった態度で人民を支配するのである。
道徳理論の様に人は動かないもの、物事を治めるにはあえて横柄な態度をとることも必要なのである。




作品173


 作品166に続き史進の漫画になってしまった。 ここまで水滸伝に登場する悪女なるものを紹介してきたのだがここでは「李瑞蘭」を紹介しておこう。もっとも彼女を単純に悪女と呼んで良いものか一寸悩むが。

 そもそもが宋江が晁蓋の遺言に従い山寨の主の坐を廬俊義に与えようとしたのが事の始まりだった。しかし、宋江の考えに反しみんなが納得しない。そこで提案されたのが東平府と東昌府を早く陥落させたほうが主になるというものだった。
宋江は郁保四と王定六に使者を送ったが、二人は打ち据えられて戻ってきた。怒った宋江は東平府を襲うことを決心したのだった。 その時、史進は東平府にはなじみも遊女がいるので城内に潜入し、そこに泊まり内外から呼応して攻めることを提案したのだった。
史進は城内に潜入すると李瑞蘭に全てを話したが、彼女は困惑しこの事をおかみに相談した。  当然犯罪者をかくまってはいられないもの、主人は直ぐさま役人にこのことを連絡し史進は捕らえられてしまったのだった。 その後も史進は救出劇で番人が日にちを間違えたので、大失敗をしてしまう。 なんてお粗末な人なんだー。
最後は救出された史進によって李瑞蘭は殺害されてしまうという可哀想な結末になってしまう。  とまあ、遊女=悪い女=李瑞蘭という単純な図式が画かれているのである。 主人公史進を騙したから悪い女ということになるようだ。

 面白いことに同様のケースは征方臘にある。 こちらは「杜微」が被害者である。 杜微は飛刀にて秦明を攻撃し、戦死させるきっかけを作った男である。 その他には郁保四とか孫二娘などを殺害している。 梁山泊軍が清渓県に入城し杜微は逃れて娼妓の「王嬌嬌」のもとに身を隠していた。 ところが彼は王嬌嬌の親方に突き出されしまうのであった。 当然杜微は殺害され、王嬌嬌の親方には宋江から褒美が与えられたのである。

 李瑞蘭と王嬌嬌が行ったことは全く同じことであった。 しかし結果は真反対で、片方は殺害され、片方は賞せられるのである。 両者の違いは主人公側に協力的であったかどうかである。


 ところで水滸伝における遊女については二種類ある。 一つは「金翠蓮」「白秀英」「宋玉蓮」たちのような旅芸人の系統である。 もともと遊女いうのは芸を見せ渡り歩くなりわいとするが、芸のみならす売春も生業としていることがある。もちろん根本は金持ちの旦那と巡り会って幸せな結婚をするというものであるが。水滸伝では金翠蓮などは物語中ですてきな旦那さんの趙員外と結婚し幸せになっているのが画かれている。

 もう一つが傾城系(赤線地帯あるいは青線地帯系。吉原、岡場所みたいなもの)のものである。 「李師師」「李瑞蘭」「王嬌嬌」「李巧奴」など都市部に登場しており、クラス的には 李師師=中央競馬界。李瑞蘭、王嬌嬌=地方競馬界みたいな格差があるようだ。 李師師は皇帝がかよってくるので花魁か現代で言えば高給バーのママみたいなものかもしれない。


 水滸伝では史進が娼婦に騙されて捕らえられるが、そこで呉用の遊女についての論評がある。 「遊女の家でしてはならないことは 1,本当のことを言わない 2,深入りしない 3,頼み事をしない 4,秘密を漏らさない 5,逃げ込まない 。 遊女は浮気心があり真心がなく、愛情を抱いてもやりてばばあの手の中にあるのです。」 とまあこんな感じなのだ。 遊女は嘘で塗り固められた世界であるようだ。 水滸伝は男臭い世界のためか、この様な遊女の世界が描き出されている。 酒と女に拳銃みたいなのりなのかもしれない。

 ということで李瑞蘭そのものにはなんら悪事をしているとは思えないが、遊女の特性が狡猾な悪女というイメージなのでここに登場して頂きました。




作品174


 廬俊義はかなり武術が優れているようだ。 河北の三絶であり棍棒は天下無双の呼び声高い。
読者の人気者である林冲はその腕前に反し意外と知られていない。例えば魯智深との初対面ではあんた誰?みたいだったし。梁山泊付近で戦った楊志なども知らなかった。
 これに対し廬俊義はかなり名前が知れ渡っているようで「大円」という僧侶が自慢げに彼の事を語り、これに宋江が「此はしたり」と言ったほどである。 つまり誰もが認めるかなりの実力者であると理解した方がいいようだ。 その証拠として史文恭を捕らえたのも彼であり征遼では多くの敵将を倒しているのである。 (もっとも史文恭は幽霊に追っかけられパニック状態なので単純に比較していいものか悩ましい面もあるが。)

 関勝の時もそうだったが、宋江は強うそうな敵将を欲しがるクセがある。そんな彼が高名な廬俊義を指をくわえて我慢するはずがない。 早速呉用におねだりしたもんだから大変。 宋江の「廬俊義を梁山泊の総頭目にしたい」という勝手な願いに呉用の陰湿な悪知恵がフル回転、かくして彼の受難は始まったのであった。
 被害パターンは秦明と同様で家庭をむちゃくちゃにされたというものであった。 もっとも廬俊義の場合は隠れていた破綻が表に現れたという違いがある。 廬俊義の家に潜んでいた災いとは奥さんの「賈氏」と番頭の「李固」ができていたということであった。

 盧俊義が梁山泊の仲間入りをしたということを聴いた李固はこれはビッグチャンスとばかり家を乗っ取ってしまう。そして奥さんも自分のものにしてしまったのである。 まあ、先んずれば人を制すですかな。しかし計画が甘かった。
突然、廬俊義が帰ってきたものだから二人は吃驚。 このままでは自分たちの立場が危ないので盗賊一味として廬俊義を陥れることにしたのであった。

 廬俊義はなにか史進に似たところがある。それは武術一筋で真正直なところである。 人の言ったことを真正面から捉えてしまい、容易に騙されやすい。
 こういう人物は非常に心理操作がしやすく、梁山泊に呉用によって誘引されたのも一本気な気質の由縁である。 頑固なほどに人を信じるというか自分の信念に従うというか、燕青が主に向かって家に帰っては危険だと忠告したのもかかわらず、「妻がそんなことをするはずがない」と相手にせず帰宅して無実の罪で捕まってしまうのだった。
 つまり廬俊義は竹を割ったような性格で柔軟性に乏しく頑固と思われる。 ここら辺が廬俊義が愚かに見えてしまう欠点なのである。 これは多分史進と同じように坊ちゃん育ちで武術好きだからなのではないだろうか。

 さて妻の賈氏だが裕福な家の妻なのでなんの不自由なくて幸せそうなのだが、何故か番頭の李固と不倫関係になってしまっている。 水滸伝ではこの手の悪女が何人も登場する。男臭い世界の物語ではこの様な悪女が登場していただいたほうがいいのであろう。
 これと反対に水滸伝では恋愛関係の物語は皆無である。もちろん後の追加された征田虎には張清の恋愛物語は登場するがこれは本来の水滸伝ではないのでここでは除外している。
恋愛関係から犯罪になるという形式も作成できるはずなのだが、こういったものは存在しない。これに近いものを挙げるなら董平の程万里事件ぐらいなものであろう。

 つまり水滸伝は男と男の世界であり「女に淡泊」な豪傑が集まる物語だからである。 この世界においては女は従順が第一とされ、女傑のコ三娘でさえしおらしい。
 男絶対の世界においては妻の条件は「貞節」「従順」であることであり、水滸伝ではこのの理想が貫かれているのである。 対極的に不倫を行う女は悪女となるのである。 水滸伝では不倫の悪女が多いのもこの様な理由からかもしれない。
実際問題これらことは豪快な男の一番の不安であり、西洋では十字軍遠征に旅立つにあたって妻に貞操帯をつけさせるなどのことをしてたように男を悩ましたのである。

 賈氏も不倫発覚後は李固とともに廬俊義を陥れようとしているので、やはり悪女に入れて良いだろう。 ところで彼女の不倫だが、これは廬俊義自体にも問題ありと考えた方がいいであろう。
これは宋江にもいえることだが、あまりにも女に無頓着なのである。 女について「無関心」というのがこの物語の男らしさの条件みたいなのでしょうがないのだが、まあ普通それでは女が他の男を求めるのは自然なことだと思うのだが。




作品175


虎の巣窟の「段三娘」。そのあだな名の通り兄弟の段二と段五と共に良家の子弟を騙し脅し金をせしめる悪女である。芸妓を雇い人を寄せて賭博を開き因縁をつけては金をせしめることをしていた。ところがそこに王慶が現れ博打に勝った為これはまずいと喧嘩をふっかけたところ、逆に打ち負かされてしまう。王慶が武術の腕に自身があったのでこのような結果になったのであるが、このことで段三娘は王慶が好きになり結婚してしまう。

 水滸伝に登場する悪女ということで、今回は段三娘にご登場頂いたわけなのだが取り上げるべきでなかったのかも思っている。 というのも解説文では水滸伝の悪について思索しており、この一部として悪女について論述しているわけなのだが今回のように王慶に登場する人物を取り上げることは問題があるからである。
それは田虎、王慶は作者「楊定見」と「袁無涯」の思想が混じっているため(思想と言うべきものではないが)ここを含めて論じると100百回本の水滸作者の意図がおかしくなるからである。

 とはいってもこの水滸で釣りは120回本を基礎としているので当然王慶も画かないとおかしい。そこでここでは無理矢理100回本の趣旨をもって120回本の場面を解説することとした。か、かなり苦しい。
同様のことが田虎の「瓊英」にも言えることで、話は仇討ち話に恋愛物となってしまって100回本の趣と違うのである。解説の流れに漫画を合わせているのでなかなかここら辺はご登場が難しくなっている。

 この漫画の2コマ目は八極拳、3コマ目は蟷螂拳に登場いただいた。 水滸伝では功夫ものが武松や燕青しかないので王慶は貴重なのでおふざけで画いてみた。 2コマ目はコマの向きのため技が反転してしまっているのが残念。
八極拳については25年前にこの拳の使い手と練習試合をしたが、震脚でこちらの腕を打ち上げてきたり、重心の低い重い攻撃を仕掛けてきたりと、早さはないものの威力抜群の拳のようだった。

 悪女の魅力といったら美人で危険な匂いを漂わせ賢くセクシーで気まぐれ。わがままやつれないふりをして男を困らせ男を破滅の道へ導く。 といったものなのだが、残念ながら水滸伝ではそのような悪女は登場しない。 というのも水滸伝は性については淡泊だからだ。 好漢の一人や二人こういった女から手玉にとられていいものだがそのような場面はない。
それよりは悪女以前、男女の恋愛そもものがないのである。 水滸伝における性は禁欲主義者のようである。  登場する悪女は普通の悪い人である。男も女のもないのである。 たまたまその人が女であったということだけのようだ。 まあこれが本来の悪女なのであり、美人でセクシーな女てのは男の勝手な妄想なのである。

 このようなセクシーな悪女(例えばカルメンとか)は男世界が作り出した幻影である。現実では女詐欺師が意外とブスだったことをしても美人で危険な女は本当に男の妄想以外なんでもないにがよく分かる。 水滸伝ではこの様な女性は登場しないが女性についてかなりの地位の低さを伺い知ることができる。コ三娘が王英と結ばれるいきさつ、花栄の妹が秦明といっしょになるいきさつ。本人の意思は完全無視のように見えるのだが。 もっとも時代が宋代なので当然といえば当然でもある。 (ここでボーヴォワールの第二の性の著書にて関連付けしようとしたが忘れてしまったのでパス)
長い歴史において女の有り様は男によって作成された世界によって定められた。 つまりエバのようにアダムの骨から女は作成されたのである。 それはすごく身勝手な論理で成り立っていた。 第二の性第四章にて(新潮社より)「男は用心深く、その妻を貞操に閉じこめていくが、しかし自分自身は女に押しつけている制度で満足しようとしないのだ」と述べられている。 というのは男の世界の身勝手さを表現しており、女に要求するが自分自身は売春宿に直行というむちゃくちゃな論理であるのである。

 水滸伝では女の貞操が何度も登場する、不倫をし亭主を裏切る悪女が懲らしめられるのだ。 これは先ほど述べた貞操に閉じこめておくといったことである。 これはなんでこんなかというと男側の論理では自然なことなのである。
つまり自分の妻に他人の子供を孕まさせたくないということ、しかし他の女には自分の子孫をいっぱい産ませたいという生物的心理に基づく。 と言った理由なので実は当然のことなのであるが。

 面白いことに水滸伝では妻の不倫について厳しく追及すると同時に、好漢の性についても許さない。山賊の小説だから性については登場するべき物なのだが以外とない。 あえて言うと王英、周通のお話ぐらいなものだ。
水滸では女性には「貞操」、男には「女に無関心」が要求されており、不自然ながら両者平等の規制がされている。例えば李逵の歩兵軍などは村を襲って男は殺し女は犯して鬼畜のほどを見せていいものだがそうではない。むしろこの歩兵軍は規律正しく正義感が強い。(征遼冒頭) 梁山泊の面々が山賊のくせに山賊らしくないのはこういったところにある。




作品176


 東京からの帰り道、燕青と李逵は四柳村を通りかかった。丁度夜になり二人は狄太公の屋敷に宿を借りることになったのだが、李逵の風貌が奇妙だったので太公は李逵を聖職者と勘違いしてしまうのだった。そこでこれはさいわいと太公は李逵にもののけを退治してくれることを依頼したのだった。
というのも狄太公の娘に憑き物があって部屋に近づこうものなら石や瓦が飛んできてみんな怪我をしてしまい、道士も手が付けられない始末でほとほと困っていたからだ。  気前よく二つ返事で李逵は引き受けたが、やることはでたらめ。 娘の部屋に行くと男をバッサリ。続いて娘もバッサリやってしまったのだった。 実は娘は親に内緒で男と遊んでいたのだが、ばれないように鬼に憑かれているふりをしていたのだった。

 李逵は真っ正直といえる。太公に鬼の退治を依頼され、生き返らないように二人の体を滅多切りにしてしまう。太公の娘は王小二との恋愛をしたいが為、憑き物にあったような嘘をついて周囲を困らせたのだが、その結果が李逵という最悪の化け物を呼び込んでしまった。
 普通ここでは男はまっぷたつに切られ、娘は嘘がばれたということで終わってしまうことであろう。しかし物語は親に隠れて男と戯れ周囲を困らせるような不届き者の娘は生かしておいてもしょうがないという発想で無惨な最後へと向かう。因果応報というものであろう。
これに似た話といえば「ピーターと狼」の少年の話だが、こちらも身から出た錆の話である。 ここに水滸伝のブラックなユーモアを感じるのだがいかがであろうか。

 水滸伝における性についての規制についてはこの四柳村の事件をしても伺い知ることが出来る。これまで紹介した最終的に懲らしめられる悪女というのは既婚者がほとんどだった。亭主の目を盗んで他の男と交わりを持つというものだが、これは男社会における夫婦のあり方、特に「女性なる家畜」の所有者の保護を目的とした禁じられたものであった。 ゆえにこの掟を破る不貞の女には死をもって償わせてきたということであった。 ところが水滸伝ではこれに止まらず未婚者についても性的交わりを禁ずるのであった。それがこの四柳村での李逵の憑き物退治の物語である。

 日本の中世なんかで男が女の屋敷に夜這いにいくのが見受けられ、貴族なんかでは亭主が奥方の屋敷を訪ねていくといった具合で、飽きられた女は訪ねてもらえないというのを何かで読んだ記憶があるが、この日本の場合と違って中国では男が女の屋敷を訪ねるというのは異常なことで男女の仕来りが厳しいのかもしれない。水滸作者は未婚の女が男と不謹慎なことをするなという趣旨で制裁を与えている。 しかも、粉みじんに切り刻まれるのだから凄い見せしめだ。

 これに相対するように、この物語の後に荊門鎮のお話と続く。 こちらは娘を攫った容疑が宋江にかけられるといった話だが、きっぱり無罪が証明され李逵が冷や汗を流すといったものである。 つまり好漢は女なんぞにかまけて、夜這いをしたり攫ったりしないのだ。

 最後のコマで周通が魯兄貴でよかったと呟いているのがお分かりでない読者は作品94をご覧頂きたい。




作品177


 水滸伝ではざまざまの隠遁者が登場する。隠遁といってもここでは中国世界からの逃避者といった意味合いで述べているのだが。 李俊もこの隠遁者に相当する。
道士となった朱武のように宗教界に進むのも実社会からの決別であるが、外に新世界を求めるのもある意味中国社会からの決別といえる。 水滸伝は中国社会、政治の対する不信で貫かれているが、ここのところの論議は水滸伝の悪を追っかけている今の解説の流れと符合しないので省略するとしよう。

 李俊はもともとは塩の密売をやっていた人物で、「そもそもが政府が塩を独占的に支配するなっんて馬鹿馬鹿しいことだ、こんないいもうけ口はないから裏でこっそり商売したろ」なんて発想を持った人物なのである。 元々が政府批判の人物で、征遼編でも積極的に政府不信を述べている。 好漢としての宋江は尊敬している、しかし政府は信用おけないというのが李俊の心情なのである。
 楡柳莊で費保等と出会い意気投合した。費保等は以前は草賊だったらしくその後江賊に転身した経歴を持つ。費保は李俊に梁山泊の幸運に陰りが見られ、天下平定の後奸臣がはびこるのは必定。命運が尽きる前に新天地を大海に乗り出すことを提案した。 これに心動かされた李俊は征方臘完遂後、病と偽って宋江のもとを離れ費保等とともに 異国へと船出した。後李俊はシャム国国王となり童威、童猛は役人になった。

 混乱の多い中国を捨てて新天地に活路を見いだすてのは華僑などをみても珍しいことではないのだが、国王になちまうとは大したものである。アステカのテノチティトランを征服した「コルテス」のように、あるいは幼稚な武器しか持たないインカに対し200人ぐらいで征服した「ピサロ」みたいにいけいけどんどんやっちまったのか。



 ここで悪女の話にちょいと戻って、水滸伝のという物語に登場する悪女を理解するため本物の悪女にご登場いただこう。 実は現実の悪女のほうが物語よりすごいのだが。 悪女といってすぐ連想するのが残酷な悪女である。 管理者の昔読んだのは澁澤龍彦の「世界悪女物語」だったか?記憶が曖昧だがちょっと紹介しよう。

 このなかでビビッタのが「エルゼベート・バートリ」。 17世紀ハンガリーの貴族なのだが。ものすごく残忍な夫人である。 女性は美にものすごい執着をも持つが、残忍さがこの性を結びついて異様である。 エルゼベートも一般的女性同様お肌の手入れに余念がなかったが、ある時召使いのそそうに腹を立てヘアピンで顔を刺したところ(記憶ではそうだったような)受けた返り血を浴びた皮膚が鮮やかになったことを彼女は発見した。

 このことにより彼女は最高の美容法を編み出すのだった。 すなわち「血のお風呂美容」。なんのことはない村の娘をとっ捕まえて拷問にかけ血を絞り出すというものだ。そのお風呂に入りお肌を美しく保つという、成分的に牛乳風呂みたいなものである。
「鉄の処女」という拷問道具をご存じであろうか。棺の内部が釘だらけで閉めると串刺し、血がどんどんしたたり落ちるというもの。これにより娘の血が絞り出されたというわけだ。 彼女の美容の為に何人の娘の命が奪われたことだろうか、まったく理解に苦しむ。

 もちろん彼女のセンスは美容だけではない。 オブジェんにも造詣があって。 村の娘が馬車で移動中のエルゼベートと遭遇。 ここで彼女は召使いに命じ娘を裸にさせた。時は冬。 厳しい冬なのにこれでも大変なのに、なんと池の水を娘にぶっかけさせ。そのまま娘は息絶えて氷のオブジェの出来上がりとなった。 権力をいいことに非道なことをしていたというわけですな。

 村の娘を襲っていたので村人から恐れられ外部に長く知られることがなかったがやがて外部に発覚することになり逮捕され牢獄で死ぬこととなった。


 もちろん中国にも残忍な方がいる「呂后」である。 管理者は彼女を単純に悪女といっていいか悩ましい。 彼女は劉邦の妻として貧乏な時代を経ているのでむしろ同情する。 劉邦という親分肌のやくざものと連れ添うのは大変なことであったことだろう。 皇帝という地位にもなると後継者という大きな問題がある。 呂后はもちろん正室であり、「孝恵」という皇太子もいた。 ところがどうも父親の劉邦と息子の孝恵はそりが合わないのだ。

 女好きの劉邦のこと妾ならぬ側室をこしらえたのだが、この中で「戚夫人」がお気に入りになってしまった。戚夫人は息子の「如意」を後継者に指名させようと口説き初め、 劉邦もその気になってしまったのだった。これに危機感をつのらせたのが呂后。 早速、隠棲してしまった張良に泣きの一手で知恵を授かり、逆転ホームランで孝恵を後継者と指名することが出来たのであった。

 劉邦が崩御すると呂后は積年の恨みを晴らすことやって来た。 戚夫人は幽閉、如意は毒殺させた。 これだけで怒りが収まらないのか、戚夫人を男どもに与え陵辱させ。両手両足を切断し 眼球をえぐり出し、口をこじ開けられ声帯を溶かし、両耳も硫黄によって奪ってしまった。 両手を切断され耳も聞こえず声も出ない目も見えない状態でのたうちまわって苦しむ戚夫人をみて悦に入ったのである。

 当時厠には豚が飼育されており人間の排泄物をす処理させていた。 この豚に夫人を見立てたのか、事切れた戚夫人を厠にで放り込んだのである。 無惨な固まりと化した夫人を見て呂后は満足そうに「人豚」と名付けそうだ。 とまあ、こちらは女の恨みは恐ろしいといったところだ。 この陰湿さ女同士の争いは壮絶ですなあ。

 以上東西の残酷な悪女を二人だけ紹介したが有名なので退屈であっただろうか。




作品178


 征方臘において梁山泊軍最初の攻略都市が「潤州」である。潤州は長江を渡って直ぐの都市でありここを攻略しないとどの様な作戦も展開できない。 ここで梁山泊軍は制圧に失敗すると長江に押し戻され足場のないまま長江の北岸を彷徨うこととなる。もちろん長江を遡り上流より渡河するということも可能だがここは直線距離で潤州を橋頭堡としたいところ。(軍事では安全な所を渡れという鉄則もあるが)

 この都市の攻略は本当はかなり困難なはずなのである。というのも方臘のは潤州に12将に5万の兵、さらに三千隻の軍船で対岸をで占拠しているからである。 普通に考えれば、軍船同士の戦いによって水上圏を確保し、歩兵を対岸に取り付かせここを橋頭堡として陣を展開、騎兵などの渡河により川岸を制圧したあと、いよいよ攻城戦となる。

 まず水上戦いでは梁山泊水軍が勝利できるかははなはだ疑問と言わざるをえない。 というのも梁山泊軍の官軍との水上戦は勝ったとはいえ地形を利用したゲリラ戦であったからである。つまりまともな水上戦はしていないのである。 李俊や阮兄弟が軍船指揮ができるのか全く未知数で、壊滅してしまう危険性も孕んでいる。 制水圏がなくては軍団が安全に渡河ができないのは承知のことであり、兵員の偏りのある梁山泊軍に長江渡河ができるのだろうか。

 また対岸に辿りついても城攻めとなるとこれが大変である。 城攻めに手間取っていると現在敵は5万であるが援軍がやってきて、戦力が補強されかなない。あげくのはてに長江まで押し戻されかねないのだ。

 ところが梁山泊軍はあっさりと潤州を制圧したしまうのだった。 お得意の味方のと偽って城内に潜入するというものである。 もっとも方臘の呂師嚢は馬鹿でなかった。 彼等の異常さを察知したのであった。 呂は梁山泊軍を怪しんで防ごうとしたが、一歩遅く城内に潜入されてしまうのだった。 宋江は最初の犠牲者が出て悲しんではいるが、この程度の被害で長江を渡り都市制圧できたのは上場の出来であったと言わざるをえない。



 前回に続き世界の悪女を紹介しようとしたがこれは中止するとしよう。 あまりにも有名で面白みに欠けるからだ。
アグリッピナ、ユリア、メッサリナ、ルクレチア・ヴォルジア、ラ・ヴォワザン、 ブランヴェリエ夫人、カトリーヌ・メディチ、メアリ・スチュアート、則天武后、西太后
などどこかで名前を聞いたことがあるだろう。 ほとんど地位ある女性ばかりである。
 水滸伝の物語と現実の悪女を対比させるなら、犯罪史に登場する庶民のようなものと引き合いに出さなくてはならないのだが、残念ながらここの情報を持ち合わせていないので紹介出来ないのが残念である。 読者で悪女に興味がおありだったら上記の有名人についてお調べになってはいかがだろうか。

 そこで管理者の身近のことで悪女なるものを述べてみよう。 「悪女」というより「誠実」さが単にないだけの女性なのだが。
 この女性、買い物をしてそのお代を支払わないのである。販売者が何度催促してもああだこうだ言い訳をし逃げ回っているのである。 販売者も非常に問題がありこの様な連絡がとれない人物を相手にし、しかも前の代金も回収不能になっているのに再度販売するのである。あほじゃーん。  こういう女性の心理なのだが、管理者は社会的無知な人物なのでよくわからないのだが 「代価の支払い」という観念が欠落しているのか。 「逃げおせたらOK」というものなのであろうか。面白いことにこの女性が福祉系の事務員なので老人の金を横領していないかと勘ぐってしまう。
管理者は水滸伝が中国の話なので中国人の悪について語ってきたが、これはなにも中国人は「悪そのもの」という意味合いでの述べているのではない。同様に日本人でも不誠実で「クズ」の連中がいることをご理解いただきたい。

 同様の支払いが悪い女性についてだが、こちらは新しい注文を出すとき前回の支払いをする。その間居留守で支払いに応じない。これまた販売者がうねうねしているので、しょうがないので管理者が直接家を訪問し回収するとともに販売条件を提示した。商品と現金の直交換なのだが、「金はらわねえなら買うんじゃねえ」と丁寧にお話した次第。

 この様に書くと女性だけが貪欲と思われるといけないので男性にも同様のものがあることを紹介しよう。
商品の渡しがC(販売者)=>B(取り次ぎ者)=>A(注文者)とあって 支払いがA=>B=>Cとされる取引がある。
商品は納めたのに支払いがない。これまた販売者がのろのろするので解決に乗りだした。 BとA双方と連絡をとってみる。 原因はBがAより代金を受け取っていないと主張しAは渡したと主張し双方の意見が真っ向からぶつかり会っていたからであった。 どちらかが嘘をついているか錯誤しているかである。 特に問題なのがAが現金引き渡しの際なんの領収書面を残していなかったのである。 この時A氏の胡散臭ささを感じた。

 此についてはA氏の不備がありと判断し、問題の箇所の商品を除く残りの代金を全額支払いとし問題の箇所は改めて審議するということで決まった。 後、A氏より問題箇所を含む全ての支払いを提示してきたので受諾して、代金を回収した。 ただそのとき再度注文をしてきたので、上記の女性の場合と同じタイプと判断し丁重にお断り申し上げた。A氏が会社の金をちょいと失敬してやりくりしているのではと妄想を画いてみた。

 まあ取り分けて女だから、男だからてのはないのが本当で。 彼女等を悪女と呼ぶのも行き過ぎのようであるが、その感覚に管理者はついていけないので厄介な人々ということで紹介した。 まあプチ悪女てところで。




作品179


 またまた方臘編の漫画になってしまったが この漫画の趣旨が108人勢揃いした以降もちゃんと画こうよというものなので、方臘編が数が増えても道理なのである。 でも梁山泊軍の視点から描いてばかりだとマンネリなので方臘側からちょいと画いてみた。
画いてみると、梁山泊軍がジワリジワリ迫って来るのが分かる。梁山泊軍はかなり強力で、方臘軍は多くの将がうち倒されどんどん南に押し戻されいくのだった。
その始まりが潤州なのだが、 長江の南岸に呂師嚢を据え北岸への渡河を狙っていたが逆に拠点の潤州を奪還されてしい丹徒県まで退いでしまう。

 ここで三大王の方貌は元帥のケイ政を派遣し反撃を試みた。 元帥といったら軍全体の総指令官で偉い役職のおかた。または名誉階級の称号としての元帥だとしたもかなりの実績の持ち主である。 大駒の登場で宋軍を押し戻すかと期待され、元帥のケイ政は颯爽と軍を進める。
おりしも梁山泊軍も南下しており両者は途中ではち合わせ、遭遇戦を展開することとなった。この場合当然ながら行軍の縦長陣形より横に開いた陣形になったはずなのだが詳細は不明。ここで方臘軍のケイ政は六将を引き連れ一騎打ちを挑んできた。 ケイ政元帥かなりの自身であったが、宋軍より飛び出してきた青龍偃月刀の男に一刀のもとに切り倒されてしまうのだった。
この事態に方臘軍騒然。 総指揮官が倒されたとなると軍は消滅、敗退し方臘軍は常州まで後退するのだった。 にしてもケイ政元帥の行動は軽率でしたな、相手の力量を測らず、自身の腕に頼り軍全体を崩壊させたのですからなあ。 ここは六将を先に戦わせ戦力を確認すべきであった。



 水滸伝の画く悪について述べてきたのだが、これについてさらに明確になるように他の物語と比較してその傾向を覗いてみよう。 水滸伝に一番雰囲気が近い物語といえばイギリスの「ロビンフッド」がいい例であろう。 彼は簡単にいうと義賊であり東洋の水滸伝の雰囲気が近い。 片一方は森であり、もう片方は湿地帯である。 ロビンフッドは有名だがその物語についてはご存じでない方々が多いので、まずはご紹介するとしよう。

 ロビンフッドは中世の「ballad」バラッド(口承物語、物語唄)である。 日本風にいうと平曲みたいなものか。 水滸伝の宋江同様実在のモデルがあるかどうかは全く不明である。スコットランド年代記に登場したり大ブリテン史に姿を見せたりするものの決め手に欠くのである。 虚構であると一刀両断する意見も存在はするが、空想からこの様な物語に一気に形成したとは考えにくく民間伝承は似てもにつかない原型の盗賊が実在したのではと管理者は考える。ロビンの物語は水滸伝同様盗賊団がおり人々の権力者への報復の夢をその身に受けて物語として成長したのではないだろうか。
物語でのロビンの地位はヨーマンという裕福農民、自由土地所有者である。 貴族でもなんでもない農民なのである。 ロビンフッドはバラッドで、本来さだまさしの「雨宿り」みたいなのりで説明しなくてはならないが、あっさりストーリーの概略を記述していくとしよう。


「A Gest of Robyn Hode」
 ロビンたち一味(リトル・ジョン、スカロック、マッチ)が森を抜ける街道で待ち伏せしていると、鴨になりそうなしょぼくれた騎士を発見したのだった。 ここら辺は林冲が旅人を待ちかまえているところを思い起こしていただければOK。 ロビンは騎士に有り金出せと要求したが騎士は無一文。実は騎士は試合での相手殺害の補償金のため土地を抵当に大修道院長から借りていたのだった。しかもそれが返済できなくて土地を取り上げられそうになっていたのだ。これにロビンは深く同情し追い剥ぎどころか金を貸し与え、騎士の身なりを整え、従者として部下のリトル・ジョンを伴わせたのだった。 土地を巻き上げようと手ぐすねをひいて待っていた大修道院長。しかし彼の思惑に反し騎士がお金を返済したものだから地団駄を踏む。

 騎士の従者になっていたリトル・ジョンだったがちょいとしたきっかけで弓の腕が代官に認められ家来になる。そこで出会った代官の屋敷の料理人はやたら強くジョンは気に入ってロビンの仲間に引きいれることとした。二人は手みやげとして代官の多額の財貨を頂いてから森に赴いたのであった。 ここら辺は李逵ののりで仲間にしたと思えばいいだろう。 その後リトル・ジョンが言葉巧みに代官を狩りに誘い出すとロビンは服をはぎ取り味方になるように強要し返した。

 一年後、騎士はロビンへの借金返済のため森へと向かった。 途中よそものという理由でヨーマンが殺されそうなるのを助ける。 騎士の到着が遅いので待ちくたびれたロビンは大修道院の酒造長が通りかかったので身ぐるみ剥いだ。僧が立ち去った後、騎士がやって来て途中ヨーマンを助けたので遅くなったと説明し借りた金に利子を付けて返済しようとする。 しかしヨーマンを救ってくれたことに感謝したロビンはそれを受け取るどころか、先ほど奪った僧の金を与え困ったときは援助を惜しまないことを約束するのだった。

 ロビンに恨みをもつ代官は報復の計画を練った。それは弓大会の開催でロビン等を呼び寄せ一網打尽にしようというものだった。優勝したのはロビンだったが、その途端代官の部下からの猛攻を受けてしまう。代官の部下を敗走させたもののリトル・ジョンが深手を負ってしまう。ロビンはジョンを背負って逃げ騎士(サー・リチャード)の館に匿われる。

代官は騎士にロビンの身柄引き渡しを要求するが拒絶されるので、業を煮やして国王に直訴する。するとエドワード国王自ら赴いて両者を捕らんと御輿をあげたのだった。 代官は急ぎ帰郷すると鷹狩りを楽しんでいる騎士を捕らえた。代官の反撃始まる。 騎士の奥方からの連絡を受けたロビンらは騎士救援のためノッティンガムに乗り込むと代官と大格闘。哀れ代官は首をとられてしまう。

 ノッティンガムに到着した国王だったが。森の中神出鬼没のロビンの居所が掴めないでいた。半年も無意味に時が過ぎ去った。 ここで王は僧侶に変装するとロビンが現れと聞き及びこれを実行した。 はたしてロビンがやって来て金を要求。国王は自分たちは国王の家来であると偽り国璽を見せるとロビンは礼儀正しく跪いたのだった。余興に弓比べで的を外したろロビンは罰として王に頭を打たれたのだった。 この時ロビンは僧が王であることに気が付いたのだった。 王は「森を捨て宮廷にやってくるなら罪は許そうと」提案し忠誠なロビンは王に従って宮廷行きを決断したのだった。

 二十四年の歳月が経過した。 王との約束を忘れたわけでは無かったが森への思いを捨て切れぬロビンは帰還し仲間と共に森へ住み着くこととなる。

 ロビンの最後。 尼僧院長と騎士サーロジャーが共謀し治療のため瀉血(血を抜く治療法)に来ていたロビンに死をもたらした。多分意識が薄れて死んだのであろう。 これでロビンの物語は終了する。



作品180


 水滸伝を方臘側から画いてみたが。これが結構面白い。 通常梁山泊側から物語を追っていくので主人公たちの死に様に注意がいってしまうが 方臘側から見てみると梁山泊軍はかなり強い軍団であることがわかる。
呂師嚢は負け続けでどんどん梁山泊軍に追いつめられてゆき、侵攻を阻止することが出来ない。挙げ句の果てに、強い奴になびくということか金節という仲間の武将が裏切ってしまう。  前回は元帥があっさり殺られたので統制官7人で梁山泊11騎迎え撃ち、2人を倒したが方臘側大将の銭振鵬が一太刀にて切り落とされ退却。以降もぱら常州城にて防戦となった。
 まったく梁山泊の快進撃だ。これまでの経過を見てみる限りやはり潤州を死守できなかったことが問題である。騎兵軍の力量にこれだけの差があるのであったのなら長江を渡河させるべきでなかった。  呂師嚢は退却の連続でついに蘇州まで後退し大王に叱咤された。これに憤りを感じた彼は梁山泊軍を迎え撃ったが徐寧に槍にて脇を刺され果てた。 方臘初段階での長いおつき合いの登場人物なので追っていくと楽しい。


 さて今回の漫画で「イスラフェル」という名前が登場したのだがご存じない方は全く意味不明の漫画になったことをお詫び致します。 さてこれはアニメ「エヴァンゲリヲン」にて登場する使徒のことです。 まあ、町を襲いに来る怪獣さんだとご理解頂きたい。 このイスラフェルは真っ二つに切り裂いても倒せない怪獣なのです。 切られたところから再生し2体になるというもの。 どういう分裂装置をもつのか。



 「ロビンフッド武勲」を紹介したが、これは中世バラッドの一つの物語である。 他に「ロビンフッドと修道士」「ロビンフッドと焼物師」などがあるのであるがここで は先に紹介した物語を題材として解説を進めよう。 その前にロビンの仲間をご紹介。

Little John(ロビンの相棒、名前はリトルだが体はビッグ、中世バラッド時代から登場の古株。ロビンと同等の実力)
Marian(ロビンの恋人、後に追加されたキャラ。女性だが強い)
Friar Tuck(修道士のくせに女好き。強くてユーモラス。花和尚みたいなものか。マリアンと同期)
Much(中世バラッドから登場)
Will Scarlett(マッチと同期)
Allen a Dale(近代に登場)
とまあ水滸伝に比べればたいした数ではない。小規模な盗賊集団といったところである。 僧侶なんかもいて、こういったものには破戒僧は付きものなのか。

 ロビンフッドの物語の特徴はこんなところだろう。
1,「勧善懲悪」で主人公は悪に勝利する。
2,主人公は犯罪者である。(仕方なく犯罪者になっている。)
3,「礼節」を重んじる
4,欲深い「特権階級」を懲らしめる。
5,弱い者、貧者あるいは同胞の救済
6,ものすごく強い主人公。
7,森という辺境に住む
8、反逆者だが王権には忠誠心あり。
9、ロマンス不要の「漢」の物語。
10、主人公はヨーマン(自由農民)。
11、悲劇の最後
こんなところか。これについて補足説明すると。

1、勧善懲悪なので敵役がハッキリしている。一人は代官であり、もう一人は修道院長である。彼等は物語では完全な悪役である。しかも悪役はちゃんと退治される。
2,問題なのが主人公も犯罪者であること。街道での追い剥ぎを主としており。ちっとも褒められたものではない。
3,しかし彼等は下品な盗賊集団でなく礼節を重んじる。つまり犯罪者のくせに道徳があるという矛盾した性格である。

4,彼等の犯罪行為を正当化させているのが主に特権階級を狙っての追い剥ぎ行為である。
 なんで修道院長なのかというと日本の荘園なんか連想してもらえばいいが社寺が広大な領地をもっているわけですな、そしてそこにいる農民 なんかにものすごい租税をするのです。そんで農民から僧侶が恨まれるという筋合い。
 代官も同様で多くの権限をもつ地方長官なんで利を貪り放題という次第。あまりにも好き勝手し放題なので人々から盗人呼ばわりされている。しかし権力によって守られているので彼等を懲らしめられるのは無法者のみとなる。

5,追い剥ぎなんだけど、一方物語にあるように困った騎士などには気前よくお金を貸したり与えたりする。
鼠小僧のように貧しい者に優しいので犯罪者であることが忘れ去られやすい。
6,当然のように悪漢と戦うのであるから主人公は強くなくてはならない。ここにみんなが憧れるヒーロの存在がある。
7,こういった犯罪者の場合辺境の地、山とか河、また森は捕り手から逃れられる避難場所なのであるがロビンフッドの場合、森は我が家あるいはふるさと古里みたいなものである。これはヨーロッパの森の民の性格が作品に現れているのかもしれない。

8,人々の求めるのは王権打倒ではない。不満があるのは厳しい取り立てをする地方長官や僧侶である。安らかに生活出来ればなにも不満はなく。王権には本質的に従順なのである。その考えがロビンにも反映されている。
9,恋人のマリアンは後に創作され登場しロビンフッドはロマンス化するが、本来の作品はヒーロー活劇。臭さーい漢と漢のお話である。
10、ロビンの設定はヨーマン(自由農民)であり搾取される側の代表である。時代が下る従って伯爵という設定になるがこれは時代に従ったもの、敵役も地方の権限が弱体化すると中央集権化した権力者が敵役となる。
11,ヒーローに悲劇は必修なのか、だまし討ちで死ぬ。

西洋の義賊の物語の特徴を挙げてみたが、これ以外に重要な特色があるかもしれない。 しかしながらこれだけでも全体像は捉えることが出来るであろう。



作品181


 常州城の戦い。 先の騎兵の勝負にて韓、彭の二将を殺され宋江は本体を引き連れ常州攻略に身を乗りだした。この時李逵は復讐心に燃え、偵察のため兵500を引き連れて常州城にやってきた。これを見た方臘側も騎歩兵1千を出して李逵を撃退しようとしたのであった。。 両軍真一文字に並んだが、李逵は指揮している将が二人を殺した者であることを知ると果敢に攻撃を挑んだ。
 かくして両軍はぶつかり合い李逵は鬼神の働きにより、敵将の首級をあげるとともに敵400人を斬り殺したのであった。 兵二倍の相手に果敢に戦いを挑み、しかも相手が騎兵との混成部隊であったのにもかかわらず全くひるむことなく撃破したことは恐るべき破壊力をもった歩兵部隊であろうか。
 例によって騎兵の料理の仕方は馬の足をぶった切った後に転がり落ちた騎兵の命を頂戴するというもの。彼等に馬に踏みつぶされるという恐怖心は全くない。 もっとも仲間の項充の忠告も聞かずに殺しまくったという、危なっかしい面も存在した。

 というわけで、なんか歩兵軍がかっいいのでそれなりに画いていたら劇画調になってしまった。いしいひさいち調でワクワクする戦闘シーンが描けたら最高なのだが。 ギャグ漫画て難しい。



 ロビンフッドの物語により庶民が求めているアウトローのヒーロー像なるものを紹介したわけだが、これを一言でいうと「悪い権力者を懲らしめる無法者」ということになる。 ロビンフッドと水滸伝の共通要素は少ないが、この面において同種の物語といえる。 解説149で述べたように水滸伝の「好漢救済形式」というものがそれだが、ここでさきにあげたロビンフッドの特徴に水滸伝を重ね合わせてみよう。 もちろん両者の差違の方が大きいのは承知だが。

1,「勧善懲悪」でない。善悪混じり合っている。主人公は悪?に勝利するとは限らない。
2,主人公は犯罪者である。ただし仕方なく、自発的、巻き込まれたと様々の理由による。
3,「礼節」は任侠の仁義てやつ。紳士ではない。
4,欲深い「特権階級」を懲らしめる。この要素が強いのは生辰綱事件を起こした晁蓋一味であり、他は受けた仇に対する報復である。つまり晁蓋中心で水滸伝の物語が進行したらロビンフッドの物語に近くなる。
5,弱い者、貧者あるいは同胞の救済。これについては魯智深が金翠蓮を助けたとか、宋江が施しを与えたなどの一部にありはするものの、ロビンフッドの様な同階級への異常な愛は全然ない。つまり宋江一味は階級を代表してない。弱者救済は独善である。
6,ものすごく強い主人公。禁軍に匹敵する軍団を形成する。
7,森ではなく沼地という避難所に住む。両者とも交通の要所のをおさえ糧を得ている。
8、反逆者だが王権には忠誠心あり。これは元軍人等がそうであり。特に宋江の忠誠心は高い。他は逆に忠誠心はない。
9、ロマンス不要の「漢」の物語。水滸伝にも同様に全くない。
10、主人公は様々な地位。特定の階級を代表しているわけでない。
11,招安を受ける。ロビンも王様の部下になったし。
12、悲劇の最後。

 共通要素を指し示すつもりが逆に差違を述べることになってしまったのが残念。 両者は東洋と西洋の違いさらに物語の長さもあって違いが際だつのは仕方がないことである。しかながら先に述べたように東西における観客の求めるものは「悪い権力者を懲らしめる無法者」の物語であることは何となく分かられたことであろう。


 とはいっても共通要素はあるものの両者の求めるテーマには大きな違いがある。 ここでロビンの物語を水滸伝調に転換してみよう。 完全な創作になってしまうが。

 ロビンは軽はずみな行動で殺人を犯してしまった。娑婆へ復帰を願ったが努力虚しく斬首の刑に処せられるところを仲間に助けられ森へ逃れた。 こうなったらとことんやるさ。とばかり屈強な漢を集め始める。
ある日のこと、廃墟の修道院に聖母マリア様が現れ「お国の為に働かなかったら地獄落ちでっせ」と忠告される。
とはいうものの悪代官や悪修道院長が因縁ふっかけてくるので打ちのめした。とうとう将軍が退治にやってきたけど仲間にゲット。仲間も100名あまりになった。 ほんで王直属の精鋭も打ち負かしちゃったら、王様が招安をかけてきたのげ逆にゲットされてしまった。

 王様リチャード1世が言うには「イスラムが聖地エルサレムを侵し此を奪還せしめるのである」と第三回十字チャリティ軍への参加を志していた。ロビンもこれこぞマリア様が申されたことと王に従い遠征に赴いた。リチャード軍の先鋒を勤めたロビン軍は屈強であった。
ところがこれに快く思わぬ仲間たちがいた、フランス国王と神聖ローマ皇帝だった。特にフィリップ2世の敵愾心は強くロビンたちを危機に陥れる。

この様な状況であったがイギリス軍が怒濤の進撃をしアッカーを占領しちゃった。 こんなに楽勝でいいのかいみたいなロビンの働き。
 しかし彼等に前に立ちはだかったのはイスラムの英雄サラディンであった。 この強敵にはロビンも苦戦。聖母マリア様のお知恵も拝借しなんとかドローに持ち込む。 戦いが終わってみると仲間も脱落者、戦死者、病死と亡くし三十名ほどになっていた。

 かくして栄光を携えて帰郷したロビンであったが、彼等の存在に危機感を募らせたフリップたちは密かにロビンを亡き者とせんと企てた。 ロビンが聖母への信仰心が篤かったのを利用し尼僧により殺害させたのであった。


 ここまでロビンフッドの物語を変形してしまうと全然違ったものになる。こうしてみると水滸伝は庶民の求めるものとしてはロビンフッドの物語に似ているが、作者の意図としては似てもにつかないものであることが分かる。
つまり観客の求めるものと作者の求めるものとの間に違いが発生しているのである。



作品182


 破竹の勢いの梁山泊。いよいよ蘇州攻略となった。 蘇州といえば有名な中国の都。「蘇州夜曲」という歌もあるのでご存じであろう。 さて此処には三大王と呼ばれる、方臘の弟「方貌」が守っていた。 方貌は自慢の武将「八驃騎」を引き連れて堂々梁山泊軍を迎え撃ったのだったが これに梁山泊も八将を繰り出し両軍は激突した。
 朱仝が方臘の大将をうち破ると、方貌は野戦は不利との判断から攻城戦に切り替えた。 蘇州城は水に守られた堅固な城であったが梁山泊軍は得意のだまし討ちによって城内に潜入。大混乱のうちに城を制圧した。 方貌は異変に気づき馬に乗って逃れようとしたが橋の下から突然現れた武松によって斬り殺された。 これが梁山泊軍蘇州攻略戦の概略である。



 読者の方から前回の解説が分かりづらいとのご意見がありましたので補足説明。 読者が水滸伝に求めているものは「悪い権力者を懲らしめる無法者の物語」なのであり。 そのお話の典型的なのがロビンフッドなのであります。
両者を重ね合わせると類似する要素があり水滸伝もこの様な要求に応えられることも出来る作品だといえます。しかしそれは水滸伝の全てでなくある部分の要素が似ているというだけのことであり、作者は無法者を通じて別物を画こうとしているのです。 此処の部分の解説は前回がロビンフッドとの共通点、今回がその違いという風に分けて解説をすれば良かったのでしょうが、少々急ぎすぎたかもしれません 。

 ところで水滸伝に人々が求めるのは悪い権力者を懲らしめる無法者の物語という意見に反論を持つ御方もいらっしゃることでしょう。 例えば「英雄豪傑が集まってくるところに水滸伝の醍醐味があるのであり悪い権力者は関係ないのだ」と言ったご意見など。
しかし水滸伝では悪役の筆頭と言うべき高キュウは成敗されることもないなど読者に不満が残る結末となっています。この事からお分かりのように悪者に悪い報いが来ないことに違和感を感じるものなのです。つまりどんなに好漢が集まろとも悪漢が懲らしめられなければ納得できないのです。悪い権力者を懲らしめることが第一義といえます。

 ロビンフッドと水滸伝を隔てる大きな違いは「勧善懲悪」でしょう。 ロビンはヨーマンの代表であり、追い剥ぎ業をしてはいるものの獲物は悪徳な連中を対象としている。ようするに正義の使者。
此に対する水滸伝としては金聖嘆のものが一番分かりやすい。主人公たちは正義の味方どころか極悪人という捉え方をしている。「盗賊団を招安する宋国もどうかしているし、犯罪者は極刑に処するのが筋というんものだ」みたいな真っ当な論理で108人犯罪者どもが集合した時点で斬首刑にしている。もっともこれは夢ということで穏便にしているが。
この一例をもってしても水滸伝内の悪についての考え方が単純でないことがわかる。 もっともロビンもこの様な賊という面で後世批判にさらされてはいるが善と悪に人がバッサリと分けられているといっていい。

 主人公が正義である「悪い権力者を懲らしめる無法者の物語」の水滸伝をあげるとするなら日本テレビ開局20周年記念番組「水滸伝」でしょう。そう中村敦夫が林冲をやったあのテレビ番組。単純明快高キュウを打倒し平和を取り戻そうと仲間が団結し活躍するお話です。管理者も毎週楽しみにして見ていた番組でして、スタッフが兵隊さんを多く見せるために涙ぐましい努力をしているのに感動。今ならCGで簡単に作成できるのですがね。
主要人物は林冲、史進、扈三娘その他少人数だが主人公たちの数はこちらの方が妥当なのではと思われる。この番組では悪漢高キュウは砂漠?で殺されてしまって、悪人の末路を見ることが出来る。簡単に言うと「正義は勝つ」というものです。 こういったものが本当に見たい水滸伝というものではないでしょうか。

 というわけで水滸伝は敵役も悪なら主人公も悪となにか落ち着かない作品となっています。やはりここで作者の意図を読み解くには水滸伝の「悪」とは何か?ということを考察しなければならないようです。



作品183


 蘇州では費保の協力も得て陥落させたあとは秀州となるわけだが、方貌が守っていた蘇州と違って守りも強固でなかったのであっさりと手に入れる事が出来た。 というのも秀州を守っていた武将段?があっさり投降してきたからである。これは常州の金節と同じで、彼が主張するようにしょうがなくて方臘に従っていたか本当に怪しいかぎである。強い奴に乗り換えただけなのではないのか。
 さて蘇州を攻略すると次はいよいよ杭州となる。 杭州は南宋の都だがこの時点では地方都市に過ぎない。しかし作者の時代は帝都になった後なので、拡張された都市のイメージで画かれたに違いない。 ここを守るのは方臘の太子「方天定」。跡継ぎの太子を置くのだから守りも万全のはず。 実際杭州の守りは堅く梁山泊軍も攻めあぐねる。太子を守る武将には二十四の将に四人の元帥がおり、特に「?元覚」と「石宝」という屈強な戦士がいるのであった。


 征方臘を立て続けに書いているので読者には不満があるでしょうが許されたし。 方臘の点で落としたところをちょいと線にして連続した作品群にしてみたかったのです。 まだ点線状態ですが征方臘を漫画化した者はいないので(管理者の知る限りにおいて梁小龍が20ページ)初の試みであるといえるのではないでしょうか。



 悪い権力者を懲らしめる無法者の物語を読者が求めているということを述べ、ロビンフッドと水滸伝の違いを説明いたしました。 水滸伝の読者は招安について否定的でしょう。その後の展開をみても彼等がどんなに活躍してもちっとも良いことはなく悪は依然としてはびこっていて読者は晴れ晴れと気分になれません。しかも梁山泊は解体してしまうものですから、もやもやした気分の中にお話が終了してしまいます。それで読者が主人公たちはただ大きな円を描いた過ぎないという感想をもつのはよく分かります。
しかし招安が物語りをぶちこわしているかといえばそうではないのです。 つまりすっきり正義は勝つのロビンフッドにおいても招安はなされるのですから。 もし水滸伝でも高キュウとの三度の戦いにおいて勝利し、悪漢を退治したあと招安を受け官軍になったらおそらく読者納得の物語になったことでしょう。 しかし施耐庵はそういう単純な発想をもっていなかったということです。

 ロビンと水滸伝を比べてみてアウトローのくせに非常に気になる共通の部分があります。それは国王や皇帝に畏敬の念をもっているということです。 アウトローなら李逵みたいに皇帝もへったくれもなく権力に逆らう存在なはずなのですがやたら国家権力に従順なのです。 これは国家機関の一員になったら安全が保証されるとか都合がいいといった思惑のうえで招安に応じているというのでなく、こころから良民になるとことを願っているのです。 宋江にいたってはもっと積極的に国家のお役に立ちたいと願っているようす。

 つまり北方謙三水滸伝の宋江と比べればよく分かるのですが、北方宋江は国家のあり方に意義をとなえ現政権を否定し新政権を目指しています。 要するに革命家なわけで、こういう人物には皇帝などゴミみたいなものでしょう。 理想的社会体制の夢を画く、行動する夢想家といえます。 これに対しロビンも宋江も現体制に満足しその一員でありたいと願っており、宋江は積極的に国家への奉仕を願っているのです。 彼等の心のよりどころは現体制でして、特定の不満(役人など)が解消されれば自ら望んでアウトローになりはしないようです。

 ところでこの様な考えを滔々とお話しすると、具体性に乏しく碧碧されることでしょう。 単純明快に書きすぎてその論拠に乏しいのは事実です。 本来なら各要素についてどの様な事例をもってそのような結論に達しているのか説明するのが筋というものでしょう。
そこで今回はロビンと宋江の現政権に対する忠誠の度合いを原典をもって紹介いたしましょう。 こういうやり方は実は読者の方々にも大変な苦労をかけることになってしまうのですが がんばって読んでください。 ロビンフッドはバラッドで歌詞みたいなので小説のようではないので戸惑われることでしょうが文が簡単なので分かりやすいかもしれません。

ロビンフッドの冒頭はこの様に始まります。ロビンがヨーマンでアウトローであると定義してありますね。
 Lythe and listin, gentilmen,
That be of frebore blode;
I shall you tel of a gode yeman,
His name was Robyn Hode.

 Robyn was a prude outlaw,
Whyles he walked on grounde:
So curteyse an outlawe as he was one
Was nevere non founde.

代官を殺してもうすぐ終わりに近い7節目、いよいよ王様がロビン退治にやってきます。(kynge=king)
 The kynge came to Notynghame,
With knyghtes in grete araye,
For to take that gentyll knyght
And Robyn Hode, and yf he may.

王様に殴られてロビンはその人が王様て気が付きます。 「メーッ」と王様に叱られロビンは「ヘナヘナ」。「良民になりなさい」と言われて招安を受けて家来になっちゃいます。
 Robyn behelde our comly kynge
Wystly in the face,
So dyde Syr Rycharde at the Le,
And kneled downe in that place.


And so dyde all the wylde outlawes,
Whan they see them knele:
"My lorde the kynge of Englonde,
Now I knowe you well."


 "Mercy then, Robyn," sayd our kynge,
"Under your trystyll-tre,
Of thy goodnesse and thy grace,
For my men and me!"


 "Yes, for God," sayd Robyn,
"And also God me save,
I aske mercy, my lorde the kynge,
And for my men I crave."


 "Yes, for God," than sayd our kynge,
"And therto sent I me,
With that thou leve the grene wode,
And all thy company,


 "And come home, syr, to my courte,
And there dwell with me."
"I make myn avowe to God," sayd Robyn,
"And ryght so shall it be.


 "I wyll come to your courte,
Your servyse for to se,
And brynge with me of my men
Seven score and thre.


 "But me lyke well your servyse,
"I come agayne full soone,
And shote at the donne dere,
As I am wonte to done."


次に水滸伝ですが関連箇所を抜粋します。(文字化けしちゃいました)

宿元景との会話(59回)では宋江はこのように発言します。
 宋江下?入寨,把宿太尉扶在聚??上,当中坐 定,?????侍立着。
宋江下了四拜,跪在面前,告覆道:“宋江原是?城?小吏,?被官司所逼,不得已哨聚山林,?借梁山水泊避?,?等朝廷招安,与国家出力。
今有?个兄弟,无事被?太守生事陷害,下在牢里。欲借太尉御香?从,并金?吊挂,去??州。
事?拜?。

また71回の石碑のくだりでは仲間全員にこのように述べている
 宋江??道:“今非昔比,我有片言:今日既是天?地曜相 会,必??天盟誓,各无?心,死生相托,吉凶相救,患?相扶,一同保国安民。
”?皆大喜。各人拈香已?,一?跪在堂上。
宋江?首,誓曰:“宋江鄙猥小吏,无学无能。荷天地之盖?,感日月之照?。聚弟兄于梁山,?英雄于水泊。共一百八人,上符天数,下合人心。
自今已后,若是各人存心不仁,削?大?,万望天地行?,神人共戮。万世不得人身,??永?末劫。但愿共存忠?于心,同著功?于国。
替天行道,保境安民。神天察?,??照彰。”誓?,?皆同声共愿,但愿生生相会,世世相逢,永无断阻。当日歃血誓盟,尽醉方散。
看官听?:?里方才是梁山泊大聚??。起?分?已定,?不重言。

81回にて徽宗皇帝に燕青が奏上する場面では宋江自身の発言でないがこのように伝えている。
 天子便?:“汝在梁山泊,必知那里??。
”燕青奏道:“宋江?夥,旗上大?‘替天行道’,堂?‘忠?’?名,不敢侵占州府,不肯?害良民,??? 官?吏,?佞之人。只是早望招安,愿与国家出力。

 まあ、こんな具合に権力者に従順なのが二人の特徴です。 原典を読むと両者が王や皇帝に畏敬の念をもっているのが分かりますね。もちろんその上で両者の間にはベクトルの違いも見受けられます。 もちろんこの論拠の文章が主張に都合のいい箇所のみ抜粋した可能性もあるので、できれば原典全てお読みになるのをおすすめ致します。

 ところで東西遙かに離れたアウトローたちがなんで何故こんなに従順なのかについたは二つの理由が考えられます。 つまり読者および聴衆者が支配層の一部に不満がありはするものの国家の施政に付いては満足していたと考えられるもの。 もう一つは国家に対しても不満があるものの体制に逆らうと危険なので表に現せなかった。 というものですが管理者は後者なのではないかと思います。 国家に逆らうような主人公の物語の流布を許す優しい国家というものはよほど国家が安定していて、民の不満がないの状態でないと許されないのでしょうから、後者の方を選択します。 北方宋江なら即座に抹殺といったところでしょう。

 ロビンも宋江もアウトローのくせに国家に対する帰属意識が強いので大変気になったので今回話題に取り上げました。



作品184


 いよいよ杭州は進軍。だが方臘側もだまって指をくわえているわけでなかった。 早速軍を繰り出し梁山泊軍を迎え撃ったのだった。
方臘軍あ三手に分かれ進軍したが石宝軍が臨平山に宋江主力軍と遭遇した。 まず梁山泊は秦明と花栄を偵察にだしたが、方臘軍からも王仁、鳳儀が飛び出し両者のあいだに戦いが繰り広げられた。秦明は鳳儀と花栄は王仁と刃を交えたが決着がつかず引き分けた。
秦明と花栄は陣に戻ると梁山泊軍は朱仝、徐寧、黄信、孫立を加えて再び攻撃に転じた。 徐寧が王仁に挑みかかっていったところ、花栄が弓で王仁を射抜いて倒した。 王仁側から説明すると徐寧が相手かと思ったらいきなり弓で射られたかっこう。
一方秦明は鳳儀と戦っていた。ところが鳳儀が馬から落ちたので鳳儀は驚愕し、そのスキを秦明に撲殺されてしまった。 脇見運転は事故のもとてやつ。
方臘軍の兵は戦意喪失し逃げだし、この後梁山泊軍が激しく攻め立てたので陣が崩壊。 やもうえす石宝は軍を退却させ攻城戦に切り替えたのだった。 こうやってみてみると方臘軍はなかなかの武将がいる割には歩兵が貧弱である。 もしかしたら梁山泊軍が異常に士気が高いのかもしれない。



 義賊ということで古典作品ロビンフッドの物語と水滸伝を比較してきたわけだが、その特徴がお分かりになられただろうか。 庶民の無法者が圧制者を懲らしめる物語に期待を込めているのがもうお分かりのはず。 あまりにも古い作品なのでもう少し時代を下って、人々の義賊に対する期待が普遍なことを紹介しよう。


 題材はJohnston McMulleyの「The Curse of Capistrano」
俗に「怪傑ゾロ」と呼ばれる1919年に執筆された文学作品である。 この作品は何度も映画化され知名度も高い作品である。管理者もアランドロン主演のゾロを映画館で観て好きになった一人である。映画を見たと同時に小説でも楽しまさせてもらったものである。この解説文を書くにあたりその本を取りだして誤りのないよう確認して記述するつもりであったが、残念ながら文学に全く理解のない者により資料を無断で消却され確認できないのが残念である。 全体の記憶が曖昧なので誤謬があれば許されたし。

 ロビンフッドがヨーマンの階層であることを紹介しましたが、このゾロも似たような関係です。舞台は米国に編入前のカルフォルニア。当然ながらスペイン人が支配する土地だった訳です。この地は最初はネイティブアメリカン。続いて開拓農民。そしてスペイン統治支配と折り重なって出来上がっています。
主人公は荘園主の息子「ドン・ディエゴ」まあ支配関係では中間層といえます。 彼の戦う敵は原住民、開拓農民を虐待支配するスペイン総督府。 ロビンが自由農民だったのと同様ディエゴは農園主の息子、敵は地方支配者の代官のような総督府であるので両者は設定として似通っています。

 ゾロは先住民や農園を守り、総督府のものを懲らしめるので政府からは大悪党ですが庶民からは義賊と呼ばれておりロビンの設定を踏襲しています。
特徴的なのはゾロにおいては主人公はひ弱な荘園を表向きは装い、裏ではゾロとして神出鬼没の活躍をすることが挙げられます。 このパターンは一見ロビンとかけ離れいるように見受けられますが、実は設定を踏襲しているといえます。つまりロビンの場合もいつどの様に出現するのか分かりません、それが出来るのも「森」という隠れ場所があるからです。同じようにゾロの場合は人という森に姿を隠しているのです。

 ゾロにおいてはロマンスも登場。ヒロイン「ロリータ」はドン・ディエゴとラモンから求婚されるがアウトローのゾロを好きになるという悩ましい設定で、ここに不思議な三角関係が出来上がっている。まあディエゴ、ロリータ、ラモン、ゾロの関係は藤子不二夫「パーマン」におけるミツ夫、星野スミレ、みち子、パーマン、パー子のぐじゃぐじゃの関係から比べればたいしたことはないが。 当然ながら最後はディエゴとゾロが同一人物とわかりハッピーエンド。
ところでアランドロン映画のゾロは主人公の設定が偽総統となっている。水戸黄門みたいな展開だが小説のほうがよろしい。


 アランドロン繋がりでもう一つの義賊を紹介しよう。
これは文学でなく映画作品なのだが1963年作品「La Tulipe Noire」(黒いチューリップ)がそれだ。
チューリップだなんて義賊のくせに弱そう。黒い騎士なんて名前になんでしなかったんだ。 あり得ないとか存在しないという意味なのか不明。 テレビでこの映画を観たがたいしたことありませんでしたね。
 ともかく時はフランス革命前夜、性格が真反対の兄弟がいた。兄は黒いチューリップとして金持ちや貴族を襲う怪盗をしていたが自殺。あとを引き継いだのが弟(アランドロン)だった。革命派の敵ラ・ムーシュを倒し革命は大成功。ハッピーエンドで終わる。 これも義賊のお話ではあったがゾロほどではなかった。
後にアニメ「ラセーヌの星」を観たとき黒いチューリップが登場したので元ネタがわかってラッキーと思ったものである。にしてもラセーヌの星のレオタードはちょっと。

以上2作品を紹介したが義賊礼賛は古今東西、普遍的なものなのであろう。





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